にょんたかっ!  
犬耳カチューシャを頭につけて、晴美は望の前に現れた。  
にゃにょんっ!  
可愛らしい子犬相手に愛情表現のつもりで、その耳に甘噛みする望の姿に彼女はひらめいたらしい。  
こうやって、犬耳装備で近付けば、先生の気を引く事が出来るかもしれない、なんて事を思いついたのだ。  
にょにゃんっ!  
だけど、望はなびかない。  
目の前をチラチラと行き来する犬耳カチューシャに対して、彼はぷいっと顔を背ける。  
どうやら、犬耳晴美ではお気に召さないらしい。  
それでも諦めずにアプローチを続ける晴美だったが、望のあまりにそっけない態度についに根気負けしてしまう。  
「うぅ〜、これならいけると思ったんだけど……」  
未練たらたらといった表情を浮かべつつも、犬耳カチューシャを鞄の中にしまいこんでその場を後にする。  
望とすれ違いに駆けていった彼女の後姿をチラリと見て、望は少しバツの悪そうな表情を浮かべる。  
「………ちょっと可哀そうな事をしちゃったかもしれませんが…本物の子犬なわけじゃなし、どう対応していいか困っちゃうんですよねぇ……」  
望が子犬の耳を甘噛みしたのは、あくまで可愛い子犬に対する反応であり、人間向けのものではない。  
子犬と晴美では接し方も違うわけで、同じように扱うには無理がある。  
要するに、犬に対する愛情表現と人間相手のソレは違うという話である。  
それに、望が晴美に反応しなかったのはもう一つ理由がある。  
今も、望の右斜め後ろにいるはずの少女、風浦可符香。  
晴美がやって来るより前、望が本物の子犬相手に、頬ずりをしたり、耳に甘噛みしたりするのをかなり冷静な瞳で見つめていたのである。  
その視線に気付いた事で、望は一気に我に返ってしまった。  
可符香は特に何も言わなかったし、馬鹿にしてるとか呆れてるとか、そんな様子もなかったけれど、  
だからこそ逆に、可符香の眼差しは、望の心に深く突き刺さり、彼の羞恥心を抉っていったのだ。  
まさか、子犬の前でのあの有様を見られた後では、迂闊な行動は出来ない。  
そう思っていたからこそ、望は晴美に対しても勤めて冷静でいようとしたのだ。  
しかし、まあ、彼女もどうやら諦めてくれたようだし、これで一安心。  
そこで、望は、何気なく可符香に声をかけようとしたのだけれど………  
「あのう、風浦さん………って…えっ!?…ええええええええええっ!!!!?」  
振り返った望の視線の先にいた彼女の姿、それは……  
「……………」  
にょんたかっ!  
先ほどまで晴美がつけていたのと同じ犬耳カチューシャをつけて、表情は先ほどまでと変わらないおすまし顔。  
だけども、やっぱり少し恥ずかしいのか、微妙に頬が赤く染まったりしている。  
(ふ、ふ、ふ、ふ……風浦さぁあああああんっ!!!!!)  
望の声無き声が響く。  
こうして、犬耳カチューシャ作戦は主役を可符香に変えて、第2ラウンドへと突入した。  
 
可符香はずっと見ていた。  
望が子犬を夢中になって可愛がり、その小さな耳を甘噛みするのを。  
晴美に犬耳カチューシャで迫られて、今度は手の平を返したように、彼女にぷいと顔を背け続けた様子を。  
可符香は冷静に観察し続けていた。  
途中、彼女の視線に気付いた望がやたらと恥ずかしがる一幕もあったが、その間も可符香は望の事をただ見つめていた。  
(ああ、確かにああいう所を見られると気まずいよね……)  
なんて考えて、最後まで傍観者の立場でいる、その筈だったのに……。  
(私、どうしてこんな事をしているんだろう?)  
晴美が望達の前から立ち去ろうとした時、鞄への仕舞い方が浅かったのか、彼女の犬耳カチューシャが外へ飛び出してきたのである。  
そして、それは寸分違わず、可符香の手元に落ちてきたのだ。  
晴美にこれを返さなければ、そう思った時はもう遅かった。  
学校でもトップクラスの身体能力を誇る晴美の背中は、すでに道の彼方へ小さく消えていこうとしていた。  
で、問題はこれからである。  
犬耳カチューシャは、明日学校に行った時にでも晴美に手渡せばいい。  
それで、万事解決となる筈だったのに、何故だろうか、可符香は魅入られたように犬耳カチューシャを自分の頭につけてしまったのだ。  
(ああ、先生も見てる……困った顔してる……)  
表面上こそ冷静な風を装っているが、正直な話、今にも恥ずかしさでどうにかなってしまいそうである。  
一体、どうしたらいいのだろう?  
いや、今からでもカチューシャを外して、鞄に収めて、それで一件落着にできる事は頭では理解できているのだけれど……  
(わ、私も…晴美ちゃんみたいに……!!)  
いつの間にやら、そんな事を考え始めている自分がいるわけで、全くなんとも厄介な話であった。  
こうなれば仕方がない。  
さっきの晴美のように、一応の諦めがつくまでアピールすれば、このカチューシャを外せる空気になるかもしれない。  
というわけで、犬耳装備の可符香は戸惑う望に向かって一歩、足を踏み出したのだ。  
 
(な、な、な、なんですかぁ!?風浦さんどうしちゃったんですかぁ!!?)  
先ほどまで、子犬にじゃれつく自分の事を冷静に観察していた彼女が、一転、犬耳装備でこちらへ一歩、また一歩と近付いてくる。  
しかも、今回は晴美のときと少し勝手が違う。  
相手が、今の今まで、我関せずといった冷静な態度を取っていた可符香である事。  
さらに、そんな彼女が、どうやら犬耳カチューシャが恥ずかしいのか、何でもないといった感じの表情を保てず、僅かに赤面している事。  
(う……うぅ……こんなの反則ですよぉ……っ!!!)  
どうやら、当人は犬耳以外は普段どおりのつもりのようであるが、それにはかなり無理があった。  
薄っすら紅く染まった頬と、低い位置からの上目遣いの視線。  
正直、今の可符香に望のハートは完全にノックアウトされていた。  
(で、で、で、でも、この場合、どういう対応をするのが正解なんでしょうか?)  
前述の通り、耳を甘噛みするのは望にとっては子犬に対する愛情表現である。  
だけど、目の前の可符香の姿を見ている内に、望の中で人間への対応と子犬への対応、二つをわける壁が曖昧無いなっていく。  
 
「…………」  
その間にも、可符香はまた一歩望に近付く。  
既に、ほとんど望の懐に入り込んだような状態、真下から見上げてくる視線に、望の心はさらに揺らぐ。  
(あっ…ああ……あああああっ!!!!…私は…私はぁああああああっ!!!!)  
最後にもう一歩、これでもう望と可符香は完全な密着状態。  
無言のまま、可符香はただ望の瞳を覗き込んでくる。  
至近距離で見る彼女の表情からは、今の彼女の感じている恥ずかしさや緊張が滲み出ているようで……  
(だ、駄目ですっ!!可愛すぎますっ!!!もう限界ですっ!!!!)  
そして、これ以上耐え続ける事も、今の望には無理な相談だった。  
望の手の平が可符香の肩にそっと置かれる。  
そして、熱に浮かされたような表情の望は、薄く開いた唇を可符香の方に……。  
そして……  
「ふ、風浦さん……っ!!!」  
はむっ!!  
望の唇はそのまま、可符香のつけた犬耳カチューシャの先端を捕らえる筈だったのだけれど……  
「ひゃっ!?……せ、せ、せ、先生っ!!!?」  
可符香自身の耳をくすぐったく包む感触。  
望も、どうやら様子がおかしい事に気付き始める。  
「……ふ、風浦さんっ!?……これは、その……っ!!!」  
「先生っ!!…耳っ!!…私の耳ぃいいいっ!!!!」  
もうここまでくれば、誰だってわかる筈である。  
望が甘噛みしたのは犬耳カチューシャではない。  
それをつけている可符香自信の耳たぶだったのだ。  
みるみる真っ赤になっていく二人の顔。  
しかし、覆水盆に返らず、今となっては全てが後の祭りである。  
「すみませんすみませんすみませんっ!!!風浦さん、わ、私はこんなつもりでは……っ!!!!」  
「ふわわわわわわわわわわわわっ!!!!先生がっ!!先生がぁあああああああ……っ!!!!」  
もはや恥も外聞も無く、道の真ん中で喚く二人。  
こんな展開、100万人が予想しただろうけれども、当の二人にとっては完全に想定外だったわけで……。  
 
その後、望と可符香は、パーティーグッズなんかで売られている動物耳つきのカチューシャを見る度に、  
何やら物凄く恥ずかしそうな表情を浮かべて、顔を真っ赤にするようになったとかならないとか………。  
 

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