右の手の平には、あの少年の頬をはたいた時の痛みと熱がじんわりと残っているような気がした。  
それが、自分のしでかした事がとりかえしのつかないものであると静かに告げているようで、愛は胸を締め付けられるような気分だった。  
「……でも、そのガキの言い方、やっぱりひどいと思うけどな」  
2のへの教室の中、愛の対面に座り、彼女の話を一通り聞いてから、国也は静かに口を開いた。  
愛が人の、それも子供の頬をはたいたと聞いた時、国也は正直に言ってかなり驚いた。  
加害妄想に加えて、人一倍心優しい彼女が人に手を上げるなど、これまで考えた事もなかったのだ。  
だが、愛がどうしてその少年にそんな事をしたのか、それを聞いて国也も納得した。  
おそらくは不慣れな機械の扱いを必死に学んで、ようやく孫に向けてのメールを打てるようになったおばあさん。  
だが、少年はそんなおばあさんの言葉を、メールぐらいは打てて当然、と一蹴したのだ。  
愛の加害妄想も、控えめなその態度も、全ては彼女の優しさの裏返しだ。  
優しいとは、他人を思いやる事ができるという事、他人の気持ちを慮る事ができるという事。  
おばあさんがそのメールを打てるようになるまでに費やした努力、そこに託された気持ち。  
そういうものがわかるからこそ、普段は人に迷惑をかけているのではないかと怯えてばかりいる彼女が、少年にその気持ちをぶつけたのだ。  
だから、国也は思う。  
「それで良かったと思うよ。加賀さんは何も間違ってない」  
「でも、私は自分の怒りをあの子にぶつけて、しかもあんな風に頬を叩くなんて……」  
「でも、加賀さんはそれがどうしても許せなかったんだろ?」  
「………………」  
愛は沈黙する。  
あの時の自分をいかに否定しようと、あの瞬間に愛が抱いた怒りは否定できない。  
だけど、人に暴力を振るうなんて事を、愛が許容できる筈もなかった。  
彼女は、あの時の少年のはたかれた頬の痛みを思い、それを為した自分の罪を思う。  
だから……。  
「あのさ、加賀さん……」  
だからなのだろう。  
国也の次の言葉もまた、愛は到底受け入れる事など出来なかった。  
「俺は、それで良かったと思う。世の中には、叩かれてみなきゃ、自分のやった事の意味にも気付けないヤツがいるよ」  
「そんな……じゃあ、木野君はあれで良かったと…」  
「うん。……正直言うとさ、加賀さんの話を聞いててスッとしたんだ。同じ場面に出くわしたって、俺は加賀さんみたいに怒れるかどうかわからない」  
それは、愛がどういう人間であるかを知っている者としては、少しばかり不用意だった。  
国也にすれば、少しでも愛の行動を肯定し、彼女を元気付けようと殊更に明るく、励ますような調子で口にした言葉だった。  
だが、その言葉のすぐ後、目の前の愛のうつむいた顔が、みるみると悲痛な色を帯びていく事に国也は気付いた。  
愛は、かぼそい声を喉の奥から絞り出すようにして、国也に向けて言葉を放った。  
「……そんな……そんなわけ、ないです………」  
ゆっくりと、愛が顔を上げた。  
その視線は、俯きがちになりながらも、しっかりと国也の瞳を捉えている。  
「………人が人を叩いていいなんて……そんなの許される筈がありません………」  
「…か、加賀さん……?」  
愛はいつだって真剣なのだ。  
頬をはたいた程度で、確かに人は死んだりはしない。  
だけど、痛みの強弱以上に振るわれた暴力自体が人の心を深く傷つける事があるのだと、彼女は理解していた。  
ただ静かに、じっとこちらを見つめる愛の瞳に、国也はようやく自分の発言の不用意さに気付いた。  
「…す、すみません!!……私のような者が偉そうに……」  
ガタンッ!!  
椅子から勢いよく立ち上がり、逃げるようにして愛がその場から去って行く。  
「加賀さんっ!!」  
「すみませんっ!木野君……すみませんっ!!!!」  
国也が彼女の後を追って教室を出た時には、愛は廊下を駆け抜けて、その先の曲がり角の向こうへと消えていた。  
 
「なーんで気付けなかったかな、俺……」  
翌日の昼休憩、学校のベランダの柵によっかかりながら、国也はため息をついた。  
愛が求めていたのは、安易な同意や慰めの言葉なんかではなかった。  
国也からの言葉で、少年に手を上げた自分を正当化して、それで終わり。  
そんな事を彼女が望む筈はなかったのに………。  
「それで、加賀さんの様子はどうなの?」  
問うたのは国也の話を聞いていた、久藤准である。  
「避けられてる感じだな。それも俺を嫌ってるとかじゃなくて、昨日俺に言った事を気にしてるんだ」  
「それなら、なおの事、加賀さんときちんと話をした方がいいんじゃないかな?」  
「わかってるけどさ……わかってるんだけど………」  
情けない話ではあるが、意気地が折れた。  
愛の真意を察してやれなかった自分の不甲斐なさが国也の心を苛んだ。  
昨日、彼女の思いに対して安易な言葉で応えてしまったのは、  
国也が愛を気弱で優しい女の子なんていうステレオタイプに押し込んでいたからではないのか?  
彼女は苦しんでいた。  
自分で自分のした事がわからなくなって、それを一緒に考えてくれる存在を求めていたのだ。  
それを自分は、愛に簡単に許しを与える事で終わらせようとした。  
「俺、加賀さんに何て話していいかわからないよ………」  
国也が力なく呟いた。  
その覇気の無い横顔をじっと見ながら、ぽつり、准がこんな事を言う。  
「でも、加賀さんは木野にも言ってくれたんだよね?」  
「……へ?」  
不思議そうな表情を浮かべて自分の方に視線を向けてきた国也に、准はこう続ける。  
「人を叩くのはいけないって、加賀さんの考えをちゃんと言ってくれたんだよね?」  
「……あっ…!?」  
微笑んでそう言った准の言葉で、国也は気付く。  
そうだ。  
彼女は言ったのだ。  
『人を叩くなんて許されない』と、自分の気持ちを国也にぶつけたのだ。  
少年の頬を叩いた時だって同じだ。  
気弱で人の事ばかり考えている彼女にとって、他人に意見する事はとてつもないエネルギーを必要とする事なのだ。  
だけど、彼女は伝えた。  
その思いを言葉にした。  
愛は、それほどまでに、国也に自分と向き合ってもらいたかったのだ。  
国也の言葉を欲していたのだ。  
国也はベランダの柵によっかかっていた体を起こし、ぐっと伸びをする。  
「久藤、ありがとな……俺、行ってみるよ……」  
「うん。それがいいと思う。加賀さんもきっと、木野を待ってるよ」  
さきほどまでとは打って変わった、決意に満ちた表情を浮かべて、木野はくるりと踵を返し校舎の中に戻っていく。  
「がんばれ、木野」  
その後姿を見送りながら、准が優しくそう呟いた。  
 
だが、しかし、その頃、事態は国也の思いもしない方向に動き出していた。  
いつもの職員室の、いつもの昼休み。  
だが、そこにはいつもと違った緊迫した空気が流れていた。  
職員室の脇の応接スペースで、金切り声を上げる30代中盤の女性に、2のへの担任・糸色望がただひたすらに頭を下げていた。  
「こんな小さな子に暴力を振るうなんて、一体この学校ではどういう教育をしているの!!!」  
「も、申し訳ありません。生徒の方にはきちんと言って聞かせますので……」  
「信用ならないわっ!!学校っていうのは自分達にマズイ事は何でも隠してしまうんですもの。  
会わせなさいっ!!その生徒と直接会って話をします。それから、この子に……っ!!!!」  
そう言って、女性は自分の傍らに座る少年を見る。  
それは、昨日、愛が頬を叩いて叱ったあの少年だった。  
女性は、少年の母親だったのだ。  
「きちんとこの子に謝らせますっ!!!!」  
鼻息も荒くそう言い切ってから、母親は平身低頭といった状態の望を見下ろしてフンと鼻息を漏らした。  
少年の母親は、少年が家に帰ってから愛に叱られたという話をするやいなや、  
自ら出かけて愛しの息子の頬を拳で殴り飛ばした(母親の中では何故かそうなってしまった)犯人を捜し始めた。  
学校の特定は簡単だった。  
いつも、学校の周囲で何かと騒ぎを起こす2のへの面々と、彼ら彼女らの身につけている制服を覚えている者が大勢いた。  
母親は、周囲への聞き込みを続ける内に、その学校には一際問題児ばかりが集まったクラスがあると知ったのだ。  
 
しかも、事件の現場にはそのクラスの担任教師まで居合わせたという。  
もはや、言い逃れはできまい。  
事件の犯人は2のへの女子生徒の一人であると確信し、彼女は学校までやって来たのだ。  
「全く、最近の学校は生徒に対する指導を何だと思っているのかしら!!  
会ったばかりのこんな小さな男の子に暴力を振るえるなんて、どこぞの凶悪犯罪者と変わらないわっ!!!」  
「は、はい……まったく、本当に、あなたの仰る通りだと思います」  
へこへこと、母親に謝り続ける望。  
だが、望の謝罪などお構いなしに、母親のテンションは上がっていく。  
そして、その様子を、職員室の扉のすぐ向こうから、2のへの生徒達が伺っていた。  
 
「う―――っ!!!なによ、あの女っ!!!訴えてやるわっ!!!」  
「カエレちゃん、落ち着いて」  
今にも叫び出しそうなカエレを、あびるが押さえる。  
だが、そのあびるも職員室で喚き続ける母親に対して、決して良い感情を持っているわけではない。  
あの時、その場に居合わせた者なら誰だって確信している。  
加賀愛が一方的に責められる様な謂れはないと。  
現場に居なかった者達も、愛が少年の母親の主張しているような理不尽な暴力を振るったなどとは欠片も信じていなかった。  
さらに言うなら、一方的に愛を断罪する母親の態度に、誰もが静かな怒りを抱き始めていた。  
そんな中に、事件のまさに当事者である愛が、不安げな様子で立っていた。  
「加賀ちゃん、あんなヤツの前に出て行く事なんてないんだからね!!」  
奈美がぎゅっと拳を握り締めて愛に言った。  
「どう考えても、あの一件はあの子に非があるわ」  
千里も愛の肩に手を置いて、そう言った。  
愛を励ます言葉の数々、だが彼女の表情は晴れない。  
未だ右の手の平に残る感触が、知らず知らずの内に彼女の心の中を罪悪感でいっぱいにしてしまうのだ。  
扉越しに聞こえる母親の怒号に、幾度となく全身をビクリと震わせる。  
(やっぱり…間違いだったんですね。……暴力なんて……そんな事、許されませんよね………)  
愛は次第に決意を固め始めていた。  
行こう。  
行って、話しをしてこよう。  
怒られてこよう。  
今も職員室の中では、人に頭を下げるのは大得意な望が必死に母親に謝り続けている筈だ。  
だが、それじゃあいけないのだ。  
少年を叩いたのは自分、ならば責めを受けるのも自分でなければならない。  
「加賀ちゃん?」  
すうっと、愛が自分を囲むクラスメイト達の間を抜けて、職員室の扉へと向かっていく。  
「……私、行きます」  
「ちょ……あんた、何言ってるのよっ!!?」  
思わぬ愛の行動を止めようと、カエレが愛の前に割って入った。  
だが、愛はそんなカエレにぺこりと頭を下げて  
「すみません……」  
彼女の脇を抜けて職員室の扉へと近付く。  
その場にいた誰もが、愛の意図を悟っていた。  
責任感の強い彼女は、あの平手のただ一発を自分で許す事ができないのだ。  
やがて、愛の手が職員室の扉にかかる。  
ゆっくりと深呼吸をしてから、少年の母親と対峙すべく、愛が扉を開けようとしたその時だった。  
「はぁ…はぁ……加賀さんっ!!!」  
背後から聞こえた声に、愛は思わず振り返った。  
そこにいたのは、彼女の良く知る、あの気のいい少年の姿。  
「加賀さん、待ってくれ。俺から、話したい事があるんだ……」  
木野国也が、そこに立っていた。  
 
国也は、愛を探して校舎の中をうろついている途中で職員室の騒ぎを知った。  
(もし、これを加賀さんが知ったら………)  
事態は一分一秒を争う。  
国也は必死で学校の廊下を走りぬけ、階段を駆け下りて、ようやくギリギリのタイミングで愛の所へやって来た。  
「木野…くん……」  
「昨日はごめん。加賀さんが真剣に悩んでるのに、俺、いい加減な言葉しか言えなかった」  
「そんな……木野君はそんなこと……」  
「だから、今日こそはきちんと、加賀さんの言ってた事に答えたいんだ」  
国也の手の平が、愛の右の手の平を、あの少年の頬を打った手を優しく包んだ。  
見つめてくる国也の真剣な眼差しに、愛はほとんど身動きも出来なくなる。  
やがて、ゆっくりと国也は語り始めた。  
「加賀さんがその男の子の頬を叩いた事、それが正しいかどうかは俺にもよくわからない……」  
国也は、昨日の愛との会話以来、その事をずっと考えていた。  
だけど、結局答えは出なかった。  
愛がやったように何かを叱るときに手を上げる、それが有効な場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろう。  
それに、もし仮に有効だったとして、だからといって暴力は許されるのかという問題もある。  
きちんと程度をわきまえていればいいのか?  
ならば、その基準はどこにあるのか?  
あらゆる場合を考えたが、どれにも明確な根拠は見出せず、国也の思考は振り出しに戻ってしまった。  
だが、さきほどの准との会話で気付いたのだ。  
「ただ、それでもわかる事がある。方法が良かったとか悪かったとかはこの際関係ない。  
加賀さんは、その子に人をバカにするような事は言っちゃいけないって、それを伝えたかったんだ」  
昨日の愛との会話でも、彼女は国也に自分の思いを、彼女が抱えていた悩みをぶつけてくれたのだ。  
思いを伝える方法、それが正しいか正しくないか、それも重要だろう。  
だが、それに拘泥するあまりに忘れてはいけない。  
自分が言いたかった事、伝えたかった事、その思いをないがしろにしてはいけない。  
「加賀さんがその子を叱ってあげなきゃって思った気持ち、俺もよくわかるよ」  
「木野くん……」  
「だから、加賀さんがその方法に、その子を叩いた事で迷っているんなら、もう一度話せばいいよ」  
「えっ……!?」  
「母親だけじゃなくて、その子も一緒に来てるんだろ?」  
国也の言葉に、その場に居た2のへの面々は凍りついた。  
「無茶よ。あの母親が、そんな話を聞いてくれるわけ……」  
千里が険しい表情で叫ぶ。  
だが、それを遮るように、愛の声が響いた。  
「わかりました。木野君、一緒に来てくれますか?」  
「当然だよっ!!」  
愛の言葉に、国也は力強く肯いた。  
 
ガラガラガラガラ………。  
なるべく静かに開けたつもりだったが、扉は予想外に大きな音を立てた。  
その音に反応して、職員室の入り口へと母親と望、二人の視線が向けられた。  
「誰なの?……もしかして、アナタがウチの子に暴力を振るった……」  
「加賀さん……」  
立ち上がり、自分達の方を振り返った望に、愛はぺこりと頭を下げた。  
「……来るんじゃないかと思ってましたよ……」  
「……すみません。先生、私のせいで、こんな大事になってしまって……」  
申し訳なさそうな愛の言葉を聞いて、母親は確信する。  
この一見気弱そうな少女が、わが子に暴力を働いた憎むべき適なのだ。  
「あなたっ!!あなたなのねっ!!!よくもウチの子に……っ!!!」  
ついに我慢の限界に達したのか、母親はズカズカと愛の方に向かって歩いてくる。  
だが、今にも掴みかからんばかりの彼女の進む先を、望が体で阻んだ。  
「ちょっと…何をするのよ、このクソ教師っ!!!あの子が犯人なんでしょう!?あなたもその場で見てたんでしょう?」  
「ええ、そうです。その通りですよ」  
「なら、どうして邪魔をするのよっ!!!二度と乱暴な真似が出来ないように、私が徹底的に懲らしめなきゃっ!!!」  
 
凄まじい剣幕で、望を押しのけて愛の下へと向かおうとする母親。  
だが、望は決して道を譲らない。  
彼は今までと変わらない気弱そうな声で、しかし、きっぱりと彼女に言った。  
「……それをするのは、もう少し待ってからにしてくれませんか?」  
「な、何を言っているのよ?生徒が暴力を振るったのに、あなた、責任を感じないの!!?」  
先ほどまで自分に頭を下げ続けていた教師が逆らった事が、彼女にはとても信じられないようだった。  
「確かに、これまで伺ったお話はそのような内容でしたね……」  
「そのような内容って……事実よっ!!私が自分の足で調べた事実に、何か文句があるっていうのっ!!!」  
「いいえ。ただ、気になっていた事があるんですよ……」  
そこで、望はちらりと応接スペースのソファに腰掛けた少年の姿を見やる。  
「あの子が…今回の一件の当事者であるあの子が、あなたの隣に座りながら、なんだかずっと何かを話したそうにしているように見えたんです」  
「えっ……!?」  
それから望は、少年に優しく微笑んで呼びかけた。  
「どうですか?あなたには何か言いたい事があるんじゃないですか?」  
望の声に、少年はおそるおそる顔を上げた。  
「あっ……アンタ、俺に『クソガキ』って言おうとしてたオジサンだよね?」  
「う……聞こえてたんですか?」  
少年の発言に、母親はさらに怒り狂うが、望はそれを必死で押しとどめながら話を続ける。  
「ま、まあ、それはともかく、あなたが何か言いたいのを我慢しているように、私には見えたんですが……」  
望の言葉に、少年はしばし俯いて黙りこくるが、やがて顔を上げて……  
「話、させてくれるの……?」  
「ええ」  
「………俺、あの時の事で、そこのねーちゃんとずっと話したくて………」  
少年がソファから立ち上がる。  
そして、ゆっくりと愛のいる方に向かって、どこか恐る恐るといった足取りで歩いてくる。  
「加賀さん……」  
「はい……」  
そんな少年の様子を見て、国也は愛の背中をそっと押し出してやった。  
少しずつ、少しずつ歩み寄っていく二人。  
やがて、互いに真正面から向き合って立ち止まった二人は、お互いに視線を交し合った。  
それから、少年はバツの悪そうな表情で、愛から視線を逸らして  
「あの……その………ご、ご、ごめんっ!!!」  
言った。  
愛は少し腰をかがめて、少年と目線を合わせる。  
「……あのばーちゃん、いっつもあの辺ウロウロしてるから、あの後、探して、ちゃんと謝ったんだ……」  
「それは……良かったです……」  
「俺、もうあんな事言わないから…人をバカにしたりしないから……だから、ごめんなさいっ!!もうしないから、ごめんなさいっ!!」  
「それなら、私だって…本当にすみません。あんな風に、あなたのほっぺを叩くなんて……」  
「そんなの平気だよ。俺、あの時、ねーちゃんに怒られて、やっとわかったんだ。自分がどういう事をしてたのか……」  
少年の言葉に、愛は自分の心が温かな感情に満たされていくのを感じた。  
少年の頬を叩いた事。  
それがベストな方法だったのか、それは今もわからない。  
だけど、少年は愛の思いを受け止めて、あのおばあさんに、そして愛に、今こうして謝ってくれている。  
それが愛にとっては何よりも嬉しい事だった。  
 
「こういう事です……」  
一方、傍らで愛と少年の様子を見ていた望は、少年の言葉にすっかり戦意をなくした母親に語りかけていた。  
「お子さんを傷つけられて、それでお怒りになる気持ちはとてもよくわかります。  
だけど、あなたには今回の行動を起こす前にやるべき事があったんだと、私は思います」  
母親は、少年が自分がおばあさんをバカにして、愛に頬を叩かれ、叱られたという話をされたとき、その最後の部分まで聞こうとしなかった。  
話の表層をなぞるだけで、息子の言いたかった事を自分の怒りで捻じ曲げ、それを息子のためと勘違いしたまま暴走してしまった。  
「あの子の話を聞いてあげて欲しかった。あの子がその出来事で、何を考え、何を感じたのかを聞いてほしかった」  
少年は、母親に伝えれば、また叱られてしまうかもしれないその話を、それでも打ち明けようとしたのだ。  
おばあさんには、本当に悪い事を言ってしまったと思った事。  
頬をはたかれ、怒られた事。  
それでも、その後、おばあさんには謝れた事。  
それを全部、母親に伝えようとしていたのだ。  
「それじゃあ……私はこれからどうすれば………」  
「もう一度、お子さんとしっかり話してあげてください。あの子には、あなたの言葉が必要です」  
その望の言葉が引き金になったかのように、母親の目から大量の涙が溢れ始めた。  
職員室には、昼休憩の終了を告げるチャイムが鳴り響き、事件の終わりをその場に居るみんなに伝えていた。  
 
というわけで、なんだかんだと騒がしかった一日も終わりを告げ、学校は放課後を迎えていた。  
愛と国也は二人並んで、学校の脇を通る道を歩きながら、今日の事をぽつりぽつりと話していた。  
「木野くん……今日は、本当にありがとうございました……」  
国也に向かって、愛がぺこりと頭を下げた。  
実際のところ、あの時、木野が来てくれるまで、愛は望に代わってあの母親に平身低頭謝り続ける事しか考えていなかった。  
だが、木野の言葉でそれが変わった。  
自分が誰に、何を伝えようとしてあんな行動に出たのか、それを思い出す事ができた。  
「そんな……俺は加賀さんが必死に話してくれた事に、適当な答を返したりして……」  
「でも、その後もずっと私の事を考えてくれて、最後には私を助けてくれました………」  
今回の事件は、国也と愛の心までも、また少し近づける事になった。  
誰かの事を思うときの、愛の真剣さ。  
そんな愛の心に応えようとした、国也の真摯な気持ち。  
誤解して、ぶつかりあって、だけどその分だけより近くにいられるようになる。  
なにしろ、引っ込み思案な少女と、あんまり勘が良いとは言えない少年の事だ。  
これからも、何だかんだと騒ぎの種は尽きないのだろうけど……。  
「だから、やっぱりもう一度言わせてください。ありがとうございます、木野君……」  
「あ…う……ど、どういたしまして……」  
愛の笑顔の眩しさと、その言葉のこそばゆさに、国也の顔にさっと朱が入る。  
そして、まるで今の二人の心の距離を表すかのように、隣り合って歩く二つの後姿が互いにもう少しずつ近付いたのだった。  
 

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