「いったい何用でしょうか。急に呼び出したりして」  
ある日望は兄・命から電話を受け、医院に顔を出すように告げられた。  
辿り着いた望は看護師に診察室で待つように言われたが、肝心の命が一向に現れない。  
看護師たちも「待たせておくようにと言われましたもので」と申し訳なさそうにしている。  
他の仕事もあるので彼女たちは部屋を去り、望が独り残された次第である。  
患者用の椅子は座り心地が悪い。  
手持無沙汰な望は部屋を見渡した。色気のないカレンダーに赤と青の丸が少し。何に使うのか見当もつかない器具の保管されているのがガラス越しに分かる棚。乱れひとつない簡素なベッド。  
片付けられて無機質な部屋に、ひとつだけ、目を引くものがあった。  
それは、ビー玉かと見紛う程に鮮やかな赤色の飴玉だった。机の上の瓶に入っている。  
命が休憩時間にでもなめているのだろう。  
陽光に照り返すその肌が、望を誘惑する。  
「ひとつくらい拝借しても、構いませんよね……」  
と思って蓋を開けると、それがうまいのなんの。苺とも林檎とも取れぬ不思議な味に、気が付けば残るのは数個ばかりになっていた。が、  
「……まぁ、謝れば許してくれるでしょう」  
などと、望は呑気なものだった。  
コツコツ、コツと時計の針ばかりが部屋の中で反響し、遠くからは工事の騒音が僅かに入り込んでくるだけの静かな午前十一時。かなり待った気もするが、午後の約束にはまだ余裕がある。  
「はて、そう言えば……」  
こういう時は大抵、いつの間にやらまといが姿を現しお決まりになったやり取りを交わすものだが今日に限って彼女はいない。  
彼女にとってのライバルである千里や霧、あびるもいないこの状況をあの愛が重い少女が逃すとも思えなかったが、とにかく後ろには白い壁とドア、ぶら下がったカレンダーがあるだけだ。  
常日頃望んでいたはずの静寂は今まさに実現された。だがいざそれを手に入れてみると、時を数える歯車の音が聞こえるだけである。  
 
「……つまらない、なんて考えてやしませんかね、私は」  
生活によって人の嗜好も変わっていくものなのかと考えながら暖かい日差しを受けいれる。  
うつらうつらしていると部屋の外、リノリウムの床に僅かに足音が反響した。  
 
「すまんすまん、待たせたなのぞ……」  
現れた命は部屋に入るなり、机の上のほとんど空になった瓶を見つけて絶句した。  
座ったまま後ろを向いた望はパパがサンタだと気付いた小学四年生のようなその表情を見て、目を擦りながらぼんやりと答える。  
「ああ、兄さんすみません。少しばかり退屈だったものでして……」  
手に持った書類を一式落とし、命は望に掴みかかってきた。藤吉晴美が見れば小躍りしそうな場面である。  
ひらり、一枚の紙がたてつけの悪い望の椅子の下に滑り込む。  
「お前この中身……あれだけあったのに全部食っちまったのか?!」  
「へぇっ?!」  
眠気なんて吹き飛んだ。  
命は深い溜息をつくと、書類を拾い上げもせず自分の椅子に乱暴に体を落とした。スプリングの利いたそれは大きな音と対照的に柔らかく沈んだ。  
右手は頭を抱え、怒りと困惑の入り混じった表情である。  
「どこの世界に他人の机の上の物、殊に医者の物を勝手に食う馬鹿があるかっ!」  
「あ、あの……兄さん。それは一体何だったのですか……?」  
望はおののいた。言われてみれば先ほどの自分の行動は軽率以外の何物でもなかった。  
どうして「劇薬だったら」とか「患者の薬だったら」など考えもつかなかったのだろうか。  
命は不機嫌に鼻を鳴らし、望を睨みつけて言った。  
「それは、お前の薬だよ」  
「私の、ですか?」  
 
命が落ちた書類に目を向けるのに合わせ、望も視線を下げた。  
「さっきは処方箋を取りに行ってたんだ。確かに、手の届くところに薬を放置していた私にも責任はあるか……」  
望は思わず立ち上がって言う。  
「ちょっと待ってください! 私は、何かの病気なんですか?! 重病ですか?! 危篤ですか?! 寿命は?! 喪主は?!」  
「違う」  
即答され、ますますわけがわからないといった顔で再び腰を下ろす。  
「アレは、ちょっとした興奮剤みたいなものだ」  
「興奮剤?」  
「お前は何かというとすぐ絶望するからな。それが少しでも和らぐようにと思って。  
海外から取り寄せた原料を独自にブレンドして作ったものだ。高揚感と多幸感を促進する作用がある。  
名付けて……絶望に効く微笑(クスリ)」  
「そんなマンガありましたね、掲載誌が大変なことになってるみたいですが……にしても、よくそんな手間のかかることを私なんかの為に」  
「なに、腐っても実の弟さ……実験も兼ねて」  
途中まで感心したように話を聞いていた望だが、最後の一言で驚愕した。  
「どこの世界に他人に無断で、殊に自分の弟で勝手に人体実験する医者がいますかっ!」  
「いや大丈夫。全部合法の品だ。まだどの成分も規制されていない」  
「それ世間では脱法ドラッグと呼びますから!! JR新宿駅東口あたりのオニイサンと同じ穴のむじなですから!!」  
そして望は例のポーズをとり、叫んだ。  
 
が。  
「絶望したっ! 実の弟に投薬実験をする兄に絶望……あれっ?」  
不思議と、全く絶望的な心境ではないことに気付き言葉が止まる。  
むしろ「弟のためにわざわざ薬を調合してくれた兄」という点が頭の中でどんどん大きくなる。  
「兄さん」  
命が顔を上げると、すぐそこに望の目があった。  
ものすごい勢いで命は後ろに下がるが、望はその倍のスピードで突進し、命の手首をつかんだ。  
ずいと、メガネと眼鏡が擦れるほどに身を乗り出す。  
藤吉晴美なら鼻血を出して卒倒しただろう。  
「ありがとうございます兄さん。こんな出来損ないの弟の為にここまでしてくれるなんて……」  
命の背筋は氷柱を落としこまれたかのように冷えた。  
一ヶ月分の量を一気に摂取したのである程度の覚悟はしていたが、まさかここまでになるとは思わなかった。  
きれいなジャイアンが気持ち悪かった理由が、身を持って体験できた。容姿がどうとかではなくて。  
いわゆる、普段の行いとのギャップというヤツ。  
「いいえ、命兄さんだけではありません!! この私、糸色望がこれまでどれほど皆さんのお世話になってきたことか!!」  
そう絶叫すると望は立ち上がった。解放された命は椅子からずり落ちて床にへたり込む。  
「歓喜した! 私の生の立役者である皆さんに歓喜した!!」  
ドアを破らんばかりの勢いで望は診察室から消えた。残された命は、うわ言のように呟く。  
「もしかして私は目覚めさせてしまったのか……?」  
眼鏡は耳の所で辛うじて引っ掛かっていた。  
「やんちゃだったころの、望を……」  
騒ぎを聞きつけ集まってきた看護師たちの中、命の目は閉じられた。  
コツコツ、コツと、時計は変わらずに動き続けている。  
一週目のはじめに戻った望が、或いは二週目ともいうべき望が、走り出した。  
 
「先生……いったい何処へ行ってしまわれたのかしら」  
不覚だった。それ以上に不運だった。  
手洗いにまといは望の元から離れたのだがその一瞬で、彼を見失ってしまった。  
普段からあっちにフラフラこっちにフラフラしている望のことだから、宿直室に居なかったこと自体は驚くに当たらなかった。  
そこにいた座敷童と挨拶代わりに視線をぶつけ合って、ドアを閉めた。  
しかしそこから一向に彼が見つからない。  
いつもなら望から大量の「負のオーラ」が周囲に展開し、それを頼りにまといは彼を探っているからだ。  
望の体に取り付けておいた盗聴器やGPSもなぜか機嫌を悪くして働かない。  
まといは不安げに辺りを見回す。なんとなく近くにいるような気がするけれど、特定の位置までは把握できない。  
電信柱の上、ビルの屋上、ポストの中を探してもいない。  
途方にくれて、十字路の真ん中で立ち尽くす。  
「先生、何処に居られるんですか……」  
四散した呟きは  
「ここに」  
背中に回り込んで殴りかかってきた。  
心の臓が跳びはねる。  
ばっと後を振り向く。おかっぱ髪がふわり。  
「せ、先生、いらっしゃったんですかっ?!」  
「ええ、ずっと」  
腕をくんで見下ろしてくる男は少女の求めていた、望本人に違いなかった。  
しかし望に関して誰よりも詳しい彼女は、普段の彼との差異に戸惑った。  
第一に、底抜けのポジティブさとオールマイティさ。  
まといの得意技である気配の消去も、完全にコピーしてのけた。  
「ああ、想い人のマネをしてみましたが中々気持ちの良いものですね。  
この近さは素晴らしい。クセにならなければ、よいのですが」  
「きゃっ、せ、先生っ!! こんなところで……て、おもいびとって、もしかして」  
望がうしろからまといを抱きすくめる。  
 
第二に、とにかく節操のないこと。  
好き勝手出来る脇役の立ち位置に多いそれを主人公がやってしまうと、どうなるか。  
「……」  
まといは顔も、着物からわずかにのぞく掌まで真っ赤にする。いつもは一方通行な愛が急に全力で返され、対応できないのだ。  
「常月さん」  
くちびるがまといの耳に触れるか触れないかの距離で、望が囁く。  
植物のように纏わる掌は少女のからだを捕らえたままだ。  
「はい……」  
シチューのように茹だったあたまで、返事をするまとい。呼気は少女の知る望の平熱よりも、少し高く感じられる。  
「今しばらく、私を見失っていましたね?」  
責めているのではないが、行動とは裏腹に冷淡な口調。  
「……はい」  
罪悪感すら、まといは覚えてしまう。やっともらえたこの腕も、体も、体温も、失うわけには――  
「私を捕まえてごらんなさい」  
右手が少女の髪の毛をとかし、ほぐし、乱す。  
左手が少女の着物の襟をなぞり、さすり、玩ぶ。  
「あなたは全力で私を探しなさい。今夜、月がのぼり切る前に辿り着けたら……」  
踊る様に右手が少女のおとがいを持ち上げ、目と目、唇と唇が「目と鼻の先」になる。  
縛る様に左手が少女の背中を締め付け、胸と胸、腰と腰が「肉薄」する。  
「あ……」  
目を限界まで見開いたまといは半ば恋に生きる本能で、顔を望へ近づけようとする。それを  
「では楽しみましょうね――まとい、さん」  
全ての緊縛を解き放ち、少しの力をこめて自分よりも小さな体を押し望は悠然と歩き去った。  
 
たった数秒で数千メートル、あるいは、見えない壁の向こうへ行ってしまったかのように思えた。  
交差点に残されたのは陸に上がってしばらく経った魚の様に、脱力した着物の少女。  
「先生……せんせい」  
だが魚は海に戻れば――己の領域に生きれば再び泳ぎだせるように  
「――先生」  
その少女もまた「庭」へと戻って、猟師と化した。  
相手が獲物なのか、自分が猟場に迷い込んだ小鹿なのか、それはまだわからないが。  
 
「くっ……!! ほんと、しつこいわねっ!!」  
千里は焦っていた。  
街中で工作活動の課外授業を行っていたところ、偶然某国のスパイを見つけた。  
彼女はこっそりと子供たちを放置して追跡し、人気のない路地に入った瞬間スコップ一閃、斬りかかった。  
しかし相手はそれをかわし、そこから仲間と思われるカーキ色の軍服を着た者たちが続々ビルから現れ、一斉に千里に襲いかかったのである。  
相手は訓練されたプロで、しかも複数。さしもの千里も決定打を与えることが出来ず、次第に追い詰められていった。  
そして  
「あっ!」  
スコップが弾き飛ばされ、ガランガランとビルの谷間に空しく転がる。拾いに行く間もなく千里は壁に押さえつけられた。  
男たちの生暖かい筋肉が、ぎょろぎょろ動く目が、吐息が、肌を犯す。  
彼らを血走った聴衆と見ればまるで新興宗教の奇怪な儀式のようだった。  
ただ千里は、執り行ったことはあっても、生贄になったことはない。  
「や、やめ……て」  
ニタニタと笑いながら男たちが千里の細い体に群がる。背中はコンクリートの固い外壁に擦りつけられてもがけばもがくほど痛い。  
しかし男たちのゴツゴツした手はそれ以上に不快だった。くびすじを、うでを、むねを、おなかを、こしを、ふとももを、這うなめくじ。全身が掘削機で削られているような錯覚に陥る。  
「か、はぁ……」  
無遠慮に体を蹂躙してくる指はもう本数を数え切れない。おとがいを跳ね上げ、荒い息を上げることしかできない少女は、普段の姿からは想像もできないほど「少女」でしかなかった。  
その絶体絶命の状況の中、少女の意識の端に浮かんだのは担任教師――大好きな先生のこと。助けてほしいという思いと、そんなことあるわけないという絶望が、反発し合う。  
「せんせえ……」  
望への嗚咽が虚空に渡り、悔しさに涙が滲み、歪んだ手がその服を破らんとしたまさにその時。  
ブゥン、と音がしたかと思うと目の前の男が突然千里から離れるように吹き飛んで、地面を苦しげにもがいた。  
その首には、どこか見覚えのある縄が蛇の様に巻きついて、筋肉質なそれを締め上げている。  
根元へと視線を送り、千里は、信じられないといった面持ちで叫んだ。  
「先生っ!」  
そこには片手を優雅にあごに這わせ、街の狭間からの逆光を背負った望がいた。  
遠くでよくは見えなかったけれど、いつもと、何かが違うことは、千里にもわかった。  
「小節さんの見よう見まねですが、なんとかなるものですね」  
 
そう低く呟くと、グンッ、と縄を持った手を引き、のたうつ男をさらに引きずった。  
元来首をくくるために用意されていたそれは頑丈さを遺憾なく発揮し、獲物の腕が電池の切れたロボットの様に落ちた。  
「待ちあわせに行く途中でしたがね……知っているような後ろ姿、追っかけてみて良かったですよ。あんまりお転婆がすぎると危ないですよ? 木津さん」  
目を大きく見開いた一同へ、実に軽い足取りで近づいてくる望。  
その声も軽薄極まりなかったが、眼鏡の奥では紅蓮の炎が揺らめいていた。千里を拘束していた男たちは登場した謎の人物の雰囲気に圧倒され、焦りながら向き直る。  
少女はぺたん、とその場に座り込んでことの成り行きをまるで観客の様に見守ることしかできなかった。  
「次は木津さんの見よう見まね、でやってみましょうか」  
そばに転がっていたスコップを拾い上げ、酷薄に男は笑った。  
「きっちり半殺し――いえ、この際きっちり、殺しておきますか? ヒトの女に手を出す輩は」  
どこか、夢の壁の奥でその声は響いた。  
 
「やれやれ、この程度ですか」  
五分もかからない内に工作員全員を叩き伏せ、つまらなさそうに望は吐き捨てた。  
うめき声の溢れる路地裏を、まるで廊下でも歩くかの様に近づいてくる望の、しかしいつもとは確実に違う姿に千里は怯んだ。  
でも手を伸ばせば届く距離にかがみ込んだ時に少女は気付いた。  
その得意げな顔に、後悔が浮かんでいることに。  
ポンと、手が黒髪にのせられる。  
「かっこよかったですか?」  
「……バカ、みたい」  
唇を噛んで、顔を下げる。望に見られないように。  
「――怖かった、ですか」  
こくり、と頭がさらに垂れた。  
その真ん中分けを、懐が包みこんだ。  
「すみません。でも、もう大丈夫ですよ」  
想い人の腕の中で千里は体を震わせ、その温かさに驚きの混じった幸福を思えていた。  
 
なんとか元気を取り戻した千里を望は表へと連れ出した。  
「しかし日本も物騒になったものですね。女性一人で夜も歩ける街――は過去の話ですか。白昼堂々これですもんね――まあ」  
千里の頭をコツンと叩いて、望はなるべくおかしそうに言った。それが千里を励まそうとしていることは、明白だったが。  
「危ないことに進んで首を突っ込む、あなたにも責任はありますけどね。おびえた顔も可愛かったから、珍しいものが見れたということで許しておきますけど」  
叱られたと思って口を開きかけた千里は、おでこまで真っ赤にして一瞬とまり、何とかこれだけ言った。  
「先生も、普段と違います」  
否定もしないで  
「ええ、だからこんなことも言えちゃいます」  
華奢な肢体を抱き寄せ髪の匂いをかぐように、男は囁いた。  
「今夜、慰めてあげますよ――婚約前の、きっちりしてない関係でよければ」  
千里は人目くらい、気にして欲しい、と思ったけれど、トロンとした表情で頷くしかなかった。  
髪を大好きな人にめちゃくちゃに乱されては、他にしようもないと。  
我ながらだらしのない答えだと、千里はぼんやり思った。  
 

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