望が美子と翔子に会う、その少し前に話は遡る。  
 
紫煙が洪水のように満ち、苦い窒息に麻奈実は小さく咳払いした。壁も長年の煤にまみれ、実際の薄暗さ以上に陰惨な控え室が出来上がっている。  
蝶が顔に張り付いたような化粧の女が学校の体育館にあるのと同じ型のパイプ椅子に座り、狭苦しい部屋に煙を吐き続ける。手に持った携帯電話は会計士の操る電卓よりも忙しく回っている。  
気付かれぬようそれを一瞥し、麻奈実は口を覆って溜息を漏らす。  
紅差し指をその女のように、カサついた唇に這わせる。荒れたそれを隠すための化粧も、麻奈実のここでの「役割」のために最低限薄さ。  
本来の、彼女の年齢としての正しいあり方である「純情」が商品価値となってしまっていることに今更、本当に今更ながら気付く。壮絶な自嘲を浮かべる。  
そして考える。本当に、今更。  
 
こんなはずではなかった。  
そう考えたのはいつ頃からか、何回目か、何故か。分からなくなって久しい。いやその発生が一酸化炭素のように無味無臭だった所為で、問うことすら追いつかなかっただけ。  
互いに好きあって結婚したのだから、幸せでいられないはずがないと思っていた。一緒にいることで見えてくる欠点も、それ自体は覚悟があったし、感情では納得できた。  
だが現実的な貧しさというものは、感情の理解を超えていた。  
学校の休み時間も、家事の合間や寝る直前も内職と格闘する。バラに囲まれながらやつれゆく自分の姿はだいぶ笑えた。  
特売のチラシをニセ札の真贋を見比べるように凝視し、親と同年代の主婦たちに揉まれる。一円の差額を十円に積み重ね、乾いた雑巾を振り絞るようにして金を浮かせる。  
そうして出来た僅かなものも、夫のギャンブルの賭金として消えてゆく。  
進退窮まった麻奈実のとった行動はふたつ。  
ひとつは、夫と同じことをして、しかも勝つこと。  
夫が賭博でなくした生活費を、妻が賭博で取り返す。不毛な循環とはこのことだ。  
そして  
「マナちゃん、指名入ったよっ!」  
「はいっ!」  
店頭からの呼び声。麻奈実は立ち上がった。  
 
それは限りなく黒に近いグレーの「飲食店」  
年齢は偽った。オーナーはそれを知っているか知らないか、麻奈実は知らないし、知らなくてもいいと思う。  
勤め先も偽った。夫はそれを知っているか知らないか、麻奈実は知らないが、知られたくはないと思う。  
だが、嫌が応にも染み付いてゆくタバコと酒、そして雄の匂いは、どれだけ肌を擦っても取れはしない。  
「本番」こそナシ、とはなっていたが常連となった客から店の外で誘いをかけられることも珍しくなくなり、雇い主も明らかに「次の段階」を匂わせるようになってきた。  
そんな勤めをしている妻の罪悪感と、そんな勤めをさせている夫の罪悪感がぶつかって、家に帰ってもまともに顔をあわせることが目に見えて少なくなった。  
麻奈実が帰宅しても、夫は既に就寝していて、話し合いたい気力は疲れに圧倒される。そしてその疲れを背負ったまま、待ち受けるバラの造花。  
夫との二人の暮らしを守るためにやっているはずの仕事が、逆に二人を遠ざけてゆく。止めたくても止め方が分からないまま、次の生活費が容赦なく消え、次の仕事は容赦なく入る。  
あまりにも過酷だった。彼女の年齢であれば、呼吸しているだけで食事を準備してもらえるのが普通だと考えれば、きっと負わなくてもいいはずの業だった。  
酒を注ぎ、身体を触られる程に、心は海底のように蒼褪めてゆく。  
だがはじめの頃、「夫に」抱いていたハズの罪の意識は、いつからか、いつからか。  
 
 
 
「12番だ。初めてのお客だよ、粗相のないようにね!」  
「――はい」  
オーナーに鍵を渡され小部屋に移動する。この店では客とスタッフが一対一で、テーマ別の小部屋に入り「お話」をするというのがウリであった。  
12番は教室風のセット。  
そして彼女の服装は、セーラー服だ。  
「どんな人かしら……」  
一見様は不安だ。常連様は絶望である。どう転んでも正の感情を持てはしない。  
狭いながらも実際の学校とそっくりの造りで、嫌な緊張感をもってしまう。そして客はその緊張感も味わいにこの部屋を選んでいるのだ。  
白い裾を摘む。これで、まさにこの服で実際に登校しクラスメイトと会い、授業を受けている。仕事の後には「におい」を消そうと躍起になるが、それも何時までもつのやら。  
「がっこう」  
酷く遠い場所にあるもののように呟く、日常の場所。  
 
ドアがスライドしてゆく。立て付けの悪い音が嫌に、実際の教室と重なる。こんな既視感には早く退場してもらいたい。  
けれど。  
開ききった戸は、あくまでも麻奈実に残酷なデジャビュを叩き付けた。  
「おやおや、こんなところでお会いするとは」  
お恥ずかしい限りです――そう言いながら部屋に入ってきた青年を見て、彼女はガラガラと何かが崩れる音を聞いた。  
 
「――せんせ、い」  
いつからか、いつからか。  
勝手に罪悪感を抱くようになってしまった、見当違いの操の対象。  
いつもどおりの足音を、偽の教室に響かせながら彼は麻奈実の前に立った。そのまま無言で彼女を見下ろす望。ボタンの目が取れてしまった人形に対するような哀れみを、彼女は感じた気がした。  
耐え切れなくなって枯葉のようになった舌を巻き、なんでもいいから言葉を紡ごうとすると  
「早くしてくれませんか?」  
訊き返すのすら躊躇われる、氷塊じみた声が麻奈実の胸を刺し貫いた。呆然と立ちすくむ彼女を尻目に、担任であるはずのその青年は教室で生徒が使うのと同じイスに腰掛け、腕を組む。  
「ハイボール」  
そして端正に歪んだ笑みを浮かべ、注文を告げた。酒の名が、手足の自由を操る呪詛のように麻奈実を縛る。  
「――は、はい」  
突然の出会いで曖昧に失いかけた意識を引きずり下ろし、裏方から酒を用意する。その間に考える。今日の先生は何かおかしい、と。  
生徒たちの前で見せるネガティブな雰囲気も、時折の、包んであげたくなるような子どもじみた性質も、そこには欠片とてありはしなかった。  
ではなんと言ったものか、名状できないままグラスを持って望に向き直る。歪なくせになんら不快感を覚えさせない、心の隙間に形を変えて入り込んでくるような笑み。  
声を掛けることすら、唾を呑み込む間に勇気を奮い起こさないといけなかった。果たして私が相手しているのは本当に先生なのだろうか? 麻奈実は不安になる。  
「お待たせしました――先生」  
ままごとの役名に過ぎないはずの「先生」という言葉が、禁忌に触れるようで憚られた。学芸会の小芝居じみた動作で酒を置くと、目の前の青年は手招きして、こう言った。  
「そのままこちらに、大草さん」  
いつものように呼ばれ、この人は間違いなく「糸色望」であることだけは、馬鹿馬鹿しい事だがようやく自信を持つことができ、安堵する――店での愛称は自分の存在を、希薄にしてしまうような気がして。  
「はい、先生」  
先ほどよりは心安く彼を呼んで、もうひとつのイスを隣に据えようとする。訊きたい事が多すぎる。話したい事が多すぎる。  
だが望はそんな逡巡中の麻奈実の手首を取り、逸らし気味にしていた目を繋ぎとめた。  
そして子どもを宥める様な、或いは逆に母親にねだる様な、力を含んだ声で望は言う。  
「そこではありません――こちらへ」  
そこは腕の中、胸の中、彼の中。  
 
 
「どうしてこんなところで、アルバイトを?」  
「はぁ……あ、んく、コクッ……ぁ」  
麻奈実は望の膝の上に座らされ、両足と両腕に篭絡されきってしまっていた。彼の右手は麻奈実に酒をあおり続け、左手は裾の下から入り込んで腹部を延々とさすっている。  
決して酒に弱い訳ではなかったし、飲ませてくるペースも量も少なかったのですぐに潰れされることはなかった。それだけなら耐え続けることも、あるいは可能だったかもしれない。  
だが望はそれを許すほど甘くもなかった。「甘く」囁くように訊いて来るのは、どれも彼女が答え辛いもの。  
どうしてこんなところで働いているのか。  
ウチの学校がそれを許すと思うのか。  
これを知った友人はどう感じるだろうか。  
そして、夫に悪いとは思わないのか。  
言葉を発することが出来なくて、逃げるように、差し出されてくるウィスキーのソーダ割りを口に含む。身体は熱くなる。  
不貞の愛を抱いてしまっている青年の腕に愛撫されることも、麻奈実の理性を一枚ずつ剥ぎ取ってゆく。  
 
「せ、せんせ、い――ごめんなさいっ、はぁ」  
喘ぎながら言う。視界がぐるぐると風車のように回っている。その戯言のような言葉を発する口に、緩やかな酒の川を流しこんでゆく。  
柔らかな腹部を弄くっている指も、決してそれより上にも下にも伸びることはない。  
どうせならめちゃくちゃにしてくれればと、密かに思い始める麻奈実。水風船を限界のギリギリまで膨らませるようなやり方に、戦慄と、隠された期待を抱いてしまう。  
すると唇からグラスが離され、机の上に置かれた。そして空になった右手人差し指は、麻奈実のあいたままの口に突き込まれる。酒とよだれと喘ぎを口内で掻き混ぜながら、望は言った。  
「お金、先生がなんとかしてあげましょうか?」  
泥の底に埋没していた意識が半分ほど、持ち上がった。夢の壁の向こうで青年が囁くのを聞く。  
「花の女学生が、お金で気を揉むことなんかなくていいんです。もっと楽しむべきなんです、一度しかない、高校生活なんですから」  
口とへそに、交わりのように指を押し入れ、引っ掻く。飛んでいってしまいそうになる意識を、崖の淵で留まらせる。そして、麻奈実は荒い呼吸のまま言った。  
「それ、じゃ、私はどうすれば、いい、んっ、です、か――タダで、とは、はぁ、おっしゃらない、ん、でしょ?」  
自ら下手に出て、昏い瞳で青年を見上げるような、媚びた態度だった。  
望はほう、と感心したように笑って、右の指を引き抜いた。そのまま麻奈実の頬を後ろに向かせ、唇が触れ合うような距離で言う。  
「このお店、確か『本番』はナシでしたよね?」  
蕩けた様に口を歪ませ、少女は囁く。  
「せん、せいは――ずるい、おとなです」  
台詞とは逆の、後ろめたい悦びに満ちた声。どうせ堕ちるのならとことんまで堕ちてしまおうと、モノのように扱われる自分を想像する。  
その途中で、望は冷静な声で告げた。  
「ですが、このままでは対等な取引にはなりませんね」  
動きの止まった手に指に気付き、麻奈実は眼鏡の奥を覗き込む。次に発せられる言葉を待って、淡い吐息を漏らす。  
「あなたの心も、差し出していただきましょうか」  
途端、静止していた両の五指が魔女のそれのように麻奈実の肌の上を駆けずり回る。白雪の商品価値を下げ、もう誰の手にも渡らぬように、赤い跡を散らしてゆく。  
散々溜められてきた水風船は、もう崩壊寸前だった。  
「いいですか? 麻奈実さん、あなたはもう大草じゃなくなるんです。それでもいいというのなら――」  
嵐のように荒れ狂う頭で、身体で、心で、まともに物を考えることなどもう出来るはずもなかった。白い光が、目を覆ってゆく。  
「私の心も、貴女に差し上げましょう」  
ビクンと、妻でもある少女の身体は、夫とは別の男の腕の中で爆ぜた。  
そして頷くように頭が落ちて、麻奈実の意識は闇の中に溶け込んでいった。  
 

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