春眠、暁を覚えず。
そんな言葉に真っ向から立ち向かうかのごとく、ここ数日まともに睡眠を取っていない青年が1人、とぼとぼと廊下を歩く。
「はぁ〜……」
髪もすっかり白くなり、目の下にはどす黒い隈を作った糸色望の口から大きなため息が漏れた。
うっかり眠って夢を見てしまえば、千里の差し出してくる夢日記から逃れるわけにもいかず。
そしてそれを書いてしまえば、後はそれを夢分析という名のおもちゃにされることは想像に難くなく。
結局元を断つ、つまり眠らないことでどうにかこうにか夢日記から逃れている毎日である。
「……しかし、これはさすがに……」
辛い。
疲労が抜けない一方、眠ってはいけないという緊張感と眠ってしまったらという不安感だけが増大していく日々。
最近は食欲もなんだかなくなってきたような気がするし、頭もじんじんと痛むような気がする。
考えたら、睡眠というのは人間の生活にかかせないサイクルなわけで、それをなくすというのはもちろん
健康にも宜しくないわけで。
「死んだらどーするっ!?」
「嫌だなぁ、それこそ夢見る心配もなく好きなだけ眠りたい放題じゃないですかぁ」
「あぁ、なるほど」
思考力の薄れた頭がうっかり納得しかけて――
「いやそれ違いますから!目覚められない眠りはいりませんから!」
慌てて突っ込む相手は、一体何時の間に現れたのか、目の前でにこにこと微笑む少女――風浦可符香。
「先生、だいぶお疲れですね」
「寝不足なんです」
いつもどおり明るく笑顔で話しかけてくる可符香に、仏頂面で答える望。そんな望を見上げて、可符香がニャマリと微笑む。
「そんな先生に、素敵なプレゼントがあります」
「はぁ」
風浦可符香。2のへ組きってのポジティブ娘。人を掌の上で転がすこと、心の隙間に入り込むことが誰より得意な少女。
そんな彼女が笑顔で渡そうという『ぷれぜんと』とやらに思わず一歩引いてしまうが、その隙間を埋めるようにすっと
可符香が一歩近付いて、
「はい」
と『ぷれぜんと』を手渡してくる。
「……何ですか、これは」
「あいぽっ「固有名詞は言わなくて結構ですからっ!いろいろと面倒になりますからっ!!」」
別にネズミの国じゃないんですから大丈夫ですよぉ、等とあっけらかんと言ってくる可符香を見て
手渡された『ぷれぜんと』を見て、再び視線を可符香に戻す。
「そうではなくて、どうしてこれが『素敵なプレゼント』なんですか?」
望が首を傾げながら尋ねると、可符香はぴっと人差し指を一本立てて、顔の前で振って見せた。
「睡眠学習ですよ、先生」
「睡眠学習?」
あーそんなものも一昔前に流行ったような流行らなかったような、雑誌の裏表紙に広告が載ったような載らなかったような。
ぼうっとした頭でそんなことを考えていると、可符香が今度は人差し指をこちらの顔に突きつけてくる。
「先生、夢日記を書きたくなくて眠らないんでしょう?だから、これを聞きながら眠って夢の中で勉強するんですよ。
そうすれば勉強した内容をそのまま日記に書けばいいんですから」
「なるほど!」
ぱあ、と望の表情が輝く。それを見てにっこりと笑う可符香。
「あ、先生用にもう中に現代文の朗読を入れておきましたから。これでぐっすり眠っても現代文の夢しか見ませんね」
「それはわざわざありがとうございます!貴女のおかげで久しぶりにちゃんとした睡眠がとれそうですよ!」
「嫌だなぁ、困った時はお互い様ですよ、先生」
笑顔で言うと、あ、とわざとらしく声をあげる。
「今日スーパーの特売日なんでした、もう帰らなきゃ」
「ええ、気をつけて帰ってくださいね」
ありがとうございました、と最後にもう一度頭を下げる。はーい、という軽い返事と共に少女がくるりと身を翻して駆け出し――
思い出したように振り返って手を振ってきた。
「せんせーい、お休みなさーい」
「はい……さようなら、風浦さん」
下校の挨拶にお休みなさいはないだろう、と苦笑しながら手を振り返す。えへへと笑って「さようならー」と言い直して
駆けて行く後姿を見ながら、可符香がくれた『プレゼント』をそっと握り直した。
「……ありがとうございます、風浦さん」
今夜は、ぐっすり眠っても大丈夫。
自分でも不思議な位に、心が軽くなっていた。
* * * * * * * *
「絶望したあぁぁぁぁーっ!!」
そう、あれほど心が軽くなっていたというのに。
可符香から貰った『ぷれぜんと』をつけて少女本人の声による朗読を聴きながら眠った結果、望は夢の中で全力で頭を抱えていた。
その抱えた頭からひょこんと覗く、黒い柔らかそうな三角形の耳。
体の後ろで現在の精神の不安定さを表すかのごとく、ぱったんぱったんと大きく揺れる尻尾。
――風浦可符香。2のへ組きってのポジティブ娘。人を掌の上で転がすこと、心の隙間に入り込むことが誰より得意な少女。
そんな彼女が用意した現代文は、よりにもよって――
「『吾輩は猫である』っていう時点でこういう夢になるぐらい、どうして気付かないんですか私は!
それにしても絶望した!中途半端に耳と尻尾だけくっつくご都合主義に絶望したあぁぁぁっ!!」
どうせならまるっと猫になってくれればいいものを、なんで半端に原型を残す。
なんでよりによって『吾輩は猫である』を選ぶ。同じ夏目漱石なら『こゝろ』とか『坊っちゃん』とか。
ああでも『こゝろ』はともかく、『坊っちゃん』は乱闘シーンがあったような。それに比べればマシかも知れない。
いやでも、それを言うなら『吾輩は猫である』の猫だって確か――
「でも、最終的に目が覚めて終わるんですからどれでも同じようなものじゃないですか?」
「そういう問題では――」
思考に割って入った落ち着いた声に反射的に反論しかけ、はっと振り返れば。
「特売だからって買い物し過ぎちゃいました。はい」
半分持ってくださいね、等と言いながら差し出されたスーパーのビニール袋を咄嗟に受け取ってしまってから、
呆然として呟く。
「……隣の、女子大生、さん?」
こちらの言葉に、一瞬きょとんとしてから吹き出す女子大生。
「嫌だ、もう、隣のだなんて」
何言ってるんですか、変ですよ、と口元に手を当ててくすくす笑う彼女の様子にうろたえる。何がなんだか分からない。
「あの、え?どうなってるんです、これ?」
「もう、本当にどうしちゃったんですか?」
助けを求めるような望の様子に、女子大生が苦笑しながら望の手をとった。驚きに尻尾の毛がぶわと逆立つ。
そのまま、そっと握られる。ひんやりとした柔らかい手。
「あなた、自分の飼い主のことも忘れちゃったんですか?」
ヤバイ。この夢ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
この夢ヤバイ。
しかし先程から必死に起きろ起きろと念じているのだが、久しぶりに入った睡眠からどうも抜け出せる気配がしない。
それがまたヤバイ。この夢ヤバイ。大事なことなので2回言ってしまうくらいヤバイ。
「起きろ起きろ目を覚ませ目を覚ませ……」
女子大生に手を引かれるまま連れてこられてしまった自宅――時代背景相応に古めかしい、糸色本家を思わせる家屋だった――の
一室でごんごんとちゃぶ台に頭を打ちつけながら呻くのだが、一向に効き目がないのである。
まぁ、考えてみれば夢の中でいくら頭を打とうが、眠気覚ましになるはずもない。
「ああもう、本当に……」
諦めてちゃぶ台にぐったりとうつ伏せて深々とため息をつく。へにゃりとしてしまう猫耳と尻尾の感覚に気持ちが
二段底に落ちていくのを自覚しながら、「ああもう」と繰り返した。
「絶望した……原作通りから外れていく展開の行く末に絶望した……っ!?」
突如走ったくすぐったいようなむずがゆいような感覚に飛び起きると、何時の間にかすぐ傍で
尻尾をこちょこちょとくすぐる女子大生の姿。
「ちょ、や、やめてくださいっ!!」
「あ、元気になりました?」
間近で顔を覗きこまれて耳がぴんと立った。どこか幼さの残る綺麗な顔が、心配そうに微笑む。
「何だか帰ってきてから元気がなかったんですもの。病気かと思ったんですけど違うみたいですね。良かった」
言葉の途中から小さな手がそっと伸ばされて望の頭を撫でる。時折掌が耳に触れてだいぶくすぐったい。
あわわと慌てながらも母親が子供を慈しむようなその仕草を振り払うわけにもいかず、
座り込んだまま大人しく撫でられながらこっそりと深呼吸をした。
(彼女からしてみたら、ただのペットを撫でているだけなんでしょうけどね……)
そう、彼女からしてみたら自分はただの飼い猫なわけで。
――そりゃあ姿格好は人間の男に耳と尻尾がついただけという、ある意味奇妙な(変態な、と言われても仕方ないかもしれない)
姿ではあるけれども、この夢の中の設定では自分はこの女子大生の飼い猫で、だからこそ彼女は自分の手を引いて
自宅まで連れて来てくれたり、自分のことを撫でてくれたり、こうやって自分を抱きしめて包んでくれるわけで――
――へ?
「どこか痛いのか、苦しいのかって、心配しました」
髪を撫でる手はそのままに、自分の背に回されたもう1つの小さな手。
額にそっと押し付けられる華奢な肩。柔らかな毛に包まれた耳に直接かかる吐息。
母親が子供を慈しむような、女が男を甘やかすような。
「お願いですから、あんまり心配させないでくださいね?」
優しく言い聞かせるように耳元で囁かれる声に、頭の芯がじぃんと痺れる。
ぱたん、ぱたんと自分の尻尾が畳を叩く音がした。
――いやいやいや!マジでヤバイですって!ちょっとこの夢はガイドラインとか抜きでマジでヤバイですって!!
「っじ、っじょっ、じょしっ、女子大生さんあのちょっとぉっ!」
「はい?」
必死でもがいてその腕の中から逃げ出せば、きょとんとした表情で小首を傾げられ。
「ああ、そうですよね」
にっこりと笑顔で納得される。
「お腹がすきましたよね。もうすぐ晩ご飯ですから、少しだけいい子にして待っていてくださいね」
そう言うと、状況についていけず硬直した望の頭を最後にもう一度ぽんぽんと撫でてさっさと立ち上がる女子大生。
鼻歌交じりで軽やかに部屋から出て行く後姿を見送って――彼女が完全に廊下の奥に消えてから、やっと体の力が抜ける。
「っはぁ〜……」
体中の酸素を全て吐き出してしまうようなため息をつくと、ばたりとそのままうつ伏せに倒れこんだ。
「何なんですか、これ……」
とりあえずどう考えても『吾輩は猫である』ではないと思う。夏目漱石に土下座でも何でもした方がいいと本気で思う。
何がどう話が捻じ曲がってこんな展開になってしまったのか、どこでどう間違ったのか――と考え始めた脳内に
不意に蘇った言葉は。
『フロイトの夢分析によると、大抵の夢が性的要求不満の現れとされているのよ』
「ち、違います断じて違います!そんな、私は別に、あの人のことをそんな目でなんてっ――!!」
見てない、と言えばもしかしたら嘘になるかも知れない。
しっかりしているようでどこか幻のような、まだ詳しいことは何一つ知らないのに
時折既視感にも似たものを感じさせるような、そんな人。
たまたま会った近所のスーパーから2人並んで帰る時。自宅の前でちょっとした立ち話をしている時。
ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離だと、抱きしめられる距離だと、そんな考えがふと浮かんだこともある。
そんな『触れたい』『抱きしめたい』という、胸に秘めた好意から生まれたほんの小さな願いだって
突き詰めて考えれば性的要求不満に繋げられるだろう。
ただ、別に自分はそこまで突き詰めて考えたことは決してなかったし、彼女への好意だって結局胸に秘めたままだったし。
――何より、こんな夢を自分は望んでいない。
自分だけの都合だけで出来上がる夢の中で彼女といくら近付いても、最後には目覚めが待つ以上、虚しいだけである。
と言うか、夢の中で自分は『お隣さん』どころか『ペット』なのだ。近付くどころか明らかに現実よりもランクダウン。
それでも夢を実際に見てしまっている以上、どんなに否定してもこれは深層心理で望んでいたこと――なのだろうか。
「……絶望した……自分自身の浅ましさに絶望した……情けなさに絶望したぁ……」
寝っ転がったままうじうじといじけていると、ぱたぱたと軽い足音が聞こえてきて慌てて上体を起こす。
どう女子大生と顔を合わせればいいのか分からないが、だからと言っていつまでもすんすんとしていたら
また撫でられたり抱きしめられたりされかねない。それは困る。非常に困る。
(と、とにかく出来るだけ普段どおりに、普段どおりに……)
心の中で繰り返して、1つ大きく深呼吸。丁度息を吐ききるのと同時に声がかけられた。
「お待たせしましたー。晩ご飯ですよ」
「ああ、ありが――」
立ち上がりかけた体が、ひょこりと覗いた顔を見て固まる。
「……風浦さん?」
ある意味今の状況を作り上げた張本人とも言える少女が、いつもの制服の上にエプロンをつけて立っていた。
「え?貴女、何をしてるんです?あ、あの、ひょっとしてお知り合いだったんですか?」
僅かに首を傾げて少女がちょこちょことこちらに寄ってくると、いつもの笑顔で――ひょいと望の手をとった。
「先生、何の話をしてるんですか?」
「え?何のって、いえ、そもそも貴女はどうしてここに……」
「嫌だなぁ」
可符香の手が、そのまま望の手を握る。
「私はここで先生と暮らしてる、先生の飼い主さんじゃないですかぁ」
ひんやりとした、柔らかい手だった。