春を彩った満開の桜の花々もあらかた散り終えて、空の青と鮮やかなコントラストをなす瑞々しい新緑が辺りを覆い始めた頃。  
信州蔵井沢随一の名家、糸色家の大きなお屋敷の中の一室に、何かを言い争う母娘の声が響き渡っていた。  
「おかあさまの事なんて、もう知りませんっ!!!」  
「コラっ!!倫、お待ちなさいっ!!!」  
勢い良く障子を開け放って部屋から飛び出してきたのは、年の頃は五つほどの着物姿の小さな女の子だった。  
波打つ滑らかな黒髪と、幼いながらも整った顔立ちの美しい少女は目に涙をためて廊下を走っていく。  
続いて部屋から出てきたのは、同じく着物姿の美しい女性、さきほどの少女が『おかあさま』と呼んでいた人物である。  
母は娘を必死に追いかけようとするが、廊下を通る使用人をひらりとかわして走る娘に母は追いつく事が出来ない。  
走って、走って、広大な屋敷の中を走り抜けて、娘が逃げたと思われる彼女の自室の前まで母はようやくたどり着いた。  
母はコホンとひとつ咳払いをしてから、部屋の中に居る筈の娘に呼びかける。  
「倫、きちんと私のお話をききなさい!あなたは糸色流の華道を学ぶ身なのですよ。あんな活け方では……」  
だが、母は気付く。  
部屋の中から感じる気配が少しおかしい。  
障子の向こうからは、わずかに風の吹き込む音が聞こえてくる。  
まさか……!?  
母が気付いて障子を開け放った時には既に遅かった。  
部屋の中はもぬけの殻、娘が幼稚園で使っているカバンと、彼女の全財産の入ったがま口がその場から消えていた。  
娘の不在を確認して、母の体からフッと力が抜ける。  
「倫…どうしてわかってくれないの……」  
力なく呟いた彼女の遥か上で、一部始終全てを見下ろしていた鳶がくるりと宙に輪を描いた。  
 
「で、なんで、倫を尾行するのが僕達なんですか、命兄さん?」  
「使用人のみんなは着物か、黒のスーツを着てるかで目立つんだ。普通の服で街に紛れ込める俺達が行くしかないだろ」  
倫が家出してしまった。  
その知らせを命と望、糸色家の三男と四男がすぐに聞きつけたのは幸運だった。  
普段から何かと妹である倫の遊び相手をしている二人には、倫の逃げ込みそうな場所、行きそうな場所もある程度絞り込む事が出来たのだ。  
早速、母親である妙の頼みを受けて、二人は倫を探して街に飛び出した。  
そもそもが小さな女の子の足での移動である。  
倫が家を出てからまだ一時間強、さして遠い場所に行ける筈もない。  
ほどなくして、命と望は探し人の後姿を糸色家の屋敷から少し離れた住宅街の一角に見つけた。  
「この辺りには倫がよく遊びに来る公園もあるしな。ここに狙いを定めたのは正解だったな」  
「あの公園、そういえばコンクリートのドームみたいな遊具がありましたよね?そこで一晩過ごすつもりだったんでしょうか?」  
二人が小声で話しながら倫を追いかけていくと、案の定、倫は件の公園へと向かっていった。  
そして、公園にたどり着いた倫は、望の予想した通りドーム型の遊具の中へと隠れてしまった。  
「倫には悪いけど、あの娘をこんな公園にいつまでも放っておくわけにはいかない。倫の気持ちは僕達からも母さんに伝えてあげよう」  
「僕はどうでもいいんですけどねぇ…。最近、倫のやつ、僕の事をほとんど玩具みたいにしてるんですから……」  
言いながら、忍び足で命と望はドーム型遊具に近付いていく。  
遊具の出入り口となる部分はいくつかあったが、その内4つはドーム屋根の曲面に開けられた子供がやっと潜り抜けられるほどの大きさのもの。  
(ドームの色んな場所から出たり入ったりするのが、この遊具の正しい遊び方なのだろう)  
命達が入っていけそうな入り口は地面近くの一つきりだった。  
「じゃ、命兄さんが行って下さい」  
「どうして?」  
「これ以上、倫に恨まれたら、今度は何をされるかわかりません!!」  
「お前、妹に何をされてるんだ?」  
嫌がる望の代わりに、命はドームの入り口にしゃがんで、その中を覗き込む。  
薄暗いドームの中、命はそこに倫らしい人影ともう一人、同じくらいの年恰好の女の子の影を見た。  
(えっ…二人!?)  
そして、命が驚くよりも早く、その薄暗がりの中に銀色の光が閃いた。  
ヒュンッ!!  
「うわぁああああああああっ!!!!」  
ドームの中から命の頬スレスレを鋭い刃が通り抜けた。  
刃の正体は日本刀、チャキリ、金属音を立てて命の首筋にヒヤリとした感触が触れる。  
 
そして………  
「まんまと罠に掛かりましたわね。命おにいさま、望おにいさま……」  
ドーム型遊具の中から二人の幼い少女が姿を現した。  
着物姿の倫と、日本刀を携えて髪を頭の後ろでまとめたおとなしそうな少女。  
(そ、そういえば、倫の幼稚園の友達にいつでも日本刀を持ち歩いている子がいたっけ……)  
首筋に当てられた刃の感触に胸を締め付けられるような気持ちを味わいながらも、命はようやくそれだけの事を思い出していた。  
チラリと背後を見ると、望も完全に腰を抜かして身動きが取れない状況のようだ。  
「倫、これはどういう事なんだ?」  
「命おにいさま、おにいさま達は倫の捕虜になっていただきます!」  
どうやら、全てが倫の計略のようだった。  
倫の自室の近くには糸色家本宅にいくつかある電話機の一つがある。  
倫はこれを使って頼れる友人を呼び寄せ、さらには自分の追っ手が街中でも目立たない格好の兄達になる事を予測。  
自分の行動範囲から兄達が彼女の行方を探し出そうとすると考え、逆にこの公園で罠を張ったのだ。  
今回の家出が突発的なものであった事を考えれば、見事と言う外ない頭の冴えである。  
「命おにいさま、望おにいさま、お二人には倫の家出を手伝っていただきます!!」  
追っ手であるはずの兄二人を味方につければ、確かに家出の成功率は増すだろう。  
しかし、我が妹の女傑ぶりに肝を抜かれた命であったが、倫のその言葉には肯かなかった。  
「倫、駄目だよ」  
「命おにいさま、おにいさまは倫の味方にはなってくれないのですか?」  
思いがけない拒絶の言葉にたじろいだ倫に、命はゆっくりと首を横に振ってから  
「違うよ。家出の話じゃない」  
そう言って、微笑んだ。  
そして、首筋に当てられた日本刀をそっと掴み、倫とその友人の二人を見つめて優しく語り掛ける。  
「こんな風に人に刃物を突きつけて言う事を聞かせようなんて、良くない事だ。倫なら、わかるよね……」  
「あ………」  
その言葉に、倫と友人の二人は初めて自分達のしている事に思い至ったという表情を浮かべた。  
「まずは、僕に母さんとの事を話してくれないかな?」  
命の穏やかな言葉を聞いて、幼い少女二人は顔を見合わせて肯いた。  
そして、カチャリ、音がして命の首に当てられていた日本刀が地面に下ろされた。  
 
糸色の母娘、糸色妙と糸色倫の諍いの原因は、妙が倫に手ずからに教えている糸色流華道が原因だった。  
母の厳しくも的確な指導を受け、だんだんと華道の技術を身につけつつあった倫であったが、  
今日、彼女が渾身の力を以って活けた活花を、妙は糸色流華道の基礎が全く出来ていない悪い作品だと言い切ったのだ。  
「……それは、倫のお花はまだおかあさまみたいに上手には活けられませんけれど、今日のあれだけは………」  
厳しい練習を重ねてきた倫にとって、今日の活花を無下に否定されるのは辛すぎた。  
反論した倫の言葉に、妙がさらに言葉を重ねる。  
そうしている内に互いの感情がヒートアップしてしまい、ついには今のような事態に至ってしまったのだ。  
一通りの話を聞いてから、命はうむむと考える。  
事の発端は糸色流華道の専門的な問題であり、命には何とも言えないが、その後の言い争いは喧嘩両成敗でしかるべきだろう。  
妙は気の強い人物であり、一度こうと決めたら絶対に曲げようとしない。  
おそらく、今回も倫の方から謝るまで許すつもりは無い筈だ。  
だが、それはやはり不公平ではないかと命は考える。  
娘である倫は、親である妙に対してどうしても立場が弱い。  
既に命は心の中で、どんなに母の機嫌を損ねようと、倫の側に立って弁護してやるつもりになっていた。  
「倫、やっぱり家出は良くないと僕は思うよ。ただ、母さんと倫の喧嘩を放って置くつもりもない。  
………僕は最後まで倫の味方をするつもりだ。みんなもきっと心配してる。一緒に家に帰らないか?」  
「………やっぱり、命おにいさまは倫の家出には反対ですのね……」  
「うん………だけど、全力で力になると約束するよ……」  
命からの、家に帰ろうという提案に、倫は不安そうな表情を見せた。  
そこに、望の声がかぶさる。  
「そーですよ、倫!父さんや母さん達と争ったって、ろくな事にはなりません。ここは素直に家に帰って謝っちゃいましょう!!」  
望らしい弱腰な発言。  
だが、命はそんな望を睨みつけて  
「望、そうやって俺に同意してくれてる割には、さっきからのその体勢はなんだ?」  
「はい……?」  
 
命達は先ほどの公園のベンチに腰掛けて話をしていたのだが、その内、望の座っている位置が問題なのだ。  
平面上で見ると、倫と全く同じ点の上、要するに望は倫の体を膝の上に抱えて、ぎゅっと抱きしめながら話していた。  
その体勢と目つきは弱腰な言葉とは裏腹に、倫を死んでも離さない、倫と一緒に今から家出してやるとでも言いたげな様子だ。  
「文句を言ってる割には、お前、倫には甘いんだよな……」  
「倫さんはおにいさまと大変仲がよろしいのですね」  
10歳以上も年齢が離れているにも関わらず、倫と望の関係は年の近い兄と妹のような遠慮のないものだった。  
倫は命の事をとても慕ってはいるが、望との間のような気安さはない。  
その辺り、実のところ自分も倫が大好きな命は、二人の関係に少し嫉妬してたりもしていたのだが……  
(参ったな。あの二人、このままじゃ梃子でも動きそうにない……)  
正直、命だって倫の家出を手伝ってやりたい気持ちは持っていた。だが、それは蔵井沢最大の名家、糸色家を敵に回すのと同義なのだ。  
広大な屋敷内には、ボディガードを兼ねた黒スーツにサングラスのいかつい使用人達が150名待機している。  
本格的に家出をするというなら、まずは屈強な彼らから逃れなければならない。人数に体力に情報網、到底自分達のかなう相手ではない。  
そして、家出を強行した上で家に連れ戻されれば、倫の立場はますます不利になってしまう。  
「…………倫だって、ほんとはこんなのいけないってわかってます。……でも、おかあさまが話を聞いてくださらなかったのが悲しくて……」  
「倫………」  
倫は母である妙に対して、自分の意思をキッパリと伝えたいのだ。  
そのための倫に可能な最大の抗議行動、それが今回の家出だったのだ。  
「倫……倫は家出してから、その後どうするつもりだったんだい?」  
「…………おばあさまの所に行くつもりでした…」  
おばあさま、妙の母は既に他界しているので、父である大の母親の事であろう。  
「おばあさまに倫のお花を見ていただいて、それからおかあさまとお話しようと思っていました……」  
なるほど、と命は心中で手を打った。  
祖母は先代の糸色流華道の師匠でもあった人物である。  
倫はその祖母の目を通して、自分の花のどこが良くて、どこが悪かったのか、公平に判断してもらおうという考えだったようだ。  
(本当にすごい妹だよ……。そんな事まで考えてたなんて……それに比べてコッチは…)  
じっとりとした視線を、命は弟の望に向ける。  
「何ですか……?」  
「いいや、何でもない」  
「何でもないわけないでしょう、この角眼鏡」  
「お、やるつもりか、丸眼鏡」  
「お、おにいさま達が喧嘩して、どうするんですの!?」  
倫の声を聞いて、ようやく二人は我に返る。  
「………そうか、倫はそこまで考えていたんだな……」  
命は思う。  
ここまでの決心をして決行された倫の家出を無下に台無しにしていいものなのか?  
倫が求めているのは自分の活けた花に対する公平な再評価だ。  
無分別に自分の主張を押し通そうとしているわけでは決してない。  
考えてみれば、命自信も母や父に対してでも、譲れないものがあるときはキチンと主張していた筈だ。  
命は倫と、倫をぎゅっと抱きしめる望の姿に目をやる。  
この二人の覚悟は既に決まっている。  
それならば………  
「わかったよ。倫がそのつもりならとことんまで付き合おう」  
「命おにいさまっ!!!」  
倫が心底嬉しそうな表情で歓声を上げる。  
(さて、腹を括ったのはいいけれど、相手はあの我が家の面々だ。気合を入れてかからないと……)  
目指すは蔵井沢から離れた祖母の家。  
ろくな交通手段を持ち合わせていない命達がそこへたどり着くには、やはり鉄道を使うのが手っ取り早いだろう。  
ここはまだ蔵井沢市街の奥の方にある糸色家本宅の周辺だ。  
蔵井沢駅まではここからそれなりの距離を走り抜けなければならない。  
「まあ、やってみるさ……!!!」  
覚悟を決めて、命は立ち上がる。  
それから、ベンチに腰掛けた倫の友人に顔を向けて  
「ご家族も心配されるだろうし、君は戻った方が……」  
「いいえ!!わたしは倫さんと最後まで一緒に行くって決めましたの!!!」  
どうやら、こちらも梃子でも動かない様子だ。  
「よしっ!それじゃあ行こうか、倫!!」  
「はいっ!敵は糸色本家、相手にとって不足なし、ですわっ!!!」  
倫も立ち上がり、命の言葉に頼もしく応える。  
ここに、糸色の少年少女達の熾烈な戦いが幕を落とされたのだった。  
 
糸色家本宅の一室、ここでは当主である大と妻の妙が倫を連れ戻しに行った命と望が戻って来るのを待っていた。  
「まったく、あの娘はどれだけみんなに心配を掛けていると思って……」  
「まあ、命と望なら倫を説得できるだろう。三人とも仲が良いからな……。説教はその後だ」  
「あなた、びみょ〜に…楽しそうにしていませんか?」  
「そ、そうか?そんな事は……」  
「望が最近、どこかの小さな女の子と遊んでるなんて話を聞いたときも、あなたは面白がるばかりで……」  
「いや、アレは望と遊んでるというより、望が遊ばれてる感じだったからなぁ……ついおかしくて…」  
「ほら、やっぱりそうじゃありませんか!糸色家の当主がそんな事でどうするのです!!」  
「む、むう……だがなぁ…」  
痛い所を妙に突かれて、なんとも居心地の悪そうな大。  
二人がしばらく言い合いを続けていると、今度は執事の時田が部屋に入ってきた。  
「時田……倫は見つかったのか?」  
「はい、ですが旦那様……」  
どうやら、命と望は無事に倫を発見したらしい。  
しかし、時田の曇った表情を見れば、どうやら事態は一筋縄ではいかない状況に陥っているようだ。  
「どうしたのです!倫は、倫はどこにいるのですか!?」  
「はあ…実は……」  
急かすように問いかけた妙に、時田は額に汗を浮かべながら答えた。  
「蔵井沢市内を命ぼっちゃま、望ぼっちゃまとご一緒に走っている倫様のお姿を近隣の住民が目撃したようです……」  
「そ、それは……?」  
妙が青ざめた表情で頭を抱える。  
大はそんな妙に見えないようにニヤリと笑い、兄二人を味方につけ見事に家出をなしとげようとしている娘に心の中で喝采を送る。  
「命ぼっちゃまと望ぼっちゃまは倫さまの側に寝返りました。お三方は今なお逃亡中です!!」  
 
というわけで、糸色家のご令嬢の家出という非常事態に、糸色家本宅詰めの使用人兼ボディガードである黒スーツ150人の内、  
120人までが倫達の捜索と確保のために動員される事になった。  
だが、ここにも罠があった。  
時にとんでもない我がままを言い出し、そのお転婆な性格で周囲を振り回す倫であったが、糸色家の使用人達には礼儀正しく優しかった。  
何かあるとすぐ行方の知れなくなる長男・縁、奇人変人を地で行く次男・景、三男の命こそ普通だったが、続く四男・望はネガティブ一直線。  
糸色家の子供達に苦労させられてきた使用人達の中で、そんな倫の人気は異様に高かった。  
今回の家出の発端となった糸色流華道の修行にしても、子供ながらによく頑張っているものだという評価が大半を占めていた。  
というわけで、今回の倫捜索に対する黒スーツ達の士気は総じて低かった。  
無論、彼らもプロである以上、仕事はキッチリとこなすだろうが、戻ってきた時には全員で倫を弁護するぐらいの事はやりそうだった。  
そこで、当主・糸色大は彼らとは別に倫達を確保する役目を、この二人に頼む事にした。  
「倫が家出ですか……」  
糸色家長男・縁、文武両道に秀でた糸色家の名に恥じない人物であったが、あらゆる縁に見放される不憫な人でもある。  
「そうか……しかも命と望も一緒、やるもんだなぁ……」  
糸色家次男・景、糸色家きっての変人である。  
画家を志し修行に出ると言って一年余り、東アジアを当人曰くヒマラヤの地下深くシャンバラ経由でぐるりと一巡り、  
日本に戻ってきたばかりの彼は髪は伸びっぱなしで顔も無精ひげだらけである。  
命、望、倫の三人を良く知る実の兄弟であるこの二人ならば、より確実に彼らを連れ戻す事が出来るだろうという考えである。  
「わかりました。命と望もついていますが、二人ともまだ高校生……できるだけ連れ戻した方が良い」  
「うーん!あの三人相手に鬼ごっこっていうのは燃えるなぁ!!!」  
「縁、景、二人ともくれぐれも倫達の事を頼んだぞ」  
大の言葉を受けて、縁と景は並んで部屋を出て行く。  
その後姿を見送る大に、妙が心配そうな顔で耳打ちをする。  
「あなた……どうして縁まで……」  
「ううん……だって、お前には絶対、倫を見つけられる縁なんてないから諦めろなんて言えないだろ?」  
糸色本家の倫捜索作戦は前途多難のようであった。  
 
一方、糸色家本宅から少し離れた雑木林の中、糸色家使用人の黒スーツの若い青年が何やら小さな機械に向けて話しかけていた。  
「だから言ってんだろ、千載一遇のチャンスなんだよ!!今なら使用人連中に紛れて糸色の末娘を攫える!!  
予定よりは早くなっちまったが、カモフラージュ用の黒スーツはもう用意してあるんだろ?」  
男が話しかけていたのは、糸色家の人間が使っているタイプとは違う小型の無線機だった。  
青年は黒スーツ達の中でも礼儀正しく、人当たりも良く、同僚達からの厚い信頼を得て糸色家本宅の警備の仕事を請け負うまでになっていた。  
だが、今の青年の顔には普段の穏やかさは欠片も見当たらない。  
その瞳に宿る光はどこか飢えた肉食動物を思わせた。  
「ああ、わかってる……全てはオヤジの復讐の為だろ?ソッチもへまするんじゃねえぞっ!!!」  
それだけ言って通信を打ち切ると、青年はクククと不気味に笑い、懐から一本の銀色に閃く刃を取り出す。  
刃渡り30センチ以上、カーボン製のグリップとチタンの刃を持つ巨大なナイフである。  
「さぁて、せっかく糸色のお嬢様から始めてくれたお祭りだ。せいぜい楽しませてもらうさ……」  
 
走る。走る。走る。  
なるべく人目につかない通りを選びながら、倫達は蔵井沢の町を走り抜けていく。  
彼女達に立ち止まっている暇はなかった。  
恐らくは命と望が倫の味方について逃走している事は、既に屋敷にまで伝わっている筈である。  
蔵井沢の住民からの糸色家に対する信望は厚く、黒スーツや普通の使用人達など  
糸色家に関わる人物から尋ねられれば彼らはすぐに倫たちに関する目撃情報を話す筈である。  
そして、糸色家が現在家出中の娘を探していると聞けば、協力を惜しむような事はするまい。  
ハッキリ言って、現在の倫たちは蔵井沢中からの監視を受けているようなものなのである。  
「はぁはぁ…せめて、自転車を持ってくれば……」  
「だらしないな…望…これくらいでへばってるようじゃ……」  
というわけで糸色家の中でもインドア派の命と望の二人はもう息も絶え絶えである。  
「おにいさまたち…早く行きますわよ〜!!!」  
一方、歩幅の分だけスピードは劣るものの、倫はまだまだ元気イッパイという様子であった。  
倫の友人に至っては重い刀を持っているにも関わらず、息切れひとつしていない。  
さすがにまだまだ小さな妹に負ける訳にはいかないと、命と望は気合を入れる。  
と、その時である。  
「ああ、倫様っ!!」  
「こちら第七班、根賀3丁目付近で倫様達を発見しました。至急応援をっ!!!」  
行く手の曲がり角から飛び出してきた4人の黒スーツ、糸色本家の放った追っ手についに追いつかれてしまった。  
「命兄さんっ!!」  
「わかってる!悪いけど、倫を渡すわけにはいかないっ!!」  
命と望は一気にスピードを上げて、倫達をかばうべく前に飛び出し、そのまま黒スーツの一人に二人同時の体当たりを食らわせる。  
いかに鍛えられた黒スーツといえど、男子高校生二人分の体当たりは支えきれなかった。  
一人目の黒スーツが吹き飛ばされたのを見ると、残りの三人が命と望を取り押さえようと一気に飛びかかってきた。  
命はその内一人と激しいもみ合いになる。  
「お、思っていた以上にやりますな。命ぼっちゃま……っ!!!」  
「こう見えて武道経験者なんだよ。小さい時には散々、父さんにしごかれた!!」  
「なるほど……っ!!!」  
一進一退といった感じの両者だったが、残りの黒スーツは二人、望一人の手には負えるはずもない。  
だが……  
「命おにいさまをお放しなさいっ!!!」  
叫び声と共に命と組み合っている黒スーツの両脚を衝撃が襲う。  
「り、倫様!?」  
「命おにいさまに乱暴は許しませんっ!!!」  
かぷり!!  
倫の小さな口が黒スーツの足に噛み付いた。  
実際のダメージ以上に倫から攻撃を受ける戸惑いのせいで、黒スーツの足元は少しふらついてしまう。  
その隙を命は逃さなかった。  
「でりゃあああああああああああっ!!!!」  
柔道で言うなら変形版の大外刈りとでも言うべきか。  
命の投げによって宙を舞った黒スーツの体が地面に叩き付けられる。  
一方、倫の友人をかばいつつ、二人の黒スーツから逃げ回っていた望だったが……  
「命兄さんっ!!全員と相手をしても拉致があきませんっ!!僕が隙を作りますから、一気に逃げましょうっ!!」  
「隙!?…だけど、どうやって?」  
疑問に思う命の前で、望は両袖から何やら液体の入ったボトルを取り出す。  
どうやら、それぞれ有名な塩素系と酸性の洗剤のように見えたが……。  
 
「望式旅立ちパック・試作品その一っ!!混ぜても安全な洗剤っ!!!!」  
ボトルから流れ出た洗剤が路面で混ぜ合わさった瞬間、紫色の毒々しい煙が一気に立ち上がった。  
周囲を覆う煙の中から、命と倫のところへ倫の友人を連れて望がやって来た。  
「望、お前いつの間にあんな物を……」  
「あれはヤバそうな煙が出るだけで完全無害な代物です。さあ、今のうちに逃げちゃいましょうっ!!」  
「ああ、わかってる……」  
望の言葉に肯いた命。  
そんな彼らを命が投げ飛ばした黒スーツが、どこか嬉しそうに目を細めて見つめていた。  
「みなさま、やるものですなぁ……流石は糸色家のご兄弟ですよ…」  
「すまない。それでも僕達は倫の家出を全うさせてやりたいんだ……」  
応えた命の言葉に、黒スーツは肯いて  
「ええ、こちらも全力、手加減はいりません。………ここだけの話ですが、倫様、応援していますよ」  
にこりと笑顔を浮かべた。  
そして、命達はその場から駆け出し、黒スーツ達が呼んだ応援が到着した頃には、その姿は影も形もなかった。  
 
その後も倫達一行は何度か黒スーツ達に遭遇しながらも、それをかわして蔵井沢駅を目指して走っていた。  
「この調子なら、駅まで行けるんじゃないですか、命兄さん?」  
「だといいがな……」  
笑顔で言った望に対して、命の声は少し暗い。  
「ど、どういう事なんです?」  
「望おにいさま、私達はもう何度も黒スーツ達と出会っていますわ。その場所をたどれば、だいたいどの方向に向かっているか見当はつきます」  
「な、なるほど……」  
「さすがですね、倫さん!」  
確かに、ここに来るまでに徐々に黒スーツ達との遭遇頻度が上がっている気がした。  
「それじゃあ、このまま進み続けて、僕達の目的地が蔵井沢駅だってバレたら……」  
「ああ、駅前で待ち伏せされて一網打尽、だな……」  
「というか、その前に私達の走ってる方向に集まってたら、それだけで……」  
望、命、倫、三人が息を呑む。  
その時である。  
「倫お嬢様、お坊ちゃま方、お待ちくださいっ!!!!」  
進行方向にあった十字路の左右から、それぞれ六人ずつの黒スーツ達が飛び出した。  
これまでは一班四人単位としかぶつからなかったのだから、一気に三倍の人数と出会ってしまった事になる。  
「ひ、ひぃいいいいいっ!!!言ってたら、ホントに来ちゃいましたぁ!!!」  
「倫、一気に駆け抜けるよっ!!!」  
「はい、命おにいさまっ!!あなたも遅れないで!」  
「もちろんです、倫さんっ!!」  
これまでは体格に勝る命と望が最初に突っ込んで活路を開いてきたが、今回は相手を強引に突破するため四人全員で突撃を行う。  
糸色家の子供達に乱暴は振るえないという気後れもあるためか、真っ向の激突では倫達がなんなく黒スーツを打ち破る事ができた。  
しかし、それからの黒スーツ12人の追跡は今まで以上にしつこく、ねちっこかった。  
「ま、ま、まだ追いかけて来ますよ〜!!!」  
「しかも、こっちは走りっぱなしでクタクタだ。マズイぞ……っ!!!」  
黒スーツ達を突破してからしばらく後、歩幅が小さくてどうしても早く走れない倫とその友人のために、  
倫を命が、倫の友人を望がそれぞれ抱えて走っていたのも、体力の消耗に拍車をかけた。  
「すみません、命おにいさま……私のせいで……」  
「いいや、倫、いいんだ。これは僕達が好きでやってる事だからね」  
とは言ってはみたが、望の混合洗剤煙幕などを使いながら距離を取ってはいたものの、そろそろ命達の体力は限界だった。  
(いざという時には、俺と望が盾になって、少しでも遠くに倫を逃がしてやらないと……)  
命はすでに頭の隅で、最悪の事態に向けての算段をし始めていた。  
「ひっ、ひっ、ひぃいいいっ!!!もう駄目ですっ!!限界ですっ!!!」  
「倫さんのおにいさまってすごいんですのね。弱音が多くなるたびにスピードが上がってる!!」  
一方の望も必死で足を動かし、スピードはむしろ前より上がってはいたが、これは火事場のバカ力といったところだった。  
いつしか追いかけられる四人は、住宅と住宅の間に入り組んだ狭い道を走っていた。  
道が狭い分、横から回りこまれる事を心配しなくて良くなったが、だんだんと命達の方向感覚もおかしくなり始めていた。  
「み、み、命兄さんっ!!僕達、ちゃんと正しい方向に走ってるんでしょうか!?」  
「すまない、望っ!!俺もよくわからなくなってきたっ!!!」  
逃げ回る四人の頭の中はもはや不安でいっぱい。  
走りっぱなしの足は悲鳴を上げ、追っ手の黒スーツ達は背後近くまで迫っている。  
命、望、倫、倫の友人、それぞれの心が諦めに捕らわれはじめた、そんな時である。  
 
「ふ、ふわぁあああああああっ!!!?」  
四人がある曲がり角を通り抜けた直後、そこから小さな女の子が飛び出したのだ。  
すぐ後ろを猛スピードで走っていた黒スーツ達もこれには驚いた。  
このまま12人もの屈強な男達に激突されては、あの女の子はひとたまりもない。  
「止まれぇええええええっっっ!!!!!」  
先頭の一人の号令で、黒スーツ達は緊急停止を試みた。  
だが、今まで全力で走っていたスピードをすぐに殺せるはずもなく、黒スーツ達は道端にドミノ倒しのように山になって転げてしまった。  
それでも、一応、女の子が無事であった事にホッと胸を撫で下ろしながら、先頭の男が彼女を見ると……  
「えへへ、ごめんなさい……」  
女の子は楽しそうに笑って、そう言った。  
この表情、まるで悪戯を成功させた時のような……  
「あ、あなたは……」  
そして、黒スーツ達の声を聞いて立ち止まった四人の中、望が驚愕の表情を浮かべていた。  
「ど、どうして、あなたがここに……!?」  
高校に入学したばかりの望が舞い散る桜の下で出会った幼い少女。  
無邪気な笑顔と裏腹に、とんでもない悪戯の連続で望を参らせる女の子。  
彼女・『あん』はにっこりと望に笑いかけて答えた。  
「おにいちゃんを助けに来ましたっ!!!」  
 
「もう黒い服の人たちは追いかけてこないと思うよ。わたしが仲良しのおじさんやおばさん達に頼んで、ウソを言ってもらってるから」  
「そ、そこまでの影響力を持ってたんですね、きみは……」  
あんの言葉通りすっかり黒スーツ達による追撃が無くなったため、倫とその友人は地面に下ろしてもらって歩いていた。  
(なるほど、あれが例の……)  
命は、望が高校に入学して以来、なにやら悪戯好きの小さな女の子と仲良くしていると聞いていた。  
その少女・あんの悪戯は過激極まりなく、望は警察のお世話にさえなった事もあったが、それでも変わらずに仲良くしているらしい。  
父親・大もその件については『面白いから』という理由で本気で怒った事がない。  
そんな二人の様子を初めて間近で見た命だったが、なるほど確かにまるで本物の兄妹のような仲の良さだ。  
(いや、ああいう風に少し変わった人間とも打ち解けられるのは、望の才能かもしれないな……)  
なんて考えていると、あんはこちらを向いてニコリと笑った。  
正確に言うならば、どうやら命の足元にくっついて歩く、倫に笑いかけたらしい。  
さっきから不機嫌だった様子の倫は、その笑顔にぷいとそっぽを向く。  
どうやら、望を取られた事が不服であるらしい。  
それから、倫は、今度は命の足にすがりつき、あんに向けてあっかんべーをしてみせる。  
どうやら、『みことおにいさまはわたしませんわ!!!』という事らしい。  
(うう……倫には悪いが、ちょっと嬉しいかもしれない……)  
ともかく、蔵井沢に張り巡らされた『あんのお友達ネットワーク』によって、黒スーツ達の情報は完全に混乱しているらしい。  
既に四人は駅までの道のりの半分弱を歩いていた。  
あまり目立たない、人通りの少ない道を選んでいけば、駅にまでたどり着くのもそう難しくは無い筈だ。  
さきほどまでの全力疾走の疲れも抜けて、命も今回の家出の成功について楽観的な見方をし始めていた。  
倫達一行は人目を避けるため、左手に雑木林、右手に畑の広がる山沿いの道を歩いていた。  
少し遠回りにはなるが、ここから駅の近くの道まで歩いて、後は一気に突っ切ってしまえば、家出は成功したも同然だ。  
命や、幼いながらも用心深いあん、ネガティブ思考の望までもがそう信じていたその時、それは起こった。  
「えっ!!?」  
倫が驚きの声を上げた。  
進行方向左手の、少し斜面になっている雑木林の中から、ズザザザザッ!!!!と音を立てて数人の男達が現れたのだ。  
五人の前後にそれぞれ三人ずつ、合計で6人、全員が糸色家のボディガード達が見につける黒スーツを着ていたが、どこか様子がおかしい。  
「こんなところにいらっしゃったのですね、倫お嬢様……」  
語りかけてくる口調こそ丁寧だったが、その声には怜悧な響きが篭っていた。  
命はきな臭い様子の男達を警戒して、倫をそっと抱き寄せる。  
(黒スーツは四人一組で行動していた筈……それにこいつら、どれも見覚えのない顔だ……)  
150人もの数を誇る黒スーツ達とて、毎日会っていれば、自然と顔を覚えるものだ。  
だが、この6人とは屋敷の中ですれ違った気さえしない。  
「命坊ちゃま、倫お嬢様を渡していただけますか……?」  
そして、次の発言で命の疑念は確信に変わる。  
語るに落ちる、とはまさにこの事だ。  
よりにもよって、倫を渡せなどと、邪心を持った人間の言葉でしかない。  
 
「いやいや、使用人のみなさんにそこまでお手を煩わせるわけにはいけませんよ。倫は最後まで僕が面倒を見ます」  
「………そうですか、それは残念ですねぇ」  
自分の失言に気付いたのか、バツの悪そうに笑った男は懐に手を入れ、ある物を取り出した。  
シャキン、と音が響いて伸びたのは、黒く塗られた金属の棒。  
「と、特殊警棒って!!?」  
望の顔が青ざめる。  
残りの五人も各々が懐に手を入れて、自分の得物を取り出す。  
三人が最初の男と同じ特殊警棒、そして二人がバチバチと火花を散らすスタンガンを持っていた。  
(くっ……これじゃあ、今までのように取っ組み合いでどうにかするのは無理だな……)  
命の顔に焦りの表情が浮かぶ。  
特殊警棒だけでも厄介だが、接触自体が命取りになるスタンガンを使われては、命達にほとんど勝ち目はない。  
ジリ、ジリ、6人の男達が前後から間合いを詰めていく。  
命と望は三人の少女達をかばうように前後の男達を阻む壁になるが、命の手も望の手も恐怖と緊張のためかすかに震えていた。  
「それじゃあ、手早く終わらせてしまいましょうか……」  
男達の一人が言った。  
(く…来る……!!)  
命と望は覚悟を決めて、男達に飛び掛ろうとする。  
だが、それよりも一瞬早く……  
「うおりゃああああああああああっ!!!!!」  
ドカッ!!  
大声と共に放たれた一撃で、倫達の背後にいた男の一人が倒された。  
全員の注目がその声のした方向に向けられる。  
そこにいたのは……  
「命ぉ、望ぅ、この物騒な連中、お前らの友達か?」  
「景兄さんっ!!!」  
先端の湾曲した奇妙な棒を肩に担いで、髪を伸ばしっぱなしにした無精ひげの男がそこに立っていた。  
糸色景、芸術家を志す糸色家の次男坊である。  
「なるほど、お前が一年以上も海外でフラフラと遊んでいた、糸色家の次男か……」  
「別に遊んでいたつもりはないんだがなぁ……」  
「いいだろう、まずはお前から黙らせてやるっ!!!」  
二人の男が、それぞれ警棒とスタンガンを手に景に襲い掛かった。  
「どうやら、友達じゃないみたいだな……」  
だが、景は少しも慌てる事無く、まるで蛇のように身をくねらせて二人の男の初撃をかわす。  
そして、斜めに傾いたその体勢のまま、次はスタンガンの男に蹴りを繰り出し……  
「うおわっ!!?」  
その手からスタンガンを叩き落す。  
そして、その隙を狙って打ち込まれた、もう一人の特殊警棒の一撃を手に持った棒で軽々と受け止め……  
「てありゃぁあああああああっ!!!!!」  
そこから一旦、棒を引いて、男の鳩尾に容赦のない突きを入れる。  
「望っ!今だっ!!俺達もっ!!!」  
「は、はいっ!!」  
景が後方の三人を相手にしている間に、命と望は前方のもう三人に挑みかかる。  
「望式旅立ちパック・試作品、安全首吊り用ロープっ!!!」  
望が、またどこから取り出したのか、長いロープを巧みに操り男達の動きを阻む。  
ロープが巻きついて、せっかくの得物が使えない男の一人に、命が強烈なパンチを見舞う。  
「「うおぉおおおおおおおおおっ!!!!!」」  
さらに、今度は望も加わって、残りの二人に体当たりを食らわせ、三人を地面に倒す。  
その隙を見て取った景は、後方の三人にとどめとばかり一撃ずつ突きを食らわせてから叫ぶ。  
「命っ!望っ!!こっちは子連れだっ!!これ以上やりあっても仕方がない、逃げるぞっ!!!」  
景の言葉を受けて、命を先頭に一行は走り出した。  
 

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