とたとたとた、とせわしない足音がアトリエの中に響き渡る。
それを背中に聞きながら、糸色景はキャンバスの上に無心に筆を走らせ続ける。
「これはこっち、それからこれはあっちの戸棚へ……最後に、これはどうしようかしら?………う〜ん、景先生!!」
「ん…?ああ、千里の好きにやってくれ」
景の絵のモデルを引き受けた事がきっかけになって、千里はアトリエ景を何度となく訪れるようになった。
特に用事があるというわけではないが、アトリエに無造作に置かれた景の作品を見たり、
景と他愛も無い会話をするのが千里の日常の一部になろうとしていた。
今日は決してキレイとは言えない景のアトリエを掃除しようと、千里はやってきたのだがこれがなかなか進まない。
実はこれまでも何度か挑戦してきたのだが、千里が景の家の掃除を終える事が出来た例は一度もない。
どうして、そんな事になってしまうかというと………
「こ、この黒いのはどうすれば……?」
「おお、それをずっと探してたんだ!ありがとう、千里!」
正体不明のナマコのような黒い物体を景に手渡しながら、千里はため息をつく。
これまで、大掃除の度に他人の家を掃除して、ついでに必要ないと判断したものは容赦なく捨ててきた千里だったが、
正直、このアトリエ景では、今までとは少し勝手が違うようだ。
千里が必要不必要を判断しようにも、正体すら不明な物品がそこかしこに隠れているのだ。
一抱えもある異常に巨大な巻貝の貝殻、
どの角度から見ても目が合ってしまうどこかの部族の儀式用の仮面、
黒く、しかし透き通った石を磨いて作られた23の面を持つ多面体、
解読不能の文字列の並ぶ羊皮紙に書かれた古い本、
ぐにゃぐにゃと曲がった奇怪な金属パイプが絡まりあった謎の物体は、景曰く時代の最先端をいく楽器なのだとか。
さっきの『なんか黒いの』にしたって同様である。
あんなもの、ゴミに出すとしても、燃えるゴミなのか燃えないゴミなのか、それともまさか資源化ゴミだとでもいうのか、
きっちりハッキリ決断を下す千里でさえ迷うようなものばかりなのだ。
そんなわけで、千里は幾度かアトリエ景の掃除に挑戦しようとして、あえなく挫折を強いられてきた。
だが、それでも千里は今日、再びアトリエ景の大掃除に挑んでいる。
胸に抱くは不退転の決意。
次々と出てくる不可思議な物品を前にして戸惑いながらも、千里はそれが現在の景に必要かどうか判断をくだし、部屋の中を片付けていく。
「さてと……画材とか、絵の道具は基本的には必要なものだけど、もう使えないものもあるだろうから、まずはそこを整理しようかしら」
景の仕事道具、様々な画材やら、いくつものイーゼルが立てかけられた区域にまで千里の掃除は進んでいた。
絵画道具についてはほとんど知らないが、ほとんど崩壊寸前で修理のしようもないイーゼルや、完全に毛の抜けてしまった筆、
完全に使い切った絵の具のチューブや、空っぽのテレビン油の壜なんかは捨てても問題ないはずだ。
だが、そうやって道具の山を崩して整理している内に、千里はまたもやとんでもないモノにでくわす羽目になる。
「ええっ!!?」
埃だらけの巨大なキャンバスをどけた向こうから、じろり、二つ並んだ目が千里の姿を睨みつけていた。
今回の品は正体不明というわけではない。
それは、千里も歴史の教科書なんかではお馴染みのものだった。
「け、け、け、景先生!?…こ、こ、こ、こ、これぇええっ!!?」
「ん?どうした、千里?…お………おお、ソイツは…懐かしいなぁ……」
「なんでこんな物がここにあるんですか!?」
「なんでって……掘ったら出てきたんだよ」
見間違うはずが無い。
皇帝の永遠の眠りを守るため、地下の空間に整然と並ぶその姿を知らない人間はいないだろう。
「これ、兵馬俑じゃないですかっ!!!」
千里が叫ぶのも無理はなかった。
秦の始皇帝陵の一部である兵馬俑抗、そこに収められている等身大の兵士人形が、この部屋の隅っこに当然の如く突っ立っているのである。
千里の手の平がそっと兵馬俑に触れる。
何事にも完璧主義の千里は当然の如く、本物の兵馬俑の特徴についても知っている。
身につけた鎧や兜の形状、ちょっとやそっとでは壊れないほど硬く焼き上げられた土の手触り。
悠久の年月の経過を表すように、退色してしまった塗装の色合い。
どう見たって本物である。
仮に複製だとしても、相当なレベルのものである事は間違いない。
「………どこで掘ったんですか?」
「一度、風景画を描きに中国を旅行した事があってな……で、どっかの町の近くで見つけたんだが……」
「もしかして、その町って、西安市の事じゃありませんか?」
「おお、それだっ!!その西安の近くの農家の裏山を描いてた時の事なんだよ………」
景によると、大体このような事と次第であったという。
突然、ふらりと姿を現した長身長髪無精ひげの怪しい男。
ろくろく中国語も扱えないが、やたらと陽気で人懐っこい彼に、最初は警戒していた地元の住民もだんだんと打ち解けていった。
その男、糸色景は自分は日本の画家であると言い、近くにどこか絵を描くのに良い場所はないかと住民に尋ねた。
『なるほどなるほど、糸と色と景、繋げると絶景というわけか。面白い名前だな』
『あはは、そうかい?ところで、件の絵を描く場所の事なんだけど……』
『ああ、それならアンタの名前に相応しい、とっておきの場所があるよ!!』
カタコトの中国語と筆談、後は身振り手振りに表情だけで自分の意図を伝えた景は、地元住民の男にある場所を紹介された。
『ウチの畑の裏から見える山は、ちょうど今頃花盛りでね。きっと気に入ると思うよ』
男の言葉に喜んだ景は、男に連れられて彼の畑にまでやってきた。
斜面に作られた畑を登りきって、その向こうに見えた風景は、まさに絶景と呼ぶに相応しいものだった。
山そのものを埋め尽くしてしまいそうな満開の花、舞い散る白い花びらのせいで辺りの風景が白く霞んでいた。
『コイツは凄いな……これならいい作品が描けそうだ!』
『へへへ、だろう?この山はここらの住人の自慢だよ』
景はスケッチブックを開いて、凄まじい勢いでこの風景を紙の上に描き写し始めた。
日が暮れるまで描き続け、満足のいく量のスケッチを描き終えた景はその後、
この場所を紹介してくれた男を初めとした地元の住民達と酒場で飲む事になったのだが……
『なるほど、画家先生ってのは伊達じゃないなぁ。アンタ、大した絵描きだよ!!』
景の描いたスケッチを見た住民達は、口々に彼を褒め称えた。
画家としての景の作風は不可解で自己完結しまくりのものだが、基礎的な画力については右に出るものがいないのだ。
住民達の賛辞にさすがの景も照れくさくなってきた頃、例の場所を景に紹介した男が質問してきた。
『ところでよ、先生……ここの所なんだが……』
『ん?そこがどうかしたのか?』
『いや、ここの所に何だかたくさん人がいるみたいに描いてあるけれど、あそこに人なんていたかい?』
男が指差したのは花盛りの山の麓の一角である。
そこには男の言う通り何十人もの男や馬が描かれている。
『ん、まあ、いなかったと言われればそうだけど、でも、いるような気がしたんだよな?』
『ますます、わからねえなぁ』
『勘、インスピレーション、そういうもんかな……いるような気がしたから描いてみた。それ以上は、俺もよくわからんよ』
男は納得のいかない顔だったが、とりあえずその場では話はそこまでで終わった。
だが、景が滞在している間に、絵に描かれた謎の集団が事が気になった男は住民達の同意を得て、その場所を調べる事にした。
特に目立つ建物や、木や岩などの自然物もないその場所を、住民達はとりあえず掘り返してみる事にした。
すると、いくらか掘り進んだところで穴の底が、がらんどうの空間にぶち当たった。
そして、そこから見つかったのは………
『こ、こ、こ、こ、こりゃあ!!!!?』
発見されたのは件の兵士人形をはじめとした数百体に及ぶ鎧姿の人形達。
その日の内に地元近くの大学の考古学者達も押しかけ、辺りはとんでもない大騒ぎになってしまった。
「で……?」
「『で……?』って、なんだ千里?コイツを見つけたときの状況はこれでわかっただろ?」
「どう考えても貴重な文化財じゃないですか!!どうしてコレが景先生の手元にあるんですか!!?」
「あはは、いやぁ、たくさんあるからって、お礼に一つくれたんだ」
深々とため息を吐いて、千里は頭を抱え込む。
どうしてこの人が関わると、こんな非常識な事態になってしまうのだろう。
大体、こんな文化財、税関を通るわけがないのだが……
「あの時は帰りの飛行機のチケットが急に二人分必要になったから、随分と苦労したなぁ……」
「……って、乗客として飛行機に乗せたんですか!?」
どうやら空港のゲートでは荷物として、機内では乗客として扱ったらしい。
ルパンも真っ青の大胆犯行である。
あまりに突拍子も無い話を聞かされて、すっかり疲れた千里がその場に座り込むと、
景が千里によって既に整理されていた様々な物品に手を伸ばして、懐かしむような眼差しで眺め始めた。
どうやら、兵馬俑くんとの再会が景のノスタルジックな感情を刺激してしまったらしい。
「おお、これも懐かしいなぁ……」
黒くて透き通った23面体を窓から差し込む日の光にかざして、景はうっとりと呟く。
「千里、コイツはな、アメリカの廃教会でオバケと対決して手に入れたんだぞ」
疲れきった千里は、キラキラと瞳を輝かせながら想い出語りを始めた景の横顔にそっと視線を向ける。
無邪気なその笑顔に、いつの間にか千里の表情もほころびはじめていた。
「じゃあ、コッチの本はどうなんですか?」
「ああ、これは挿絵を見て面白そうだから買ったんだが、見ての通り何語で書いてあるかもわからなくてなぁ……」
「それなら、まといちゃんの持ってる暗号解読器で読めるかもしれませんよ。今度お願いしておきましょうか?」
廃教会でのオバケとの対決の話や、解読不能の本を手に入れた霧に覆われたどこまで行っても古書店しかない町の話、
異常に巨大な貝殻ばかりを扱う露天商の話(3メートルはあろうかという巨大な二枚貝の貝殻も売っていたが値段も高額で景には手が出せなかったそうだ)
究極の金管楽器を開発しようとして夢半ばで死を迎えた楽器職人の息子から、試作品の一つを譲り受けた時の話、
そんな様々な思い出話を、景は千里に向かって実に楽しそうに話して聞かせた。
めくるめく夢のようなその話と、なんとも愉快そうな景の顔を見ているだけで、千里の心は満たされていくようだった。
「……あっ!?…もしかして、また掃除の邪魔をしちゃったか?」
「はい。景先生のお話のお陰で、あれからかれこれ3時間も経ってしまいました」
「そうか……せっかく頑張ってくれていたのに、悪かったな、千里……」
千里の言葉にションボリと肩を落とす景。
だけど、千里はそんな景ににっこりと笑いかけて……
「でも、とても楽しかったです。景先生のお話に夢中になって掃除を放り出したのは私ですから、ほら、そんな顔をしないで……」
見つめる先の景の顔に、もう一度笑顔が戻る。
それを見る千里の心に湧き上がるのは、何とも言えない満足感と愛おしさ。
今日も結局、掃除を終える事が出来なかったというのに、千里の顔に浮かぶのは笑顔ばかりで………。
「ほんと、景先生には参っちゃうわね」
再び思い出話に花を咲かせ始めた景を横目に見ながら、優しげに、千里はそう呟いたのだった。