昼過ぎ、奈美はバス停で待っていた。といってもバスに乗るのではない。乗ってくる人を待っているのだ。相手は、彼女の担任で、且つ彼女が好意を寄せている人。
手に持った少し古い型の携帯を見て、クスリと笑う。
「まさかホントに、こんなことが起こるなんてな……」
コトの顛末は先日図書館に行ったとき。
宿題をするために彼女はそこを訪れた。人気のないそこである程度区切りをつけ、立ち上がり振り返った時に席の後を通っていた望とぶつかった。
その拍子でどうも、互いの携帯が入れ替わってしまったようなのだ。
帰宅後それに気付いた奈美は驚き、喜びながらちょっと悩んで――電話を待った。自分からかけて向こうからもかけてきたらずっと話し中になってしまうし、電話での会話という「普通」ではない担任とのやりとりを向こうから仕掛けて欲しかったからだ。
しばらくして、電話が鳴った。望の携帯はリンリンリンと、古い黒電話の着信音で奈美を呼び、彼女はニヤニヤしながら受信ボタンを押した。
意図的だの普通に窃盗だの普通じゃないだのいつものやり取りを交わし、今日の昼過ぎに落ちあうことにしたのだ。
そして出発する一時間前から鏡の前であれこれ悩み、なんとか「がんばった」格好でここに至る。
「ついでに、お茶に誘われたりしたらいいのにな……」
望との休日の約束に奈美の心は弾んでいたが、ひとつ気になることがあった。
約束のちゃんとした時間と場所はさっきの通話で決めたのだが、その時の電話越しの声がいつもと違うように感じたからだ。
なんというか、テンション高めというか、陰気じゃないというか。でもまあ、あの人はけっこう情緒不安定だし、と奈美はそれほど深く考えなかった。
「……にしても先生おっそいなー。時間、もう十分も過ぎちゃってるよ」
靴のかかとを数回浮かせて、ハムスターの様にあたりを見回す。
もしかしてすっぽかされた? と時間に対してナーバスになる。目はさっきから何回も何回も腕時計と車道を行ったり来たり、落ち着かない。バスはもう何台も止まったけれど、そのどれからも望は降りてこなかった。
と、そのとき上着のポケットで携帯が震えた。リンリンリン、古めかしくしようとしている電子音が街中にかすかな声を上げる。奈美は反射的にポケットへ手を突っ込み、捕まえたそれを耳もとへ当てる。
そうだ電話すれば良かったじゃん、と頭のどこかで自分の声がした。
「もしもし、日等さんですか?」
「はい、日等で……て、日塔です!! 『普通』みたいな漢字を使うな分かりづらいボケをするなオチてないぞ!! つーかここでオチても出オチだ!!」
待たされた鬱憤とやっと聞けた望の声に、こちらもテンション高めの反応。なんだかんだゴキゲンな奈美である。
額に手を当てながら奈美は尋ねる。
「……ええと、先生は今どこにいるんですか? 電話してるってことはもうバスじゃないんですよね、先生が車内で通話するような度胸持ってないことは明らかですから」
イヤミたっぷりにそういうと電話口の向こうでアッハッハと、まるで旧財閥名家の坊ちゃんみたいな笑い声が聞こえた。そういやこの人、そのものだった。
なかなか手厳しいですね、と笑いをかみ殺したように続けて、
「いえ、確かに五分ばかし遅刻はしてしまって申し訳なかったんですが、もう約束のバス停にはいるんですよ、私。でもあなたがみつからなくて」
あなたがみつからなくてという言葉を奈美は心の中で反芻しながら、ちょっと考えてから言った。
「もしかして先生、私たち互いに道路の反対側にいませんか?」
話しながら二つの車線のむこうのバス停を探すと……すぐに見つかった。長身の着物姿なんて、この時代じゃ目立ちすぎる。あっちも自分を見ているらしく、顔がこちらを向いていた。
「ああ、見つけましたよ。カーディガン着てますね」
へー「カーディガン」って言葉知ってたんだと、なんとなく意外に思う。地元じゃチャラチャラしてるらしいし別に珍しくも新しくも無いファッションだが、望と取り合わせたイメージは新鮮だった。
ピンクなんて、先生には似合いそうだけど。
「じゃあそちらに行きますから、待っていて下さいね」
横断歩道を渡って、望はやってきた。ガラスの奥の眼は心なしか機嫌がよさそう。というか、毒気の抜けた様な晴れ晴れした表情だ。
「実によくある失敗でしたね」
「普通って……言って、ないですね」
ちょっと自覚のあった分、目ざとい先生ならすぐに突っ込んでくると思って準備していたのだが拍子抜けしてしまった。
微妙にかわされただけで実は同じことかもしれないけれど。
じゃらり、と音をたてて望は懐から奈美の携帯を取り出す。マカロンのストラップやタイルでデコレーションされた、流行りそのまんまの端末に目を落として望は口を開いた。
生肉とベルで条件付けされた犬つまりパブロフの犬で奈美は身構える。
(来るかッ?!)
「可愛いですね。似合ってますよ。その格好も、先生好きですよ」
「はあぁッ?!!!」
完全な逆サプライズを決められ硬直する奈美。なにこれ新手の戦略的いじめそれとも私ってば普通って言われるの待っちゃってるのかしらあははてかかわいいっていわれたすきっていわれた。
……ケータイと服装が。
弱点を突かれていないばかりか珍しく誉められてるんだけれどそのどちらも「本命」ではなく、宙ぶらりんの精神状態。
呆けた奈美に、望は困ったように言った。
「すみませんが日塔さん、携帯を」
「えっ? あっ、はい」
慌てて望の携帯を差し出し、自分の携帯を受け取る。手が一瞬触れただけでは、とても温もりは伝わらない。
「それでは」
行ってしまう、そう思った。
いやだ。
イヤだ。
手を伸ばす。待って、そう一言、淡いピンクのルージュをひいた唇が紡ぐのを遮る様に、望は言い切った。
「そこのカフェでサンドイッチでも御一緒しませんか? 先生、お昼まだなんですよ」
「よかったんですか? お昼ごはんに、デザートまでごちそうになっちゃって」
「いいんですよ。誘ったのは私ですから」
運ばれてきたパフェを前にして、改めて奈美は変だと思った。今日の望はそれこそ可符香並にポジティブだし自分のことを普通と貶さないしむしろ妙に誉めてくるし気前はいいし。
眉をひそめていると普段ではありえない、しかし気味が悪いわけでもないほほ笑みを溢しながら望は穏やかな声で言ってくる。
「さ、早く食べないと溶けちゃいますよ」
「あ、そ、そーですね」
居心地がいいか悪いか微妙にはっきりしないまま、ギクシャクとスプーンを口に運ぶ。でも途中から望の目がずっと自分を収めていることに気付き、白地に赤のチェックが入ったテーブルクロスに視線を落として動揺を誤魔化そうとする。
(あーもう! なんでそんなにこっち見てるのよ! きんちょう、するじゃないですか)
「ついてますよ、アイス」
「はえぇ?」
空気の抜けた様な返事をしてしまう。
気付けばもう器の中は空になっていたがどうやら顔のどこかにでもクリームを付けてしまっているらしい。慌てて鞄から手鏡を出そうと手荷物用の籠に手をかけたその時、細い指がいきなり口の横の頬に近付いてきた。
塩酸でもぶっかけられたかのように大きく震えて、固まってしまう奈美。そんな彼女にもお構いなしに望は少女の口を捕えた。
まず顔の下半分を。
くずれやすい果物でも包むかのように掌で抱く。人差し指が口元を丁寧に撫で上げ、その他の指は首筋や輪郭、反対側の頬を拘束している。それは愛鳥を籠絡する様に似ていた。
二人の視線がもし目で見えたのなら、糸で繋がったような直線を描いていたのが分かっただろう。
しかし指が離れるのは妙な冷たさを残すようなあっけなさ。つられて顔を少し突き出してしまうけれど手の引く速度は桜が散って地面に横たわるまでよりも切ない。
「こんなに口から外して、だらしがないですね」
いたずらっぽく言う望の人指し指にはなるほど確かに、結構な量の生クリーム。
その白さと長い指の白さをぼんやり眺めているうちに、再び目の前に――こんどは時間をかけて――その指が現れた。
「後始末は自分でやるんですよ?」
この人は何を言っているんだろうか。
この人は何がしたいんだろうか。
いつもなら、ごくごく「普通」の思考で今の状況の異常さや望の絶望的なまでの奇行にすかさず反応していたのだろう。
けれど、催眠術にでもかかってしまったかのように奈美の頭から常識や一般論が逃げ水よろしく手の届かない距離に逃げてしまう。
そして今は、この白いもので、あたまの中が埋められて。なんにも考えられなくなって。
わたしはなにをしたいんだろうか、なんにもかんがえられなくなって。
気が付けば口の中がさっきまで食べていたはずの甘いものと、それに包まれたコリコリしたモノをつかまえていた。
クリームのふわふわした感触はすぐに消えた。溶けて舌に張り付いて口の中を漂っている。けれどこのかたいけれどやわらかい、ちょっとへんな味がするものは消えない。
おいしいのかまずいのか、食べたことがないふしぎな味。勇気を出して噛んでみると上の方は硬く跳ね返してくるけれど下の方は受け入れてくれる。
喉の奥からジュッとよだれがあふれる。
熱が熱を呼び、激流が凍りついていた理性を溶かしつくす。
へんなものの正体を探るべく、舌が動き出す。
自分とは別の、なんだか地底や土星なんかにこっそり住んでいるような奇妙な生物が口の中にやってきて好き勝手暴れているみたいに、いうことを聞いてくれない。
異次元からの侵略者は大好物に出会えたらしく、よだれを垂らしながらそのへんなものにむしゃぶりつく。
熟れた果実をゆっくりと握り潰すか粘液どうしが絡み合う様な水っぽい音が頭の中で氾濫し、神経なんか洪水の中でショートしてまともに働いてくれなくなる。
もっともっと、怪物はごちそうのしっぽまで味わおうとしてその体を精一杯伸ばし、続けて巣穴も前に前にと引きずられてしまう。
なんだか苦しくなったけれどどうすることもできない。急に獲物が動き出した。
うねうねと、巣穴の中を探検するようにかきまぜられてよだれがくちゅくちゅと鳴く。
ああ、もしこれが「日塔奈美」の体の一部分であるのなら多分くちびるから水が漏れてあごのあたりを液体が伝って喉もとを這い、胸元にぬるい滝を流しているのだろう。
けれど、あつい。燃え上っているんじゃないかと思うくらいあついんだけれど何処があついのか見当もつかない。まあそんな些細なことはどうでもいい。
今はただこの酸素の欠乏と、液体の飽和と、熱の奔流に、身を任せ――
本当に食べられてしまうかと思いましたよ、そう言って望はドロドロになった人差し指を嘗めた。
目の前には壊れた人形のように口をあけ、顔を真っ赤にさせている少女がいた。
目の焦点は定まらず口から垂れた唾液がシャツやカーディガン、スカートにまで及んでシミをつくり、吐く息は水蒸気の様に熱い。
昼下がりの喫茶店においておくには、あまりにも淫靡な人形だった。
手拭きで出来るだけ汚れをふき取ってやり、未だ魂の抜けた様な奈美の耳元で告げる。
まだ時間が早いですからね、夜になれば。
その時、望の携帯が鳴った。数度のやり取りの後電話を切って、懐にしまう。
「すみませんが少し、用が出来てしまいました」
聞こえているのやらいないのやら。とにかく店から担ぐようにして奈美を連れ出し、人通りの多い公園のベンチへと彼女を座らせた。ここなら一人でも、安全だろう。
またあとで、そう言って望は歩き出した。電話の相手のもとへ。