「やっと効き目が弱くなってきてくれたようですね。あとは誰にも会うことが無ければいいのですが……」
望は身体を引きずる様にして公園を離れた。本能の部分がまだ愛を、女の性を求めていたが、薄っぺらな理性が何とかそれを黙らせるくらいにまで薬の効用はおさまっていた。
宿直室には霧がいるのでもう少し時間が必要だろうが、それもそう長くはかからないだろう。
「しかし絶対安全な場所などなさそうですね――こちらから、避けていかなければ」
新たにした決意は
「あら先生、お散歩ですか?」
二秒も持たずに崩壊の危機。それは無条件幸福の微笑による。
「こ……こんにちは」
後ずさりしながら、冷や汗を感じながら、望は辛うじて返した。
アパート暮らしをしていたときの隣人の女子大生だった。優しい笑みは花に喩えるのこそ相応しく、世のどんな男だって抗えるものではない。抗うべきものでもない。
ただ一人この男の、この状況下以外においては。
「き、奇遇ですね。お元気でしたか?」
今すぐ逃げたい走って逃げたい。それが望の本心であった。だが世話になっていた手前そういうわけにもいかず、無難に、深く関らずやり過ごすことのみが至上目標となる。
「せんせい……」
そんな望の考えを嘲笑うような微笑のまま、女子大生は望へと歩み寄る。後退しようにも、いつの間にかそこは袋小路。塀に張られた政党のポスターの憎たらしい笑みも相まって、望は笑顔に追い詰められる。
「ど、どうしたんですかっ? ちょっと、なにか言って下さい、ち――!」
拳一つ分の距離にある目は、どこか神話に聞くゴルゴンの瞳を喚起させた。美しいはずのそれが、全身を血を凍らせる。水晶に映りこんだ自分の転落した姿に、望は恐怖さえ覚える。
逃げた背中が石の壁と出会った。二度と開かないような必死さで目が閉じた。空気が身体を縛り上げる。
「どーぞっ!」
唇に何かが触れた。唇かと思った。口に何かが入った。舌ではなかった。
「このアメ、おいしいですよ……どーしたんですか、先生?」
離れてゆくのが分かった。全身を再び、血液が駆け巡る。目を開けるとストロボのように色調が反転した世界の中で、彼女は曖昧な笑みを浮かべていた。
緑色の指を、舐める。
「それじゃ突然で申し訳ないですけど、用事があるのでこれで失礼します。またお会いしましょうねっ!」
出鱈目な色の世界から退場してゆく女子大生。そういえば彼女の名前はなんといったか。
口の中を転げまわる玉はデジャビュの塊。酷く酷く甘い、記憶の塊。
「あれ……あの薬の残りが、あとひとつだけあったはずなんだが」
「どうしたんですか命先生?」
遠く遠く離れた場所で、彼女は誰にも真似できないような笑みを描いていた。
「美子ちゃん美子ちゃん、次のお仕事、どんなのにする?」
紙コップの中のシェイクをストローでかき混ぜながら、翔子が訊く。
「そーだねぇ――」
フォークを皿に置き、美子が応じる。
二のへの無限連鎖商女、根津美子と丸内翔子は次の商売に向けての打ち合わせをしていた。
「やっぱりウチの先生を使った方がいいんじゃないかな。あの人を基点にすると、何かとシノギがよく回るみたい」
「だよねぇ」
辺りをちらと見回して、翔子は囁いた。以前二人は自分たちの担任の人気に目を付け、等身大人形のパーツを付けた雑誌を大当たりさせたことを思い出していた。
「すごかったよねぇ。クラスのみんな、創刊号買ってったもんね。第二号、第三号もけっこう売れたし」
翔子が「みんな」という部分を強調し、両腕を組んで自慢気に言う。それに美子は苦笑しながら付け加えた。
「欲を言えば、最終号まで買ってくれる人がもっと増えてくれたらよかったんだけど」
「ちょっと造形が甘かったのかな? アンケートにも書いてあったよ、『もっとかっこよくしてください』って」
申し合わせたように二人は笑い、途切れる。間を埋めるようにそれぞれ、コップと皿に手を伸ばす。
チーズケーキがバランスを失って倒れ翔子が再びクツクツと笑い、美子は蚊に刺されたような顔をした。
「もう一回、それでいこうか」
立ち上がりながら美子は言った。翔子はストローを口から離し、楽しそうに頷く。遊園地に連れて行ってもらえる子どものような笑顔だった。
「今度はもっとちゃんと採寸しようね……裏」
「ちぇっ」
美子は掌の上の十円玉を仕舞い、会計へ向かった。
「ごちそーさま、美子ちゃん!!」
喫茶店を後にした二人は望を探し始めた。
「それにしても、どうしてウチの先生はあんなにモテんのかな?」
美子が街路樹の桜を見上げながら言うと、翔子は一歩分、速度を落とした。前を行く美子の背中に言う。
「顔がいいっていうのはあるんだろうけど……美子ちゃんも、もしかして?」
やめなよ、と振り返って美子は翔子の頭を軽く小突き、溜息をついた。翔子は天使のように笑っている。
美子は短髪をいじりながら、至極どうでもよさそうに呟く。
「まあ嫌いじゃないけどさ――みんなみたいには追いかけられないかな」
ふうんと頷いて、翔子が言った。
「わたしは、好きだよ?」
美子が立ち止まった。接着剤の水溜りに踏み込んだような唐突さで、翔子は避けることが出来ずに追突する。
「み、美子ちゃんっ?!」
「あ、ごめんごめん――前」
人の溢れた商店街、美子の指差す遥か先を見れば、そこには見覚えのある後姿。
「よく見つけられたね、あんな遠くなのに」
「――まあそもそも目立つ人ではあるし」
行こう、そう美子は言って駆け出した。翔子は一瞬だけ呆然として、すぐに笑みを浮かべた。素直じゃないのね、そう独りごちてから走り、人の林をすり抜ける。
翔子はすぐ、美子に追いついた。ギリギリ見失わない程度の距離を保ち、翔子は美子に耳打ちする。
「ところでせんせいを捕まえる話なんだけど……」
「準備してるよ。対糸色望用最終兵器」
そういって美子が鞄から取り出したのは、直径五ミリほどの穴がいくつも開いた、人間の二の腕ほどの太さと長さの
「……バッグにレンコン入れてる女子高生って、どう?」
レンコンだった。不本意そうに美子は唇を尖らせる。
「――これで先生は気を失うって聞いたから」
「それは私も知ってるけど……もっとお薬とか、確実な方法がよかったんじゃない?」
美子は反論した。
「経費は浮く方がいいでしょ。それに――」
ところが後半声が落ち、何やらはっきりとしない。
ピンと来た翔子はいじめっ子のようにニヤニヤと笑う。
「大好きな先生にクロロフォルムなんて、かわいそうで使えない?」
どごん。
美子がレンコンを翔子の頬に突き刺した。そのままグリグリと、ゴマでも磨り潰すように穴を回転させる。
「しょ・う・こー?」
「ご、ごめんごめんごめんなさい!! かゆいから止めてっ!」
「ああもう、どこ行ったかわかんなくなっちゃったじゃん!!」
「美子ちゃんがいつまでもぐりぐりするから……」
「なんか言った?」
「いえ、なにも」
ひと悶着を起こした二人はその隙に望の姿を見失ってしまっていた。いつの間にか大通りの人の姿はますます増え、まっすぐに歩くことさえ困難だ。
美子も翔子も目をドングリのようにして望を探し回ったがどこにも見当たらない。甘味処や映画館、パチンコ屋にアンテナを伸ばしても、その姿を見た者は無かった。
「もう三週目になるよ? そろそろ学校に帰っちゃったんじゃないかなぁ」
「確かに――この場所は潮時かもしれないね」
諦めかけて商店街の出口へ向かっていると、遥か先の建物からすう、と望が出てきたのを二人は偶然目撃した。遠目だったがあの背格好と、さっき見たのと同じ着物の柄からそう判断する。
「あんなところに――」
タイミングのよさに驚いたが美子と翔子は頷き合い、歩を速める。
門をくぐると、望は学校の方角へと足を向けた。レンコンを鞄の中で掴み、美子が言う。
「やっぱり帰るみたいね――ここからだったら路地を通ることになるから、そこで捕まえよう」
うん、と合点して翔子も後をつける。
担任は、尾行に気付く素振りは見せないが歩くのが恐ろしく速く、二人は殆ど小走りにならざるを得なかった。
「なんなんだあの人――!」
そしてそれは曲がり角の向こう――二人が望を捕縛する計画地点の路地で起こった。
距離を詰めようと路地に飛び込んだ美子が先に手のレンコンを落とし、続けて入ってきた翔子の目が大きく見開かれた。
「うそ」
「えっ」
誰も、いなかった。塀の向こうから垂れ下がった木の枝を風が揺らす、それだけがその路地で動くただ一つのものであった。
二人揃って木の下に駆け出す。震える唇をようやく動かし、美子は吐き出した。
「どういうこと――?」
ウロウロと歩き回り、考え込む美子。だが翔子の方は、別の、ある違和感に気付いた。口元に手をあて眉をひそめる。それを見た美子は聞いた。
「翔子?」
信じられないというような、自分で言った嘘が現実になりつつあることに驚いているといった風で翔子は言った。
「……いない」
意味を図りそこね美子は聞き返す。
「えっ?」
翔子は――彼女にしては珍しいことであったが――動揺した様子で言った。
「まといちゃんが、いなかったのよ。商店街から、今の今まで」
そのときには既に遅かった。
足首に何か巻きついたかと思うと、途端に重力が逆転した。アスファルトが眼前に迫り二人は目をつむる。暴風に煽られたが如く四肢と髪が跳ねる。
二度三度頭が金槌で殴られたように振られ、しかしだんだんと高く吊り上げられてゆく。二人が次に目を開けたときには先ほどまで自分たちが立っていた地面と、逆転した世界と。
「影武者と木目糸は使いよう、ですね」
追っていたはずの獲物の、勝ち誇った姿があった。
「――先生」
「せんせい……」
思わず睨み付けたようになったのは、頭を下にした姿勢から上目遣いに担任の顔を覗き込んだ、という理由からだけではない。
「私服がスカートじゃなくて、よかったですね。いや私としては残念なんですが」
浮かべた笑みも、見上げているくせに見下すような目も、二人分の体重を繋いだ紐を持つ細い腕も、知っているはずなのにまるで馴染みと現実感が無い。
「追いかけっこは私の勝ち、みたいですね。では、理由を伺ってもよろしいでしょうか?」
決して強制ではなかった。彼自身の目がそう言っていたのを、美子も翔子も感じ取った。ただそこには拒否という選択肢を自ら捨てさせるような、無言の誘惑を秘めた光が宿っていた。
半ば無意識のうち、美子の口が開く。それを
「おっと、先に下ろさせてください……悪戯が過ぎました」
望が、木目糸で束ねて作られた紐を柵に括りつけると、二人は逆さてるてる坊主のようになる。しかしそのロープもすぐに切られ、支えを失った身体は熟れ過ぎた林檎の様に地面へと飛ぶ。
その落ちゆく少女たちは、後頭部とひざの裏を抱きとめられて地上へと戻された。
二人の顔が赤かったのは、逆さに吊るされた血流と抗議の感情のせいだけではあるまい。
まるで子どものような無防備な姿勢を抱えられたことの、恥ずかしさというのも、それのみでは答えとして惜しいのだろう。
「どうして今日は、常月さんの真似事を? レンコンまで持ってくるなんて、イヤな予感しかしませんが」
時間稼ぎのようだが結構気になっていたこと――まといの所在を、美子は尋ねた。
「常月さんは、一緒じゃないんですか」
望は答える。
「あぁ、あの娘はいま私を探しているのでしょうね。どこにいるのかまではちょっと存じませんが――ところで」
帰ってきた視線はガラスの針。喉元に突きつけられれば黙秘などありえない。
二人は望を尾行していた理由を説明した。望の模型をつくること、採寸をきっと嫌がるだろうと思ったこと、こっそりと眠らせて測ろうとしたこと――
「――ごめんなさい」
「ごめんなさい」
二人は頭を下げた。もし普段の望であったならきっと、そんなことはしなかったであろう。せいぜい笑いながら逃げ出すくらいだ。
だが今日の担任には、どうしても嫌われたくなかった。そういった雰囲気を彼は持っていた。
地面に向いた四つの瞳。
それは驚きに見開かれる。
「別にかまいませんよ」
わしゃわしゃと髪の毛を梳かれ、二人は顔を上げた。そこには担任教師の、普段見せない悪戯っぽい笑み。
「――本当ですか?」
ええ、と頷く望を見て、美子と翔子は思わず上気した顔をほころばせる。
「ただし、二つほど条件があります」
意地悪そうな微笑を浮かべたまま彼は続けた。人差し指と中指を立て、盾を掲げるように見せつける。
「ひとつは、商品化しないこと」
美子と翔子はバツが悪そうに視線を落とした。あえて説明をしなかった本題をきっちり指摘されたからだ。「ウソはついてない」――そんな言い訳が通用しない、柔らかくも冷徹な声音。
「小森さんが私にそっくりな人形のパーツを集めてたことがあって、大変な目に逢いましたからね……それと」
決して「誰が」それを売っていたか、という部分に触れなかったのは無知か、意図してのことか。それを考えていた美子と翔子は、次の言葉で一時停止を余儀なくさせられた。
「私にも採寸させて下さいよ」
「「はあっ?」」
熱も疑問も吹き飛ばされ呆けたようになった二人に、望は当然の如く言う。
「私だけ採寸されるなんて不公平じゃないですか? だから私も、貴女達の身体の採寸をしたいってことです」
台詞の半分辺りで真意を理解し、真っ赤に頬を染めた二人の肩を、望は間に入って両方とも抱いた。そして耳元で恋人に囁くが如く、選択を迫る。細い首筋に、猫よりも甘く爪を立てる。
「さていかがです? 金銭的な利益はなんら生み出せませんが」
「――なんで承諾しちゃったんだろ。お金にならないのに」
「……もう、美子ちゃん。分かりきったこと言わないでよ。それと」
二つの影が路地の細い道を、取り残されたように漂っている。
「先生の人形が出来たら……試運転、しなきゃだよね……」
「うん――その為にも採寸、しないとね」