真夜中の公園、思い出のサーカステントの前で、かつて別れ別れになった幼い女の子と少年が  
本当の意味での再会を果たしてから既に10日以上が経過しようとしていた。  
風浦可符香はベッドに寝転がって、ぼんやりとその時の事を思い出していた。  
「先生……」  
つまらない嘘の中に自ら身を沈めていこうとしていた彼女に、糸色望は必死に手を伸ばし、救い上げてくれた。  
可符香は望の懐に顔を埋めて、望の腕に抱きしめられて、ただひたすらに泣きじゃくった。  
そして、その次の日、夜の公園でもう一度会った望に、可符香はキスをした。  
望が自分の口付けを受け入れてくれた事が嬉しかった。  
重ね合わせた唇のぬくもりからは、望の可符香を想う気持ちが伝わってくるようだった。  
そうして、可符香の目に映る世界は少しだけその色を変えた。  
 
ただ、問題がないわけでもなかったのだけれど……。  
 
再び始まった日常の中で、可符香は望に対してどう接して良いかがわからなかった。  
なにしろ、彼女はストレートな感情表現なんてほとんどした事もないような人間である。  
これまでだって、望に対する好意は恐ろしいほどにひねくれた、わかりにくい方法でしか表現した事がないのだ。  
あの日以来、望の自分に対する気遣いや優しさをより敏感に感じるようになった可符香は、  
それにまっすぐ応える事のできない自分が少し辛かった。  
彼女に出来るのは、せいぜいがいつも通りの望に対する悪戯ぐらいのものだ。  
コロコロコミックを心の友とする小学5年生ではあるまいし、流石にこのままではマズイ。  
彼女を受け止めてくれた望の気持ちに偽りはないだろうが、  
当の自分がこの有様では学校卒業と共にそのまま再び別れ別れになってしまいかねない。  
だけれども、そう一朝一夕に今まで自分のしてこなかったストレートな感情表現が出来るものではない。  
「せめて、何かきっかけがあればなぁ……」  
ぽつり、呟いてはみるが、いつもならばすぐに最適な答を思いつく彼女の頭も、今日は役に立ってくれそうにない。  
「うぅ〜……参った」  
ごろり、ベッドの上で寝返りを打つ。  
それから彼女はベッド脇の自分の机の上に置かれた目覚まし時計を見るとも無く見た。  
時間は既に深夜の零時を過ぎ、日付も変わっている。  
そこで、可符香はふと思い出す。  
「昨日が3月31日だったんだから………」  
それはあまりにベタベタな作戦だったけれど……。  
頭から布団をかぶり、その中で可符香はくすくすと笑った。  
今日は、きっと楽しい一日になる。  
そう思った。  
 
「好きですっ!!!」  
宿直室の扉を開いて現れた彼女が、開口一番に言ったのがその言葉だった。  
「あの、風浦……さん?」  
「先生っ!!大好きですっ!!!」  
呆然する望に可符香はもう一度そう言って、そのまま抱きついてきた。  
一体何がどうなっているのやら、訳のわからないながらも、望はとりあえず一旦可符香に解放してもらおうとするのだが  
ガッチリと抱きついた彼女を思うように引き剥がす事が出来ない。  
「ど、ど、ど、どうしたんです、風浦さん?」  
「えへへ……先生、好きですよぉ…」  
いくら問いかけても答えは『好き』の一点張り。  
望はもはやどうして良いのかわからず、途方に暮れてしまう。  
ちらり、背後を見ると、同じく宿直室にいた交達もただただ唖然と可符香の突然の行動を目を丸くして見ている。  
霧は洗っていた最中の皿を床に落として割ってしまっていたが、それに気付く気配も無い。  
一番文句を言いそうなまといも言葉を失っているばかりだ。  
絶望教室と言われる2のへの女子生徒達の中で、担任教師である望の人気は高い。  
彼に対して思いを寄せている生徒は、今宿直室に居るまといと霧を含めて両手の指では数え切れない数になっている。  
だがしかし、そんなクラスの中で可符香は対糸色望攻略戦に参加していないと見られる数少ない生徒だったのだが……。  
(な、な、何があったんでしょうか?風浦さんに……)  
ただ、可符香に抱きしめられている望だけは彼女の行動に対する心当たりがあった。  
彼だけは、彼女の本当の気持ちを知っていた。  
夜の公園で、口付けを交わした。  
恐ろしいほどに頭が働くくせに、自分の幸せや気持ちに対してどこまでも不器用な彼女を、彼もまた愛しく思っていた。  
が、今日のこれは何か違う。  
絶対に違う。  
「好きです、先生。大好きです…」  
「風浦さん……ちょっと落ち着いてください、風浦さん」  
「あぁ…好き好き大好き、愛しています、先生……」  
何だかすごく嬉しそうな、楽しそうな彼女の表情は、明らかに愛の告白だとかそういう雰囲気ではない。  
そもそも、ポロロッカ星あたりからの電波を受信したのでなければ、彼女がこんな意味不明の行動を取る筈もない。  
となると、考えられるのは………  
(いつもの、風浦さんの悪戯でしょうか……!?)  
可符香お得意の先生いじりと考えた方が辻褄は合う。  
そして、何気なく部屋の中を見渡した望は気付く。  
カレンダーに記された今日の日付は……  
「なるほど、4月1日、エイプリルフール……可符香ちゃんはこの機会を狙って……」  
「ベタだけど有効な手段ではあるわね」  
どうやら背後で見ていた霧とまといも同じ事に気付いたらしい。  
「確かに今日なら、何を言ってもエイプリルフールだからって言い訳ができるわ」  
「うん。しかも巧妙なのはエイプリルフールが『嘘だけを言う日』ではなくて、『嘘を言ってもいい日』だという事」  
「発言のどこまでが真実か嘘なのかは言われてる先生にはわからない……」  
「仮に今ここで、『全部嘘でした』って言っても、その発言の方が嘘かもしれない」  
「そして、問題なのは先生の性格……ネガティブ思考の先生なら多分……」  
いつもの剣呑な雰囲気はどこへやら、まといと霧は冷静に可符香の行動を分析する。  
二人には、可符香の意図が次第に分かり始めていた。  
それは………  
「先生、好きですっ!!心の底から愛していますっ!!!」  
「う……うぅ……風浦さん……」  
糸色望はネガティブ思考の申し子である。  
生まれついての資質を、高校時代に所属したネガティ部において鍛え上げられた彼のネガティブはまさに難攻不落の城塞の如し。  
白か黒かで問われれば、必ず黒と答える人間、それが糸色望なのだ。  
彼は考える。  
エイプリルフールというイベント。  
いつもの悪戯好きな可符香の性格。  
これらの要素のために、今の望は目の前の可符香の発言が嘘か本当なのか判断できない。  
彼女の言う『好き』は果たして真実か否か?  
(……きっと…この『好き』はエイプリルフールの嘘に決まっていますぅ!!!!!)  
望は心の中で叫んだ。  
 
一度、そういった風にマイナス方向にベクトルが向いてしまえば、後はもう止まらない。  
しかも、望は可符香の事を大事に思い、愛おしく思っていたのである。  
先日、思い悩む可符香を救い、彼女の気持ちを受け止めた人物の有様としては非常に情けないものであったけれど……。  
ともかく、思いが深い分だけ、望がこうむるダメージは大きくなる。  
一言『好き』と言われる度に、望のガラスのハートにピシリとヒビが入る。  
「う…うぅ……先生…見てられないよぉ……こうなったら!!!」  
「駄目っ!!迂闊に動いても逆効果よっ!!」  
だんだんと気力をなくしていく望の姿を見かねて、霧が立ち上がろうとするが、まといがそれを止める。  
「今の先生は疑心暗鬼の状態、私達の言葉も悪い方にしか取れないわ!!!」  
「そんな…それじゃあ、どうすれば!?」  
さらにまといは苦い顔で言葉を続ける。  
「打つ手はないわ。先生に密着されている時点で実力行使は難しいし……そもそも、本当に恐ろしいのは今日が終わった時の事…」  
「えっ?ど、どういう事!?」  
「嘘が許されるのは、今日、4月1日だけの事。だけど、それを過ぎたなら……」  
まといの危惧する事態はこうだ。  
エイプリルフールの間中、真実か嘘かも分からない『好き』を聞かされ続けた望の心はズタボロになってしまうだろう。  
だが、日付が変わってから、改めて『好き』と彼に伝えたならばどうだろうか?  
既にエイプリルフールは終わり、嘘を言う事は基本的に許されない日常が戻った状態でのその言葉を、望は恐らく真実と判断するだろう。  
すると、4月1日の間に言われた膨大な量の『好き』も自動的に真実であったと、肯定される事になる。  
望の心にわだかまった巨大なマイナス思考はその瞬間、一気にプラスに変換されるのだ。  
かわいそがり屋の担任教師にとって、それは様々な聖人達が体験した宗教的恍惚感にも匹敵するのではなかろうか?  
「ていうか、散々自身を失わせておいて、最後に持ち上げるのって、自己啓発セミナーとかでおなじみの手段だよね……」  
「そう、ほとんどカルト宗教の洗脳の手口よ……だから、もう一刻の猶予もないわ」  
そこでまといと霧は互いに肯き合って、立ち上がる。  
そして、可符香にハグされたままの望に駆け寄って……  
「先生、好きっ!!!」  
「先生、愛していますっ!!!!」  
「ひぎゃああああああっ!!!な、なんですか、あなた達まで!!?」  
自分達も同じように『好き』と言いながら、ぎゅっと抱きついた。  
どうやら、可符香に便乗する事に決めたようである。  
三人の少女達に囲まれて、もはや望の逃げ場はどこにもないようだった。  
 
やがて、時間は過ぎて夜の11時50分ごろ、もうすぐエイプリルフールも終わる。  
その後、望は可符香、まとい、霧にまとわりつかれ続けて、ついにダウンしてしまい現在は布団の中に寝かされていた。  
ひ弱な望にとって、3人の少女に抱きつかれたまま行動するのは、かなり体力的にキツかったようである。  
結局、心のほうが参ってしまう前に、体の方に限界が来てしまったわけだ。  
これには流石に、まとい、霧、可符香の三人もしょげ返ってしまった。  
その後は三人とも口数少なく、望の看病をしていた。  
やがて、それらも一段落ついて、疲れてしまったまといと霧も今はすやすやと寝息を立てている。  
そんな中、一人だけ起きていた可符香が、そっと望の枕元に座って小さな声で囁く。  
「先生……好きです……本当に……」  
昼間とは違った穏やかな調子で、ほとんど聞き取れないほどの微かな声で、彼女はその言葉を紡ぐ。  
「愛しています……大好きです………先生に代えられる人なんて、私にはいません……」  
そうやって、ポツリポツリと呟き続けて、数分ほどが経過しただろうか。  
可符香が時計を確認すると、時刻は既に11時59分と30秒を回ろうとしていた。  
「先生……大好き……」  
そして、可符香がそう呟いたのを最後に、騒々しいエイプリルフールは、4月1日は終わった。  
同時に、可符香はその場から立ち上がって、そのまま宿直室を後にしようとしたのだが……  
 
「…本命の……4月2日になってからの『好き』は言ってくれないんですか?」  
「先生……起きてたんですか?」  
可符香が振り返ると、布団から体を起こした望が少し寂しそうな目でこちらを見ていた。  
「小森さんと常月さんの話は半端にしか聞いていなかったんで、よくは解らないんですが、それを言わなきゃ『洗脳完了』にならないんじゃないですか?」  
「あはは……まあ、そうなんですけど……そのつもりだったんですけれど……j」  
可符香は苦笑いしながら、望に向き直り、言った。  
「確かに、そういう作戦とかは考えてやってたんですけど……それも、本当はついでの事ですから……」  
「ついで……というと?」  
「本当は……本当はただ、エイプリルフールにかこつけて、先生にいっぱい『好き』だって言いたかっただけなんです」  
夜の公園での一件の後、彼女はより強く自分の望に対する気持ちを意識するようになった。  
だけど、彼女は自分がある意味において非常に臆病な人間である事も理解していた。  
同じクラスの女子達のように、おおっぴらに望に対する好意を口にする勇気を、彼女は持たない。  
「変……ですよね?……あの時は、キスまでしたのに……」  
エイプリルフールを利用した作戦というのは、彼女が自分自身についた嘘だ。  
そんなものはせいぜいが建前にすぎない。  
本当は、発言の真偽があいまいになるモラトリアムな時間に甘えて、好きなだけ自分の思いを望の前で口にしたかっただけ。  
「だから……エイプリルフールの魔法が解けたら、もう先生に『好き』だって言える勇気もなくなっちゃいました」  
しかし、そう言って苦笑した可符香に向かって、望はこう言った。  
「残念ですが、あなたの目論見は大外れです、風浦さん……」  
「えっ!?」  
「だって……私はあなたが昨日言ってくれた『好き』っていう言葉を、もう信じちゃってますから」  
呆然とする可符香に、望は愉快そうに笑ってみせる。  
「最初は、エイプリルフールって事で不安になりましたけど、最後の頃はもうそんな事を思ったりしませんでした。  
よく考えてみたら、あなたは私を罠にはめたり、詭弁を使ったりしますけど、嘘をつくような事はなかった」  
そう、彼はこれまで、数え切れないほどの可符香の姿を見てきたのだ。  
今更間違えるはずもない。  
「私は、私の知っているあなたを、私に見せてくれたあなたの姿を信じる事にしました。  
………ので、最後の方は頬が緩まないようにするので精一杯でしたよ」  
「う……うぅ…それ、なんかずるくないですか、先生?」  
「最初に仕掛けてきたのはあなたでしょう?」  
可符香の顔がみるみる赤くになっていく。  
「というわけで、今度はこっちから……もうエイプリルフールは終わったので、嘘の入り込む余地はありません…」  
そして、そんな彼女に対して、望は愉快そうに笑って  
「愛しています……風浦さん…」  
そう言った。  
それから望は、もはや完全に真っ赤になった可符香の元に歩み寄り、彼女をそっと抱き寄せる。  
「あ……せ…せんせい……」  
そして、先生の腕の中、可符香はかすれるような小さな声で、ようやくその言葉を口にする。  
「私も……好きです……」  
今度こそは、疑いの余地のないその言葉。  
今更ながらに照れくささを感じながらも、想いを伝え合った可符香と望の胸にあるのは、ただただ幸せな気持ちだけだった。  
 

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