暦も六月の半ばを過ぎて、梅雨がやってきた。  
曇天に覆われた蒸し暑い日々が続いたかと思いきや、降り続く雨の為に肌寒くさえ感じる日もある。  
そうかと思えば、真夏を思わせる日差しの暑い日もあったりして、くるくると様々な様相を見せる気候に人間の体も振り回される事になる。  
風浦可符香が風邪で学校を欠席したのは、そんな梅雨のある日の事だった。  
 
放課後、教卓と生徒達の授業机が積みあがった山の下から、糸色望はようやく這い出した。  
「ふう、死ぬかと思いました………」  
ため息をついて、ズレていた眼鏡をかけ直す。  
この有様の原因はいつも通りの2のへの騒ぎである。  
今日は現国の授業で定番の『走れメロス』を扱っていたのだが、何がどうしてこうなったのやら……。  
全身の痛みに耐えながら望が立ち上がると、懐に入れていた彼の携帯電話が着信音を鳴らした。  
「はい、糸色です。………ああ、木津さん!」  
電話の相手は、2のへの女子生徒の一人である木津千里だった。  
千里は、何やら望に頼みごとがある様子だった。  
『実は、可符香ちゃんにプリントを届けなきゃいけないのに、誰にも頼んでなかったんです』  
病欠した可符香のために千里がきっちりと用意しておいたプリントを、教室での騒ぎの為に誰が彼女の家に届けるのか決められなくなってしまったようだ。  
プリント類は千里の手によってまとめられ、彼女の机の中に置かれたままだという。  
千里自身がそれに気付いたのも、自宅に帰り着いてからの事だったため、こうして望に連絡するのも遅れてしまった。  
『すみません。今になって気付いたから、先生ぐらいしか頼める相手がいなくて……ほんとなら責任を持って私が届けるべきなんでしょうけど……』  
「いいえ、構いませんよ。風浦さんの家までそう大した距離がある訳でもありませんし、私がお見舞いがてらに届けてきますよ」  
こうやって、クラスの隅々にまで気を回してくれる千里の几帳面さは望にとってもあり難いものだった。  
ただ、望が意識を失う直前、2のへの教室を両手に卒塔婆を持って走り回る千里の姿が、記憶の片隅に残されているのが多少気になるところだったが……。  
望は瓦礫の如くつみ上がった机の中から千里のものを探し出し、可符香へ届けるプリントを見つけ出す。  
『それじゃあ、先生、お願いします……』  
「はい。このプリント、確かに風浦さんの家まで届けますよ」  
それから、望は携帯電話を切って、長いこと机の下に閉じ込められて凝り固まった全身の筋肉をほぐした。  
「風浦さん、朝、電話で連絡してきた時は苦しそうでしたけど、大丈夫でしょうかね?」  
2のへで起こる様々なドタバタも軽々とかわし、何というかいつでも無敵で超然としたイメージのある可符香。  
一度、彼女が夏風邪をひいて望の兄である命が経営する糸色医院にやって来た事があったのだそうだが、  
命が望とそっくりである事や、命の名字と名前をくっつけると『絶命』と読める事などで騒いでいる内に、『治ったみたい』とあっさり帰ってしまったらしい。  
そんな彼女だけに、今回の病欠は他の生徒のそれよりも何だか気がかりだった。  
「ともかく、風浦さんの病状も気になる事ですし、まずは行ってみますか」  
そう言って、望は可符香に届けるプリントを片手に、2のへの教室を後にした。  
 
出発前に望は宿直室に顔を出し、可符香の家にプリントを届け見舞いをして来る事を霧に伝えた。  
「そっか、可符香ちゃん病気なんだね」  
「はい。今朝の電話の様子だと、けっこう調子悪そうにしていましたね」  
「それじゃあ……」  
望の言葉を聞いた霧は夕食用の野菜の煮付けをタッパーに入れて、望に持たせてくれた。  
「風邪なら、しっかり栄養をつけないとね」  
「ありがとうございます。きっと、風浦さんも喜びますよ」  
望は、煮付けのタッパーを入れた袋と、プリントを収めたカバンを持って宿直室を出発した。  
夏が近付いて、だんだんと日が高くなっている。  
既に午後の6時も近いというのに、まだまだ明るい空の下を、可符香の家へと歩いていく。  
途中、スーパーマーケットを見つけた望は、風邪にはやはりコレだろうと、インスタントの生姜湯の素を購入。  
野菜の煮付けの袋に入れて、さらに歩いていく。  
途中、彼女の家の近くにある命の病院、糸色医院の前で立ち止まり  
(風浦さんは、きちんと病院には行ったんでしょうか?)  
命に、今日可符香が医院に来なかったか尋ねるべきかを悩み、結局、彼女の家に着くのが先決だと再び歩き始めた。  
やがて、可符香が一人で暮らしているアパートへと来た望は、彼女の部屋の前までやって来る。  
「風浦さん、糸色ですけど……」  
呼び鈴を鳴らし、可符香に呼びかけた。  
 
もしかしたら、布団で眠っている最中という可能性もあるので、あくまで声の大きさは控えめに。  
応答がなければ、新聞受けからプリントを室内に滑り込ませるとしよう。  
生姜湯も同じように新聞受けを潜らせて、野菜の煮付けは仕方がないから持って帰ろう。  
何度か彼女の名前を呼び、最後にもう一度だけ呼び鈴を鳴らす。  
「………これ以上は、無理矢理起こしてしまうでしょうから……」  
そして、それからしばらくの間、ドアの向こうに何の反応も無いのを確認して、  
『糸色です。学校のプリントを届けに来ました。ゆっくりと休んで早く元気になってください。    
      追伸 生姜湯の素は一応お見舞いです。それを飲んで温まってください     』  
と、メモを添えてから、予定通りにプリントを入れた袋と生姜湯の素を新聞受けに放り込む。  
それから、手元に残った野菜の煮付けだけを持ってそのまま望が帰ろうとしたその時……  
「…あ、せんせいだ……」  
ガチャリ。  
ドアノブが回る音が小さく響いて、ゆっくりと開いた扉の向こうから、頬を赤く染めた少女がこちらにちょこんと顔を出す。  
それに気付いた望が振り返り  
「……あぁ、やっぱり起こしてしまいましたか……。すみません、風浦さん…」  
「いやだなぁ…そんなこと……ないですよぉ……」  
いつもより舌足らずな様子で喋る彼女が、ドアにもたれかかりながら笑顔で望に言った。  
「朝からずっと眠りっぱなしで…ちょうど今目を覚ましてから…ボーっとしてたところなんです」  
「そうだったんですか……」  
「…先生、プリントありがとうございます。あと、それから、これは……」  
可符香がプリントと一緒に入れてあった生姜湯の素を見て首をかしげる。  
「つまらないものですが、私からのお見舞いですよ。小森さんから野菜の煮付けも預かってます」  
生姜湯に続いて、望から野菜の煮付けのタッパウェアを受け取ると、  
彼女はまるで誕生日に山ほどのプレゼントを受け取った子供のような、無邪気で嬉しそうな笑顔を浮かべた。  
望はそんな彼女の表情を見て、喜んでもらえた事を嬉しく思う反面、  
たったこれだけの事でこんなにも反応を示す彼女が、今日どれだけ孤独な一日を過ごしていたのかを感じ取った。  
「調子はどうなんですか?熱は、どれぐらいです?」  
「ええっと…たしか38℃おーばー……」  
「そ、それはすみません。こんな所で長話なんかさせてしまって……!!」  
「でも、薬を飲んでたっぷり眠って、さっき目が覚めた時に体温を測ったら37,1℃になってました……」  
なぜだか、えっへんと胸を張ってそう言った彼女に、望はホッと胸を撫で下ろす。  
さきほどから、彼女の言動がいつもよりワンテンポ遅れているのは、高熱のためではなく、そのために消耗した体力のせいのようだった。  
「たぶん、あしたにはもう学校に行けると思いますよ……!!」  
「そうですか………でも、あまり無理はしないでくださいね…」  
可符香が言って、望が応えて、二人は微笑み合った。  
それから、とりあえず言う事のなくなった二人は数秒の間、互いに見つめ合っていたが……  
「あの、先生……」  
やがて、可符香がそっと口を開いた。  
「少し、私の部屋に寄っていってくれませんか……?」  
寂しくて、寂しくて仕方がなくて親に縋り付く子供のような、いや、そんな子供そのものの表情で可符香が言った。  
そして、対する望も……  
「実は、私の方からもお願いしたかったんですが、少しだけ部屋に上がらせてもらって、あなたのお見舞いをさせてもらえませんか……?」  
自分の言おうとしていた言葉を口にする。  
ぱっと明るい表情を浮かべた可符香に、望はぺこりと頭を下げる。  
「それでは、お邪魔させていただきます……」  
「どうぞ……いらっしゃいませ、先生…」  
そうして……  
バタン。  
閉じられたドアの向こうに、二人の姿は消えた。  
 
可符香の部屋は、寝室も兼ねた居室とキッチン、そしてトイレとお風呂だけの簡単でこじんまりしたものだ。  
一人暮らしの人間の典型的な部屋、つまりは今の可符香は一人ぼっちという事だ。  
パステルカラーのカーテンに、部屋の各所に置かれたぬいぐるみや小物などが女の子の部屋らしい雰囲気を演出していたが、  
よく見れば、揃えられた家具や電化製品は全て、一人で暮らすのにちょうど良くまとめられている。  
生活の温もりの影に、どこかうら寂しさを感じさせるような、そんな部屋だった。  
望がこの部屋を訪れるのは今日が初めてではないが、今日に限ってその寂しさを一際強く感じたのは、  
一人ぼっちで今日一日を過ごした可符香のまとっていた空気に、そんな孤独感が残っていたからかもしれなかった。  
 
「それじゃあ…てきとーに座っててください、先生……」  
「はい……って、あなたは何をしようとしているんですか?」  
可符香の部屋に座ろうとした望は、その当の部屋の主がよろよろとキッチンに向かうのを見て、思わず呼び止めた。  
「えっ?…せんせいに、お茶をださなくちゃ……」  
「病人がそんな気を遣って、どうするんです!…あなたは部屋のベッドで寝ていなさい」  
どうにも風邪のせいで思考が空回りしているらしい可符香に代わって、望が立ち上がってキッチンに入る。  
「せっかくですから、生姜湯を入れましょう。コップはどこにありますか?」  
「そこの棚にありますよ」  
可符香に指示されて、望がキッチンの棚を探すと、シマシマのしっぽがプリントされたマグカップが見つかった。  
「風浦可符香ブランドなんですよ〜」  
どうやら、自分のマグカップのデザインがお気に入りらしい可符香は、またしても得意げな様子で笑う。  
望は、そんな小さな子供のような可符香を横目に見ながら、ヤカンにお湯を沸かし始める。  
「持ってきたプリントなんですが、まずは国語の授業の、走れメロスの背景についてまとめたヤツが二枚入ってます」  
「あ、ありました。………うわあ、凝ってますね」  
「今回、少し張り切りすぎました。ちょっと、趣味に走っちゃっています」  
「でも面白いですよー。……人間失格だったら、さらに枚数が伸びちゃいそうですねぇ……」  
「ええ、そりゃあもう、途中から私がいかに人間失格かを交えて、大変な事になっちゃう筈です」  
「あはは…さすがに、それはやめた方がいいかもしれませんね」  
「でも、何度も二年生を繰り返してるせいで、だんだん扱ってない作品が減ってきてるんですよね……そろそろ、やっちゃうかもしれません」  
沸かしたお湯をマグカップに注ぎ、よくかき混ぜてから生姜湯が完成する。  
望はそれを可符香の手の届く、机の上に置いた。  
「その内容、前回の授業でやりませんでしたか?」  
「そんな昔の事、覚えていません」  
「明日の授業、何やるんですか?」  
「そんな先の事はわかりません………って、これじゃあ、いつか本当に同じ内容の授業をやってしまいかねませんよ」  
「授業、カブサランカ?って事ですね…」  
軽口を交わす二人。  
可符香はクスクスと笑いながら、マグカップを持ち上げて熱々の生姜湯をちびちびと飲む。  
「プリントの二枚目は、例の新型インフルエンザへの注意喚起ですね」  
「今、風邪をひいてる真っ最中なのになぁ……」  
「病み上がりは体力消耗してますから、あなたも気をつけてくださいよ」  
それからしばらくの間、望はプリントの内容を可符香に伝え、可符香はそこに軽口を挟みながら望の言葉を聞いた。  
風邪にやられた可符香の鼻やのどにも、生姜の香りは心地良く染み渡り、甘い味とその熱で体の芯から温まるようだった。  
「これで一応、今日の分のプリントは全部ですね。後で自分でも目を通しておいてください」  
「はい、せんせい」  
「……それから、ちょっと伺いたいんですが……」  
やがて、ようやくプリントの説明を終えた望は、こんな事を可符香に問うた。  
「冷蔵庫の中、見てもかまいませんか?」  
「えっ?あ、はい…別にかまいませんけど……どうしたんですか?」  
手にしていたプリントの束を可符香の机の上に置いて、立ち上がった望は再びキッチンへ。  
「うん、野菜もしっかりあるし、卵も……ご飯は…ああ、冷凍のストックが大分ありますね」  
「せんせい……?」  
「あの、もう一度キッチン借りてもかまいませんか?」  
きょとんとする可符香に、望はポリポリと後ろ頭をかきながら答える。  
「いえ、さきほど起きたばかりで夕飯の準備もまだみたいでしたから、それなら私がおじやでも作ろうかと……」  
「えっ?あ?だ、だいじょうぶですよ?小森ちゃんの煮物もあるし、おかゆはレトルトのがありますから……」  
「いえ、せっかくお見舞いに来たわけですから、これぐらいやらせてください」  
望はそう言って、キッチンにある各種の調理道具や調味料の位置を確認すると、意外なほどの手際の良さで料理を始めた。  
望が野菜を薄く刻んでいくと、トントントン、と包丁がまな板を叩く音が響く。  
可符香は布団に寝転がったまま、その様子をなんだかポーッとした表情で見つめていた。  
「……?どうかしましたか?」  
その視線に気付いて、望が問いかけた。  
「あ……いえ……なんていうか、不思議だなって思って……」  
戸惑いながらも、可符香は答える。  
「私の部屋の台所に、私じゃない人が立って料理をしてるんだなって思ったら……なんだか不思議で、信じられなくて……」  
可符香がこんな光景を目にするのは、一体どれくらいぶりだろう。  
 
少なくとも10年以上前には、こんな光景を彼女は当たり前のものとして見ていた筈なのだ。  
その頃には、彼女にはまだ家族がいて、彼女の家には彼女以外の人間もいたのだから……。  
「こんなの、本当に久しぶりで………だから……」  
そこまで言ってから、可符香は少し不必要な事まで喋りすぎてしまったのではないかと、表情を強張らせた。  
だけど、その辺りの事は望も察したのか、可符香に聞き返してくるような事はなかった。  
そのまま望は料理を続け、可符香はその音に、その気配に心地良く身を委ねた。  
誰かがいてくれて、自分の為に何かをしてくれる。  
それが心強くて、嬉しくて、可符香は今日一日で感じた事のなかったほどの強い安心感に包まれていた。  
やがて、出来上がったおじやと、温め直した霧の野菜煮付けを皿に盛ったものを持って、望が可符香のところまでやって来た。  
「わあ……」  
鼻腔をくすぐる匂いに、可符香は声を上げた。  
「最近、小森さんに頼りっきりでしたけど、前は交の食べる分も作ってましたからね……そこまで不味くはないと思います」  
望に手渡されたスプーンを持って、可符香はおじやの最初の一口を掬い上げる。  
ふうふうと息をかけて、十分に冷ましてから、口の中に運んだ。  
そして……  
「……………」  
「あの、どうかしましたか?……もしかして、お口に合いませんか?」  
いきなり沈黙した可符香の横で、あたふたと望がうろたえる。  
一方の可符香は、望のそんな様子にも気付かず、ただ口の中にふわりと広がっていく味を噛み締めていた。  
言葉が出なかった。  
自炊経験の長い可符香には、望がそのおじやをどれだけ丁寧に、どれだけ可符香の事を思って作ってくれたのかがわかった。  
だから、口いっぱいに広がった味と、胸の中をいっぱいにした暖かな気持ちで、もう可符香は口を開く事も出来なかった。  
それから、ようやくその一口を飲み込んで、可符香は心底嬉しそうに微笑んで、こう呟いた。  
「……美味しいです…」  
「そ、そ、そ、そうですか!?…いやあ、良かった!…そうですよね!!きちんと作れば、そんなに失敗する料理じゃないですからっ!!」  
可符香の言葉に安心したのか、ホッとした様子の望は額に浮かんだ嫌な汗を拭いながらそんな事を言った。  
そんな望の様子を見て、可符香はすうっと目を細めながら、目の前のこの担任教師の事を思う。  
臆病、小心、クラスの生徒達からは度々チキンだなんて言われてしまう人。  
だけど、とびきりに優しくて、大変な生徒でいっぱいの2のへのみんなといつでも一緒にいてくれる強い人。  
「あの、せんせい……」  
「は、は、は、はいっ!!…どうしました、風浦さん!?」  
そして、今もまた、いつの間にやら可符香の胸に巣食っていた孤独の影を追い払ってくれた。  
この愛しい人の気持ちに、大好きな人の気持ちに、可符香は何とか応えたかった。  
「お礼……させてください……」  
スプーンを置いて立ち上がり、爪先立ちになって、自分の唇を望の唇にそっと近づけていく。  
そして……  
「………あっ…」  
そして、ある重大で、根本的な問題がある事に気付く。  
「私、風邪をひいてたんだ……」  
どうやら、可符香の思考能力を縛る風邪の影響はまだ続いているようだった。  
ガックリと方を落とし、可符香はうなだれる。  
(よく考えたら……一人で勝手に盛り上がって、お礼だとか、馬鹿みたいだな……)  
お得意のポジティブ思考も風邪で休業中なのか、可符香はさっきまでの元気をすっかり無くしてしまう。  
だけど、その時……  
 
「………ひゃあっ!!?」  
温かくて柔らかい何かが、そっと可符香の額に触れた。  
驚いて顔を上げた先にあったのは、彼女に微笑む望の顔だった。  
「お礼をくださる、っていう話でしたので……勝手にいただいちゃいました…」  
望の言葉を聞いて、可符香はようやく事態を理解する。  
先ほど何かが触れた場所、要するに望にキスされた場所がカーッと熱くなって、何も言えなくなってしまう。  
「あ…うぁ……うぅ…せんせぇ……」  
そうして顔を真っ赤にして呻く可符香を、さらに望はぎゅっと抱き寄せる。  
嬉しさと恥ずかしさが頭の中でミキサーにかけられたみたいで、もはや可符香はただただ混乱するばかりだ。  
そんな彼女の背中をトントンと優しく叩きながら、望はこう言った。  
「…あなたの居ない学校は…あなたのいない2のへは、やっぱり寂しいですよ。先ほどのお礼の件、  
まだお願いできるならもう一つだけ……早く元気になって学校に来てください。…早く元気な顔を見せて、私の隣でいつもみたいに笑ってください」  
望の言葉に応えるように、可符香は望の体をギュッと抱きしめる。  
それから、ようやく頭の中でまとまった言葉を、望に向かって投げ掛けた。  
「…さっきの…アレ……」  
「アレ、というと?」  
「教師が生徒のおでこにキスって………やっぱり犯罪っぽいですよ……」  
「あ…やっぱりそうですか……?」  
胸に顔を埋めたまま、コクコクと何度も肯く可符香に、望は苦笑するばかりだった。  
 
それから、夕飯を食べ終えてからしばらく後まで、望は可符香の傍にいてくれた。  
夕飯の食器洗い、後片付けもきちんと済ませてから、帰る直前に望はこう言った。  
「それじゃあ、風浦さん、また明日……」  
可符香はその言葉をベッドの上でもう一度繰り返す。  
(また明日……また明日、先生といっしょに………)  
その事を考えるだけで、なんだか体中がウズウズ、ワクワクするようだ。  
「先生、また明日……」  
それから、彼女はそう呟いて、部屋の灯りを消した。  
一人ぼっちのベッドの上、風邪は容赦なく彼女の心と体を弱らせた。  
だけど、もう怖くない。  
瞼を閉じれば浮かぶあの人の笑顔がある限り、可符香はもう少しも寂しくなんてなかった。  
 

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