それは、とても無残な光景だった。
葉っぱを無くし、短冊と飾りが揺れる枝だけになった笹。
そしてその笹の葉は、周囲の道路に落ちて、道行く人々に踏みつけられてしまっていた。
星に願いを届ける七夕としては、あまりにうら寂しいその風景。
それを見ながら、風浦可符香はため息を吐いた。
「こんな事になるなんて、さすがに思ってなかったな……」
この光景を作る原因となった騒ぎ、それを先導したのは他ならぬ彼女なのである。
『振りかざす武器が小さい人』がいる。
そんな話題から始まったいつもの2のへの面々の会話。
最初は『大した事のないものを自慢げに武器として振り回されても困る』といった感じで話が進んでいたのだが、
その流れが途中で大きく変わった。
扱い慣れない携帯電話で孫へのメールを打てるようになった事が自慢のおばあさん。
それを馬鹿にする子供を、あの気弱で優しい加害妄想少女・加賀愛が叱ったのだ。
その光景を見ていた2のへの面々は認識を改めざるをえなかった。
どんなに小さな武器に見えても、それは持たざる者にとって精一杯の一撃であるのかもしれないのだと。
まあ、そこまでは良かったのである。
だが、ここで可符香のいつもの悪い癖が出てしまった。
可符香はたとえ小さな武器でも、それを振りかざし戦うのは尊い事だと周囲の人間を焚き付けたのだ。
多くの人々が己の小さな刃の象徴として、笹の葉を手に持ち叫び声を上げた。
………ま、その後すぐに、突如現れたパンダ好きのおばさんの一喝によってその集団はちりぢりになってしまったのだけど。
それでも、これもいつも通りの可符香の悪戯、人の心の隙間に入るのが大得意な彼女が起こしたいつもの騒ぎという事で終わる筈だった。
だが、今回の騒ぎは、少しばかり大きすぎる爪あとを残していった。
それが、この有様である。
考えてみれば、何も無い所から笹が出てくる筈がないのだ。
あの騒ぎに参加していた人間は、みな笹の葉を手に持っていたが、その出所こそが七夕の飾りの笹だったのだ。
しかも、パンダ好きおばさんの一喝で彼らが逃げ出したときに、まだ無事だった笹のいくつかまでもが折られたり倒されたりしてしまった。
悪戯と権謀術数の天才、風浦可符香といえど全てを見通せる訳ではない。
というか、今回はその場のノリで行動していたので、自分の行動が引き起こす事態にまで頭が回らなかったのだ。
さまざまな人々の願いの短冊を吊るされた笹をこんなに滅茶苦茶にしてしまった事に、さすがの彼女も少しばかり落ち込んでいた。
「願いなんて………」
彼女はその言葉を呟こうとして、結局最後までそれを口にする事は出来なかった。
踏み潰された笹の葉と、枝を折られ葉を失った笹。
そんな光景を見ていると、なんだかどうしようもなく空しい気持ちが胸の奥からこみ上げてくるのがわかった。
黒い感情が心の中を多い尽くしていくのがわかった。
短冊に託された願いなどにどんな意味があるのだろう。
一体、どこの誰がそれを聞き届けてくれるというのだろう。
その保証は?
根拠は?
少なくとも彼女は、風浦可符香は知っている。
七夕の願いが一体どうなるのかは知らないが、人が胸の奥に抱く切実な願いが一体どんな末路を辿るのかを……。
何度も願ってきた。
何度も裏切られた。
強く強く強く願い続けた切なる祈りが、無残に踏み潰されて消えていくのを何度も見てきたのだ。
ならば、目の前に広がる無数の願い事だって同じだ。
星の力の加護とやらがどれほどのものだろうと、あらゆる願いは等しく同じ運命を辿るのだ。
彼女は、先ほどの言葉を、今度こそ最後まで口にしようとした。
「願いなんて……叶わな……」
と、そんな時である。
「願いなんてぇ、叶いませぇええええええええええんっっっっ!!!!!!」
聞きなれた声が、彼女の言おうとした言葉で、彼女の声を掻き消してしまった。
「せ、先生……?」
呆然と、可符香はその人物に呼びかけた。
「あ……ふ、風浦さん!?…もしかして、さっきの聞いてました?」
可符香の方を振り返り、そこでようやく彼女の存在に気付いたらしい担任教師・糸色望はバツの悪そうな表情でそう尋ねた。
あまりに衝撃的な登場に少しばかり度肝を抜かれていた可符香は、誤魔化す事も出来ずにその問いに素直に肯いてしまう。
「み、み、み、見られてしまいましたぁああああああっ!!!!!」
コクコクと肯く彼女を見て、望は世界の破滅を目にしたかのような表情でその場に膝をつく。
可符香はしばし呆然としながらも、泣き叫ぶ望の出で立ちを眺める。
衣服はさきほどまでの浴衣姿ではなく、いつもの着物と袴。
そして、片手にはほうき、片手には大きなビニール袋を持っていた。
さらに、少し離れた所には真新しい笹が数本、商店のシャッターに立てかけられているのが見えた。
「あの……先生?」
「あああ、だから七夕なんて嫌いなんです。叶いもしない願いをわざわざ飾り立てて、ナンセンスもいいところですっ!!!」
「先生……ちょっと、私の話も聞いてください!先生っ!!」
「そういえば、子供の時の七夕だって倫が笹を使って私に…………って、あっ!す、すみません、風浦さん!!
無視するつもりはなかったんですが、七夕の事を考えてるうちになんだか、色んなトラウマがこみ上げてきて……」
「いいえ、大丈夫ですよ。先生は、だいたいいつもそんな感じですから」
「な、なんだかその言い方、酷くないですか?」
可符香の容赦ない一言にショックを受ける望。
だが、可符香はそんな望の様子はお構いなしに、望に対する疑問をぶつけた。
「先生、そのホウキとビニール袋、一体何に使うつもりなんですか?」
「あ、ああ、これですか……」
問われて、望は急に思い出したように自分の手に握った二つの道具を見た。
「さっきの騒ぎの後片付けをしに来たんですよ。一応、私のクラスが発端になって起こった出来事ですから」
ビニール袋の中を良く見ると、道端に捨てられた笹の葉が入れられていた。
どうやら望は、例の一件で辺りに散らばった笹を掃き集めていたらしい。
それは、本来ならば周囲の人々を煽り立てた可符香に最大の責任があるはずの事だ。
ビニール袋の中に押し込められた笹の葉は、道端に散らばっている時よりもさらに汚く、ズタボロになったように見える。
なんだか、また胸の奥をぎゅっと締め付けられたような気がして、可符香は軽くため息を吐く。
「風浦さん……大丈夫ですか?」
そんな可符香の様子に目ざとく気付いたのか、少し心配そうな様子で望がそう尋ねた。
「い、いえ、別に何にもないですよ………それより…」
何となく、今の自分が考えた事を見破られそうな気がして、可符香は咄嗟に話題を逸らそうとした。
それは………
「あそこに立てかけてある笹、あれは何なんですか?」
「ああ、あれはですね………」
望は可符香のその問いを聞くと、自分の懐に手を入れてそこからある物を取り出した。
それは少し小さめのビニール袋で、中には少し汚れた短冊が何枚も入っていた。
「さっきの騒ぎで地面に落ちたのを集めました。笹の葉を片付け終わったら、あっちの新しい笹に吊るそうかと思ってます」
「えっ……」
それは、可符香にとっては意外な答えだった。
「……誰かにそうするように言われたんですか?」
「い、いえ……一応、自主的にやろうと考えて、なんとか笹を調達してきたんですけど……」
「それじゃあ、どうして!?」
可符香の声が思わず大きくなった。
彼女は理解できなかったのだ。
「だって、先生はさっき、『願いなんて叶わない』って言ってたじゃないですか………」
そう、確かに望は言ったのだ。
可符香が言おうとしたのと同じ言葉を、大声で叫んだのだ。
「いえ、確かにそうなんですけどね……」
そんな可符香の問いに、望は少しバツが悪そうに、ポリポリと後ろ頭をかきながら答える。
「確かに私は七夕の短冊なんかで願いが叶うなんて思ってません。大体、天の川が見えてなきゃ話にならないお祭りなのに、
微妙に梅雨の時期と被るから晴れてない事も多いですし、短冊だって良く見たら滅茶苦茶な願いが書いてあったりしますし……」
「それならなおの事、こんな事をする必要なんてないじゃないですか……」
「はい。そう思います。そう思うんですけど……」
そこで、可符香は自分に向けられた望の表情が、ふっと柔らかくなったのに気付いた。
「たとえ叶わないのだとしても、何かを願うのはそんなに悪い事じゃないと思うんですよ……」
「えっ……」
「思えば、昔から何かを願って思い通りになった事なんて一つもありませんでした。明るい高校生活も、作家になりたいと思った事も、
いまやただの泡沫の夢です。だけど、願いに裏切られて、裏切られ続けて、そうして今いるこの場所が、私は結構、嫌いじゃないんです」
望はまあ、何と言うか、冴えない男ではあった。
教師という今の職業にしたところで、彼が自ら積極的に選び取ったものではない。
さまざまな挫折を経験した上で、今の彼はここにいるのだ。
だけれども、今の望はそうやって紆余曲折、苦い経験を幾度も越えた上で立っているこの場所に愛着を感じていた。
確かに、望んだとおりの未来からは程遠いかもしれない。
それでも、凶悪なまでの個性を持つ生徒達に囲まれ、騒がしく生きる毎日が彼にとっては愛おしかった。
そしてそれは、彼が未来へ託した望みや願いがなければ、おそらくはたどり着けなかった場所なのだ。
「胸に抱いた願いは折れても、その願いを抱いた事が私をここまで連れて来てくれました……」
それから望は、不安げな表情の可符香を優しく抱き寄せ
「だから、私はこうしてあなたの隣にいられるんです……」
言って、笑った。
「先生………」
その一言で、可符香の胸にわだかまっていた黒い塊が、すうっと消えたような気がした。
願いが叶うかどうか、それも大事な事だけれど、願いを抱いて歩いた道のりはたとえそれが虚しく終わろうと、決して無駄にはならない。
可符香だって同じだ。
幼い頃から次々に襲い掛かる理不尽の中、息も絶え絶えの状態でようやくたどり着いたこの場所を、確かに愛していた。
「というわけで、まあ、私の主義としては叶わないと思いますが、この願い達を無下に扱うのも気が引けるんですよ。
ところで、風浦さん……」
「はい」
「自分で片付けるって大見得切っておいて情けないんですが、今日もあの騒ぎがあったせいでへとへとです。
…………後で短冊を笹につける作業だけでも、手伝ってくれませんか?」
いつもの気弱そうな笑顔で、ぺこりと可符香に頭を下げる望。
今の可符香には、その笑顔が、言葉が、たまらなく愛おしくて……
「はいっ!」
大きな声で答えた彼女の顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。