今も覚えているのは、観客たちですし詰めになったテントの中の何とも言い難いざわめき。  
閉鎖された薄暗い空間を、強烈に照らし出すスポットライトの光。  
さまざまな曲芸を繰り出す団員や動物達。  
ピエロのおどけた仕草。  
そして、それを見てはクスクスと、本当に楽しそうに笑っていたあの幼い女の子。  
その笑顔は、スポットライトを浴びて華麗な技を披露するサーカス団と同じくらいに、僕の瞳にキラキラと輝いて映った。  
この娘にのせられて半ば無理やりサーカスに連れて行かされて、  
しかもなけなしの小遣いからこの娘の分のチケット代まで払う羽目になったけれど、  
ざわめきに包まれたこの薄暗い観客席に座って、この娘の笑顔を見ている時間は不思議と満ち足りていた。  
「楽しいね、お兄ちゃん」  
女の子は言った。  
「そうだね、僕も楽しいよ」  
僕がそう応えると、女の子はより一層嬉しそうに笑った。  
サーカスのテントの中は日常とは切り離された異空間、夢の世界だ。  
赤、青、黄色、目にも鮮やかな原色と煌く光。  
繰り広げられる息の詰まりそうな曲芸の数々、火の輪をくぐるライオンのしなやかな筋肉の動き。  
めくるめく非現実じみたショーを見ている内に、心はうっとりと陶酔していく。  
興奮と、心地良い気だるさが同居した現世の夢。  
 
だけど、どんな夢もいつかは必ず醒める。  
 
ふと、テントの入り口のあたりに僕が目をやった時だった。  
「あれ、今更入場して来る人なんているんだな……」  
テントの中に入ってきた背広姿の男を見つけて、僕は何気なく呟いた。  
その男に、僕は妙な違和感を感じた。  
険しい表情で、他の客を掻き分けて進むその姿は、サーカスを楽しみに来た人間のものとは思えなかった。  
さらに続いて同じような男たちが次々とテントの中に侵入して来るに至って、違和感は不信に繋がる。  
(あいつら普通じゃないな…もしかして、テロリストとか?…いや、まさかそんな……)  
十中八九、気弱で疑り深い僕の思い過ごしだろう。  
それでも、何かあった時のためにと、僕はとなりの女の子の小さな手の平を握った。  
男たちは全部で7,8人ほどだろうか。  
注意深く様子を見ていると、どうやら彼らは何かを探している様子だ。  
一体何を探しているのだろうか?  
だが、その疑問はすぐさま解かれる事となった。  
男たちの一人と目が合ったのだ。  
僕はその男と数秒間は見詰め合っただろうか。  
そして次の瞬間、鬼の形相に変わった男は仲間に合図を送りながら、まっしぐらにこちらに接近し始めた。  
「な、な、な……何なんだ、一体!!?」  
戸惑う僕はその時、男が懐から出した物を見てさらに仰天する。  
警察手帳。  
男は周囲にそれをかざして、道を譲って貰いながらこちらに向かって来る。  
残りの男たちも同様にこちらへの距離を詰めている。  
急転直下の自体に、僕のパニックが最高潮に達した。  
その時である。  
「たすけてー、おまわりさーん!!!!」  
女の子が突然立ち上がり、そう叫んだのだ。  
「へ……えっ…きみ……何を言って…!?」  
「たすけて、おまわりさーん、ゆーかいされるぅ〜!!!!」  
「えぇえええええええええっっっ!!!!!」  
 
結局、全ては女の子の悪戯だったのだ。  
彼女と出会ってから一年にもなるが、僕はこの幼い娘の行き過ぎな悪戯に毎回酷い目に合わされてきた。  
まあ、それでも気付かず、またこうして引っかかっている僕も僕なのだが……。  
取り押さえられてしまった僕は自分の間抜けさ加減を恨みながら、刑事達に保護されて去っていく女の子を見つめる。  
「うぅ…今回もまんまとやられてしまった……」  
自分自身の学習能力のなさにため息を吐く。  
それでも不思議と悪い気分じゃないのは、さっきまで見ていた女の子の笑顔のせいなのだろう。  
これだけ酷い目に遭わされて、それでもまだそんな事を思っている自分には少し呆れるけれど、  
僕はどうしようもなくあの笑顔に憧れていたのだ。  
 
何もかも後ろ向きでネガティブで、高校入学を機会に今度こそは明るい青春をと目論んだけれどそれも失敗して、  
今まで以上に俯きがちに過ごすはめになった僕。  
そんな僕が求めてやまないものが、その女の子の笑顔にはあった。  
本物の幸せとか、希望とか、そういうキラキラと輝くもの全てがそこにはあった。  
まあ、毎度毎度、代償が大きすぎるのが玉に瑕だったけれど……。  
「ああ、また父さんに迷惑をかけてしまうなぁ……」  
あの女の子に関わるようになって以来、度々警察のお世話になってしまった。  
後になって誤解だとわかってはもらえるものの、そろそろ警察が僕を見る視線には苛立ちを通り越して殺意がこもり始めている。  
たとえ濡れ衣でも息子の僕がこの有様では、代議士としての父の評判にもかなり影響が出てしまう。  
しかも、その当の父が一応怒る素振りを見せつつも、その実かなり面白がっているようなので、余計に心配なのだ。  
「……次は絶対に引っかからないようにしないと……」  
呟いてみて、あまりの説得力の無さに自分で苦笑してしまう。  
これからも、きっとこんな調子で僕はあの娘の手玉に取られ続けるのだろう。  
そんな事を思いながら、最後にテントから出て行こうとするあの娘の方を見た瞬間、僕は息を呑んだ。  
「……………っ!?」  
こちらの方を振り返りながら、女の子が浮かべた笑顔。  
その目元にきらりと輝いた雫が、赤い頬を流れ落ちるのが見えた。  
女の子の唇が動く。  
声は聞こえなかったけれど、そこから紡ぎ出された言葉を、僕はハッキリと読み取る事ができた。  
 
また、会えたらいいね………  
 
そのまま刑事達に付き添われてテントの外へと姿を消したその女の子。  
『あん』という名前の彼女はそのまま、まるで最初からいなかったみたいに僕の世界から消滅した。  
あの、桜舞い散る卯月の日からずっと見ていた夢から、僕はこうして醒めたのだった。  
 
 
むくり。  
真っ暗な部屋の中、夢から醒めた私は布団を押しのけて起き上がった。  
ずっと昔の、忘れようとしても忘れられない苦い思い出。  
いつもにこにこと笑って、幸せそうにしていたあの小さな女の子。  
私はあの娘と一緒にいる時間が嬉しくて、幼い少女が胸の内に何を秘めていたのか、全く理解していなかった。  
どんな事情があったのかは今もわからない。  
よくよく考えてみれば、あの娘は『あん』という自分の名前以外、どこに住んでどんな家族と暮らしているのか、  
それどころか名字さえも私に教える事はなかった。  
たぶん、あの娘はあの日のサーカスでの別れが訪れる事を、最初に出会った時からわかっていたのだ。  
彼女、もしくは彼女の家族に関する何かのっぴきのならない事情のために、いつかは私の前から去る事になってしまうと理解していたのだ。  
だから、いつもの悪戯に紛れて、私には何一つ悟らせないままあの娘は消えようとした。  
だけど、それでも堪え切れずに零れ落ちた涙が、呟いた言葉が、今も私の胸を締め付ける。  
『また、会えたらいいね………』  
どうして、気付いてやれなかったのだろう。  
あれほど近くにいたのに、私はあの娘の事を何もわかってはいなかった。  
今も昔も、いつだって無力だった私だけれど、それでもあの娘の涙を受け止めてあげる事ぐらいは出来たはずなのに……。  
ため息を吐いて、暗い天井を見つめる。  
胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感を噛み締めながら、私は眠れない一夜を過ごす事となった。  
 
寝不足の頭を抱えたまま、何とか今日一日の授業を終えて私はホッと息をついた。  
下校前のホームルームが存外長引いてしまったが、いつものように『絶望したっ!!』と叫んで暴走した私が悪いのだから文句は言えない。  
2のへの生徒達はそのほとんどが所属する部活に向かったか帰宅してしまっていたが、  
教室の一角に残って何やら話し込んでいる様子の生徒達が数人ほどいた。  
随分盛り上がっているようで、何を話しているのか気になった私は彼らの後ろから近付いていく。  
「随分楽しそうですね。何の話をしているんですか?」  
「あ、先生」  
振り返った生徒達の真ん中、どうやら話の中心になっていたらしいその少女、風浦さんが振り返った。  
その手には何か、チラシのようなものを持っている。  
「先生も一緒に行きませんか?」  
そう言って、彼女は私にそのチラシを渡した。  
 
「これは……!?」  
そこに書かれた文字に、私は一瞬言葉を失う。  
『○×サーカス公演』  
昨夜の夢の光景が頭の中にありありと蘇る。  
私がそのサーカスの名前を忘れるはずが無い。  
それは間違えようも無く、あの日、私とあの幼い少女が見たサーカス団の名前だ。  
ずっと昔に見たのと同じサーカス団と再びめぐり合う。  
良くある事とは言えないが、あり得ない出来事という訳でもないはずだ。  
しかし、私の心はこれ以上ないくらいに動揺していた。  
思わず口ごもってしまった私の顔を、風浦さんの屈託の無い瞳が覗き込む。  
「どうしたんですか、先生?」  
「い、いえ……しかし、サーカスですか。中々お目にかかれる機会もありませんし、面白そうじゃないですか…」  
少し声が上ずっているのが自分でもわかったけれど、彼女は特にそれを追及しようとはしなかった。  
「可符香ちゃんがこのチラシを持って来たんですよ」  
「それで、今度の終末にみんなで一緒にサーカス見に行かないかって話になって…」  
木津さんと日塔さんが代わる代わるにそう言った。  
確かに、サーカスの興行を目にする機会というのもそう多くあるわけではない。  
「先生、もちろん一緒に行ってくれますよね?」  
「え……いや…私は…」  
藤吉さんがズイと身を乗り出してきたが、私は即答できなかった。  
何しろ、あんな夢を見た直後だったのだ。  
素直に肯くのには、私も気後れしてしまう。  
しかし、そんな私の気持ちなど知る由も無く、ウチのクラスの面々はさらに詰め寄って来る。  
「私も先生と一緒にサーカス見てみたいですっ!!」  
いつの間にやら背後にいた常月さんにホールドされる。  
こういう展開になると私はとことん弱い。  
昨夜の夢の事以外で特段拒否する理由もなかった事もあって、気が付いた時には私はサーカス行きをOKしていた。  
「それじゃあ先生、今度の週末、楽しみにしてますから」  
ひらひらと手を振って教室から出て行く生徒達を、私は苦笑いしつつ見送る。  
そのまま、生徒達が廊下の向こうに消えていこうとしたその時だった。  
「あっ……」  
生徒達の一番最後を歩いていた風浦さんが足を止めてこちらを振り返ったのに気付いた。  
自然に視線と視線がぶつかり合ってしまう。  
私と彼女の間に、何となく気まずい空気が流れる。  
だが、それも結局は一瞬の事だった。  
彼女はそのまま、少しバツの悪そうな顔をしながらも、そそくさとその場を立ち去ってしまった。  
取り残された私はため息を一つ。  
「どうにも妙な按配ですね……」  
昨晩の夢に続いて、何やら自分の過去が無理やり掘り返されているような落ち着かない感じだ。  
しかも、サーカスのチラシを持ち込んだのが風浦さんだという事実が私を悩ませる。  
「そんな安っぽいドラマみたいな話、ある筈がないじゃないですか……」  
私はクラスの出席簿を教卓の上に出して開く。  
風浦可符香、という彼女の名前はあくまで通称、当人いわくペンネームだ。  
私は、出席簿の中に記されたその名前に視線を落とす。  
『赤木 杏』  
………やはり、馬鹿げている。  
私はあの幼い少女の名字すらしらないのだ。  
『あん』、そんな名前はこの日本中にいくらでも溢れかえっている。  
だが、風浦さんの笑顔と、サーカスを見ながら笑っていた彼女の精一杯の笑顔が、私の頭の中で重ね合わされてしまう。  
それに、10年を越える歳月は、当時の私にとって強烈なトラウマをなったあの経験すらかなりの部分を風化させてしまっているのだ。  
たとえ、風浦さんとあの少女が同一人物だったとしても、彼女がそれを覚えているかどうかなど……。  
「しかし、それでも私は………」  
夕焼けの教室で、私は一人うめいた。  
 
ぱちり。  
真夜中の宿直室、私は瞼を開けて真っ暗な天井を見つめる。  
眠れない。  
脳裏にちらつくのは、あの娘と風浦さんの笑顔ばかり。  
悩みぬいた末、私は夜の学校を抜け出して、サーカスがテントを張られている公園へと行ってみた。  
それなりに距離はあるものの、歩いて行けない距離ではない。  
街灯の弱弱しい明かりに照らされて小山のようなテントが黒々とそびえている。  
そのシルエットがあの日見たサーカスのテントとピッタリと重なる。  
テントの入り口まで長い列に、私たちも並んでいた。  
小さな手の平で私の手を握り、あの娘は何度も何度も、せわしなくこれから見るサーカスについての事を話していた。  
彼女の手を引く私も、当時すでに立派な高校生だったというのに、子供のようにワクワクしていたのを覚えている。  
あの時は、まさかあんな別れを経験するなんて思っていなかったけれど……。  
「変わりませんね………って、これだけ暗いと細かいとこは判りませんけど」  
夜中のテントはひっそりと静まり返って、華やかな舞台の開演を待って深い眠りについている。  
その周囲をぶらり、歩いてまわる。  
こんな時間のこんな場所に、あの娘の姿を捜し求めても仕方がないのは承知の上。  
「我ながら、ナンセンスな事してますね……」  
苦笑して、ため息を吐いて。  
それでも、その後しばらくはこの場所に留まったのだけれど……。  
 
冴え冴えとした月に照らされた夜の公園、私は一人きりでベンチに腰掛けている。  
「何をしているんでしょうね、私は……」  
馬鹿な事をしていると、自分でもわかっている。  
今の私はかつての後悔に足を引っ張られて、自分でも訳のわからないままに行動をしているだけだ。  
あの時の悔しさを、悲しさを、何とか取り戻したくて、意味のない事をしているのだ。  
どんなに嘆いても、あの娘に何もしてやれなかったという事実を覆す事などできやしない。  
苦い思い出と関わりのあるサーカス団と再び巡り合った。  
だから、どうしたというのだ?  
そんなものに希望を見出そうなんて、あまりに馬鹿げている。  
それでも、凍える夜の公園のベンチから、いつまでも私は立ち上がる事ができない。  
まんじりともせず、巨大なテントの影を見つめながら時を過ごす。  
そんな時だった。  
「………?」  
ベンチと真向かいの方向からゆっくりとこちらに歩いてくる人影が見えた。  
夜の街を徘徊している不良、という雰囲気ではなかった。  
小柄で細身、女性だとしてもどちらかというと背の高い方ではない。  
街灯に照らされたそのシルエットはサーカスのテントを見ているようだ。  
やがて影はこちら側にある街頭の光が届く距離までやって来る。  
照らし出されたその姿はやはり女性だ。  
腰まで届く長い髪と、雪のように白い肌が印象的だった。  
年の頃はうちのクラスの生徒達とそう変わらないだろう、美しい少女だ。  
どうやら、彼女は私の存在に気付いていないらしい。  
ただ一心にテントを見上げる彼女の瞳には、何かを懐かしむような切なげな色が浮かんでいる。  
ゆっくり、ゆっくりと近付いてくる少女。  
その視線が不意にこちらに向けられる。  
「えっ……?」  
「あっ……?」  
ずっと少女に注目していた私の視線と、彼女の視線が交錯する。  
彼女の瞳が驚きで見開かれ、一歩二歩と後ずさる。  
当然だ、こんな深夜の公園で得体の知れない男から注視されていたのに気付いたら、誰だって逃げ出したくなる。  
だけど、彼女はそのまま振り返り、走り出そうとした寸前で、その場で足を止めた。  
再び私の方を向いて、恐る恐るこちらに近付いてくる。  
私も、思わずベンチから立ち上がり、彼女の方に足を踏み出した。  
私の手前3,4メートルほどで立ち止まった彼女は、私の顔を見つめながら口を開いた。  
 
「あの……」  
「は、はい………」  
か細い声、潤んだ瞳に見つめられて、私は金縛りに遭った様に動けなくなっていた。  
そして、彼女は衝撃的な言葉をその口から紡ぎ出す。  
「……失礼な事をお聞きするんですが……もしかして、『のぞむ』っていうお名前じゃありませんか?」  
その瞬間、私の心と体は凍りついた。  
まさか……。  
「……『あん』っていう名前に、記憶はありませんか?」  
畳み掛けるような少女の言葉。  
私はそれに答えようとして、でも、何も言葉が思い浮かばなくて……。  
そして、最後の一言が私の胸に深く深く突き刺さる。  
「………ずっと昔…本当にずっと昔……どこかで…私と会いませんでしたか?」  
 
眠い目をこすりながら授業を進める。  
明るい日差しに照らされた昼間の教室にいると、昨夜の事がまるで一昨日見たのと同じ夢の出来事のように思えてくる。  
私は教室を見渡しながら、その中の一人の様子をそっと観察する。  
風浦さんは、特に何事も無いような様子で授業を受けている。  
確かに昨夜の少女と、風浦さんはよく似ている。  
だけど………。  
 
夜の公園、サーカステントの前で出会ったのは『あん』という名のかつての幼い少女だった。  
10年越しの再会。  
私と彼女は、二人並んでベンチに腰掛けて、別れ別れになってからの歳月について互いに語り合った。  
彼女が何故、私の前から姿を消したのか。  
それには私がやはり辛い事情があったようだ。  
不仲の両親は、いつ離婚をしてもおかしくない状況だった。  
彼女が暴力を振るわれたりするような事はなかったが、彼女の父母は互いのエゴを彼女に押し付け、  
ただ自分の方が相手より正しいと証明するために娘を欲した。  
幼い彼女はそんなプレッシャーに晒され続けて、その精神はだんだんとボロボロになっていったという。  
結局、彼女は母親に引き取られ、母の実家に引っ越す事になった。  
「そうですか……そんな辛さを押し隠して、君はずっと笑っていたんですね……」  
呟いた私に、彼女は苦笑いしつつ、首を横に振った。  
「そんな風に思わないで……私、お兄ちゃんと一緒にいた時は、本当に楽しかったんだから……」  
「そう……なんですか?」  
「さすがに、お別れの時は辛くて泣いちゃったけれど、でも、あの当時、お兄ちゃんと一緒にいられる時間があったから  
その時間が本当に本当に楽しかったから、私は両親の事もなんとか耐えられたんだよ」  
思っても見なかった答えに、私は呆然と彼女を見つめる。  
そんな私に、彼女はそっと微笑んで言った。  
「ありがとう、お兄ちゃん……」  
その言葉は私の心の奥に凝り固まっていた後悔をすすぎ流していく。  
だが、次の瞬間、彼女の笑顔に少し寂しげな影が差した。  
「でも、残念だな……」  
「ど、どうしたんですか…?」  
「せっかく、また会えたのに……もう一度お別れしなきゃいけないなんて……」  
彼女はこの週末に日本を発つのだという。  
母の仕事の都合らしい。  
果たしてどれほど長期になるか検討もつかない。  
彼女自身も海外移住には乗り気で、日本を離れて見識と語学力を身につけたいと考えているそうだ。  
少しでも早く母のエゴから逃れるため、一人でも生きていける力を、彼女は欲しているのだ。  
「それで、出発直前にこのサーカスが近くまで来ているのを見つけて、懐かしくてこっそり見に来たんだけど、  
まさかお兄ちゃんに会えるなんて思ってなかったから……」  
彼女は彼女なりに自分の生き方を模索していた。  
そんな最中での、こんな唐突な再会ともう一度のお別れだ。  
彼女も相当に複雑な気分なのだろう。  
 
「でも、それでも、やっぱりもう一度お兄ちゃんに会えて良かったって、私思ってるから……」  
「私もですよ……」  
そして、私と彼女は翌日またもう一度、この夜の公園で会うことを約束して別れた。  
「また、明日ね」  
「ええ、また明日、会いましょう……」  
彼女は最初にやって来たのと同じ道を、何度もこちらを振り返りながら帰っていった。  
そんな彼女の姿が見えなくなるまで、私はずっとその場で見送った。  
 
やはり風浦さんにあの少女『あん』の面影を見たのは、過去を引きずる私の思い過ごしだったのだろうか。  
二人の顔立ちは非常に良く似ていた。  
が、昨夜間近で話した印象では、彼女たちが同一人物であるとは思えなかった。  
髪の長さだけではない。  
顔立ちの微妙な差異、ちょっとした仕草やしゃべり方の違い、全体の雰囲気。  
それらを見る限り、風浦さんと『あん』は別人であると考えるのが妥当なようだ。  
まかり間違えば勢い任せに風浦さんを『あん』だと勘違いして自爆、なんて事も有り得たわけだ。  
その可能性を考えるだけで、私の額を嫌な汗が流れ落ちていく。  
兎にも角にも、今週一杯、正確には金曜日の夜までは毎晩『あん』とあの夜の公園で話し込む事になるだろう。  
彼女が日本を離れてもそれなりに連絡をとる手段はあるかもしれないが、直接話せるのはこれが最後の機会になるかもしれない。  
かつてのように悔いの残るお別れだけは御免だ。  
出来る限り彼女と一緒の時間を過ごしたい。  
まあ、明日に明後日、明々後日と日が進むほど体力的にはキツイ事になるだろうけれど……。  
 
つつがなく授業は終わり時間は昼休みに突入する。  
早く昼食を食べて一休みしたかった私は早々に教室を後にしたが、ある事を思い出して立ち止まる。  
「そうだ、サーカスを見に行く件がありましたね……」  
例の少女『あん』の事で頭が一杯だったが、今週末にはクラスのみんなでサーカスを見に行くのだ。  
その段取りを早めに決めておかなければなるまい。  
こういう用事は思いついた時に済ませておいた方が良い。  
くるりと踵を返し教室に戻る。  
さて、誰と話し合うべきか。  
木津さんと話すと確実に厄介な事になるだろう。  
やはり、今回の話を持ってきた風浦さんと話しておくのが妥当だろうか。  
昨日の自分の勘違いのせいもあって緊張したが、私は勇気を出して風浦さんに話しかけた。  
「あの、風浦さん……」  
「えっ、あ…はい…先生、どうしたんですか?」  
振り返った彼女に感じたかすかな違和感。  
少しだけ、ほんの少しだけ、話しかけられた瞬間、彼女らしくもない動揺が浮かんだような気がしたのだ。  
だが、彼女はすぐにいつもの笑顔を浮かべる。  
私も気を取り直して話を切り出す。  
「今週末、みんなでサーカスを見に行こうという話があったでしょう。その事についてなんですが……」  
「ああ、それならもう私の方で進めちゃってます。チケットももう用意してありますから」  
「って、そんな勝手にやって、みんなの都合とかは聞いたんですか?」  
「いやだなあ、もちろん全部チェック済みに決まってるじゃないですか。もちろん先生のスケジュールも既に把握しています」  
流石は風浦さん、と思う一方で私はまた妙な感じを覚えた。  
仕事が早い、というより早すぎやしないか?  
それに彼女の話し方が、どことなく私との会話をなるべく早く終わらせようとしているようにも感じる。  
「日時は追って知らせますから、先生は参加人数分のチケット代だけ用意して待っていてください」  
「…やっぱりそういう流れになるんですね……」  
「それはもう!!先生は非常に太っ腹な方ですから……」  
「うわあああん!!!こんなの陰謀ですよぉ!!!」  
私の家計を粉々に打ち砕く風浦さんの策謀に泣きべそをかきつつ、私は教室を後にする。  
そして、廊下に出る直前、少しだけ振り返って、風浦さんの表情を盗み見た。  
そこに浮かんでいたのは、機能見たのと同じどこかバツの悪そうな、寂しそうな表情。  
「………」  
その表情の意味を測りかねたまま、私は2のへの教室の前から立ち去った。  
 
深夜の宿直室から抜け出し、公園へと向かう。  
最初の夜と同じように、私がベンチで待っていると、やがて公園の向こうから近付いてくる彼女の姿が見え始める。  
「こんばんは、お兄ちゃん」  
「ええ、こんばんは」  
それから彼女は私の隣に腰掛け、そこで私達はしばらく話をする。  
思い出語りから、その日のちょっとした出来事まで、話題は様々だ。  
失った10年間を取り戻すかのように、私達は限られた時間の中でひたすらに語り、笑い合う。  
彼女はニコニコと笑いながら、私と別れ別れになって再会するまでに経験した様々な事を語った。  
それは決して楽しい思い出ばかりではなかったが、彼女がその中でも幸せを見つけ強く生きている事に、私はホッと胸を撫で下ろした。  
私も問われるままに学生生活の思い出や教師になるまでの経緯、今のクラスの生徒達の事を語って聞かせた。  
親密で優しい時間はあっという間に過ぎ去り、そして私達は明日も会う事を約束して公園を立ち去る。  
ぶんぶんと手を振る彼女に、私も精一杯に振り替えしながら、それぞれの帰路をたどる。  
限られた時間を、私達は精一杯に楽しもうとしていた。  
 
その一方、連日の睡眠不足は私のコンディションに大きくダメージを与えていた。  
個人的事情でミスを犯すわけにはいかないので、いつにも増して私は仕事に集中しようとするのだが、  
すると今度は生徒達の方から、先生の様子がおかしいとの声が上がり始める。  
「うぅ……今更ですが、やっぱり私って真面目な教師とは見られてなかったんでしょうねぇ……」  
ため息混じりに進める授業の時間は、少しだけ憂鬱だった。  
まあ、それも身から出た錆、自業自得と諦めて、淡々と授業を進める。  
風浦さんの事はその後も気にかけてはいるが、先日以降は特に彼女の様子に目だっておかしな点も見つかられなかった。  
彼女はにこにこと笑顔を浮かべ、クラスメイトと談笑し、時に私をからかって、いつも通りの生活を続けている。  
それでも、私は胸の奥でほんの僅かな違和感を感じている自分にも気がついていた。  
ただ、それをどう判断していいのかは、全くわからなかったのだけれど……。  
 
昼間に黙々と仕事をこなし、真夜中に『あん』と心ゆくまで語り合う。  
蓄積していく疲れと、夜にしか会えない少女というある種謎めいたシチュエーションが、だんだんと私から現実感を奪っていくような気がした。  
毎夜出会う彼女は紛れもない現実の存在である筈なのに、時折私は夢の中に迷い込んでしまったかのような感覚に捕らわれる。  
「どうしたの、お兄ちゃん?何だか元気がないみたいだよ」  
「えっ…いやぁ…そんなことはないですよ…あははは」  
どうやらボーっとしてしまっていたようだ。  
心配そうに私の顔を覗き込む『あん』に私は咄嗟に言い訳するが、彼女はそんな言葉では納得しないようだ。  
「こんな真夜中に私につき合わせて、迷惑かけてるよね………」  
「そ、それは………確かに、疲れているのは否定できませんが……」  
「ほら、やっぱり…」  
「でも、今はあなたといたいんですよ。残る時間もあと僅か、その間に少しでもあなたと……」  
申し訳なさそうな彼女を見つめて言った台詞は、今の私の本心だった。  
それを聞いた彼女は一瞬きょとんとしてから……  
「ありがとう、お兄ちゃん」  
そっと私に微笑んで見せた。  
 
そして、あっという間に金曜日が、『あん』と会う事の出来る最後の日がやってきた。  
 
その日も私はいつも通りに学校の授業を進めていた。  
というより、むしろ私の授業は以前にも増して騒がしくなっていたかもしれない。  
睡眠不足の限界を越えてどうやら私はナチュラルハイの領域に至ってしまったらしい。  
今にも倒れそうなほどフラフラなのに、テンションだけは異様に高く、多少の脱線をしつつもポンポンと授業が進む。  
正直、いつもの私の授業より効率が良くなっているような気がする。  
(普段だってそれなりに頑張っているつもりなんですけどねぇ……)  
なんて心の中でため息をつきながら、それでも何とか一日の授業を終える。  
まあ、生徒達ならともかく教師にはこの後も仕事があるわけだが、一応は一段落だ。  
ホームルームを終えた後、私は風浦さんを呼び止める。  
「今週末のサーカスの件ですけど……」  
「ええ、もう明日の夕方って事でみんなには連絡してあります」  
今回、クラスの半分以上が揃ってサーカスを見に行く事になっていた。  
私としては、色々と手伝いたいところだったのだが、風浦さんは既に二歩も三歩も先を行って準備を済ませてしまっていた。  
彼女曰く『生徒同士で話をつけた方がスンナリ進みますから』との事であるが、どうにも私は未だに今回の彼女に対する違和感を拭えずにいた。  
風浦さんにしては、どうにも話の進め方が強引過ぎる気がする。  
どうにも彼女らしくない。  
そう思ってしまうのは、風浦さんに『あん』の影を見た私の勘違いが尾を引いているだけ、一応はそう考えていたのだが……。  
「それじゃあ先生、さようなら」  
「はい、さようなら………」  
笑顔で手を振る彼女に、また『あん』の面影が重なる。  
そこで私はハッと気がついた。  
(そうか……そういう事だったんですね……)  
よく似た別人である筈の二人を繋ぐものを、私はようやく見つけた。  
教室を出て行く彼女を見送ってから、独りぼっちになった私は俯いて呟く。  
「さて、どうしたものでしょうかね………」  
全ては私の妄想、勘違いである可能性は高い。  
やっと気がついた風浦さんと『あん』を繋ぐものも、他人に問われて自身を持って答えられるようなものではない。  
「それでも………」  
それでも、『あん』と会えるこの最後の夜に、自分のするべき事は何なのか、私の心は既に決まっていた。  
 
いつもの公園、いつもの時間に、いつものベンチで私は『あん』を待つ。  
泣いても笑っても今日が彼女との最後の日になる。  
おそらく、今日を逃せば、二度と彼女と言葉を交わす事は出来ないだろう。  
メールや手紙といった手段でその後も連絡を取る、なんて事には多分ならない筈だ。  
何故ならば、彼女は……。  
「………来たみたいですね…」  
やがて、公園の向こうから、こちらに近付いてくる小さな人影が見えた。  
「こんばんは、待たせちゃったかな、お兄ちゃん」  
「いえ、そんな事はないですよ」  
小走りで私のところまでやって来た彼女はいつもと変わらない笑顔で私に話しかけた。  
「今夜で……最後になっちゃうんだね……」  
ただ、今日が二人で会える最後の日になる事が幾分、彼女の雰囲気を寂しそうなものにしていた。  
「せっかく、また会えたのに……」  
「ええ、寂しいですよ………」  
肯いてそう言った私に、彼女はそっと体を寄せる。  
私はそれを拒まず、寄りかかってくる彼女の体を受け止める。  
それから、私達はいつものようにポツリポツリととりとめもなく他愛のない話を続けた。  
だけど勿論その間にも刻一刻と時間は過ぎ去っていく。  
気がつけば、いつもならば私も彼女も公園を立ち去る時刻になっていた。  
 
「もう……終わりなんだ……」  
ぽつり、彼女が呟く。  
「そうですね………残念です」  
「本当は……本当はもっとずっと一緒にいたい……」  
ギュッと袖をつかんでくる少女の手の平に、私は自分の手の平を重ねた。  
彼女は少し驚いてから、その後もう片方の手をさらに私の手の平の上に添えた。  
そのまま、どれぐらいの時間、二人で寄り添っていただろうか。  
やがて、彼女はベンチから立ち上がり、  
「そろそろ、本当に行かなくちゃ………」  
そう言って、笑った。  
朗らかなその笑顔の影から滲み出る、悲しげな色合い。  
かつて、幼い彼女の笑顔を見ながら、私はそこにキラキラと輝く希望や幸福を垣間見た。  
彼女もまた、私と一緒にいるときには、本当の笑顔でいられたと言っていた。  
だけど、今の彼女が見せている笑顔は、違う。  
そこに重なる、私の良く知るもう一人の少女の面影……。  
「また、会えたらいいね………」  
かつてと同じ言葉を少女の唇が紡ぐ。  
それから、彼女は私の右頬と、左肩に手の平を添えて、私の瞳を覗き込んで、  
「最後に、お願いがあるの……」  
囁くような声で、こう言った。  
「キス……させて………」  
顔を真っ赤にして、ようやくそれだけを伝えた少女の言葉に、私は一瞬たじろいでしまったが、やがて覚悟を決めて肯いた。  
「ありがとう、お兄ちゃん……」  
私の答を聞いて微笑んだ少女の笑顔が、私の胸にグサリと突き刺さる。  
 
何故ならば、今から私がしようとしている事は考えようによってはこれ以上もなく残酷な事なのだから。  
それは彼女の心遣いを台無しにする行為なのだから。  
だが、今の私にそれをしないでいる事などできようはずもない。  
 
ゆっくりと近付いてくる少女の顔、私はそれに応えるように彼女に向かってそっと手を伸ばす。  
右の手の平で、彼女の頭をそっと撫でてやる。  
「お兄ちゃん……」  
夢見るような少女の声。  
だが、彼女は気付いていない。  
彼女の頭を撫でていた私の指先が、ほんの僅かな異物感をそこに感じ取った事に……。  
「忘れないでね……私がいなくなっても、ずっと……」  
潤んだ瞳でこちらを見つめながら呟いた彼女の言葉に、私はゆっくりと首を横に振る。  
「それは……できません……」  
「えっ……!?」  
そんな頼み事を聞くわけにはいかない。  
いくらそれが彼女の切なる願いであろうと、都合よく作られた偽者の思い出の中に彼女を埋没させるわけにはいかない。  
もし、ここで彼女を見逃してしまえば、彼女はあらゆる人間との別れの度に同じ事を繰り返しかねない。  
振り向かせるんだ、彼女を。  
彼女はこれからもずっと私といて、一緒に思い出を積み重ねてゆくのだから……  
「お兄ちゃん……何を言ってるの…?」  
「お兄ちゃんではありません」  
私の指先が、探り当てた彼女のウィッグを固定するピンを外す。  
「あっ………」  
気付いてももう遅い。  
そこにいるのは仮初めに作られた幻なんかじゃない。  
私の良く知る少女の姿だ。  
「今の私はお兄ちゃんなんかじゃありません。私はあなたの担任教師じゃないですか、風浦さん……」  
「せ、先生……」  
 
「いつから気付いていたんですか、先生?」  
「確証を得たのは今日ですよ。それまでは、あなたの巧みな変装と演技のおかげで半信半疑でしたけど……」  
「今日…ですか?何かありましたっけ?」  
「大した事じゃないです。今まで気付かなかった私の間が抜けていただけとも言えます。  
見つけたんですよ、今のあなたと夜の公園の少女の共通点を………」  
呆然としている風浦さんに、私はその答えを告げる。  
それは口に出してみると、少し恥ずかしい言葉だったのだけれど……  
「笑顔、ですよ……」  
「笑顔……?」  
「性格に言うと、笑顔に漂う雰囲気、という事になるんでしょうかね……」  
自分でもどうしてこれが決め手になったのか、疑わしいぐらいに不確かな要素。  
それでも、私はこの結論に確信を抱いていた。  
「なんていうか、昼間に見るあなたの笑顔も、夜見る笑顔も、どこか悲しげな、自分の気持ちを押し殺しているような雰囲気があったんです」  
一度は風浦さんと『あん』を別人だと思い込んでいた私だっただけに、その違和感は拭いがたかった。  
別々の人間である二人が、同じ笑顔を浮かべている奇妙な感覚が私の中で引っかかっていたのだ。  
それも、風浦さんの笑顔や態度に変化が現れたのが、今週に入ってからというのが致命的だった。  
「だから、私はやはり風浦さんと、私が昔であった少女は同一人物で、以前の別れのときと同じように、  
自分を押し殺して私の悲しみだけを取り除き、その上で姿を消そうとしているのだと、そう考えたんです」  
それから私は、私の隣で俯いて話を聞いていた風浦さんに問いかける。  
「何か、言いたい事はありますか?」  
「いいえ……でも、すごいですね。笑顔だけでバレちゃうなんて……」  
風浦さんは苦笑いしながらそう応えた。  
「まあ、笑顔以外にも気になっていた点もあったんですけどね」  
「えっと……なんですか、それ?」  
不思議そうに問い返した風浦さんに、私は意地悪く笑ってこう言った。  
「はっきり言って、キャラ変わりすぎです」  
「え、ええっ!!?」  
「どうやったら、ダース単位の災難とトラブルをもたらすあの厄介な女の子が、私に向かって潤んだ瞳で  
『お兄ちゃん』とか言うような夢見心地の素敵少女に成長するんですかっっ!!!!!」  
「そ、そんな…そこまで言わなくてもいいじゃないですかぁ」  
「だいたい、私が風浦さんがあの女の子なんじゃないかと思ったのも、そもそもその辺りのキャラが被りまくってたからです。  
一度は騙されかけましたが、やっぱり案の定でした。どれだけ私に手を掛けさせれば気が済むんですか、あなたはっ!!!」  
「うぅ…先生、酷いですよ……」  
「いいえ、酷いのはあなたの方ですよ!!そうやって散々手間を掛けさせた挙句、  
何も知らせず自分の都合で勝手にいなくなってしまうんですからっ!!!」  
それまで、不服そうに私に言い返してきていた風浦さんの言葉がぱたりと止まる。  
「あなたの方はどうなんです?私と昔で会っていた事に気付いたのは、いつからなんです?」  
「…………なんとなく、以前からそうじゃないかと思ってたんですけど、確信を持ったのはサーカスのチラシに対する先生の反応を見たときからです……」  
彼女があのチラシを持ち込んだのは、純粋にクラスの友人たちとサーカスについての話をする為だった。  
私の反応を見る事も考えてはいたけれど、それはあくまでついでだったという。  
しかし………  
 
「先生のあの時の様子を見て気付いたんです。先生は、昔の私の事をずっと引きずっているんだって……」  
だから、彼女は一芝居打つことを決めたのだ。  
彼女は、私の後悔を断ち切り、安心させる為だけの嘘を用意した。  
「先生も私の家の事は知っていますよね?今の私には両親もいなくて……」  
「はい……」  
「そんなんじゃ、先生の後悔を拭う事はできない。先生を安心させられない。だから、私……」  
「ストップ!そこまでです」  
だが、私はそこで風浦さんの言葉を遮った。  
「何が『先生を安心させられない』ですか。今さらにも程があります」  
呆然とする彼女の肩を掴み、その瞳をじっと見据えて、私は語りかけた。  
「あなたほど手のかかる、迷惑で、厄介で、とんでもない生徒はそうそういませんよっ!!!2のへのみんなも相当ですが、あなたは別格です」  
「そんな……私は……」  
「だからさっきも言ったでしょう。キャラが変わりすぎ…というか、どうしてそんな風にキャラを作っちゃうんですか」  
「そんな事ありません。私は……先生が私の事で気に病んでるってわかったから…」  
「それがキャラを作ってるっていうんです。あなたは絶望教室と呼ばれる我がクラスでも随一の絶望的な生徒です」  
畳み掛けるように反論されて、風浦さんはいつになく動揺している。  
そんな彼女に、私は声のトーンを少しだけ落として、告げる。  
「絶望的な事の……一体、何が悪いって言うんです?」  
「それ…は……」  
私の問いに、風浦さんは言葉を詰まらせる。  
風浦さんは何もわかっていやしない。  
あの時のサーカスでの出来事が今も私の胸を締め付けるのは、単に彼女の涙を見てしまったからじゃない。  
その悲しみや苦しみに寄り添ってやる事のできなかった、自分自身への後悔のためだ。  
私が望むのは、見栄えの良い嘘で取り繕った偽者の幸せなんかじゃない。  
「悲しい時こそあえて笑って見せるなんてのも確かにアリだとは思います。  
でも、自分が本当は悲しんでいる事を、忘れそうになるまで笑い続けるなんて、そんなの不毛ですよっ!!!」  
そうだ、私が望む事はたった一つだけ……  
「どうせいつかは朽ち果てる嘘なんかで、本当の貴方を塗り隠してしまわないでくださいっ!!!  
希望も幸せも私には必要ないんです!!ただ、あなたの全ての不幸や苦しみに、一緒に涙を流したいだけなんですっ!!!!」  
「先生………」  
「それでも、もしも、もう貴方の中にはそんな嘘しか残っていないというのなら………」  
私は風浦さんを抱きしめ、彼女の耳元に告げる。  
私の思いのたけ、その全てを  
「私の絶望を、全てあなたにあげます………っ!!!!」  
私の言葉を受け止めてからしばらくの間、彼女は何も言わなかった。  
ただ、凍りついたような沈黙が流れていく。  
だが、やがて、彼女の手の平が恐る恐る、私の背中に回されて……  
「…せんせ………」  
ぎゅっと、私の体を抱きしめた。  
「先生っ!!先生っ!!!先生―――――っっっ!!!!!」  
泣きじゃくる風浦さんの体を、私もまた強く強く抱きしめる。  
それから風浦さんが泣き止むまでのしばらくの間、私達はずっと抱きしめあっていた。  
 
翌日、ウチのクラスの生徒一同でのサーカス見物を終えて、ようやく私も睡眠不足の日々からも解放される筈だったのだけれど……  
「なぁんで、来ちゃってるんでしょうね、私……」  
どうやら、宿直室に戻ってしばらく仮眠をしたのがまずかったらしい。  
目が冴えて眠れなくなってしまった私は、再び真夜中の公園にやって来ていた。  
まあ、今夜は風浦さんが来る予定もない。  
適当にのんびりしてから帰ろうと思っていたのだが  
「あ、先生……」  
「あなた、どうしてこんな時間に……」  
不意に後ろから声を掛けられ、振り向くとそこには風浦さんの姿があった。  
「いやぁ、サーカスから帰って仮眠を取ったら、今度は眠れなくなっちゃったんです……」  
どうやら、彼女も私と同じパターンらしい。  
風浦さんは昨日までと同じように、私の隣にトスンと腰を下ろす。  
「まあ、本当は何となく先生も来てるんじゃないかと思って、ここまでやって来たんですけど……」  
「確かに、まだ話す事は山のようにありますからね。昨日までに話してくれた事はほとんど嘘だったわけですし……」  
私は皮肉交じりにそんな事を言ってみたが、彼女は少しも動じる事無く微笑んで  
「ええ、それにやる事もありますし……」  
「やる事、ですか……?」  
「はい、キスの続きを………」  
「ぶふぅううううううううううううううっ!!!!?」  
思わずむせた私に、風浦さんはニコニコと嬉しそうに笑いながら語りかける。  
「何ですか、その反応は。昨日、キスしていいか聞いた時はちゃんと肯いてくれたじゃないですか!!」  
「それは……昨日はあなたの嘘を見破るために仕方なく……」  
「仕方なくても何でも、一度は先生もOKした話ですよ!」  
「だ、だいたい、あなたが変な嘘吐くから話がこじれてあんな事になったんじゃないですか!!」  
「昨日は私にあんなに酷い事をしたのに……」  
「そんな…ひ、酷いって……」  
「頭ごなしに怒ったり」  
「それは認めますが……」  
「私の衣服を剥ぎ取ったり」  
「カ、カツラじゃないですか、取ったのは!!」  
「挙句、私の体を思う様に触って」  
「抱きついてきたのはあなたでしょう!?」  
「マスコミはそんな言い訳聞いてくれませんよ、先生」  
「ぐ、うぅうう……」  
どうやら、既に退路は絶たれているようだ。  
いつの間にやら風浦さんは私の体に寄りかかり、間近から私の瞳を覗き込んでいる。  
「マスコミを気にするなら、キスはもっとヤバイと思うんですが……」  
「覚悟を決めてよ、お兄ちゃん」  
今更の『お兄ちゃん』呼ばわりに、私の顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。  
もはや、観念するしかあるまい。  
「……わかり…ました…」  
「ありがとうございます、先生!!」  
どうにも私は最終的には風浦さんの手の平の上で踊る運命のようだ。  
それでも、まんざら悪い気分でもないのは、目の前の彼女の表情がとても楽しく幸せそうだからなのだろう。  
キスの寸前、私は不意に思いついて風浦さんにこう言った。  
「また、会えましたね……」  
彼女の顔に広がる花のような笑顔。  
そのまま、私と風浦さんは唇を重ねた。  
 
”また、会えたらいいね………”  
かつての少女の願いは叶えられ、私達はようやく今ここで再会を果たす事ができたのだ。  
 

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