倫を捜索する糸色家の黒スーツの面々からコッソリと抜け出した黒スーツの青年は、仲間からの報告を受けていた。  
「6人がかりで襲い掛かって失敗したぁ?武器を持っても所詮、素人って事か……」  
糸色家の人間にカモフラージュした彼の仲間が糸色倫達に襲い掛かったが、ものの見事に返り討ちに遭ってしまったらしい。  
この日のために相当鍛えてはいたらしいが、やはり素人、武器を持って粋がったところでこんなものだろう。  
だが、糸色倫達が今いる地点の周辺には、色々と罠を張り巡らせてある。  
しかも上手い具合に糸色家の情報網は偽の情報の氾濫でほとんど機能を停止している。  
「今、直接動かせる戦力はざっと20人か……よし、ここで勝負をかけるぞっ!!俺も直接、例の場所に向かうっ!!」  
無線機にそう怒鳴ってから、青年は楽しくてたまらないといった表情でその場から走り去っていった。  
 
「つまり、景兄さんは縁兄さんと倫を連れ戻しに来たんですね?」  
「ああ、お前らと追いかけっこなんて、めちゃくちゃ楽しそうじゃないか」  
偽者の黒スーツから逃れた倫達一行は小走りに進んでいた。  
目指す先は交番である。  
倫を狙って襲い掛かってきた暴漢達、彼らの出現によって事態は大きく変わってしまった。  
もはや、家出がどうのと言っている場合ではない。  
しかも、敵は倫が家出をしようとしていた事まで知っていたのだ。  
糸色本家の内部に内通者がいるのは確実だった。  
家出は中止、しかし糸色の屋敷に戻るのも安全とは言い難い。  
そこで、命達は警察に連絡し、その力を借りる事にした。  
しかし、である。  
彼ら6人は揃いも揃って、携帯電話を持っていなかった。  
命と望は学校の校則で制限されている為、海外を放浪していた景も当然持っていない。  
倫、倫の友人、あんの三人は揃って親から『まだ早い』と言われていた。  
しかし、雑木林と畑に囲まれた道の近くに公衆電話があろう筈もなく、6人は警察と連絡できる場所を目指すことになった。  
幸い、昔この辺りで遊びまわった命や望、景はこの道をしばらく行くと周囲からポツリと離れた交番が一つある事を知っていた。  
「ところで、縁兄さんはどうしたんです?」  
「ああ、いや、そのな……自分がいちゃ、見つかるものも見つからないって言って、俺から離れてどっかに行っちまったよ」  
縁の無い男、糸色縁、彼は倫の早期発見の為に自ら身を引いたのだ。  
景、命、望、倫の四人はあまりに寂しすぎる長兄の行動に、しばし目に涙を浮かべる。  
「さて、あの交番、昔っからオンボロだったし、無くなってなきゃいいんだけど……」  
「ははは、そりゃあ十分有り得るなぁ」  
「景兄さん、笑い事じゃないですから……」  
正直、謎の敵に追われる身となった倫達にとって、景の存在はありがたいものだった。  
自己完結型人間である景が自ら編み出した拳法は彼自身にしか扱えないが、戦力としては非常に頼りになる。  
何より、景の振りまく明るい空気が怯える倫達に安心感を与えてくれた。  
「あっ、見えてきましたよ!!まだやってるといいんだけど……」  
遠くに見えた交番の影に、望が声を上げた。  
命達の記憶が正しいなら、今もあの交番を一人っきりの老巡査が守っている筈なのだが……。  
と、そこで望は、隣を歩くあんの表情が少し曇っている事に気付いた。  
「どうかしましたか?なんだか不安そうな表情ですけど……」  
「あ、ううん……別に何でもないよ、おにいちゃん」  
「そうですか……?」  
望は不安げなあんの視線の先に例の交番がある事に気付く。  
(ああ、そうか…この娘もあの交番がまだ現役なのか心配なんですね…)  
一人納得した望は歩調を速めて交番に急ぐ。  
「おい、望、そんなに急ぐなよ!!」  
「僕が早めに確かめてきますよ。命兄さんっ!!」  
そう言って走り出した望は、早めに交番の事を確かめてあんやみんなを安心させようとしか考えていなかった。  
だが、命が何気なく視線を向けたとき、走っていく望の後姿を見てあんの表情が固く強張っている事に気付いた。  
交番まであと50メートルほど、揃って視力の悪い糸色の兄弟には交番が現役かどうか判別はつかなかったが、  
少なくとも幼い少女を恐れさせるものが、そこに潜んでいるとは思えなかった。  
やがて、望は交番にたどり着き、こちらに向かって手を振る。  
「お巡りさんはいないみたいですけど、扉も開いていて、電話も使えそうですよっ!!!」  
望の言葉を聞いて、命はホッと安堵する。  
扉の前で待つ望と合流し、命たちはそのまま交番の中に入ろうとしたのだが……。  
 
「命おにいさま、へんですわっ!!!」  
その時、倫が叫んだ。  
「お巡りさんがいないのに、お巡りさんの自転車が置きっぱなしですっ!!!」  
その言葉に、命の全身がゾクリと戦慄する。  
しかし、時既に遅く望は交番の扉を開いてしまった。  
その瞬間!!!  
「動くなっ!!!!」  
交番の机の影から、奥の扉の向こうから、交番の裏や周囲の農機具小屋の影から、周囲を囲むように男たちが飛び出した。  
その数、20人余り………。  
「待ち伏せされていた……」  
呆然と望が呟く。  
(暴漢に襲われた後、その先には逃げ込むべき交番、しかも周囲に民家は少ない。手段を選ばないのなら最高の待ち伏せポイントじゃないか……っ!!!)  
命もこれまでその事に気付かなかった自分の甘さに愕然とする。  
男達は黒スーツが11人、10人がそれぞれ思い思いの私服を着ていた。  
彼らは当然の如くその手にそれぞれ武器を持っていたが、その内4人ほどはボーガンをこちらに向けていた。  
まさに最悪の展開、今度こそ王手詰みといった状況だった。  
景、命、望の三人はそれぞれ少女達をかばうように三方の壁になるように立つ。  
謎の暴漢達はそんな命達へとジリジリと距離を詰めてくる。  
「この人数、突破できない事もないが……くそっ!!」  
景がくやしそうに呟く。  
「ボーガンの矢をかわして、それが倫達に当たったりしたら……」  
命の顔も青ざめていた。  
「ごめんなさいっ!!僕が焦ったばかりに……」  
「望、お前が悪いんじゃないよ……」  
6人の背中を嫌な汗が伝い落ちていく。  
と、その時、11人いる黒服の内、一番年若い青年が前に出て、命達に話しかけてきた。  
「さて、状況はわかってもらえてると思うけど、みなさん怪我をする前にそこのお嬢さん、倫様を渡していただけませんかね?」  
「それだけは出来ないな……」  
ぬるっとまとわりつくような、爬虫類を思わせる視線に命は嫌悪感を覚えた。  
だが、ふと気がつく。  
(俺は、こいつに見覚えがある……?)  
そういえば、2年ほど前に新しく加わった黒スーツの中にいたような……。  
「お前か…こいつらに倫の家出や居場所の情報を流していたのは……」  
「お、流石は医大志望、頭の回転が速い。その通り、俺が二年前からアンタ達の家で世話になってるスパイさ……」  
「糸色家で働くには入念な身元調査があるはずだぞ。お前みたいなヤツがどうして……」  
命の言葉に、青年はクククッと嫌な声で笑い、もったいぶった口調で答える。  
「その辺は、こんな事を仕出かす動機とも重なってるんでね。少し長い話になるんだけどな……。まあ、聞いてもらおうか……。  
ほら、覚えてないかい?アンタのお父上の追及を受けて収賄やら何やら不正を片っ端から暴かれて死んだ議員がいただろ……」  
それは5年ほど前、その頃まだ中学生だった命には遠い過去の記憶である。  
父・糸色大の追及から端を発し、次々に不正を暴かれ、ついには自宅に火を放ち一家心中した一人の議員がいた。  
「俺はソイツのいわゆる妾腹の息子……っていうのも違うんだよな。俺の母親は若い頃のオヤジに強姦されて俺を産んだんだからな」  
彼の母は圧倒的な権力を持つ父に抗う事を諦め、渡された手切れ金と共に姿を消し、その心の傷も癒えぬまま若くして亡くなった。  
「で、周りのコイツらはオヤジの元部下でね。敵討ちをしたいんだか、出世の道を絶たれた復讐をしたいんだか、  
よりにもよって俺に手伝えなんて言ったんだよ。『お父上の敵を取りたくはないか』なんて、よく言えたもんだよ」  
「それがどうして、こんな事の手伝いをしてる?」  
「まあ、面白そうだったからなぁ」  
悪びれもせず、青年は言った。  
元部下達が欲したのは、糸色家内部に潜り込むための、自殺した議員と世間的にはほとんど繋がりの無い同志だった。  
そこで、彼らは恥知らずにも、この青年を仲間に引きずり込んだのだ。  
「復讐なら、他にいくらでも方法があるだろう?何故、倫なんだっ!!!」  
「またまたぁ、それがどれだけ難しいのはソッチも良く知ってるだろ?」  
糸色家の人間は強力なセキュリティに守られ、また、子供達は倫を除く全員が既に立派な大人の体格にまで成長している。  
セキュリティの内側までスパイとして潜り込んでも、そこから攫い出すのはそれなりに困難である。  
「まあ、攫い易いってのが一番の理由かな?それから、虐めて一番楽しいのも、小さいけれどお転婆な倫お嬢様だ……」  
「なっ!!?」  
「愛する末娘の無残な姿で脅しを掛けて、こちらの要求を呑ませようって算段さ」  
命は怒りで頭の中が沸騰していくような感覚を感じていた。  
 
チラリと左右を見れば、くやしそうに歯噛みする望と、鋭い目で周囲の男達を睨みつける景の横顔が見えた。  
三人の兄弟の気持ちは同じだった。  
こんな事を許すわけにはいかない。  
しかし、この状況に抗うには、彼らはあまりに無力だった。  
「命おにいさま……」  
不安げに震える倫の手が命に触れた。  
「だいじょうぶだ。だいじょうぶだよ、倫……お前だけはこの僕が……」  
ジリジリと近付いてくる黒スーツの青年は、この計画の中では途中参加者らしいが、周囲の人間に指示を出しているあたり、  
この場の中心人物である事は間違いなさそうだった。  
(アイツを取り押さえれば、さっきの奴らと同じで後は烏合の衆だ……)  
命は決意を固めた。  
この身に代えても、倫の為に血路を拓く。  
(後は、望と景兄さんが上手くやってくれるさ……)  
また一歩、近付いてきた青年を、命はよく観察する。  
青年は手ぶら、もちろん何か武器は隠しているだろうが、使わせなければいいだけの事だ。  
「……望、景兄さん、倫の事、よろしく頼むよ……」  
小さな声で、命は兄と弟に囁いた。  
「命、何を考えてるっ!?」  
「命兄さんっ!!!」  
望と景が叫んだときには遅かった。  
命は黒スーツの青年めがけてまっしぐらに飛び出していた。  
「へえ?今日のでわかったんだけど、糸色家の坊ちゃん方って意外に肝が据わってるよね?」  
少し驚きながらも、青年は命を受け止める。  
どうやら筋力などでは命に勝っているらしい青年を相手に、命は必死に食い下がる。  
その様子を見て、周囲の男達に動揺が走ったのを、望と景は見逃さなかった。  
「こぉのぉおおおおおおおっ!!!!!」  
望が件の洗剤を混合状態にして小瓶に入れたもの三つを、周囲の男達に向けて放り投げた。  
立ち込める紫色の煙によって、男達の視界は奪われてしまう。  
「これでボーガンは使えないでしょうっ!!!」  
「ナイスだっ!!望っ!!!」  
望の煙幕攻撃に続いて、景が飛び出す。  
煙幕の中で身動きの取れない男達に得意の自己流棒術を食らわせる。  
「どーして、あの煙の中で敵が見えるのかは聞いてもわからないんでしょうねぇ……」  
景の不可思議な能力に半ば呆れながらも、望は倫を狙って襲い掛かってきた男達と戦う。  
倫の友人が日本刀をむやみやたらに振り回したため、わが身大事の男達は倫に接近する事もままならず、望の戦いはずいぶんと楽になった。  
倫も必死で友人の日本刀の鞘を振り回し、あんも手近にあった木の棒を向かってくる男に力いっぱい叩きつけた。  
やがて、指揮を行っていた青年が命に釘付けになった事で男達の統率に隙が生まれ始める。  
(これなら、望が先導してこの場所から倫達を逃がしてやれる。景兄さんがいれば、こっちもそう簡単に不覚は取らない筈だ……っ!!)  
命が目配せをすると、望も力強く肯いた。  
これで何とか窮地を脱することが出来る。  
命がそう思った矢先の事である。  
「ざ〜んね〜んっ!!!」  
青年が腰の後ろに回した手を、命に向かって振り上げた。  
それは、銀色の軌跡を描き、空中に赤い飛沫を舞わせた。  
「ぐぅ…うぁあああああっ!!!!」  
「命おにいさまっ!!?」  
命の悲鳴が周囲に響き渡った。  
青年の隠し持っていたナイフが命の胸を切りつけたのだ。  
幸い傷はそう深くは無かったが、痛みに苦しむ命の見せた隙を青年が逃す筈も無かった。  
「ほらほら、痛がってる暇なんてないぞぉ〜!!!!」  
爪先が鳩尾にめり込み、鋭い手刀が幾度も命の体を打ち据える。  
ギリギリで保たれていた均衡が崩れた今、命はほとんど青年のサンドバックになっていた。  
だが、命はダウン寸前のギリギリのところで踏みとどまった。  
 
(こんな…奴らに倫を…っ!望を…っ!!景兄さんを……っ!!!!)  
青年がナイフを構える。  
再び命の体を斬りつけるつもりなのだ。  
だが、それこそが命の狙い目だった。  
青年はナイフの力を過信していた。  
刃物をチラつかせれば、どんな相手もひるむのだと思い込んでいた。  
「悪いが、そう上手くはいかないっ!!!!」  
青年がナイフを繰り出すより早く、命は相手に組み付き、そのまま道の横の雑木林へと突っ込んでいく。  
青年が姿を消し、周囲の暴漢達に再び動揺が走った。  
それを見て、望が叫ぶ。  
「倫っ!!逃げなさいっ!!!早く逃げるんですっ!!!!」  
「でも、命おにいさまが……っ!!」  
「命兄さんは私が何とかしますっ!!こっちには景兄さんもいる。そう簡単にはやられませんっ!!だから、お前達三人だけでも……っ!!!!」  
倫をこの場から逃がさなければならない。  
だが、刃物を持った相手と格闘する兄を放って置く事もできない。  
望にとっては苦渋の決断だった。  
そして、それは倫にも十分に理解できる事だった。  
きゅっと唇を噛み締め、目の端に涙を浮かべ、しかし、倫は望に肯いた。  
「わかりましたわ、お兄様っ!!私、きっと逃げのびてみせますからっ!!!」  
泣きじゃくりながら、それでも走り出した妹達の姿を見て、望はホッと胸を撫で下ろす。  
しかし、少女達の一人がしばらく走ったところで踵を返してこちらに戻ってきた。  
驚愕する望の前に舞い戻ってきた少女、それは……  
「どうして君が戻ってくるんですかっ!?」  
「だって、わたしはおにいちゃんに………っ!!!」  
それはいつになく辛そうな表情のあんだった。  
「わたしがおにいちゃんに、あの交番がおかしいって教えてたら、こんな事にならなかったのに……っ!!!」  
少女をこの場に止まらせたのは、あの時、交番に対する違和感を指摘しなかった事に対する罪悪感だった。  
もはや、倫達の姿は道の向こうに消えて、もう見えない。  
望は、罪の意識に震えるこの少女を全力で守ろうと強く決意を固める。  
今しも、警棒を片手に飛び掛ってきた男に、望は全力の体当たりを食らわせる。  
(倫、命兄さん、どうか無事で……っ!!!)  
心の中、望は必死の思いで叫ぶ。  
 
こうして、倫を狙う悪漢達の手によって、糸色の兄妹は散り散りにされてしまったのだった。  
 
景の奮闘によってなんとか敵を撃退した望達は、命と青年がもみ合いながら消えた雑木林を捜索した。  
しかし、二人が争いあった形跡は認められたものの、命の姿を見つける事はできなかった。  
「命兄さん……」  
望たちは沈痛な面持ちで俯く事しかできなかった。  
その後、交番の中を調べた望たちはさらに驚くべきものを発見する。  
それは………  
「畜生、じいさん、殺されてたのか……」  
首を絞められ無残に殺された、老巡査の死体がそこにあった。  
どうやら敵は、望や景のように抵抗してくる相手には弱腰であるにも関わらず、その力のない人間には容赦しないようだった。  
電話や無線の類は完全に破壊され、ここから外部に連絡を取る事もできない。  
果たして、命は無事なのか?倫達は逃げ切る事ができたのか?  
望たちにはもはや知る術もなかった。  
だが………  
「わたしが囮になりますっ!!!」  
沈黙する望と景に、決然とした表情のあんがこう宣言した。  
「き、君は一体何を言って……!!?」  
呆然とする望の前で、あんはポケットからいそいそと小さな子供用のハサミを取り出し、それから景に対してぺこりと頭を下げた。  
「髪の毛をください」  
「………あんちゃん、だっけか?俺の髪の毛を何に使うつもりなんだ?」  
幼い子供のものとは思えないほど、張り詰めたあんの表情を見て景は静かに問いかけた。  
 
「カツラを作ります」  
「カツラ?」  
「わたしが倫ちゃんになりすまして、囮になるんです……」  
「な、何を考えてるんですか!?そんな危険なマネ……っ!!?」  
望の叫び声も無視して、あんは続ける。  
「この交番の先に続く、倫ちゃん達が逃げていった道は途中でいくつかに分かれてます。  
その内一つは駅前に、そして、さらにもう一つ警察署の前に通じる道があるんです……」  
あんは交番備え付けの地図を取り出し、そこを指でなぞりながら説明していく。  
「あの人たちが倫ちゃんに一番行ってほしくないのは、もちろん警察署です。だから、きっと、警察署までの道であの人たちは待ち伏せをしている。  
だけど、倫ちゃんは頭が良いからそれに気付くはずです。きっと、倫ちゃんは駅前を目指します。そこにも交番はあるし、人がたくさんいて安全だからです」  
「……それで、囮になるっていうのはどういう考えなんだ?」  
「……はい。倫ちゃんが駅前を目指している事、それを気付かれない為に、わたしが偽者の倫ちゃんになって、わざと待ち伏せに引っかかるんです。  
おにいちゃん達は念のために、倫ちゃんを追いかけてください………」  
「わざと、待ち伏せに……罠が張られてるとわかってて、わざわざそれにかかりに行くんですか!?一人きりで……!?」  
あんの作戦を聞いて、苦しげな表情で望が尋ね返した。  
「そうだよ、おにいちゃん」  
「どうしてですっ!?あいつらは普通じゃありませんっ!!!君は自分がどうなってもいいんですかっ!!?」  
望が思わず大声で叫ぶ。  
「……だって、わたしのせいだから…」  
だけど、あんはそんな望ににっこりと、だけど少し悲しそうに微笑みかけて、こう答えた。  
「わたしが偽の情報を流したりなんかしなければ、今回の事ももっと早くおにいちゃんの家の人たちは気付いたはずなんです……」  
確かに、倫の家出を成功させるため、あんが行った情報操作のせいで糸色家の黒スーツ達は完全に混乱してしまっている。  
それがなければ、彼らの直接の助けを期待する事もできた筈だ。  
だけど、それはまだ倫を誘拐しようなどという連中が現れる前の出来事だ。  
「あなたはそんなつもりで、倫の誘拐の手助けをしようとして、あれをやった訳じゃないでしょうっ!!?」  
「だけどっ!でもっ!!現に倫ちゃんは今もあいつらに追いかけられて、必死で逃げ回って……」  
必死の表情で望が叫び、あんもそれに叫び返す。  
あんの声はだんだんと涙声に変わり始めていた。  
「あなたが危ない目にあって、それで倫が助かったって、誰も喜んだりしませんよっ!!」  
「でも、倫ちゃんはわたしのせいで…わたしはこの交番がおかしいのにも気付いてたのに……っ!!!」  
ほとんど泣きじゃくるような声になり始めたあんの肩を、望が強く掴んで叫ぶ。  
「いい加減にしてくださいっ!!!」  
「…お、おにいちゃん……」  
「あなたをそんな危ない所には行かせませんっ!!!それでも、どうしても行くっていうのなら、僕もついて行きますっ!!!」  
「そんな……どうしておにいちゃんまで……!?」  
呆然と見上げてくるあんに、望は優しく微笑んで答える。  
「僕だって、倫を守ってやれなかったのは同じです。それなら、囮は僕の役目の筈です!!」  
「で、でも……」  
「それなら俺も同じだな。それじゃあ、俺達全員で囮チームになるって事でどうだ?  
正直、今更倫たちを追いかけても、追いつけるかどうかは怪しい。逆に敵に倫の行く先を知らせてしまいかねないしな」  
望の言葉に、景もニヤリと笑って応える。  
「だいたい、誰が悪いかなんて言い始めたら、君を巻き込んでしまった僕が悪いって言い方もできます。  
みんなで一緒にここまで来たんです。最後まで一蓮托生でいきましょう……」  
そう言って、望はあんの体を優しく抱き寄せた。  
「君は僕が守ります。絶対に…絶対にです……」  
「…おにいちゃん……」  
そんな二人の様子を見ながら、景はニヤニヤ笑いで茶化してくる。  
「望、なんだか知らないが、お前、そのくらいの年齢差の女の子にはやたらモテるよな?」  
「な、な、な、何言ってるんですか、景兄さんっ!!?」  
「倫ともやたら仲が良いし、将来教師になって生徒とラブラブな毎日を送るってのはどうだ?」  
顔を真っ赤にした望を見て、気を良くした景は今度はあんに話を振る。  
「あんちゃん、望おにいちゃんの事好きか?」  
「好きですっ!!」  
「ラブラブになりたいか?」  
「なりたいですっ!!!」  
「ふ、ふ、二人とも何を言って……!!?」  
慌てふためく望を見て、景とあんは揃って笑う。  
少し前までの張り詰めた空気が和らいで、三人の心にも少し余裕が出来始めた。  
 
「誰かがついてきてるっ!?」  
命が必死で作り出した隙を突いて窮地を脱した倫とその友人だったが、やがて背後に迫る追っ手の気配に気付いた。  
曲がりくねった道のせいで直接姿は見えなかったが、数人の足音と、口汚く倫を罵る声が聞こえてきた。  
ちょうどそんな時、二人は分かれ道に出くわす事になる。  
「倫さん、ここは二手に分かれて逃げましょうっ!!」  
「でも……」  
「とにかく相手を混乱させて、少しでも距離をかせぐんですっ!!さあ、早くっ!!」  
倫の友人の言葉は半分はウソだった。  
彼女は倫が駅前に向かう右手の道を走っていった後、また道の別れ際に戻ってきた。  
そして、後ろにくくっていた髪をほどき、追っ手が来るのを待った。  
少しでも、自分を倫に見せかけるための苦肉の策である。  
(倫さんを、あんな奴らに渡したりしないっ!!)  
追っ手達が分かれ道の手前にやって来た直後に彼女は走り出し、彼らはまんまと彼女の思惑通り倫が進んだのとは逆の道に引き込まれた。  
だが、そこからは彼女にとって、最悪の展開だった。  
敵に対する彼女の持つ最大のアドバンテージ、彼女がいつも携えている日本刀は、彼女が逃げ込んだ竹やぶでは不利な武器だ。  
群生する硬い竹にはばまれて、この竹やぶの中では彼女は日本刀を振り回す事もできない。  
だから、彼女は必死で走る。  
追いつかれれば、その瞬間に彼女の命運は尽きる。  
まさに絶対絶命の状況だったが、彼女の心に後悔は一かけらもなかった。  
彼女はただ大切な友達の、倫の安否だけを心配していた。  
(倫さん、無事でいてください……っ!!!)  
 
そして、望たちのいた交番から遠く離れた雑木林の一角では、例の黒スーツの頭目である青年がヨロヨロと歩いていた。  
こちらの人数の総掛かりで糸色倫を確保する筈が、とんでもない結果になってしまった。  
糸色景の予想外の強さと、糸色命の粘り、そしてそれ以上に致命的だった彼の味方たちの無様な戦いぶり……  
「その結果が、俺のこの有様ってわけだ……」  
青年は必死に抵抗する命ともみ合っている内に、すっかりこの雑木林の中で迷ってしまった。  
「まあ、あの眼鏡のボンボンは、もう駄目だろうがな……」  
しかし、青年はしつこく食い下がる命をついに撃退する事に成功した。  
雑木林の中を移動する内にたどり着いた急斜面に、命を叩き落したのだ。  
生きているのか死んでいるのかは知らないが、少なくともこれで命が青年の後を追って来る事はもうない。  
後は、逃げ出した糸色倫をどうするかなのだが……。  
「ん……!?」  
その時、青年の無線機に仲間からの通信が入った。  
『糸色倫を発見しましたっ!!』  
「そうか、よくやったっ!!それで、場所はどこだっ!!?」  
『は、はい、実はそれが……』  
蔵井沢市内の要所要所に配された見張り役達が発見した、糸色倫の情報。  
だが、それが問題だった。  
例の交番の先でいくつかに別れた道の一つ、警察署に直行するルート上で糸色倫の姿が目撃されたという。  
しかしその一方、糸色倫を直接追跡していた者たちが彼女を別ルートの先にある竹やぶへと入る姿を目撃したという。  
つまり、蔵井沢市内の二箇所で同時に彼女の姿が確認されたという事になるのだ。  
(奴らの作戦か?だが、だとしたら、どっちが本物だ……!?)  
思いがけない事態に青年は歯噛みする。  
偽者に踊らされて人員の配置を誤れば、計画はその時点でご破算だ。  
しかし、糸色家のボディガードとして2年間を過ごし、直接間近で倫の姿を見てきた青年ならばともかく、他の人間にはその判別は難しい。  
こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎて、青年達にとって状況は不利になっていくばかりだというのに……。  
「ええいっ!!ちくしょうっ!!!!」  
叫び声を上げて、ついに青年はその場から走り出した。  
突如、出現した二人の倫、その難題を前に彼が下した決断とは………。  
 
三人は、ただひたすらに走っていた。  
望特性の紫色の煙を放つ混合洗剤をばらまいて、その煙に紛れながらまっすぐに走り続けていた。  
あんが変装した偽者の倫の出来栄えは決して褒められたものではなかった。  
景の髪を糸で器用にまとめ、その部分があんの襟足の髪に隠れるように装着した簡易ウィッグは近くから見ればすぐに偽物だと知れるはずだ。  
倫の着物姿を少しでも再現するために、あんはさらに景の作務衣の上着を着て、  
かわりに景は望の羽織っていた上着を着用、さらに景も命の髪型を真似て命に成りすます事で髪を切った不自然さを少しでも誤魔化そうとしていた。  
無様な出来の変装を、望の投げる煙幕で誤魔化しながら、三人は警察署へ向かう道を急いでいた。  
既に後方からは数人の追っ手が迫っていた上、道はしばらくは一本道。  
挟み撃ちに遭えば一巻の終わりである。  
「だ、だ、だ、大丈夫ですかぁ!?」  
背中にヒリヒリと感じる敵意に恐怖を感じながら、望が震える声で隣を走るあんに尋ねた。  
「…はぁはぁ…おにいちゃんの方が…大丈夫じゃないみたいだよ?」  
「そ、そ、そ、そ、そんな事ないですぅ!!君を守るって、や、や、約束しましたからぁ……っ!!!」  
景はそんな二人の様子を見ながら、額の汗を拭いつつ笑う。  
「まったく、仲がいいな。……それにしても、短髪ってのも意外と過ごしやすいもんだなぁ…」  
全力で走り続ける三人の体力はそろそろ限界だった。  
だが、息を切らして走る望の瞳が、突然に輝いた。  
「や、や、や、やりましたよっ!!見てくださいっ!!!」  
「ああ、わかってるっ!!!」  
三人の進行方向、進む道の先に蔵井沢の住宅街が見えてきた。  
アソコまで逃げてしまえば、敵も周囲の目を気にして手を出しにくくなるはず……。  
今にも膝をつきそうだった三人の体に、だんだんと力が戻ってくる。  
「このまま突っ切るぞっ!!二人とも大丈夫かっ!?」  
景の力強い言葉に、望とあんも肯く。  
だが、その時である。  
「えっ!?」  
「なんだ、車!?…うわああ、こっちに突っ込んで来るっ!!?」  
その住宅街から飛び出した自動車が、猛スピードで望達に真正面から突っ込んできた。  
咄嗟にその場に停止した望達にぶつかる直前で、自動車は道を塞ぐように斜めに停車した。  
そして、その車から降りてきたのは、やはり倫を狙う一味と思しき黒服の男達だった。  
「くそっ!!あの娘、糸色倫じゃないな。まんまと騙された訳だ……どうする?」  
「仕方ないさ、もう計画も滅茶苦茶だ。コイツらも糸色家の人間だろう?  
叩きのめして、糸色倫の居場所も聞き出して、まとめて人質にすればいいさ……」  
物騒な事を話し合う男達から、望達がジリリと後ずさると、今度は望達を追いかけていた男達も追いついてくる。  
まさに前門の狼、後門の虎、絶対絶命の状況である。  
(どうします、景兄さん?)  
(突破するなら車を盾にしてる前側よりも、後ろの連中の方が楽なんだが、ボーガン持ってる奴が何人かいるな……)  
(煙幕ならまだ余ってますよ)  
小声で脱出方法を話し合う望と景に、あんも口を挟む。  
(くるまを盗んじゃうのはどうですか?)  
(なるほど、それが一番確実かもしれんな……)  
(景兄さん、運転できるんですか?)  
(免許はないが、ネパールでトラックの運転して稼いだ事はあるっ!!)  
三人の覚悟は決まった。  
もはや退路はなく、前に進む以外の道はない。  
「いくぞっ!!!」  
景の掛け声と共に、三人は走り出した。  
すぐさまボーガンを構えた背後の男達めがけて、望は件の混合洗剤を投げつけて紫色の煙で視界を奪う。  
前方、車に乗ってやって来た男達は合わせて三人、その内二人が警棒を、そして一人が高電圧タイプの警棒型スタンガンを持っていた。  
だが、景は怯まない。  
スタンガンの男に真っ先に当身を食らわせ、逆に奪い取ったスタンガンで瞬く間に残りの二人を昏倒させる。  
「望っ!!車は奪ったぞっ!!!」  
景が叫び、あんが開けっ放しの助手席に転がり込む。  
後は、望が後部座席に乗り込めば、この場を離れる事が出来る。  
その筈だった………。  
(えっ?あれは………っ!?)  
だが、望は見てしまった。  
紫の煙幕を潜り抜けてこちらに向かってくる男、その手に持っているのよりにもよってボーガンだった。  
その矢の照準はまっすぐに、助手席に座る、あんに向けられていた。  
 
「くらえぇええええええっ!!!!!」  
男が叫び、引き金を引く。  
それを見て、望は何も考えずに飛び出していた。  
「うわぁああああああああああっ!!!!!!」  
ビュンッ!!!  
勢い良く放たれた矢は、あんに命中するより早く、その手前に立ち塞がった少年の脇腹を貫いた。  
「おにいちゃんっ!!!!」  
真っ青な顔で、あんが叫んだ。  
さらに、続いて現れた男達の放った矢が、次々に車のタイヤに命中していく。  
「しまった……」  
景が歯噛みした時には全てが遅かった。  
自動車は発進不能になり、望は暴漢達に首筋にナイフを当てられ、人質にされてしまっていた。  
「けい…にいさん……はやく…にげてくださ……」  
痛みをこらえ、必死にそれだけを口にする望。  
だが、今の景に目の前の弟を見捨てて逃げることなどできなかった。  
(俺が馬鹿だったのか…?倫の事を考えてるつもりで、今度は弟を危険な目に遭わせちまった……)  
「おにいちゃん…ごめんなさい……わたしが…わたしのせいで……」  
「だから、そういうのは…もういいですよ……それに、まもるって約束したのは…ぼくなんだから……」  
泣きじゃくり、今にも飛び出して行きそうなあんを必死で押さえつけながら、景は男達を睨みつける。  
今度こそ完全なゲームオーバー、望達の命運はついにここに尽きたかのように思われた。  
だが、しかし………。  
「ん、なんだアレ?」  
望を捕らえた男がふと空を見上げると、空中に弧を描いてこちらに向かって飛んでくる茶色い何かが見えた。  
それは男の頭上を、そして男の背後の仲間たちを飛び越え、地面に落下し………  
粉々に割れて、猛烈に燃え上がり始めたっ!!!!  
「も、燃えてるっ!!?」  
「コレ、火炎瓶だぞっ!!!」  
驚愕する男達をよそに、次々と投げ込まれてくる火炎瓶によって、ついに男達の後方を炎の壁で閉ざしてしまう。  
誰もが予想だにしなかった事態の中で、望だけは薄っすらと気付いていた。  
「火炎瓶って、まさか……」  
やがて、望の予期した通り、彼らは現れた。  
揃いのヘルメットにゲバ棒を装備した、高校生と思しき四人の少年達が、いつの間にやら車のボンネットや屋根の上に立っていた。  
「な、な、なんだお前たちはっ!!?」  
「凹乱高校ネガティ部、資本主義の持つ本質的な歪みに鉄槌を加える者だ」  
四人の中、ヘルメットを外した長髪の男が名乗った。  
「ぶ、部長っ!!…どうして…ここに!?」  
脇腹の痛みも忘れ、驚き呆れる望の問いに、部長と呼ばれた男はニヤリと笑って答える。  
「何、今日は不審な電波が随分と飛び交っていたからな。怪しいと思って少し調べたら、お前たちに行き当たったわけだ」  
それから、部長は炎に焼かれてうろたえる男達を見下ろしてこう言った。  
「しかし、まあ、随分とつまらん連中だな」  
「な、なんだと……お前ら、我々と戦うつもりか?…こっちには人質も…」  
「それは困る。糸色は大事なウチのエースだ。こんな所で死なせるわけにはいかない。……よし!」  
ナイフを突きつけられた望の様子を見てから、部長はゆっくりと右手を上げた。  
すると、残る三人の部員達は各々両手に火のついた火炎瓶を持ち……  
「やっちゃえ」  
部長の一声と共に、男達に向かって投擲を始めた。  
「う、うわああああああっ!!!!」  
「こっちに来るぞっ!!!」  
火炎瓶はどれも男達に直撃する事はなかったが、一つ投げられるごとに、彼らの逃げ場を奪っていく。  
「わかってると思うが、わざと当ててないんだからな……まあ、このまま投げ続けたら逃げ場が無くなって結局丸焼けだが……」  
「無茶苦茶だ。貴様ら自分のしてる事をわかっているのか……っ!!?」  
あまりに残虐なネガティ部の攻撃に望を人質に取った男が叫ぶ。  
だが、部長は眉一つ動かさず、男を見下ろしながら冷酷に言い放った。  
「うるさいっ!!!さっさと糸色を解放して降伏しろっ!!!なんなら、お前以外の全員を焼き殺してから交渉してもいいんだぞ?」  
「ひ…ひぃ……っ!!?」  
部長の怜悧な眼差しに射抜かれて、男は望に突きつけていたナイフを取り落とし、その場にへたり込んだ。  
「…部長……も、もうちょっと助け方ってものがあるでしょう?」  
「すまん。お前のその有様を見たら、ついカッとなった……」  
男から解放され、支えをなくしてふらつく望の体を、部長が受け止めた。  
 
さらに、傷ついた望の元に景とあんが駆けつける。  
「望、大丈夫か……!?」  
「ええ…矢が刺さったのは脇腹ですけど、内臓には当たってないみたいなので……」  
「…おにいちゃんっ!…おにいちゃんっ!!…おにいちゃん――――っっっ!!!!」  
少し痛そうに顔をしかめてから、望は地面に膝をつき、すがりついてくる少女の頭を優しく撫でてやった。  
 
こうして、この場で望達に襲い掛かってきた暴漢達は壊滅。  
望達は警察に事情を説明し、行方不明の命や、倫とその友人の捜索と保護を依頼する事となった。  
 
その頃、竹やぶの中を逃げ回っていた倫の友人も、最大のピンチに立たされていた。  
慣れないでこぼこの地面で足をくじいた彼女は、ついに追っ手に追いつかれようとしていた。  
「はぁはぁ…散々逃げ回ってくれやがって、結果がコレとはな……」  
「なるほど、友達のために囮を買って出たわけだ。泣かせる話だねぇ……」  
今、彼女を囲む男達の数は4人。  
彼らの内二人が特殊警棒を、一人がスタンガンを、そしてもう一人がボーガンを持っていた。  
一方の彼女の持つ日本刀は、この竹林の中では圧倒的に取り回しが悪い。  
人数の差も考えれば、到底凌ぎきれる筈も無かった。  
だが、それでも彼女は健気に刀を構え、迫り来る悪漢達と対峙していた。  
「まあいい。こいつも捕まえれば何かの役には立つだろう。いくぞっ!!」  
「ああ、わかったっ!!!」  
四人の内、特殊警棒を持った二人が彼女の左右から襲いかかってくる。  
彼女はまず左の男に向かって突きを繰り出し、一度、敵を間合いの外に追い払う。  
そして、次に右からやって来る男に対応しようとしたのだが……  
「あっ…しまった!!」  
予想以上に近付いていた右手の男に焦って、彼女は刀を横に振るってしまった。  
刀は一本を切りつける形になり、そのまま刃が食い込んで抜けなくなってしまった。  
右の男は竹に食い込んだ刀をさらに日本刀で押さえつけ、完全に彼女の武器を封じてしまう。  
「散々、物騒なものを振り回してくれやがって……オーイ、さっさとこの糞餓鬼を黙らせてくれっ!!」  
そして、後方に控えていたスタンガンの男を呼びつけた。  
どうやらスタンガンで彼女の意識を奪ってしまえという事らしい。  
呼ばれた男はわざとらしくスタンガンの火花をバチバチと飛び散らせながらこちらに歩いてくる。  
早く逃げなければ!!  
彼女の心が警鐘を鳴らしたが、気持ちとは裏腹に足がガクガクと震えて全く身動きが取れない。  
「さあ、痛いのは一瞬だからな……我慢しろよ」  
ついにスタンガンの男が目の前までやって来て、ついに彼女は恐怖のあまり目を閉じた。  
そして、すぐにでも彼女を襲うだろう高圧電流の衝撃を想像して、全身を固く強張らせていたのだが……  
「な…がはぁああああああっ!!!!!」  
ドゴッ!!!  
鈍い音が響いて、スタンガンの男の悲鳴が聞こえた。  
「な、なんだお前は!?どっから湧いてきた!!?」  
「それはこっちの質問だ。こんな小さな子供に、お前たち、寄って集って何をしているっ!!?」  
戸惑う男達の声と、朗々と響く青年の声。  
彼女は恐怖を必死にこらえて、薄っすらと目を開けた。  
そこに立っていたのは………  
「なんだ?お前、良く見りゃあ、あの糸色の餓鬼共と瓜二つだな……」  
「何?お前ら、望や命の事を知っているのか!!!」  
鋭い目つきと整った顔立ち、男達の言う通りその容貌は糸色命や望にそっくりだった。  
少しクセのある髪の毛と、楕円のレンズの眼鏡はどちらかというと望に近いものを感じさせたが、  
細身ながらも全身にくまなく力が行き届き、一分の隙も感じさせないその様子は彼女の知っている倫の他の兄達とは一線を画していた。  
 
「もしかして……あんたが糸色の兄弟の長男坊か?…確か、糸色縁とか言ったか?」  
「そうだ……」  
「コイツはいい。囮に騙されて、ハズレを引いたかと思ったが、とんだ拾い物だ……」  
男達の顔に下卑た笑いが浮かぶ。  
元来、彼らが倫を誘拐の標的に選んだのは、まずは比較的に誘拐を成功させやすい相手だった事。  
次に、四人兄弟の後にようやく生まれた一人娘として、家族に溺愛されており、人質としての価値が高かった事があった。  
だが、今ここに、糸色家の長男がボディガードもつけずに、一人で立っている。  
彼らにしてみれば、これ以上の好機はなかった。  
「悪いな、お坊ちゃま、俺達はあんたの親父さんに死ぬほど恨みがあるんだ。大人しく捕まってもらうぜ」  
「逆恨みか……」  
「何とでも言えよ。俺達が考えてる事は唯一つ、お前達糸色の一族を滅茶苦茶にしてやる事だけなんだからな……」  
男達の言葉を聞いて、縁はふっとため息をつき、それからふいに背後にへたりこんでいる倫の友人を振り返った。  
「どうやら、糸色家の事情でとんでもない事に巻き込んでしまったみたいだね」  
「いいえ……私はただ、倫さんに無事でいてほしくて……」  
「なるほど、倫の友達だったんだね。あの子もいい友達が出来たんだな……」  
それから、縁は前方で武器を構える男達を睨みつけて、彼女に言った。  
「しばらくの間、君の刀を借りる。いいかな?」  
「は、はいっ!!」  
彼女の答えを聞いてから、縁は竹に食い込んだままの刀を抜き取り、さらに鞘を受け取る。  
そして、ついに縁と悪漢達の戦いが始まった。  
「ばーかぁ!!そんな大仰な武器が、この竹林で役に立つかよっ!!!」  
最初に突っ込んできたのは、特殊警棒の男の内の一人だった。  
竹を盾にするようにジグザグに走ってくる男。  
だが、縁はそれを見ても何ら慌てる事無く、男が構えた警棒めがけて横なぎの一閃を放った。  
「かぁあああああっ!!!!!!」  
「なっ!!?」  
凄まじい気合と共に繰り出された一撃は、三本の竹と特殊警棒をいともたやすく断ち切った。  
切り倒された竹は得物を失い呆然とする男めがけて倒れていく。  
その衝撃に男がたじろいだ時には、既に縁は男の目の前までやって来ていた。  
「一人目……」  
縁は刀を持った手首をくるりと返し、その柄頭で男の顎を強かに打つ。  
さらに、昏倒した男が地面に倒れるよりも早く左を振り返ると、そこには同時攻撃を狙っていたもう一人の特殊警棒の男がいた。  
縁は、今度はその男めがけて、左手に持った鞘を使って強烈な突きを繰り出す。  
それは、竹と竹の間を見事に潜り抜け、男の鳩尾に命中した。  
「か…はぁ……」  
「二人目………」  
瞬く間に二人の仲間を倒されて、後方に控えていたボーガンの男は一瞬、縁に対して狙いを定める事さえ忘れていた。  
その隙に、縁は竹林の間を駆け抜け、男がボーガンを構え直した時にはすでに残り四メートルの距離まで詰められていた。  
(ちくしょうっ!!なんなんだこのバケモノは……だが、この距離ならボーガンの方が早い……っ!!!)  
足元の安定しない竹林の中の四メートルは、一足飛びに踏み込めるような距離ではない。  
たとえ急所でなくとも、腕でも脚でも一発当てて、怯んでいる隙にもう一撃をゆっくりと命中させてやれば……  
ボーガンの男と縁は真正面から対峙したまま、互いに攻撃のタイミングを図る。  
数秒が過ぎて、先に動いたのは縁だった。  
(馬鹿めっ!!…こいつを喰らえっ!!!)  
だが、引き金を引こうとした男の指はギリギリで止まった。  
何故ならば……  
(き、消えた……!?)  
しかし、次の瞬間、手の甲に走った焼けるような痛みに男は我に返った。  
「あっ!?あああああああっ!!!!!」  
斜め下から手の甲を正確に狙って放たれた斬撃は、まるで野生の獣の如く恐ろしく体勢を低くした縁が放ったものだった。  
その痛みに、ボーガンを反射的に手放してしまった男に、もはや勝ち目はなかった。  
「三人目……」  
男は、そのまま縁が左手に握った鞘で繰り出した横なぎの一撃によって気を失った。  
そして、三人の男達を瞬く間に倒した縁が、残りの一人、スタンガンを持った男の方を振り返ると……  
「四人目は……もう何もする必要はないみたいだな」  
スタンガンの男はよほど臆病だったのか、恐怖のあまりに失神していた。  
 
四人全員を倒した事を確認すると、縁は僅かに残った血のりをちょうど持っていたハンカチでぬぐい、刀を鞘に納めて倫の友人のところまで戻ってきた。  
「ありがとう、助かったよ……」  
「いえ、こちらこそ危ない所を助けてもらって、ありがとうございました」  
だが、そう礼を言ってぺこりと頭を下げた彼女の前で、縁は少し複雑そうな表情を見せた。  
「あの、どうかなさったんですか?」  
「……いや、いくらなんでも、やりすぎだったんじゃないかと思って……」  
縁は気絶した四人の暴漢を見ながら、気まずそうに呟いた。  
「みんな、さぞ痛かったろうなぁ……と。最後の一人にしたって、手の甲を切るんじゃなくて、峰打ちにでもすれば十分だったと思うし……」  
どうやら、この糸色家の長兄はその強さとは裏腹に、相当な非暴力主義者らしかった。  
「そういえば、前に望が学校でいじめに遭った時も……それに、命が不良に絡まれた時だって……」  
しかも、どうやら一度ネガティブ思考を始めると、どんどんと加速していってしまう質らしかった。  
倫の友人は、先ほどとは打って変わった縁の情けない姿に苦笑しながらも、彼に穏やかに言葉をかけた。  
「縁さま、縁さまはあの場でできるかぎり、相手に無用な傷を与えないようにしていたではないですか……」  
「ほ、本当にそうなのかな?」  
まるで子供のように不安げな表情の縁に向けて、彼女は優しく微笑んでこう言った。  
「はい。縁さまはとても強くて、そして、とても優しい人です……」  
 
かくして、望達に続いて倫の友人も助け出され、これで倫を狙う敵のほとんどが壊滅した筈だった。  
倫自身も敵に行方を悟られぬまま、蔵井沢駅に向かう道を逃げ延びている筈であり、行方不明の命を除く全員がほぼ窮地を脱した筈だった。  
だが、しかし………。  
その頃、蔵井沢市内に、爆音を轟かせて一台のバイクが疾走していた。  
「さぁて、俺の勘が当たるか外れるか、勝負といこうかっ!!!」  
 
倫は必死で歩いていた。  
左手には相変わらずの雑木林、右手には畑、その間の道を倫は歩き続ける。  
今日一日歩き通しだった彼女の足はすでにガクガクと震え始めていたが、それでも懸命に足を前に踏み出していた。  
命が、望が、景が、あんが、最後には大切な友人までもが、命がけで倫を逃してくれた。  
今、ここで諦めるわけにはいかない。諦めたくはない。  
「命…おにいさま……私…がんばりますから……っ!!」  
小さく兄の名を呟いて、倫は今にも折れてしまいそうな自分の心を励ます。  
あの時、命は倫を逃がすために、凶悪な凶器を持った相手に素手で立ち向かっていったのだ。  
いつだって、優しくしてくれた。  
倫よりずっと年上なのに、彼女の話を子供の言う事だからと馬鹿にせず、いつもきちんと聞いてくれて、答えを返してくれた。  
真面目で頭が良くて、頼りになる倫の自慢のお兄様。  
たまには失敗したりもするけれど、決して諦めずに最後まで頑張り抜く強い心を持った人。  
命の下の兄である望だって、文句を言いながらも、そういう所はしっかりと認めていたと思う。  
そんな命に、彼女はいつしか、憧れと強い好意が混ざり合ったような、不思議な感情を抱くようになっていた。  
瞼を閉じて、命の事を思うと、胸の奥にポッと小さな炎が灯る。  
それを支えに、倫はここまでの道のりを歩き通してきたのだ。  
(命おにいさまは、あんなに必死に私を守ろうとしてくださった。だから、私も……っ!!!)  
ふらつきながらも踏み出す小さな一歩、その積み重ねは今、倫の前で一つの成果を見せようとしていた。  
ついに、道の向こうに蔵井沢の駅前の建物が小さく見え始めたのだ。  
「もう少し……もう少し、ですわ……っ!!」  
具体的なゴールが見えてきた事で、倫の体に僅かに元気が戻る。  
一歩、また一歩、倫は蔵井沢の駅前まで確実に歩を進めていく。  
だが、最終地点の事だけに頭を集中させ、必死で歩く倫はいつの間にか周囲に対する警戒心を失ってしまっていた。  
だから、倫がその男の存在に気付いたのは、既に彼の立つ場所の100メートルほど手前に来たときの事だった。  
「えっ……!?」  
最初は我が目を疑った。  
道端に停車したバイクに寄りかかる黒スーツの青年。  
100メートルの距離を置いても、倫にはそれが誰なのかまざまざと思い出す事ができた。  
家出をした倫に突然襲い掛かってきた悪漢達、その指揮をしていた年若い男。  
糸色家の内部に2年間も潜り込んでチャンスを窺っていたスパイ。  
楽しそうだから、などというふざけた理由で倫の誘拐に加担する事を決めた得体の知れない恐ろしい男。  
「やあ、お疲れ様……」  
「ひっ!!?」  
 
突然、青年に声を掛けられて、咄嗟に逃げようとした倫だったが疲れきった体は思うように動いてくれず、  
倫の足は無様にもつれて、彼女はその場に尻餅をついた。  
そんな倫の様子をさも楽しげに眺めながら、青年は近付いてくる。  
「随分待ったよ。一旦、蔵井沢の市街に出て、バイクを盗んでここまでやって来たんだ。  
遅すぎて途中ずいぶんイライラしたけど、そんなちっちゃな足じゃあ仕方なかったね……」  
「どうして…ここにいるんですの?」  
「勘…ってとこかな?逃げ込む先としてはそりゃあ警察署がベストだろうけど、安全が確保できれば、  
何もそれに拘る必要はないんじゃないかと思ってね。警察署へのルートは仲間が押さえてたし、せっかくだから俺はこっちに来たのさ」  
青年は見抜いていた。  
警察署に限らずとも、それなりの人通りと交番などがある場所へ行けば、倫は安全に逃げ延びる事が出来るのだと。  
だから、二つの倫目撃情報には目もくれず、ここで彼女を待ち伏せする事にした。  
「結果は大正解、おかげで君とたっぷり遊べる……」  
「いや…いや、来ないでっ!!助けてっ……命おにいさまっ!!!」  
絶対の窮地に立たされた倫は無駄と承知で頼れる兄の名前を呼んだ。  
そうでもしなければ、恐怖で心がどうにかなってしまいそうだったからだ。  
だが、しかし……  
「命?ああ、俺にしつこく纏わりついてきたあのお坊ちゃまか……」  
青年の言葉で倫は思い出す、命はこの青年ともみ合いになって雑木林に姿を消したのだ。  
しかし、この青年は今もこうして倫の前に立ち塞がっている。  
と、いう事は………  
「いやぁ!!命おにいさまっ!!命おにいさまぁあああああっ!!!!!」  
「あはははははっ!!気付いたんだ?その通り、俺がここにいるって事は……」  
「いやぁあああああああああああっ!!!!!!」  
半狂乱で泣きじゃくる倫を見て、青年は愉快そうに笑う。  
だが、彼は途中でその笑いを止めて  
「ごめんごめん、冗談だよ。アイツがどうなったかは実は俺も知らないんだ……」  
「え…えっ!?」  
「まあ、高い斜面から突き落としてやったから、生きてるかどうかもわからないけど……まあ、直接殺した覚えはないなぁ」  
その言葉に少しだけ安堵の表情を取り戻す倫。  
だが、その頬にヒヤリとした感触が押し当てられる。  
「あ…うあぁ……」  
「君はそんな事心配しなくてもいいんだよ。あんなヤツどうなろうと、俺にはぜんぜん関係ない……」  
刃渡り30センチの大型ナイフ、その冷たい刃が倫の頬を撫でる。  
そして、青年は倫の耳元で己が願望をそっと囁いた。  
「俺が殺したいのはさぁ、君みたいな小さな女の子なんだから……」  
「こ…ろす…?」  
「そう、殺す。誘拐じゃなくて、殺すの。まあ、時間を掛けて殺したいから、結局誘拐はしなきゃならないんだけどね……」  
それが青年が計画に参加した目的の全てだった。  
『楽しそうだから』というあの言葉の、本当の意味だった。  
「君を殺す。指を、耳を、目を、鼻を、唇を、そして内臓を、体の部品を一日に一つだけ切り取って、  
君が何もない、がらんどうの皮袋になってから心臓を取り出すんだ……」  
うっとりとした口調で、男は倫に彼女自身の解体計画を語った。  
「君と楽しむための用意は既に出来てるんだ。清潔な部屋や、医療器具、内臓が無くなってからの食事になる各種の点滴や、  
君の健康を保つための薬まで、二年間の間にこの日だけを夢見て準備してきたんだ………」  
「…いやぁ…いやいや…そんなの……」  
青年は道にへたり込んだ倫の首根っこをつかみ、無理矢理に抱き起こす。  
「想像してごらん。だいたい2ヶ月ぐらいは掛かるかな?その頃の君には手も足も、その綺麗な髪の毛も真っ黒い瞳も無くなって、  
ただ息をするための肺と、血液を送り出すための心臓だけが残された、人間の残骸になるんだ。素敵だろう……?」  
倫は何度も叫ぼうとした。  
近くに民家は無かったが、それでも一縷の望みにかけて大声で泣き叫びたかった。  
だけど、全身がこの男の視線によって氷付けにされたようで、小さな歯はガチガチと鳴るばかりで喋る事もできない。  
手も足も、身動き一つ出来なくなった今の倫は、まるでこの青年のための人形になったかのようだった。  
「さて、そこでだ……」  
青年は片手に持ったナイフを倫の右の耳たぶに当てた。  
「一日に一つの部品、それはもう言ったよね?今日、君の体から消えて無くなるのは……この可愛い耳だ」  
青年がさも楽しげに笑う。  
 
「犯行現場に残されたのは、切り取られた耳たぶが一つきり。生活反応がある事から、生きている内に切り取られたのは確実だ。  
ミステリーとしてはなかなかそそる導入部だ。糸色のお坊ちゃま達には随分な読書家もいるけれど、推理モノはお好きかな?」  
叫べ、叫べ、叫ぶんだっ!!!  
こんな男の思い通りになんてなってはいけない。  
こんな終わり方じゃ、みんながあんなに頑張って私を助けてくれた意味がなくなってしまう。  
コイツは今の私を、悲鳴を上げる事も出来ない無力な存在だと舐めきっている。  
そんな事、許せるものか!!  
叫べっ!!  
叫んで、暴れて、思い知らせてやるんだ。  
私は、糸色倫は、お前なんかの言いなりにはならないんだってっ!!!!  
倫は震える体と、恐怖に染まりきった心の中から、必死でこの青年に抗うための何かを探す。  
どんな時でも、折れない、負けない、倫が彼女の全存在を託す事の出来る何かを見つけ出すんだっ!!!  
「さあ、いくよ……」  
ジワジワと近付いてくるナイフ。  
倫の心はその恐怖に抗って、抗い続けて、そしてついにソレを見つける。  
「……………」  
小さく開いた口から、肺一杯に空気を吸い込む。  
この一言のために、全身が砕け散っても構わない。  
倫は渾身の力を震える喉に集めて、その言葉を叫んだっ!!!!  
 
「命おにいさまぁああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!」  
 
思ってもみなかったほどの大声を上げた倫に、青年は一瞬たじろいだ。  
ナイフの切っ先は方向を誤り、倫の耳たぶの端っこを傷つけただけで終わる。  
さらに、その叫び声は恐怖で固まっていた倫の全身に力を取り戻させる。  
ジタバタと暴れ始めた倫を押さえつけようと悪戦苦闘しながら毒づく。  
「何が命おにいさまだっ!!誰を呼ぼうが、何を叫ぼうが、今更君に助けなんて………っ!」  
 
だが、しかし……っ!!!!  
 
「ここに……いるぞっ!!!!!!!!」  
青年の真横から、強烈なパンチが襲い掛かった。  
思いがけない方向からの衝撃に、青年の体はあっけなく吹き飛ばされる。  
そして、青年の手から解放された倫の体は、地面に落ちる前に優しく力強い何かに受け止められた。  
「な、なんでだよっ!?あの斜面から落ちたんだぞっ!!!どうしてお前が、今、こんな所にいられるんだっ!!!!」  
「昔、父さんに武道の稽古でしごかれてたとき、他の事は大して出来ないのに受身ばっかり上手で、よく兄さん達にからかわれたよ……」  
そこにいた人物。  
他の誰であろう筈もない。  
額には血の跡が残り、衣服は至る所がボロボロに破れ、眼鏡のフレームも僅かに曲がっていた。  
斜面を落ちた時に怪我をしたのであろう左足は立っているのがやっとという様子だったけれど、倫を抱きしめる腕だけはどこまでも力強かった。  
「みこと…みことおにいさまぁ……」  
「無事で良かった、倫……」  
糸色命は傷だらけの顔を倫に向けて、優しく微笑んだ。  
「くそっ!!今更、ここまで来て、お前みたいな怪我人なんかに……」  
青年がナイフを構えて、ゆらりと立ち上がる。  
だが、命は欠片の動揺も見せない。  
「ぶっ殺してやるっ!!倫以外はどうでもいいつもりだったが、お前はもう許さないっ!!!」  
「無理だよ。俺はもう倫を泣かせるような真似は絶対にしない。今、俺が死んだら倫を泣かせてしまうんだ。そう簡単に、殺せると思うなよ!!」  
命は倫を地面に下ろし、不安げなその顔に優しく微笑む。  
それからゆっくりと、怪我をした足を引きずりながら、青年に向かって歩いていく。  
命の余裕は何も精神的なものだけではなかった。  
雑木林でさんざん取っ組み合いをして、彼は理解したのだ。  
「うあああああああああああああっ!!!!!!!」  
ナイフを構え、まっすぐに突っ込んで来る青年、だが、命はそれを僅かに横にずれてかわす。  
青年はそこからナイフを横なぎに振るって、追撃を仕掛けようとするのだが……  
「やっぱりナイフ頼みか……っ!!!」  
その腕を、命に受け止められてしまう。  
 
そして、命はそのままその腕をホールドし、そこに全体重をかけた。  
「ぎゃっ!?うああああああああああああああっ!!!!!」  
「お前は凶器に頼ってしか喧嘩ができない。その癖、それを扱う技術を鍛えているわけでもない。  
お前の強さと自信の源は、自分がその大きなナイフを握っているという事、ただそれだけだっ!!!!」  
父・大から武道をある程度学び、また医師を志す過程でさまざまな医学書に目を通してきた命は、人間の体のつくりを熟知していた。  
命が青年の手首をひねると、彼の手の平からナイフが滑り落ち、そして、もう一ひねりするとゴキリ、という嫌な音と共に青年の腕から力が抜けた。  
「ああああああっ!!!!痛いっ!!!痛いぃいいいいいいいっ!!!!!!」  
「そんなに騒がないでくれ、肩の関節を外しただけなんだ……」  
それから命は、青年が倫を攫うときのために用意していたと思われるガムテープで彼を縛り上げた。  
それから、倫の元へと歩み寄り、地面に膝を突いて、妹の体をぎゅっと抱きしめた。  
「倫……っ!!!!」  
「命おにいさま…ちょっと痛いです……」  
倫は最愛の兄からの抱擁に対して、自分も命の体を抱きしめる事で応えようとした。  
だが、その直前、倫はある事に気付く。  
「命おにいさま……泣いていらっしゃるの……?」  
命は泣いていた。  
ボロボロと涙をこぼし、倫の頭を何度も何度もクシャクシャと撫でながら、泣き続けていた。  
「ありがとう……倫……」  
「えっ?…ど、どうして…命おにいさまがお礼を言うんですの?命おにいさまは私を助けてくださって……」  
「だって、倫はあの時、僕を呼んでくれたじゃないか……」  
青年に斜面から突き落とされた後、命はボロボロの体で雑木林をさまよっていた。  
おそらく、倫は蔵井沢駅に向かう筈だと考え、おおよそその方向に向けて歩いていたが、自信はなかった。  
もし、倫に何かあったら……。  
焦燥に駆られながら歩き続けた命、だが、その耳に届いた声があった。  
『命おにいさまぁああああああああああっ!!!!!』  
倫が、最愛の妹が自分の名を呼ぶ声。  
命は体の痛みも忘れて、必死に声のした方に走った。そして………  
「あの時、倫が僕を呼んでくれなければ、僕は倫を、大好きな妹を失うところだったんだ。だから………」  
それ以上は言葉にならず、子供のように泣きじゃくる兄を、倫は今度こそぎゅっと抱きしめた。  
空では太陽が西へと傾き、だんだんと近付いてくるパトカーのサイレンの音が長かった一日の終わりを告げていた。  
 
暗い部屋の中、灯りの一つもつけず、妙はずっと待っていた。  
今日の事件の発端、糸色流華道に関する自分と娘の諍い。  
それが、倫をはじめとした彼女の子供達が謎の暴漢に襲われるという大事件に発展してしまった。  
既に、景や望とその友人であるという少女、縁に助けられた倫の友人の無事は確認されていたが、  
倫と命は未だどこにいるのか、行方不明のままであった。  
「…今日は、倫にも言い過ぎてしまったものね……」  
倫に対して、糸色流華道の基本が出来ていない、とまで言った妙だったが、この発言にはもう少し言葉が足りなかった。  
倫は、糸色流華道の基本が『完璧には』出来ていない。  
それが、正確なところだった。  
「なのに私は、自分の焦りをあの娘にぶつけたりして……母親としても、華道の師匠としても失格ね……」  
彼女がそこまで激昂してしまった理由の一つには、ここ最近のストレスがあった。  
だが、最終的に彼女の怒りのトリガーを引く事となったのは別の要素だった。  
ちらり、妙は倫が今日活けた花を見た。  
色とりどりの花を生けた、まるで花火か、遊園地のような生け花だった。  
問題は、ここに使われている花の種類である。  
数だけ見ても多種多様なそれは、全て妙の好きな花だったのだ。  
妙は、それらの花々を一つの生け花の中で使用する事を自らに禁じていた。  
個性の強すぎるそれらは、結果として互いを潰し合い、作品を破綻させる事になってしまうからだ。  
だが、倫はそれを全て一つの作品に盛り込んだ。  
それが、妙にはどうしても許せなかったのだが………  
「こうして見れば、これも決して悪くはない生け花なのにね………」  
だが、今になって、妙には倫の意図が理解できてきた。  
 
重ねて使う事を禁止された花々をあえて使ってみようという、娘らしい挑戦心。  
そして、母親の好きな花で活けてみたいと考えた、倫なりの母への思いやり………。  
それがどれだけ難しい事かは、倫も理解していた筈だ。  
だけど、倫はそれに挑戦し、しかも、ある程度以上の水準を持った作品にまで仕上げてみせたのだ。  
全ては、この生け花を母に、妙に見てもらいたいという倫の優しさだったというのに……。  
「倫……命……ごめんなさい…」  
花を抱き寄せ、妙は一筋の涙をこぼした。  
その時である。  
静かに障子が開いて、当主・大が姿を現した。  
妙が恐る恐る顔を上げると、その顔には満面の笑顔が浮かんでいた。  
「…倫と命が見つかった。命の方は足と胸を怪我しているが、二人とも無事だよ……」  
 
「倫っ!!倫―――っ!!!!」  
「おかあさまっ!!!」  
糸色家の屋敷の門の前、互いに泣きじゃくりながら駆け寄った母娘は固く固く抱擁をする。  
その様子を眺める、景、命、望の顔に浮かぶのは、安堵に満ちた笑顔だった。  
「命兄さん…あの、その……本当に、倫を、ありがとうございますっ!!」  
「よせ、望、俺だって倫の兄なんだ。っていうか、それだと、俺が助かったのがついでみたいじゃないか!!!」  
「そうだな…命も、よく無事でいてくれた……雑木林を探し回っても見つからなかった時は、望と二人、本当にどうしようかと思ったぞ」  
そうやって、互いの無事を喜び合う糸色の兄弟の足元では、倫の友人とあんが何やらぺちゃくちゃと話していた。  
その内容が気になって、望がしゃがみこんで、あんに尋ねてみると  
「おにいちゃんの家の、一番上のおにいさんの話をしていたんです!!」  
「ああ、縁兄さんの」  
どうやら、ピンチを助けられた鮮烈な経験のおかげで、倫の友人は縁の事が大好きになってしまったようだ。  
「本当に素敵な方です……。あの後、まるで風のように消えてしまわれたけれど……」  
「あの、それ多分、はぐれちゃっただけだと思いますよ………」  
 
平和そのものといった光景に囲まれながら、命はあの時の倫の声を思い出していた。  
あの声がなければ、今のこの平穏も無くなってしまっていたのだ。  
『命おにいさまぁああああああああああああああっ!!!!!!!!!!!!』  
何度も、頭の中であの声を噛み締める。  
あの時、倫は自分の全てを懸けて、命の存在を求めてくれた。  
それを思うたび、命の胸の内にこみ上げてくる熱い気持ち。  
(僕は、倫の事を………)  
ふと見ると、倫がこちらに振り返り、大きく手を振っていた。  
「命おにいさまっ!!!!」  
(そうだ!これからも、何度だって、いつだって、………)  
何度だって応えよう!何度だって駆けつけよう!!  
君が僕を呼ぶのなら、君が僕を求めるならば………。  
芽生え始めた熱い感情を胸に秘めたまま、命は倫の元へゆっくりと歩き出した。  
 

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