買い物を一通り終えて、電車に揺られてようやく駅に帰り着いた可符香を待っていたのは、土砂降りの雨だった。  
「まいったな……」  
現在、日本全域は梅雨の真っ只中、今日の天気予報でも空模様は安定しないとは言っていた。  
だが、ここまでの大雨は予想外だった。  
今日一日を振り返っても、ときどき雨粒がひとつふたつ肩に当たった記憶があるぐらいで、本格的に降りだす兆候はなかった。  
それが、本降りを通り越して、道路の向こう側さえ霞んで見えなくなるようなとんでもない大雨になってしまったのだ。  
「うぅ…油断してた……」  
駅の入り口の屋根の下から、外の大雨を見ながら、可符香はため息をついた。  
まるでバケツの底をぶち抜いたような、洪水と見紛う程の雨。  
地面に勢いよくぶつかった水滴は、その強烈な落下エネルギーでもって屋根の下に居る筈の可符香のところにまで水滴を飛ばしてくる。  
さてはて、これからどうするべきか。  
一応、梅雨の最中に外出するわけだから、可符香とてそれなりの準備をしていなかったわけではない。  
彼女のカバンの中には、愛用の折り畳み傘が出番を待っている。  
だが、しかし………  
「こんな雨じゃあ、さすがに役に立たないよね……」  
悲しいかな、コンパクトがウリの折り畳み傘のカバーできる面積ではこの雨を防ぎ切る事はちょっと難しい。  
今の状況下では、可符香の傘は残念ながら役者不足である。  
かといって、駅の周囲のコンビニなんかで購入できるビニール傘も、能力的には大差ない。  
この雨の中に、小さな傘一本で歩き出せば、家に帰りついた頃には頭の周囲のわずかな部分を除く、  
可符香のほぼ全身がずぶ濡れになってしまう筈である。  
降るかどうかもわからない、降ったところでたかが知れている。  
そう、高を括った結果がこの有様である。  
それからしばらく、降り続く雨を見つめ続けていた可符香だったが、ついに覚悟を決める。  
「………仕方ない、かな?いつまでもここに居ても、埒があかないし……」  
この土砂降りはいつまで続くだろうか。  
雨足が弱まる事を期待してこの場で立ちんぼを続けるのも辛い。  
買い物した衣類やその他の雑貨も、濡れたぐらいで致命的に駄目になる事は無い。  
早く家までたどり着いて、シャワーを浴びて、乾いた服に着替えてサッパリした方がよほど建設的だ。  
「よし……」  
呟いて、可符香はカバンの中に手を突っ込んで、折り畳み傘を掴む。  
(……別に、傘自体を忘れてきたわけじゃないんだし、雨具なしで帰るよりはずっとマシだよね……)  
そうだ。  
小さくて、頼りなくはあるけれど、ともかく今の彼女は傘を一本持っているわけなのだから……。  
そして、可符香が折り畳み傘をカバンから取り出そうとしたその時だった。  
「風浦さん?」  
耳に馴染んだ声に、思わず振り返った。  
「どうしたんですか?そんな所でぼんやり突っ立って……」  
彼女の担任教師、糸色望が大きな傘を片手に持って、そこに立っていた。  
「ああ、もしかして、傘をお忘れになったんですか?」  
「あ…は、はい……」  
問われて、可符香は咄嗟にそう答えてしまった。  
持っている傘が小さくて、この大雨にしり込みしていたという事実は、ちょっと一言では説明しにくかったし、  
さらに言うならば、この時、可符香はちょっとだけ期待していたのだ。  
「それは困りましたね。確かに、天気予報でもこんな大雨になるなんて、言ってませんでしたからね」  
「はい。だから、家に帰ろうにも帰れなくて、ちょっと困ってました」  
可符香は見ていた。  
望の持っている傘。  
しっかりとした骨組みと、広い面積をカバーできる大きさ、もし、あの中に一緒に入れてもらえるのなら……。  
もちろん、どんな大きな傘だと言っても、人が二人も入ってしまえば、可符香の小さな折り畳み傘と大差は無い。  
傘のフチから防ぎきれずに飛び込んでくる雨粒で、二人の衣服はズブ濡れになってしまうだろう。  
だけど、この場合、そういう細かい事は大した問題じゃあないのだ。  
(したいな……先生と、相合傘……)  
それが望に迷惑をかける行為だとは理解している。  
望と相合傘をすれば、可符香が全く濡れずに済むというのなら、無理を聞いてもらうのも、まあアリかもしれない。  
しかし現実は、相合傘でも、自分の折り畳み傘でも、どちらでも家にたどり着く頃にはずぶ濡れになっているだろう事には違いはない。  
ならば、可符香も望もそれぞれ自分の傘で帰るのが、一番ダメージの少ない選択肢の筈だ。  
 
それを望に頼むのは、単に望に迷惑を掛けるだけの事。  
それを理解しているから、可符香は何も言わない、言えない。  
でもその一方で、自分が折り畳み傘を持っている事を、どうしても伝える事ができない。  
フェアな態度ではなかった。  
人の良い望が、そんな状況の可符香を放って置けるはずも無いのに……。  
やがて、おずおずと望が可符香に向けて口を開いた。  
「では、家までお送りしますよ、風浦さん」  
そう言って、大きな傘をすっと可符香の頭の上に差し出した。  
「ありがとう……ございます…」  
可符香の胸に湧き上がる、罪悪感の僅かな苦味と、望と一緒の帰り道が実現した事による甘い感情。  
息苦しいような気持ちに苛まれながらも、可符香は望に促されるままに駅を出て歩き始めた。  
 
激しい雨足は一行に弱まる気配を見せない。  
地面から跳ね返ってきた水滴に濡れて、既に可符香の靴やソックスはずぶ濡れだ。  
望の大きな傘も駅を出る時の予想通り、やはり望と可符香を同時に雨から守るほどの能力はないようだ。  
傘を持つ望の右側に立っている可符香の肩はびしょびしょだ。  
衣服のほかの部分も、時折猛烈な風に乗ってさまざまな方向から飛び込んでくる雨粒によって濡れてしまっている。  
全身の衣服は湿って濡れて、傘の効果もせいぜい、無いよりはマシといった程度である。  
こうなる事はわかり切っていた。  
それでも、望と一緒の帰り道という誘惑に勝てなかったのは、他ならぬ可符香自身なのだ。  
だが、そんな可符香が予想しなかった出来事があった。  
それは………  
「あの、先生…それじゃあ、先生ばっかりが濡れちゃいますよ?」  
「いえ、大丈夫ですよ、風浦さん。それに、家まで送ると言っておいて、あなたをずぶ濡れにしたんじゃ意味がないですから」  
笑顔でそう言った担任教師、彼は自分の傘をなるべく可符香寄りに傾けて、彼女が少しでも雨に濡れないようにしていた。  
おかげで、望の着物は左肩を中心に、可符香以上のずぶ濡れ状態である。  
「う〜ん、逆にお気を遣わせてしまいましたか?」  
困った顔で尋ね返してくる望に、可符香は応える言葉を持たない。  
ちょっと考えれば、こういう事もあり得るとわかった筈なのだ。  
だけど、あの時、望と駅で出会った瞬間には、可符香の頭脳はそれに思い至る事が出来ないほどにドキドキしていたらしい。  
先生の隣にいたい。  
先生の隣にいられるのが嬉しい。  
望をからかい、罠にかけ、悪戯をする。  
そうやって愉快犯的な行動を繰り返しながら、可符香がいつも望の傍に居続けたのは、やっぱりそこが一番居心地の良い場所だったからなのだろう。  
だけど、可符香にはそれを上手く伝える事が出来なかった。  
互いの思いを確認し、教師と生徒以上の関係となった今だって、こんな回りくどいやり方で彼の傍にいようとしている。  
その結果が、望にこんな気を遣わせてしまう事なのだから……  
「あの、先生………」  
「……どうかしましたか?」  
いっそ、本当の事を言ってしまおうかとも思った。  
だけど、望は事実を知らされても『それぐらい、構いませんよ』と笑顔で許してしまうだろう。  
可符香は知っているのだ。  
望は優しい。  
普段はちょっとした事に引っかかっては『絶望したっ!!』と騒ぎ立てるのが常なのに、こういうときの望はとことん甘い。  
結局、この可符香の小さな罪を罰してくれる存在など居はしないのだ。  
(あはは…いつも先生をもっと酷い目に遭わせてるのに…こんな事ぐらいで動揺しちゃうなんて……)  
「大丈夫ですか、風浦さん?さっきから、何だか様子がおかしいですよ?」  
苦笑いをする可符香の顔を覗き込んで、心配そうに望が言った。  
仕方がない。  
全ては自分の始めた事なのだ。  
せめて、望のこの厚意に対して、何らかのお返しができればいいのだけれど……  
(そうだ。家に上がってもらって、タオルを貸して、お茶も出して、少しでも休んでもらおうかな  
……って、よく考えたら、これはこれで私の願望が入ってるなぁ……)  
それでも、望を冷え切った体のままで帰すよりは、それは少しはマシなアイデアに思えた。  
そろそろ、可符香の家までの道のりも半分辺りまで来ただろうか。  
少し早いかもしれないが、可符香はそろそろ自分の思い付きを望に伝える事にした。  
 
「あの……先生」  
「……?どうしましたか?」  
可符香の声に、望が応えた。  
そんな時だった。  
「あ、先生っ!可符香ちゃんっ!!」  
道の向こうから、聞き慣れた声が近付いてきた。  
キキーッ!!とブレーキ音を響かせて、一台の自転車が二人の傍で止まった。  
「あ、奈美ちゃん」  
「ああ、日塔さん」  
それは、レインコートを着込んで自転車に跨った、2のへの生徒の一人、日塔奈美だった。  
「こんな大雨の中、雨合羽まで持ち出して、随分と大変そうですね?一体、どういう御用ですか?」  
「ああ、実はですね……」  
望に問われて、奈美は自転車の車体後部に取り付けられていたホルダーから、傘を外して二人に見せた。  
「お父さんが傘を忘れて出かけちゃって、駅まで届けに行くところなんですよ」  
どうやら、奈美の父も可符香と同じく今日の天気に油断してしまった一人のようだった。  
その事を言ってしまってから、奈美は改めて二人の様子をしげしげと眺めてから……  
「それにしても……」  
羨ましそうな声でこんな事を言った。  
「先生と相合傘なんて、可符香ちゃん、いいなぁ……」  
ぽーっとした表情を浮かべ、奈美は二人の顔を交互に見る。  
そんな奈美につられて、望と可符香の顔も知らず知らずの内に赤くなってしまう。  
「あ、あはは……実はですね、風浦さんが傘を忘れて駅で困っていた所に偶然出くわしまして……」  
「ああ、ウチのお父さんと同じだね……あれ、でも……?」  
と、その時、奈美が少し怪訝な表情を浮かべた。  
もしかして、自分が本当は折り畳み傘を持っていると指摘されるのではないか?  
そんな奈美の様子を見て、根拠のない想像をした可符香は、らしくもなくドキドキと不安感に胸の鼓動を早める。  
「あれ、でも……持ってますよね、折り畳み傘?」  
(や、やっぱり……!!?)  
次に奈美の口から出てきた言葉に、可符香は体を強張らせた  
だけど、一瞬遅れてから、彼女はその言葉の中にある違和感に気付いた。  
(あれ……?……敬語?……奈美ちゃんが私に?)  
恐る恐る、可符香は奈美の視線の先を見た。  
彼女の視線が向けられていたのは、可符香ではなく、その隣に傘を持って立っている担任教師……。  
「な、な、なんですか!?…私が折り畳み傘を持ってるって……どういう事です!?」  
望は、奈美の言葉に明らかに動揺していた。  
「前に言ってたじゃないですか。『私みたいな人間は、出かけた先で必ず雨に降られるに決まってるんです!!』なんて言って  
しかも、絶対に失くしたり忘れたりするに違いないから、必ず二本は折り畳み傘をカバンに入れてるって………」  
「それがどうしたんですか!?べ、別にいいじゃないですか、備えあれば憂いなしですよっ!!!」  
「それを可符香ちゃんに貸せば良かったじゃないですか?」  
「う…うぐぐぐぐぐぅ〜」  
もはや返す言葉も出てこない様子の望。  
奈美はそんな望の様子を不思議そうに見つめてから  
「あっ!いけない、もうお父さんが乗った電車が駅についてる頃だ!!」  
腕時計を確認して、慌てて自転車に跨りなおした。  
ペダルに足を掛け、再び漕ぎ出す直前、彼女はもう一度望と可符香の相合傘を見て……  
「もしかして、可符香ちゃんと相合傘したくて、折り畳み傘の事を言わなかったんですか?  
それだったら、やっぱり、羨ましいな……」  
そして、再び駅に向かって自転車を走らせ始めた。  
 
奈美がその場を去ってから、およそ数十秒は経過しただろうか。  
互いに何も言えなくなっていた望と可符香だったが、ようやく望の方から口を開いた。  
「すみません、風浦さん……」  
「先生……」  
「日塔さんが言ってた事は全部本当です。その折り畳み傘は、今日も持っています………」  
しょげ返った、バツの悪そうな表情でそう言ってから、望はカバンの中から一本の折り畳み傘を取り出した。  
望は自分の傘とは別に折り畳み傘を持っていた。  
本来なら、これを可符香に貸せば事は足りていたのだ。  
だけど、折り畳み傘で帰るのも、相合傘で帰るのも、衣服や体が濡れてしまう割合は同じくらい。  
その事に思い至ったとき、望はこの事を言い出せなくなってしまった。  
可符香と、相合傘で一緒に帰りたくなってしまったのだ。  
「何というか…その……申し開きのしようもありません……すみません、風浦さん」  
ガックリとうなだれて、可符香に頭を下げた望。  
彼の頭の中は、自分の願望に任せの行動に対する後悔でいっぱいになっていた。  
だけど………  
(そっか……先生も私と一緒に帰りたかったんだ……)  
そんな望を見つめる、可符香の気持ちは違った。  
彼女は、俯いた望の顔を覗き込んで、  
「先生、そんな顔しないでください。先生が傘に入れてくれて、私、嬉しかったんですよ……」  
「風浦さん、ですが……」  
「それに……それに、ちょっと恥ずかしいんですけど……」  
可符香は、望の目の前で自分の鞄を開いて見せた。  
そこにあったものは……  
「あっ……これは……」  
カバンから顔を出したのは、望と同じく不測の雨に備えて用意されていた彼女の折り畳み傘だ。  
「ほら、私だって、先生と同じだったんです……」  
恥ずかしそうに、バツが悪そうに、可符香は笑った。  
それぞれの内幕をばらしてしまえば、なんて間の抜けた話だろう。  
好きな人と一緒の傘で帰りたいという可愛い下心と、そのためのほんの小さな、つまらないウソ。  
「あはは……なんだかバカみたいですね、私達……こんな事なら……」  
「ええ、こんな事なら、最初から素直に自分の気持ちを伝えておけば良かったのに……」  
顔を見合わせて、望と可符香はクスクスと笑う。  
二人して、さんざん悩んだ挙句、見つけ出された答えはとてもとても単純なものだった。  
でも、たまにはこんな風に、つまらない寄り道や迷い道をぐるぐると回ってみるのもいいものかもしれない。  
だってほら、駅でばったり出くわしたあの時よりも、笑い合う二人の心はもう少しだけ近づけた気がするから……。  
「それじゃあ、先生。私の家でちょっとだけ雨宿りして行きませんか?温かいお茶でも飲んで、二人であったまりましょう」  
「そういう話なら、お言葉に甘えさせていただきますよ、風浦さん」  
一つっきりの傘の下で、そんな会話を交わす二人は、ぎゅっと体を寄せ合う。  
いやだなぁ。これは仕方なくやってるんですよ?  
こうしてくっついて傘の下に入った方が、二人ともなるべく濡れないで済むじゃないですか。  
それにほら、ここはこんなに暖かくて、優しい場所なんだから……。  
寄り添う二人を雨から守りながら、相変わらずの大雨に煙る景色の向こうへと消えていった。  
 

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