花が飛ぶ。
糸色の庭園から放たれた桜は風に乗って、街の空を泳いだ。もし彼らに下界を眺める為の目が在ったのなら、とある少女の俯く背中を見つけることができたのだろうか。
「あぁ……いったい、どうすればいいのでしょうか」
人気の無い公園、そのベンチに彼女は居た。抱えた頭から括られた後ろ髪がぴょんと風に揺れ、当人の嘆きとは全く逆の微笑ましさをもたらしている。
まあ、見る者が居ればの話ではあるが。
加賀、愛である。白一色のワンピースで細い身体を包み、木の陰に隠れるようにして腰を下ろしている。周りに人が居ないのは決して偶然ではない。
「自分が公園に居ることで人に迷惑をかけたくない」――そう考えた彼女がやっと見つけ出した、街の中のグレーゾーンである。喫茶店にも入ることを躊躇ってしまう彼女の、唯一独りで落ち着ける場所であった。
しかし今日の愛は、いつにも増しておどおどとした表情を浮かべていた。そこには誰も、居ないというのに。
その灯りを思い浮かべるだけで、焼け死んでしまいたくなる。
「赤点をご勘弁」
その闇を思い浮かべるだけで、穴を掘ってそこに潜ってしまいたくなる。
「暗黙のルール」
その言葉を、言葉を思い浮かべるだけで。
「よろしくお願いします」
鳥肌が立つのが分かる。喉が独りでに絞まる。呼吸が犬のように乱れる。
(――ああああああああああああああああああ!)
叫べるものなら全身を磨り潰すまで叫んでいたかった。
そうは出来ない勇気の抜け落ちが心の中に感情を氾濫させ、どんどん身体が前のめりになってゆく。
何も知らなかった。
何も知らなかった。
あんな恥ずかしいこと、知らなかった。
敷かれた布団。薄暗い灯り。開かれる障子。
そして、驚いた先生の顔。
(私ったら、なんてふしだらな!)
それだけではない。愛の頭の中にこれまでの望とのやりとりが悉く蘇って、疾風の如く吹き荒れたのだ。
落ち崩れそうな土砂降り空の下、差し出された言葉と傘。自分自身の傘を持っていたというのに、先生の傘を半分も使わせて濡れさせてしまった。
落ちていきそうな蒼天の空の下、繋がれた手と緑の嵐。熱い島の中掌から体温を、先生に伝えてしまった。
落日に濡れた紅の海の下、しがみ付いた身体と酸素の欠乏。沈んでゆくのが怖くて、もがく先生の足に抱きついてしまった。
落ちた陽の黄昏の空の下、紡ぎだした声。突然の告白はきっと先生を当惑させてしまったに違いない。
そんなものじゃない。あれも、あれも、あれも、あれも。あれも。
水に濡れた猫の様に身震いする。局地的に震度八の地震が起きていると言われたって、誰も疑わないくらいだ。
だが彼女が慄いているのは、単に「先生を驚かせ、迷惑をかけてしまったのかもしれない」という恐れだけではなかった。
震える、ふるえる。頭の中で地面が裂け、その落ち窪んだ深淵から「なにか」が顔を覗かせる。
いや、「なにか」などぼかす必要など、彼女にはまるで無かった。その正体はとうの昔に気付いていて。
あの冷えた傘の中で、私はずっとそうしていて欲しいと、そう思ってはいなかったか?
あの熱い畑の間で、私はずっと手を引いていて欲しいと、そう思ってはいなかったか?
あの暗い水の底で、私はずっと閉じ込められていたいと、そう思ってはいなかったか?
あの校舎の裏で、私はいっそのこと世界なんて滅んでしまって、本当の想いが伝わってくれはしないかと、そう思ってはいなかったか?
そして。
あの布団の中で、私は何を望んでいたのか?
知らないはずが無い。この年になって「アレ」が何を意味するか。
「こうしろと言われて」
「こんなメモがあって」
そんなの言い訳に過ぎないこと、知らないはずが無い。
認めてしまえば楽になる。もう逃げ場なんて無いのだから。
「――私なんかが、先生のことを」
好きになってしまっては迷惑だと。
言えない。
言いたくない。
例え本当に迷惑だとしても、人に迷惑なんて掛けたくないとしても。
「それだけは……いえません」
震えは止まり、代わりに溜息がついて出た。足元を桜の破片が、亡骸のように転がって行く。隣に、雫が落ちた。乾いた地面にを湿らすことも無く、それは吸い込まれて消える。
初め、なんだろうと思った。もうひとつ落ちた。蟻が踊る。
そしてその地面を、影が覆った。途端、愛は雫の意味を知った。
「こんなところでどうしたんです、加賀さん」
「す……すいません!!」
愛は目元を拭って顔を背けた。どうしてこんなところに、こんなときに出会ってしまうんだろう。
「こっちから声を掛けといて申し訳ないんですが……今ちょっと女性と話をしない方がいいような状態なんですよ」
顔は見なかったが間違いない。間違えようが無い。今の今まで、その人のことしか考えていなかったから。
そこを訪れたのは彼女の担任、糸色望であった。倫と別れてから、出来るだけ人(特に見知った女性)に会わないように移動してきた彼は、同じように人目を避けて来た愛と鉢合わせてしまったという次第である。
最初は引き返そうと思った。
けれど彼女の存在を認め、震える肩を見つけてしまってはもう駄目だった。摂取した薬のスイッチが入り、「やんちゃ」状態にオンしてしまったのである。
愛は考えた。女性と話をしない方がいいとはどういうことだろう。心なし落ち込んだ声が、心配になる。
もしかして先生は自分がここにいるから座りたくても座れなくて、迷惑であることを遠回しに言っているのではないのだろうか。
それは、悲しい考えだった。今までに無いほど、胸が冷たく凍り付いてしまいそうだったが、先生に迷惑をかけることもいやだった。
もう駄目だ。とてもじゃないが望をちゃんと見られそうにないし、こんな顔なんて見せられない。
「ごめんなさい……し、失礼しますっ!!」
さっさと立ち去ってしまえと、腰を浮かせた。
「なので出来ればこのまま行ってしまいたかったのですが……困りました」
露にしていた左の肩が、不意に温かくなる。逃げ出しそうになって引いた腰を、もう片方の腕が巻き取る。
「そんな泣き声を聞かされちゃ、ほっとけないじゃないですか」
頬が熱くなるのを感じて、弱々しく愛は暴れた。
「す、すいません! すいません! 余計なご心配をお掛けしてすいません!」
しかし強く、一本の芯が通っているように感じられた声に愛は絡めとられたようになった。
豹変、とはこういうことを言うのだろうか。普段クラスの皆からチキンと罵られる姿と、時折見せる粋の欠片。そのギャップを皆は好いているのだろうと愛は思っていたし、多分自分もそうなのだろうと思った。
しかし今のこの人は、良く言えば正の塊。悪く言えばキャラが違う、のかもしれない。抗いようが在る筈もない。
「まあまあ落ち着いて下さい、加賀さん」
普段呼ばれているはずの苗字でさえ、金縛りの魔法の様。いつの間にか輪郭に添えられた手にも抵抗できないまま、くいと視線ごと抱き寄せられてしまう。
そして見てしまう。正面から、望の目を。カメラさえ常に真ん中を避ける彼女にとって、想い人の視線は槍の一撃に等しかった。
言葉にならない焦りが熱い息と一緒になる。桃の花が愛撫に喘いだなら、きっとこんな声であろう。
「ほら、涙を拭いて」
身動きが、取れなかった。
さっと指が愛の右の目元を優しく撫で、少し強く擦って離れる。それを彼女は、手品でも見ているかのように、されるがままで。
「あ……あ――」
謝るべきか、お礼を言うべきか、判断がつかない。混乱が涙腺を震わせ、また雫が睫毛を光らせる。
すると望は低く、しかし聞いたこともないような悪戯っぽい声で言った。
「自分で拭けないなら……その可愛らしい目玉ごと、舐めてしまいましょうか?」
「あっ」
今度こそ何もできなかった。
近づいてくる顔。望の口が迫り。目を閉じる間もなく。
音は外のエンジン音に消えた。
意識の飛び掛けた愛の身体が、不意に突き放された。
夢の揺り篭から振り落とされた彼女は、肩で息をする望の姿を認める。黒い髪を振りかざし、下向いた彼の表情は分からない。
その手は愛の身体を掴んでいるが、腕はおよそ限界まで伸ばされている。まるで愛を、汚いものから遠ざけるかのように。
完全に腰の抜けた愛に弱く微笑んだ後、望は訊いた。
「ところで、今度は何に謝ろうとしたんですか? 加賀さんのことですから、きっと加害妄想なんでしょうけど」
ショートした思考を必死に取りまとめて愛は答えようとした。だが言いたい言葉はひとつのくせに無限大まで膨らんで、彼女は何も言えずただ赤い上目遣いを送るばかり。
やっと搾り出した台詞は、自分でも厭になるような条件反射。
「……すみません」
ふっと溜息をついて、望は言う。
「……ホント、昔でなくてよかったですよ。貴女に会うのが」
愛はきいた。初めてまともに発せた言葉のような気がする。
「どういう、ことなんですか……?」
愛をゆっくりとベンチに落ち着けさせて、望は答えた。その刹那前まで見せていた色気は影を潜め、代わりに憂いを帯びた表情が張り付く。
それはそれで、愛の意識を再び揺さ振るほどには鮮やかであった。
「さっきの私が、昔の私です。節操無き男で、まあ人間失格、の鏡じゃないですかね」
自分を抑えるように袷を握り締めて、望は吐き捨てるように言った。
「さっきは、私こそすみませんでした」
そう言い、望は踵を返した。足元におちた無数の雫は、どちらの涙でどちらの汗か。
いつものように叫びなどしなかった。
もうひとつ、枯葉を落とすように言い残す。
「もっと自信を持っていいですよ? 生きていて迷惑をかけない人なんて、この世にはいません」
骨を埋めるような静けさにこそ、愛は恐怖を感じた。
いつもの先生でなかったことと、いつもの先生がどこかへ行ってしまうことに。
言いようもない不安に駆られた。完成したパズルの真ん中を抜き取られるような欠落感。
自分にこんなことを言う資格はない。
自分にこんなことを言う資格はない。
自分に。
こんなことを言う資格は。
ない。
「あのっ!」
のに。
止まる振り返る。
愛は立ち上がる。
閃く硝子。
泣きそうな顔。
薄くなる大気。
二度吹いた風。
揺れる木の影。
開く口。
「どうしたんですか?」
その怯えた、片目の無いぬいぐるみのような視線を、愛は受け止めた。
「私は……」
粘っこい唾が喉をゆっくりと通り過ぎる。
「……いまの先生と会えて――うれしいです。昔の先生は、知らないけれど」
すいません。
そういって駆け出したくなる衝動を全力で押し返す。
何があったかは知らない。そこに口出しする権利なんてない。
「今の先生が、私のぜんぶです」
ならば、今感じたことを言うしかない。たとえそれが差し出がましくたって、あんな水色の憂いを。
ほうっておけなかった。
「――ありがとうございます」
俯いた愛に聞こえたのは、夜の海のように優しさと悲しさを混じらせた声。思わず顔を上げたときには既に、望の姿は無かった。
ぺたんと、座り込む。遠くで夢のように犬が鳴いている。
途端、自分の口走った言葉が風船のように膨れ上がって、愛の顔は赤くなったり青くなったり。
だがそこに後悔は無かった。
自分の想いは、きっと誰かに迷惑をかける。
けれどそれがもし、もし先生を救えるのなら。
思い上がりだろうか。
もう一度、お話をしたい。お話を聞きたい。夜に伺うのは迷惑だろうか。今は腰が抜けて、動けそうにない。
「……先生」
右目の下――泣きボクロに残った温もりを愛は指ですくい、唇をなぞった。
「いとしき、せんせい」