2のへの担任教師である糸色望の兄、糸色景。
強烈すぎるほどの独自の世界観を持った作風で知られる画家、その作風と同じく人の話をほとんど聞いていない自己完結性の強いパーソナリティ。
良く言えば個性的、悪く言えば変人。
そんな彼と2のへの生徒である木津千里が深い関わりを持つようになったのは、学校の体育祭で起こったある出来事がきっかけだった。
「取ってくれと言わんばかりの揚げ足!間違っているぞ!間違っているぞ!その方法は間違っているぞおおお!!!」
体育祭の応援のチアリーディングでクラスの他の女子達の足の揚げ具合が足りないと考えた千里が、
その解決方法として土砂加持法と呼ばれる密教の秘法を使おうと言い出した時の事である。
周囲の人間に密教の知識などある筈もなく、千里の行動は彼女一人の暴走、誰一人取る事の出来ない揚げ足となる筈だった。
しかし、そんな千里に反論して、体育祭の会場のど真ん中に乱入して高々と揚がった千里の足を取ったのが、件の糸色景だったのである。
「わ、私の方法が間違ってる?どういう事ですか!?」
「いいか良く聞け!!土砂加持法というのはそもそも……っ!!!」
誰もついて行けない超高高度の論戦。
「わかりました。土砂加持法については私の完全な間違いみたいです」
「そうか、わかってくれたか!」
「でも、納得できない点が少しだけあります。そこをきっちりさせないと!!!」
自分の最初の発言については退いたものの、今度は千里が別の疑問を景にぶつける。
「フツーにタイホされるレベルだよね」
という、あびるのツッコミは的確だったが、もはや誰もそれを実行しようとはしなかった。
ただ、体育祭会場のど真ん中でぶっちぎりで二人だけの世界に突入した景と千里を、周囲の人間は呆然と見ている事しかできなかった。
その後も二人は合間を縫って論を戦わせ続けたが、結局、最終的な決着の着かないまま体育祭の終わりの時間がやって来た。
「はははははっ!!いや〜、こういう行事に参加するのもなかなか楽しいもんだなぁ」
「そうですね………まあ、もう少し自重してもらえると、こちらとしてももっと嬉しかったんですが……」
千里と舌戦を戦わせ、運動会の競技の応援に熱を上げて、今日一日を楽しみ尽くした様子の景に望は苦笑する。
既に閉会式は終わり、保護者達は帰宅を始めているが、生徒達と教師は後片付けをしなければならない。
弟の見送る前で、ふらりと学校を立ち去ろうとした彼を鋭い声が呼び止める。
「景先生っ!!」
テントの片付けの手を止めて、こちらに駆けてきた少女。
「む?千里か……?」
景は、議論が白熱する内にいつの間にやら下の名前で呼び合うほどに打ち解けてしまった、彼女の名前を呼んだ。
千里は景の間近にまでやって来ると、景の顔をキッと睨みつけてこう言った。
「帰るんですか?まだ、私との話にきっちり白黒ついていないでしょう?」
密教の秘法にはじまった景と千里の諸々の言い争いには、未だに決着が着いていない。
千里はそれが不満でならないのだ。
何事もきっちりと、中途半端や曖昧を嫌う彼女にはそれは許しがたい事である。
だが、景はそんな千里の顔を見て一瞬きょとんとした表情を浮かべたかと思うと
「ああ、あの手の事をあれだけ話せたのは久しぶりだったから、少々残念ではあるな」
そう言って、にっこりと満面の笑顔で応えた。
「えっ…あっ……ちょ…待ってくださ……」
「それじゃあ、またな!!」
そして、そんな笑顔にたじろぐ千里を取り残して、景は足取りも軽く学校を後にした。
残された千里は恨めしさと戸惑いとが半分ずつ混ざったような複雑な表情で景の出て行った校門を睨んでいる。
何事もきっちりと、それは千里にとって何事においても優先すべき基準である。
こんな風に勝負のつかないまま終わるのは、千里にとっては許し難い事だ。
加えて、千里との論戦に景自身もかなり熱中していた筈なのだ。
向こうも完全決着を望むのが必然であると考えていた千里には、景がひとかけらの未練も残さずに立ち去った事が納得できない。
「すみませんね、木津さん」
「先生……」
「かなり話に熱が入っていたみたいですけど、景兄さんはああいう人なもので……また遊びに来た時にでも相手をしてあげてください」
ぺこり、千里に向かって謝る望の顔には、すまなそうな表情と一緒に
自由人そのものといった感じの景への肉親としての愛情が滲んでいるようで、千里にはそれがまた気に食わなかった。
波間に揺れるくらげか、風に舞う風船か、ふわりふらりととらえどころのない長髪の変人画家。
性格を比べてみれば、千里とは正反対の人種だ。
(まったく、なんでもっときっちりできないかな?)
だからこそ、ふくれっ面の千里の頭の中に、その日の景の姿は余計にはっきりと刻み付けられた。
それが、千里が景に対する強い興味を抱く最初のきっかけとなったのだった。
ふらりふらりと、夜空に浮かぶ月を眺めながら、景は自分のアトリエまでの道を歩いていた。
「今日は楽しかったな……」
一人、呟く。
高校を卒業してもう10年以上の歳月が経つが、それでも青春の一時を過ごしたあの空間のにおいを体が覚えているらしい。
ほんの思いつきで訪ねてみたのだが、思いがけず楽しい時間を過ごす事が出来た。
別に若者のいる場所なんかに行かなくても、いつも元気で好き勝手にやっていると言われると、まあ言い返しようもないのだが、
それでも、景はあの場所が、あの空気がたまらなく好きなのだ。
「それから、あの娘も………」
景は、体育祭が終わるまで自分と密教を初めとした諸々のオカルトチックな話題で言い合った、あの少女の事を思い出していた。
『まだ、私との話にきっちり白黒ついていないでしょう?』
耳の奥に、あのいかにも強気で生真面目そうな声がしっかりと残っている。
「まっすぐな娘だな……」
常に飄々と構えて、自分のペースを全く崩さない景が、あの少女の勢いに少しばかりたじろいだ。
どこまでも真っ直ぐに、前だけを見つめる瞳。
若さゆえ、なんて言葉で簡単に片付ける事はできない。
まっすぐに、どこまでもまっすぐに進んで、立ち止まる事を知らないその心。
それが、景にはたまらなく心地良かったのだ。
きっと彼女はこれまでも、ただ一直線に前へと進むその気性故に、色んな事にぶつかって、時に傷つきもしたのだろう。
その性格はたやすく頑なさに結びついて、正直彼女を苦手に思う人間も少なくあるまい。
それでも木津千里は自分の生き方を変える事をしなかった。
立ち塞がる壁を叩き壊し、流れる川を一息に飛び越え、彼女は自分自身を貫いてきた。
今日一日ばかり話し込んだだけで、容易に見えてくるほどストレートな彼女のパーソナリティー。
それが景にはたまらなく眩しかった。
「さて、出来れば今日のこの感触を早くキャンバスに叩き付けたい所なんだが……」
いつの間にやらアトリエに辿りついていた景は入り口の扉をくぐって中に入る。
「ただいま、由香……」
景の妻である由香は、いつもと変わらず壁の隅に佇んでいた。
一時期はシュレディンガーの嫁との結婚を考えたりもしたが、正体不明の箱の中の怪物はいつの間にやら景のアトリエから姿を消し、
一方の由香はそれまでの騒ぎが嘘のように、以前と同じく景の部屋にいてくれた。
景と由香は元の鞘に納まった。
弟達は、『そりゃあ、壁のしみなんですから、いなくならないのは当然でしょう』と言う。
その理屈もわからないでもない。
確かに由香はアトリエ景の一角に残された壁のシミ、これも一つの現実だ。
だが、景からすれば、由香が気立ての良い妻であるというのも、また一つの事実なのだ。
この隙間風が少し気になるオンボロアトリエをわざわざ選んだのは、ひとえに彼女の存在故だ。
アトリエの下見にやって来た景は、部屋の壁に楚々として佇む彼女に心奪われた。
運命的な出会いだったと、今も思っている。
「今日は一日中留守にして、寂しい思いをさせただろう?」
由香の傍らに、景はゆっくりと腰を下ろす。
「ん、そんなに楽しそうな顔をしてるか?…うん、いや、実は学校でな……」
一人ぼっちの夫婦の語らい。
これを他人が見たらどう思うかなど、景はとっくに理解している。
だけど、景にとってはやっぱり、由香はここにいて、静かに微笑んでくれている。
ならば、それ以上、何が必要だというのだろう?
「ああ、いい刺激になったよ。また、色々な着想が湧いてきた………ん、どうした?やっぱり心配なのか?」
そこで景は苦笑して、イーゼルに立てかけられた製作中の絵に視線を向ける。
真っ白の、まだ一本の線も引かれていないキャンバス。
構想はいくらでもある。
周囲には具体的なイメージを殴り描いたスケッチブックが乱雑に散らばっている。
だけど、描けないのだ。
既に頭の中に確固とした絵のかたちを思い描けているのに、それを形にする事ができない。
欠けているのだ。
景の絵を、景の絵たらしめる何かが、絶望的なほどに欠乏しているのだ。
だから、今の景には圧倒的な空白を前にして、せいぜい苦笑いしてみせるのが精一杯なのだ。
「まあ、何とかなるさ……」
つぶやいて、床の上にゴロリと横になる。
これで都合3ヶ月、現代絵画の鬼才、糸色景のスランプは続いていた。
「納得がいか……」
「ぬ!」
「こら!晴美、最後の一文字だけ取るな!!」
「えへへ、ごめんごめん」
体育祭が終わり、くたくたになった千里と晴美は二人仲良く家路へと向かっていた。
学校からここまでの道のりずっと、景の事が引っかかっているのか不機嫌そうな千里の様子を横目で見て、晴美は苦笑して語りかける。
「まあ、確かにあそこまで熱の入った話を途中で切られたら、私だってちょっと未練が残っちゃうなぁ」
「そうなのよ!なのにあの人、へらへら笑って平気で帰っちゃうんだから!!」
答える千里の鼻息は当然の如く荒い。
思い返してみれば、最初に景の存在を知った美術館での展示といい、糸色コードと呼ばれる暗号の正体が家伝のおはぎの作り方だった事といい、
糸色景にまつわる全ては出鱈目の滅茶苦茶、千里には理解しがたい人物像である。
「でも、まあ……例のオカルト絡みの話の決着を着けるのは、たぶん無理だったと思うけどね」
「えっ、どういうこと?」
「つまり……ううん、例えばここにマッチとライターがあるとして、焚き木に火をつけるのに、どっちを使った方が正しい?」
「どっちが、って………。」
マッチとライター、共に火を起こすためには十分な道具である。
そのどちらかが火をつける正しい道具であると言うことはできない。
無論、『もしも空気が湿っている時は』といった前提条件が設定されれば事情は変わってくる。
だが、一般的には二つの道具の間に正しい、正しくないといった別は存在しない。
「二人が言い争ってた密教の秘法も、用は方法の話だからね。あの場合に最適な方法を選ぶっていうのが正解、
なんだろうけど、それだって立場や考え方によって何をベストと考えるかは変わっちゃうしね」
「そっか………」
きっちりさせたい、白黒をつけたい、そう千里が強く願っても、世の中の大半のものはそう簡単に結論を出させてくれない。
それでも千里はいつだってきっちりした結論を求めて、ごり押しの、力押しをしてしまう。
結局、それは自分だけのこだわりで、それが無くても誰も困りはしない、そう理解はしている筈なのに……。
だが、暗く沈みかけていた千里の思考を、晴美の次の言葉が断ち切る。
「でもさ、私にはぜんぜん判らない話だったけれど、千里も景先生もずいぶん楽しそうに話してたよね」
「えっ?」
「私も混ざりたいなって、ちょっと羨ましくなったぐらい……まあ、あっち系の知識が無いから無理なんだけど」
もう一度、千里は今日の景との会話を思い出す。
どんな些細な疑問も徹底的に追及して、納得がいくまで語り尽くそうとしていたあの時間は、千里にとってある意味充実したものだった。
そういえば、目の前で延々としゃべり続けていた景の顔にも、本当に楽しそうな表情が浮かんでいたように思う。
「こんな事言うと千里は怒るかもしれないけど………もしかしたら、結論とか、白黒をつけるとか、それ自体は別に重要じゃないのかもしれないね」
「……どういう事?」
「結論がきっちり出るとか出ないとかそんなのは関係なくて、結論を見つけようとする、そこに向かってどこまでも走っていくエネルギーみたいのが、
千里の中にはあるんじゃないかな……そういう千里が相手だから、今日の景先生との議論だってあんなに白熱したんじゃないかな?」
それから、ふっと千里の顔に視線を向けてきた晴美、その顔に浮かんでいたのは
まるで自分には手の届かない遠い場所に憧れるような、そんな表情だった。
「そりゃあ、もうちょっと時と場合を考えて欲しいなって思うときもあるし、周りの事も気にして欲しいって思う事もあるけど、
私は千里のそういう所、結構、すごいなって思ってる………」
いつになく真面目な様子で語る晴美の言葉で、普段なら迷惑がられるだけの自分の完璧主義をそんな風に褒められて、
千里はなんだかこそばゆいような、何とも落ち着かない気分になってしまう。
自分でもときどき嫌気がさしてしまうこの性格、一度などはそこから脱出してドジッ娘を目指そうと暴走した事もある。
正直、そんな自分の事を、こんな風に言ってもらえるなんて思ってもみなかった。
「あ……ありがとう……」
ぽそり、小さな声でそれだけ返すのが精一杯の千里に、晴美はにっこりと肯いて見せた。
翌日のアトリエ景、今日もここの主は真っ白なキャンバスの前でまんじりともしない時間を過ごしていた。
創作意欲・体力は十分、頭に浮かぶ構想は数限りない。
だが、いざ絵筆を持ってみると、それらを絵としてこのキャンバスに繋ぎとめる事が出来るような気がしないのだ。
「ほんと、参ったな……」
途方に暮れた景は、ごろり、床の上に寝転がる。
スランプに陥った事に対する焦りや苛立ちは、景の中には全くなかった。
描けなくなったらそれはその時、手先の器用さには自信があるし、以外に顔も広いので自分が食っていくぐらいの収入を得る事は出来るだろう。
これまでの仕事で得た貯えはそれほど額の大きなものではないが、それをアテにしてフラリと旅に出てしまうのもいいかもしれない。
むしろ、景を悩ませるのは、絵を描けなくなった彼に対する周囲の態度である。
ある者はえらく心配するだろうし、ある者はひどく怒るかもしれない。
景自身は今度のスランプに対して、とりたてて感想があるわけでもないのに、それを周囲に伝えたらきっと大変な騒ぎになってしまう。
仕事上、景が描いてくれなければ困るという人間ならともかく、それ以外はそう目くじらを立てなくても良いと思うのだけれど……
「ズレてるんだな……」
ずっと昔から、景は、周囲の人間の感覚と自身のそれとの間に、恐ろしいほどのズレ、ある種の断絶を感じていた。
多分、まわりの人間と自分とでは、見えている世界が違うのだろう。
そういった事をまだ小学生にもならない頃から感じ続けていた彼の精神は、ある面で非常に早熟だった。
自分と他人の考え方や感覚の違いを意識しながら生きていく事で、景は諸々の人間関係を非常に客観的に見ることが出来るようになった。
ただし、それは景に自分がどれほど異質な人間であるかを常に意識させ、
いわゆる『ふつう』の世界とのどうしようもない距離を強く感じさせる結果にもなったのだけれど……。
年を重ねるごとに強くなっていく孤独感。
それを救ってくれたのは、他ならぬ糸色家の兄弟達だった。
無論、彼らとて景の感覚は理解できない、向こう側の住人である。
だが、彼らはいつも、景が自分たちとは違う世界を見ている事を薄々と理解しながら、ずっと景に寄り添ってくれた。
見えている世界は違えども、自分は孤独ではないのだと、景に教えてくれた。
それこそが、ともすれば彼岸の彼方に流されていきかねない景を、この世界に繋ぎとめてくれたものだった。
しかし、どうした事だろうか。
最近の景は、以前にも増して『ふつう』の世界との距離を感じるようになっていた。
画家が絵を描けなくなれば、それは致命的だろう。
そういう『ふつう』の考えも理解はできる。
でも、だからこそ、現状に対して何の危機感も抱いていない自分と、世界の間の距離がさらに広がってしまったように思えるのだ。
「さて、どうしようかね……」
このまま、何もせずキャンバスの前で無駄に時間を過ごすような趣味はない。
昨日の体育祭のように、またどこか適当な場所や友人知人を訪ねてみるべきか。
「命の奴もどうせ暇を持て余してるだろうし、まずはその辺から当たってみるか」
そう言って、景が立ち上がった、その時である。
「ごめんください」
よく通る声が、玄関前から景のいるアトリエの一室まで届いてきた。
しかも、この声は………
「もしかして……いや、まさかな……」
玄関まで、景は小走りでかけていく。
扉を開けて、そこで目にしたのは、景の予想と違わぬ、あの少女の姿だった。
「おお、千里じゃないか!どうした、今日は学校じゃないのか?」
「今日は体育祭の代休です。それよりも……!!」
驚き半分、喜び半分、そんな表情の景に向かって、千里はビッと指を立てて
「昨日の続き……今日こそ決着をつけさせてもらいますっ!!!!」
そう高らかに宣言したのだった。
思いがけない来客を迎えて、きっちりと昨日の続きから議論は始まった。
「ですから、ナアカル碑文の記述を鵜呑みにするから話がややこしくなるんですっ!!」
「しかし、竹内文書を偽書と考えるなら、そう考えないと辻褄が合わないぞ」
ぶつかり合う言葉と言葉。
時間を忘れて語り合い続けて、気が付けば、朝の9時から話し始めてもう4時間、とっくに正午を過ぎている。
「腹がすかないか?簡単なものだったら、すぐに用意できるんだが…」
「あ、いえ、私が勝手に押しかけたんですから、そんなに気を遣ってもらわなくても……」
「いいんだ。客に何も出さないってのも、このアトリエの主としては情けないからな。
すぐ出来るから、その間にその辺に転がっている絵でも見ててくれ」
そう言って、景は立ち上がり、台所に向かっていった。
千里はせめて自分も手伝おうと、台所を覗いてみるが、一人暮らしのアトリエの台所は狭く、手伝いに行っても却って邪魔になりそうだ。
仕方なく部屋に戻った千里は、部屋中に無造作に散らばっている絵の数々に手を伸ばす。
公園の片隅のベンチに佇む、身長3メートルはあろうかという巨大な老婆の姿。
空に浮かんだ沈没船を、何本もの鎖でビル街の上空に係留している様子。
椅子のかわりにバスや大型トラックに使われる大きなタイヤに座ってお茶会を楽しむ貴婦人達。
満天の星空に煌々と輝く太陽。
銀河の果てまで伸びる梯子。
蓮の花の浮かぶ透き通った池の水底で静かに回転を続けている太陽系。
黒一色で塗りたくられたキャンバスに、それよりもさらに濃い黒で描かれた星のマーク。
乱雑に描かれた無数の縦線は、以前美術館で目にした東京タワーの描かれた絵に似ていた。
ただし、こちらの絵の縦線の数は以前見たものとは段違いで、まるで地平線の果てを越えてもまだ続いていく無数の高層ビル群に見えた。
どれをとっても、一見しただけでは何を表現したのか理解できないような、独特の世界が広がっていた。
いつもなら、これは一体どういうつもりで描いたのか、きっちり説明しろと言い出しそうなものなのに、
今の千里は無言のまま、夢中になって次から次へと絵を見つけては、それに見入る。
それから、どれぐらいの数の絵を見ただろうか?
不意に千里はそれに気が付いた。
「あれ……?…真っ白だ……」
イーゼルに立てかけられた真新しいキャンバス。
それは、景の内面世界を表現したとも言える無数の絵に囲まれたこの部屋の真ん中で、凍りついたような純白を保っていた。
「製作途中……なのかしら?」
キャンバスの周囲に散らばったスケッチは、どうやら作品の構想を練る為に描かれたものらしい。
千里はそれを一枚一枚手にとって、見比べてみる。
スケッチに描かれた絵は様々で、確かに何を描くべきか未だに迷っている様子が垣間見えた。
無数の下書きは、形を持ってこの世界に生まれ出てくる為の出口を探している、まだ肉体を持たない魂のように千里には感じられた。
そのまま、しばし呆然と千里はキャンバスを見つめていたのだが……
「おう、昼飯出来たぞっ!!…って、ん、どうした?」
あり合わせの材料で作った焼そばを両手に持ってやって来た景は、真っ白なキャンバスを一心に見つめる千里の様子に気付いた。
「製作途中の…絵なんですか?」
「ああ、まだ何をどう描いていいか決めかねていてな……別に急ぐ仕事ではないんだが……」
千里の質問に答えた景の言葉は、微妙に歯切れが悪いように感じられた。
らしくもない彼の様子に、千里は景の顔をじっと見つめる。
すると、景が急に何かを思いついたようにポンッ!と手をたたいて、こんな事を言った。
「そうだ、千里、俺の絵のモデルをやってみないか?」
「ふぇ…あ……ちょ、ちょっと待ってください!!?」
「うん、いや、これはいいアイデアかもしれん。千里ならば、今の俺の停滞を打ち破るパワーを持った題材になり得るっ!!!!」
勝手にテンション高く、一人合点をする景に、千里は何度も抗議するのだが、完全に自分の世界に入ってしまった彼には聞こえないようだ。
「よしっ!!昼飯を片付けたら、早速製作開始だっ!!!」
結局、千里の抗議は聞き入れられず、彼女は糸色景の新作のモデルに大抜擢されてしまう事になってしまった。
モデルといっても、千里の肖像画を描くとかそういった事ではなく、景が千里をテーマにした絵を描くためのイメージを与えるという話らしい。
まずは千里のさまざまな姿をスケッチしてそこから着想を得る。
絵そのものの制作に付き合うかどうかは、その後の景の気分次第といった所だ。
「そうだな、とりあえず好きにポーズを取ってみてくれ」
「好きに、ですか……きっちり指定した方がいいんじゃないですか?」
「いや、まずは千里自身のイメージを掴むところからいきたいんでな」
なるほど、と納得して、千里が取ったポーズ。
それは……
「なんか、微妙に……えっちくないか?」
「あ、いえ、その、これは……ち、違うんですっ!!」
お尻を上に突き出した四つん這いのポーズ。
確かに、正直に言って、エロい。
「……こ、これは…晴美が同人誌描いてて、上手く絵が描けないときによくモデルをやらされて……」
幼馴染の藤吉晴美の同人誌製作をよく手伝っている千里だったが、晴美が作画に行き詰った時などにはモデル役をやらされたりもしていた。
何の、どんなシーンのためのモデルなのかは、彼女の描いている同人誌の内容から推し量っていただきたい。
モデルと言われて、パッと思い浮かんだポーズがこれだった辺り、同情を禁じえない話ではある。
「すぐに…すぐにポーズ変えますからっ!!!」
「もう遅い。大まかなラインは描いてしまったから、もう少しそのままでいてくれ」
「えっ!?もう…ですか?」
呆然とする千里の前で、あっと言う間に景のスケッチは描き上がった。
「こんなもんでどうだ?」
そして、渡された絵を見て、千里はさらに驚愕する。
何事もきっちり行うのが信条で、晴美のアシスタントもやっている千里は、正直に言ってかなり絵が上手い。
だからこそ、わかるのだ。
景のデッサン力は並外れている。
スケッチブックに描かれた千里の姿は、人体のバランスを完璧に捉え、影の出来る部分や服のしわの書き込みも完璧だった。
今にも動き出しそうな千里の一瞬の姿が、紙の上に縫い止められているかのようだった。
さらに、千里を驚かせる要素がもう一つあった。
それは……
「あの……これ、本当に私ですか?」
「ん?そんなに似てなかったか?」
「い、いえ……そうじゃなくて……なんだか、キレイすぎて…私じゃないみたいな……」
ふっくらとした少女の体の曲線、流れるような黒髪。
スケッチブックに描かれた千里の美しさは、モデルである千里自身が息を呑むほどであった。
「うーん、そうか…一応、美化も誇張も一切無しでストレートに千里を描いてみたつもりなんだが……」
首をひねり考え込む景の前で、千里は呆然とスケッチの中の自分を見つめている。
景が、千里には理解不能の強烈な個性を持った絵を描く人だとは知っていた。
だけど、こんなものまで、あの指先から描き出す事が出来るなんて……
「まあ、悩んでも仕方がないか。よし、次に行こう。今度も好きなようにポーズを取ってくれ」
景のスケッチに魅入られた千里は、まるでふわふわと浮かぶ雲に乗っているような気分のまま、
その後も景の指示に従ってモデルを続け、それは結局太陽が西の空を真っ赤に染める頃まで終わらなかった。
なんだか納得がいかない。
どうにも腑に落ちない。
今度の休みにもまた景の絵のモデルを引き受ける事を約束して、あの日、千里はアトリエを後にした。
それから再び始まったいつも通りの生活の中でも、千里の頭には景の事がちらつくようになった。
飄々としてとらえどころの無い人柄。
常人には理解不能な独特の作品群。
そして、千里が垣間見た普段見せる作品とは裏腹の凄まじい画力。
色々な事が頭の中に引っかかって、どうにもスッキリしない。
何事もきっちりしたい千里としては、何とかこの頭のモヤモヤを取り払いたかった。
というわけで……
「それじゃあ、晴美、今日は私一人で帰るから」
「あれ、どうしたの?」
「うん、ちょっと用事があるの。」
千里が向かったのは、景を良く知っているであろう人物のいる場所。
「そういえば、この近所に可符香ちゃんの家もあるのよね」
きっちり頭に入れてきた道順を頼りにしばらく歩くと見えてきた建物。
『糸色医院』。
相も変わらずの開店休業状態が続いているらしい医院の入り口をくぐり、千里は待合室から中に向かって呼びかけた。
「すみませーん」
しばらくすると若い看護師が一人顔を出した。
彼女は千里の顔を見ると、何やら合点のいった様子で
「命先生なら診察室にいらっしゃいますから、どうぞお入りください」
と言った。
「いいんですか?まだお仕事中じゃ……」
「いいんですよ、どうせいつも暇を持て余してますから」
なるほど、と納得しつつも、どうやってこの医院の経営は維持されているのだろうかと疑問に感じながら、千里は診察室へと向かう。
「失礼します」
コンコン、とドアをノックしてから診察室に入ると、そこでは命の他にもう一人、思いがけない顔が千里を待っていた。
「む?おお、お前は……」
「あら、倫ちゃん」
そこにいたのは、千里のクラスメイトにして、担任教師糸色望の妹である糸色倫だった。
「こんな所で珍しいの。見たところ、怪我や病気ではないようじゃが?」
「あ、うん、ちょっと聞きたい話があってね」
命と倫、二人が揃っているのは好都合だった。
今の千里は、少しでも多く景の事について知りたいのだ。
糸色家の兄弟達はそれぞれ成人して職についてからも、何かと交流が多く、その仲の良さが窺える。
より多くの人数から景について聞き出せば、より多くの情報を聞きだせるかもしれない。
担任教師である望が午後から出張に出かけてしまった時は、タイミングの悪さに肩を落としたが、
ここでこの二人から話を聞く事ができれば、十二分にオツリがくる。
「どういうお話かな?また望が何かやらかしたかい?」
「いえ、そうじゃなくて……実は、景先生の事なんですけど……」
命に促されて、千里は話し始める。
千里がまず疑問に思ったのは、あの凄まじいまでの画力をどうして作品に活かさないのかという事。
抽象画より写実的な絵を好む千里の嗜好の偏りのせいもあったが、あの能力を活かさないのはどうにも勿体無い事の様に思えた。
手厳しく言ってしまえば、意味不明とも言える景の作品達も、あの能力をフルに使えばもっと違った形になったのではないか。
そう、千里は考える。
だから、千里には景がそれをしない事が不思議でならないのだ。
加えて、あれだけの画力を手に入れるには、相当の修練をした筈である。
それをあんな形で死蔵しているのは、せっかくの画力を無駄にしているのではないか。
「無駄、か……ははは、手厳しいなぁ」
千里の疑問に対して、命は困ったように苦笑して見せた。
「まず、誤解があるようだから、それを一つハッキリさせよう」
「誤解、ですか?」
「ああ、景兄さんの画力は修練によって身につけたものじゃない。言うなれば、天性のものなんだ」
「えっ?」
驚く千里に、命は微笑んで言葉を続ける。
「直感像、という言葉を知っているかな?」
直感像。
目で見たものを鮮明に、細部まで記憶する事の出来る能力。
放浪の画家、山下清などがこの能力を持っていた事で有名である。
山下清の場合、放浪の旅から実家に戻った後、旅先で見たものを貼り絵として作品に仕上げたという。
「景兄さんは、油絵の具の扱い方や技法なんかは練習しただろうけど、デッサンについて苦労したという話は聞いてない」
「そう、だったんですか……」
「そういえば、昔は景お兄様にお気に入りの漫画やアニメの絵を、たくさん描いてもらったけれど、その時も見本を見ている様子はなかったの」
「そうだ、これを見てもらえば、もっと良く分かってもらえると思うんだけど……」
そう言って命が取り出したのは、絵葉書と写真がそれぞれ一枚ずつ。
絵葉書には景の描いた、東京タワーなどを描いたという例の縦線だらけの絵が印刷されている。
写真の方は、どこから写したものだろうか、東京タワーと周辺のビル群が写っている。
「いいかい、よく見ていてくれ」
命はその二枚を重ねると、レントゲン写真を見るときに使うライトボックスにそれを貼り付けた。
強い光が、絵葉書と写真を通り抜けて、景の絵とビル街の風景が二重写しに重なる。
そして、そこで千里は気付いた。
「あっ…これ!!」
景の絵に描かれた縦線と、写真に写ったビルの一つ一つがピタリと重なっているのだ。
位置も高さも全く同じ、寸分の狂いも見当たらない。
「これは風景画だったんだ。景兄さんなりのね……」
「すごい…ですわ……」
「これが景先生の絵の、本当の意味……」
無造作に引かれた線の一本一本が、ビルや東京タワーをある意味ではこれ以上ないくらい性格に描写していたのだ。
それを見つめる千里も、そしてどうやら今回初めてこの事を知ったらしい倫も、一様に驚きを顔に浮かべている。
「まあ、直感像だけで景兄さんのような絵が描けるわけじゃない。
多分、景兄さんは、私なんかには想像もつかない世界に生きているんだと思う」
そう、直感像は糸色景の世界の一端にすぎない。
おそらく彼は、絵を描く度に、自分の見る異質な世界を、最も端的に表現できる形まで磨き上げているのだ。
意味不明としか思えない作品群は、紛れもなく糸色景の内面世界の力強い表出だったのだ。
「まあ、これ以上、景兄さんの絵について語れる事は、残念ながら私にも出来ない。
ただ、兄として、家族としては、お調子者で気の良い、だけど結構頼りになる兄貴だったよ」
「私も同感ですわ、命お兄様……景お兄様は、私が遊んでと頼むととことんまで付き合ってくれましたわ」
景について語る兄弟の顔には、彼を本当に大事に思っているのだとわかる、優しい笑顔が浮かんでいた。
それを見つめる千里の心には、なんとなく、羨ましいような切ないような、不思議な気持ちが湧き上がっていた。
そして、一週間が終わり、また休日がやって来た。
前日の土曜、そして日曜と、千里はまたアトリエ景でモデルをやっていた。
何とはなしに、景の作品に潜むものを感じていた千里だったが、命の話を聞いてそれをさらに明確に理解するようになってからは、
部屋のあちこちに投げ出された作品や、未完成のスケッチなどから言い表しがたい何かを感じるようになっていた。
そのせいだろうか、今日の千里はなんだか全身がカチコチの彫像になってしまったようだ。
「う〜ん、千里、なんか、ちょっと硬くなってないか?そんなに緊張しなくても大丈夫だぞ?」
そして、どうやら千里のその反応は景の方にもお見通しのようだ。
しかし、一旦意識し始めてしまったものから、途中で解放されるのは難しい。
(そうだ、もっとリラックスして……)
なんて考えれば考えるほど、千里の体はさらに硬直していくばかりだ。
「仕方ない。この辺で少し休むか」
そんな千里を見かねてか、景はスケッチブックを置き休憩するよう千里に促した。
「ごめんなさい、私、変に意識してしまって……」
「いや、いいさ。そういう生真面目な感じも、俺の描いてみたいものの一つだからな」
景が持ってきた菓子とお茶で一服していると、例のキャンバスが千里の視界に入った。
キャンバスは以前に訪れた時と全く同じ、何かを描こうとした形跡すらない真っ白のままだった。
千里がキャンバスを見ているのに気付くと、景はまた彼らしくもない気まずそうな表情を浮かべた。
「せっかく手伝ってもらってるのに、情けない話だな」
「まだ手を付けてみる気にはなれないですか?」
「ああ、もう頭の中ではどういう風に描くかまで決まってるんだが……」
「それならどうして?」
「実を言うとな、今、俺が描けないのは絵がどうこうとか、そういう問題じゃない気がするんだ……」
「どういう…事ですか?」
千里の問いかけに、景は少し寂しそうに笑ってこう答えた。
「怖い……そうだ、きっと俺は怖いんだろうな………」
その翌日、学校の授業は終わり、もう日も暮れかかった頃、千里は宿直室にいた。
「はあ、どうして作品を書こうと思うかですか……」
万年筆を片手に、ちゃぶ台の上の原稿用紙にカリカリと筆を走らせていた望が、その手を休めて千里の問いかけに応えた。
「どうしてって言われても、なかなか難しいですねえ」
「でも、何の動機もなしに、作品を作り始めたりはしないんじゃないですか?」
千里がこんな話を望にしているのも、全ては昨日の景の言葉が原因だった。
描く事が『怖い』。
それは、一体どういう意味なのだろう?
だが、その事を考えるには、千里には重要な前提が欠けていた。
どうして、人は何かを創作しようとするのか?
作品を作り出すという行為は何なのか、その認識を欠いていたのである。
こんな事をして、一体自分はどうしようというのか。
千里は、自分で自分がわからなくなっていた。
ただ、どうにもらしくない景のあの不安げな表情が気に掛かって、こうせずにはいられなかったのだ。
「どうして書くのか……そうですね…」
望は今、久しぶりに小説を一本書いてみようと、原稿用紙に向かっていたところだった。
大学時代には同人誌を出すほどに文学に傾倒していた彼ならば、どんな答を出すのだろうか?
「うーん、やっぱり、書きたいから書く、という事じゃないでしょうか」
しばらくの沈黙の後、望が出した答えは拍子抜けするほど単純なものだった。
「先生……きっちり答えてください。書きたいから書く、それはそうでしょうけど、私が知りたいのは……」
「木津さん、突き詰めると何かを創作する動機なんて、こんなものなんですよ」
身を乗り出し抗議しようとした千里を、片手を上げて制し、望は言葉を続ける。
「『平和の大切さを訴えたい』とか、『真実の愛を描きたい』とか、まあ、言葉にしてみれば色々ですが、結局これらの根っこは同じなんです。
自分の心の奥底で燃え上がる何かを、形にして表したい。その強烈な衝動こそが全ての出発点なんじゃないでしょうか」
小説、絵画、彫刻、映画に漫画にその他諸々の芸術作品。
それらは詰まる所、表現する者の心の中身が、抑えきれずに噴出したものであると言えた。
「今、私が書いている小説も、久藤君が話してくれる物語も、藤吉さんの同人誌だって同じです。みんな、それを形にせずにはいられなかったんですよ」
心の中に生まれた思いがどうしようもなく膨れ上がって、形を求めて現実の世界に現れる。
自分自身でも抑えきれない強烈な思いの渦、それこそが創作の源泉だ。
「というわけで、私も抑えきれないこの胸の内を原稿用紙にぶつけているわけですが……よし、これで完成です!!」
ついに小説を書き上げた望は、たまらないといった感じの満足げな表情でガッツポーズをする。
しかし、万年筆を置くやいなや、原稿用紙は望の手元から取り上げられてしまう。
「それじゃあ、ここからは添削の時間でーす!!」
部屋の隅で小説の完成を待ち構えていた可符香は取り上げた原稿を持って行き、霧、まとい、交と共に車座に座る。
4人は輪になって望の小説を読み始め、原稿に目を通し終わると突然顔を上げて
「それでは、採点の発表に参りたいと思いますっ!!!」
可符香の号令と共に、それぞれが望の小説につけた点数を発表する。
交…48点
「筋立てが単純すぎる」
霧…68点
「先生頑張って書いたから……でも、もう少し内容は練れたんじゃないかな…」
まとい…63点
「先生なら、次はきっと、もっと素晴らしい作品が書けますっ!!!」
可符香…35点
「着想は良かったですけど、ブランク長くて文章力が落ちちゃったんですね」
4人の容赦ない採点に、一瞬前の浮かれようが嘘のように望は落ち込んでしまう。
「だから、もうちょっと甘く点数つけてくれても良いじゃないですかぁ!!!」
「何言ってるんですか!先生の将来性を信じればこその、この採点ですよ」
騒がしく言い合う望達の様子を見ながら、千里は考える。
創作とは、突き詰めれば自分の内面をさらけ出す行為だ。
可符香達にコテンパンにされた望も、なんだかんだで楽しそうにしているのは、また小説を書きたいという衝動を彼が失っていないからなのだろう。
(それじゃあ、その創作活動が怖くなるって、一体、どういう事なの?)
景がその内側に凄まじいまでの創作への欲求を抱えている事は、ここ最近の付き合いで千里も理解した。
(創作は、自分の思いの丈をぶちまける事、それが『怖い』っていう事は……)
だんだんと、千里の中でパズルのピースが組み上げられていく。
おぼろげながら、景の抱える恐怖の正体が見えてきた気がする。
最後の問題は、それに対して千里がどう行動を起こすかだ。
だけど、その点に関しては、既に千里は答を出していた。
鞄を掴み、千里は立ち上がる。
「先生、ありがとうございましたっ!!」
「えっ?あ、はい……もういいんですか、木津さん?」
呆然とする望達を残して、千里は宿直室を飛び出した。
向かう先は、既に決まっていた。
真っ白なキャンバスの前にあぐらをかいたまま、まんじりともせず夜は更けていく。
「どうにもお手上げだな……どうする、由香?」
景のこの問いには、壁際に佇む彼の妻も答を持たないようだった。
景は『怖い』のだ。
それが全ての問題だった。
景の認識する世界は、『ふつう』の人間が抱くソレとは遠くかけ離れている。
景の不幸は、そのズレの度合いがあまりに大きく、また景自身に自分を冷静に見つめる客観的な精神があった事に起因している。
映画やドラマに出てくるマッド・サイエンティストや狂気を抱いた殺人者達、彼らはある意味で幸福である。
彼らは自らの異常性に気付かない、もしくはそれに気付きながら、『ふつう』の世界を意識的に踏み越えて行く事ができるからである。
それは、彼らが不完全な、ある意味で壊れた存在であるが故に可能な事なのだ。
自分と周囲の人間のズレに気付かない、気付いてもそれを実感として感じることが出来ない。
だから、彼らは好きなだけ、己の中の狂気に溺れ、酔い痴れる事ができるのだ。
だが、糸色景はそうではない。
彼の異常性は、ある意味で完成されたものだ。
完成されているが故に、彼は自分の精神がどのようなものかを客観視する事が出来る。
『ふつう』の世界と自分の認識との間の距離を、正確に測る事が出来る。
全く違う世界を生きながら、兄弟家族を愛し、喜びを分かち合い、共に笑い合う事が出来るのも、全ては景の持つこの性質のためだ。
だが、それは同時に、自分の心と、周囲の人間の認識、その間にあるどうしようもない断絶を、
景自身に強く認識させる結果となってしまう。
「ああ、だからなんだな………」
創作とは、己の魂を外に向かって形にする行為だ。
だけど、自分と周りの人間の違いを知る景は迷ってしまう。
己の内側を晒せば晒すほど、自分の心は周囲の人間の『ふつう』の世界から遠ざかってしまうのではないかと……。
だから、描けない。
絵筆を取る事が出来ない。
景は恐れているのだ。
このまま、書き続ける事が、最終的には自分自身を誰もたどり着けない孤独な世界に追いやってしまうのではないかと……。
パラリ、千里の姿を描いたスケッチブックをめくる。
そこに描かれた彼女の姿は、どれも瑞々しく、あのまっすぐなエネルギーに溢れている。
そういう千里と一緒ならば、今の自分がぶち当たっている限界も、越えていけるかもしれないと思ったのだけれど……。
「……怒るだろうなぁ…『きっちり完成させてください!!』なんて、顔を真っ赤にして……」
しかも、景は不用意にも、自分の抱えている不安について少しばかり千里に漏らしてしまっていた。
製作に行き詰れば、いやでも彼女を心配させてしまうだろう。
「全く、参ったな……本当にお手上げだ……」
途方に暮れる景が、力なくそう呟いた、その時だった。
ドンドンッ!!
玄関の扉を叩く音が、景の耳に届いた。
そして、次に聞こえてきたのは、ここ最近ですっかりお馴染みになったあの少女の声だ。
「すみませんっ!!千里ですっ!景先生、開けてくださいっ!!!」
モデルの仕事をしてもらうのは休日だけと決めてあった筈だが、一体どういう事だろう?
疑問に思いながらも、景は玄関までやって来て、扉を開けて千里を向かい入れてやる。
「どうしたんだ、こんな時分に?」
不思議そうに尋ねる景。
千里はそんな景の瞳をまっすぐに見つめて、これまでにないほど真剣な表情で、驚くべき事を口にした。
「景先生、描かせてくださいっ!!」
「描かせてって、一体何を……?」
「あの絵を描かせてほしいんですっ!!景先生と一緒に、あの絵を完成させたいんですっ!!!!」
その気迫に圧されたためだろうか。
気が付けば景は彼女の願いを受け入れて、いつもの部屋に千里を案内していた。
一緒に絵を描く。
言葉にしてみると簡単だが、なかなかに難しい話である。
漫画のように、漫画家とアシスタントが役割分担をして一つの作品を描き上げるというわけにはいかない。
過去に描かれた大掛かりな絵画では、そういった前例もないではないが、やはり究極的には絵を描くというのは個人的な作業だ。
「それなら、せめて見ているだけでもいいんですっ!!!」
とにかく景が絵を描いている側にいたいという彼女の言葉を受けて、景は千里と二人並んでキャンバスの前に座った。
相も変わらず真っ白なキャンバスは、視界の全てを奪い去る吹雪の白い闇にも見える。
ともかく、どういった形であれこうしてキャンバスと向かい合うのは、景が再び描くための力を取り戻す良い機会かもしれない。
「モデルはしなくても、大丈夫なんですよね?」
「ああ、あくまでもイメージを掴むためのものだったからな。今の俺なら、目を閉じていても千里の姿を描けるさ」
言いながら、景は下書き用の木炭を手に取る。
既に何を描くべきか、イメージは固まっているのだ。
後はそれをキャンバスにぶつけるだけ。
それは十分に理解している、その筈なのに……
(駄目だ。手が震えて………)
やっぱり、怖いのだ。
描き始めてしまえば、自分は誰もいない暗い谷の底に落ちていくのではないか。
そんな錯覚が景の脳裏を支配する。
だが……
「千里、何を!?」
「景先生……っ!!」
震える景の手の平の上に、千里の柔らかな手のひらがそっと重ねられた。
「一緒に描くって、決めたんです」
冗談や遊びではない、真剣な表情の千里の横顔。
それを見ていると、何故だろうか、景は自分の胸の奥にわだかまっていた何かがふっと軽くなったように感じた。
(不思議だな……)
そのまま、まるで千里の指先に促されるように、景はキャンバスの上に下書きの線を描き始める。
今までの恐怖が嘘だったように、次々と描線が重なり、真っ白だった世界に景の脳裏にあったイメージが描き出されていく。
千里は、景が絵を描く手先の動きに合わせて、ただ自分の手の平を重ねているだけだ。
それなのに、景の心はまるで思い鎖から解き放たれたように軽やかだった。
木炭の荒い線は次第に密度を増し、キャンバスの上にまるで空を飛ぶ天女のような、一人の少女の姿が現れる。
千里だ。
しなやかな肢体を広げて、千里がキャンバスの中の空を飛んでいる。
「………なんで、裸なんですか?」
「いや、まだこれは下書きだから、これから色々描き足すんだから、そんなに怒るな、千里」
軽口を交わしたりしながらも、二人は黙々と作業を続けていく。
その中で、景は何となくわかってきた。
千里がどうしてこんな事を言い出したのか。
今の自分の心がどうしてこんなにも軽やかなのか。
(そうか……俺は一人じゃないって、そう言ってくれてるんだな、千里……)
景が呟いた『怖い』という言葉、ただそれだけで彼女は景の心中を察したのだ。
景が自分の感性を、心の景色を表現する事を恐れているのだと、彼女は気付いてくれたのだ。
そして、彼女は景の側にいる事を選んでくれた。
一緒に絵を描こうと言ってくれた。
一人で描き出す世界が怖いなら、自分が側に居て手伝ってあげよう。
一人ではなく、二人で描いた世界なら、決して孤独になる事は無い。
千里は、景に対して暗にそう言ってくれているのだ。
どうしてこんな簡単な事を忘れていたのだろう?
世界は一人で作り出すものではないのだ。
人と人の間に取り交わされる様々なメッセージが、その二人の間に描き出すもの、それが彼らの世界である筈だ。
景の場合は、それがあまりに他人と隔絶し過ぎていたために、どうしていいかわからなかった。
ただそれだけの事なのだ。
右手に覆い被さる少女の手のひらは、優しくも力強い。
もはや、景の心を覆い尽くしていた恐怖はどこかへ消えて、アトリエを照らす裸電球のほの暗い灯りの中で、
景と千里は黙々と絵を描き続けた。
それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。
「あれ?私、いつの間に眠って………」
眠たい目を擦りながら、千里は床の上に寝転がっていた体を起こす。
体の上にかぶせられていた毛布は、景がかけてくれたものだろうか?
「そうだ、景先生は?」
自分と景は一緒にキャンバスに向かって絵を描いていた筈。
思い出して辺りを見回すと、一人キャンバスに向かっている景の姿を見つけた。
「ごめんなさい、私、途中で眠っちゃったんですね……」
「いや、構わない。随分疲れていたみたいだし、今日も学校があるんだからな」
千里の言葉に、景は優しく応える。
キャンバスの上を走る景の手先の動きに淀みはなく、どうやら彼は自分の中の恐怖を乗り越える事が出来たらしい。
とりあえず、自分の思惑が上手くいった事に、千里はホッと胸を撫で下ろした。
「ああ、それから、アトリエにはしばらく来なくてもいいぞ」
「えっ?」
思いがけない景の言葉に、千里は驚いて顔を上げる。
すると、景はそんな千里になにやら自身ありげな顔でニヤリと笑って……
「久々の傑作の予感だ。完成したら、真っ先に千里に自慢したい。だからそれまで、どんな絵になるかはお楽しみって事でどうだ?」
まるで子供のような無邪気な表情。
本来の自分を取り戻したらしい景の姿に、千里の顔もほころんだ。
「わかりました。それじゃあ、完成、楽しみにしてますから……」
「おう、モデルの謝礼もその時にな……あっ、と……それからな……」
「……?…どうしたんですか?」
景はポリポリと後ろ頭をかいてから、
「ありがとう、千里……」
照れくさそうに顔を赤くして、そう言った。
言われた千里も、同じように頬を染めて、しかし、ニッコリと景に笑って見せたのだった。
それから、およそ一ヵ月後。
例の絵がついに完成したとの知らせを聞いて、千里は再びアトリエ景にやって来ていた。
「どうだ、なかなかのもんだろ?」
まだ絵の具も生乾きのキャンバスの前で、景は自信満々といった様子でそう言った。
「……………」
一方の千里は、絶句。
ひきつった顔で、今にも暴れ出してしまいそうなのを、必死で堪えているという様子だ。
なぜならば、そこに描かれていたのは……
「……魚じゃないですかっ!!!」
魚、だった。
下書き段階では、天女のような千里が描かれていた筈の場所に、銀色の魚が描かれていたのだ。
現代画壇にその人ありと言われた変人、糸色景の本領発揮といったところだ。
景の手で描かれた美しい自分の姿に夢を膨らませていた千里にとって、これはなかなかに手痛い仕打ちだった。
「いくらなんでも、これは酷すぎますっ!!!」
「な、なんだ?千里、この絵の何がまずかったんだ!?」
「知りませんっ!!景先生が自分で考えてくださいっ!!!」
天女→魚の変化のショックですっかり不機嫌な千里と、わけもわからず戸惑う景。
だけど、『きっちり描き直してください!!!』なんて言い出さないあたり、実のところ千里もわかっているのだ。
この絵が表現しているものを。
景が描きたかったものを。
キャンバスの上、銀色の魚がしなやかなその身をくねらせ、深い海を泳いでいく。
周囲を囲むのは、かつては栄華を誇った文明の成れの果て、水没した高層建築物の古代遺跡だ。
遺跡はどれも、曲がり、歪んで、海の中を奇怪な形に切り取っている。
だが、周囲の歪められた景色とは正反対に、銀の魚はただ前へと向かって、まっすぐな軌跡を描いて泳いでいく。
その姿は、誰かに良く似ていた。
決して己を曲げる事無く、自分の信じる道を力強く進む少女の姿。
自分の中の恐怖に怯え、道を見失いかけた景を救った天女の飛翔。
常人とは遠く離れた異質な感性の持ち主、だけど彼の視線は違う事無く彼女の本質を捉えていた。
それは、糸色景の垣間見た、どこまでもまっすぐなあの少女の、木津千里の姿を見事に描き出していた。