黎明 side望  
 
カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが部屋の中の薄闇を照らしている。  
チクタクと律儀にペースを守って進む時計の針の音に混じって、微かに聞こえる静かな吐息に望は耳を傾けていた。  
すぅ……すぅ……。  
自分の腕の中で眠る少女・風浦可符香の、本当に安らかな寝息。  
額がくっつくほど間近にいるのに、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなほどに小さくて、  
だけど、心の底から安心し切っているのだという事が聞いているだけでわかるような、そんな穏やかな呼吸。  
望はそんな可符香の頭を、時折慈しむように撫でてやる。  
すると、可符香はそれに反応したかのように、わずかに身を捩って望の方へと体を寄せてくる。  
まるで幼い子供に戻ったような、子供そのもののような可符香の姿をじっと見つめながら、望は思い出していた。  
 
だしぬけに部屋の襖が開いて、寝間着姿の可符香が現れたのは日付が変わる少し前、  
そろそろ望が部屋の電気を消そうとしていたまさにその時だった。  
「あの……先生……」  
いつもと変わらない笑顔を見せる彼女は、だけども、いつもよりどこか心細げに見えた。  
「風浦さん、どうかしましたか?」  
「ええ、ちょっと……」  
曖昧に濁した言葉を笑顔の仮面で誤魔化しながら、可符香は部屋の中、望の布団の脇にちょこんと腰を下ろす。  
ただ微笑むだけの彼女に、どう対応していいものかわからず望が可符香の顔を見つめると、彼女もほんの少しだけ困ったような表情を見せた。  
どうやら、何を言えばいいのかわかっていないのは、可符香も同じのようだった。  
そのまま、しばらくお互いに無言の二人だったが、やがて望が仕方がないという風に笑ってから、こう言った。  
「今夜は、この部屋で寝ますか?」  
可符香は少し驚いた顔をして、それから満面の笑顔を浮かべる。  
「いいんですか?」  
「ええ、もちろん」  
「それじゃあ……お言葉に甘えて……えいっ!!!」  
嬉しそうに声を上げて、可符香は望の布団の中に転がり込んできた。  
望はそれを見て、少し慌てた様子で  
「あ…いや……こっちの部屋にももう一組布団はありますから……!?」  
「ここまで来てそういう事言っちゃうから、チキンなんて言われるんですよ」  
可符香を止めようとして、結局は彼女に押し切られてしまう。  
「それとも、私と一緒なのは嫌なんですか?」  
「…………そ、それは…………………嫌じゃ…ないです……」  
「ほら、やっぱり」  
くすくすと笑う可符香の前で、望は赤面する。  
「こっちの枕でも大丈夫ですか?」  
「今更、自分のを取りに戻るわけにもいきませんから」  
布団や毛布と違ってこればっかりは一枚を共有できない枕を、望は可符香に手渡した。  
可符香はその枕を一度きゅっと抱きしめてから、望の枕の隣に置いた。  
二つの枕はほとんどくっつきそうなぐらい近くに置かれていたが、望はもう何も言わなかった。  
「それじゃあ、電気を消しますよ」  
「はい」  
天井にぶら下がる蛍光灯の灯りを落として、二人は布団の中に滑り込んだ。  
狭い布団の中で、お互いの肩が、足が、手の平が、僅かに身じろぎするだけで触れ合ってしまう。  
可符香はほとんど望に寄り添うようにして寝ているので、望は無性に気恥ずかしい気持ちになった。  
だけど、その内に望は気付く。  
微妙に手足が触れ合う距離にいながら、可符香は決して望とぴったりとくっついてこようとはしなかった。  
一緒の布団の中に居る筈なのに、ギリギリのところで望に対して薄い壁のようなものを作っているようだ。  
それは、突然に部屋を訪ねてきて、同じ布団で寝ようと提案した彼女の大胆さを考えると、微妙な違和感を感じさせた。  
よしんば、望とくっついて寝るような事を可符香が望んでいないのだとしても、  
それならそれで、望にもう少し向こうへ行ってくれと頼めば済む話で、それを遠慮するのもまた彼女らしくなかった。  
 
そして、さきほどからずっと消えない、彼女のどこか不安げな雰囲気………。  
それらを考えたとき、望は自分でも思ってもいなかった行動に出ていた。  
「風浦さん、ちょっと失礼します……」  
「…せ、先生?…ふえっ!?」  
望は、可符香の方へと腕を伸ばし、その華奢な体をぎゅっと抱き寄せた。  
戸惑い気味に声を上げた可符香だったが、やがて望の腕に身を任せ、彼の胸下に頬を寄せその体に縋り付いてきた。  
「先生……ちゃんとチキンじゃない対応、できるじゃないですか……」  
「う、う、うるさいですよ!あなたこそ、妙に中途半端な態度を取ったりするから……」  
望の胸元で、可符香はクスクスと笑う。  
それは、先ほどまでのどこか不安を感じさせるものではなくて、心の底から安心したようなその声に望もホッと胸を撫で下ろす。  
そして、望は思う。  
きっと彼女の、可符香の心の中では、さまざまな葛藤や感情が絡まりあって、自分でもどうしようもなくなってしまう事があるのだろう。  
そんな自分自身に対して恐ろしく不器用なこの少女が、望には愛おしくてたまらなかった。  
いつもの教室で過ごす、あまり普通とは言えない日常の中、いつでも傍にいた彼女が大好きだった。  
抱き寄せられた胸の中、ようやく全ての不安から解放されたように彼女が笑うのが、とてもとても嬉しかった。  
「先生……ありがとうございます……」  
囁くように、可符香がそう言った。  
望はその声に言葉では応えようとはせず、代わりに彼女の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。  
可符香は望の背中に手を回し、強く強く抱きしめて、望の胸に顔を埋めた。  
しばらくすると、やがて可符香は静かに寝息を立て始め、その意識は夢の世界へと誘われていった。  
 
それから、望は薄闇の中にうっすらと見える彼女の寝顔を見守っていた。  
可符香がやって来るまでは確かに感じていた眠気はどこかに去ってしまったが、望はそれを別段困った事とは考えていなかった。  
安らぎに満ちた可符香の寝息に、それを聞いている望自身も心地良い安心感を感じていた。  
このまま朝が来るまで、彼女の寝顔を見つめているのもいいかもしれない、半ば本気でそんな事を考えていた。  
ときには可憐に微笑み、ときには独自のポジティブ理論で周囲に騒ぎを巻き起こす。  
悪戯と言うには生ぬるい、彼女のいくつもの策謀に振り回された事は数知れず、だけどそれは望にとって他の何にも代えられない日々でもあった。  
彼女がいたから、今の自分がここにいる。  
そういえば、先日、カウンセリング担当の智恵先生もこう言っていた。  
『最近はカウンセリング・ルームに来なくなりましたね』  
今の学校に着任したばかりの頃の望は精神的に不安定で、  
首を括ったり、走る電車の前に飛び込もうとしたり、智恵先生にもかなり迷惑をかけてしまっていた。  
無論、望の自殺未遂は言うなればゴッコ遊び、望自信の構ってもらいたがり、かわいそがり、そういった性質の発露だった。  
だけど、その馬鹿みたいに滑稽な振る舞いの影で、望の心はもがき苦しんでいた。  
教師として、決して優秀な人間だったわけではない。  
以前の学校でも、生徒達や同僚の教師の望に対する評価は、イマイチ冴えない、むしろ少し厄介な人間といった所だろう。  
教師になってからの数年、どこのクラスの担任も任される事なく、それどころか学校での重要な仕事からは遠ざけられている実感があった。  
それが突然、新たにクラス担任として別の学校へと転任する事が決まったのだ。  
それまでの数年で自信を磨り減らしていた望の心は、一気に不安定になった。  
周囲の同情を買いたいが為の自殺ゴッコ。  
言葉にしてみれば、馬鹿馬鹿しい話ではある。  
当時の望自信も、自らの振る舞いのみっともなさを自覚していた。  
最後の最後には、『死んだらどーするっ!!!』と叫んでしまう己の滑稽さに一人苦笑いをしていた。  
だけど、あの時の望はそうでもしなければ自分を保てなかったのだ。  
『自分は生きている価値の無い人間である』  
あの時、幾度と無く口にした言葉、あれは多分、心の底からの望の叫びだったのだ。  
ただ、望にとって幸運だったのは、厄介者ばかりのクラスである筈の2のへの生徒達が彼をしっかりと受け止めてくれた事だった。  
望の奇矯な振る舞いや発言に呆れつつも、彼ら彼女らは決して望と向き合う事をやめなかった。  
だから、望も少しずつ、そんな生徒達に応える事が出来るようになっていった。  
そして、そんな日々の中で、クラスに転任してきた一番最初のときから、ずっと望の傍らにいたのが彼女だったのだ。  
まだロクに知りもしない望の事を信じて、いつでもその傍らにいてくれた人物。  
風浦可符香がいたから、糸色望は教師でいられたのだ。  
 
やがて、望も可符香も過ぎていく日々の中で少しずつ変わっていった。  
望は2のへの生徒達に振り回される事の方が多くなって、それに対応できるだけのタフさを手に入れた。  
可符香はただのポジティブだけではない、陰謀・悪戯を自在に張り巡らすようになって、望をさらに悩ませたけれど、  
そうやって、騙され振り回され、文句を言ったり怒ったりしている内に、もっと近くに彼女の存在を感じる事が出来るようになった。  
そして今、望は心の底から思う。  
「愛しています、風浦さん……」  
この好意と感謝と敬意と愛情と、湧き上がる全ての感情を言葉に乗せる事は出来ないけれど、  
それでも、僅かばかりでもこの思いが伝わってほしい。  
そう考えて、望は可符香の体をきゅっと抱きしめた。  
やがて、遅れてやって来た眠気の靄が望の意識を包み込んで、望はその中へと沈み込んでいった。  
 
それからどれほどの時間が経過したのか。  
望はカーテン越しに差し込んでくる朝日に、薄っすらと瞼を開けた。  
そして、見た。  
「……………あ…」  
見慣れた少女の背中が、まだ柔らかな光を放つ夏の朝日の中でシルエットになっている。  
望はゆっくりと体を起こしたが、その気配にも彼女は反応しない。  
まだ薄暗い部屋の中、眼鏡をかけた望は改めて可符香の姿を見た。  
朝日の差し込む窓に向かって、ひざまづき、両の手の平を組んで、静かに瞼を閉じた少女。  
可符香は祈っていた。  
そういえば、と望は思い出す。  
彼女は独自の神を信じているという話があったような気がする。  
以前、『お祈りの時間だから』という理由でその場を立ち去った事もあった筈だ。  
(それが、コレなんでしょうか………?)  
普段の振る舞いから想像すると、もっと怪しげでいかにも新興宗教の神様といったモノをイメージさせられるのだけれど、  
今の彼女の姿は、そんなものからは遠く離れた場所にいるように思えた。  
神様、この世界を作り上げ、そして見守り続けているという誰かに向けて、縋るでもなく頼るでもなく、ただ思いを伝える。  
今の彼女の姿は、望にそんな事を想像させた。  
朝日に照らされたその姿は、言葉を無くすほどに美しかった。  
やがて、望はゆっくりと彼女の背後へと近付いていった。  
望もまた、彼女と共に祈ってみたくなったのだ。  
彼女の純粋な思いが、感情が、いるかいないかもわからないその誰かにきっと届いてくれるようにと……。  
「あ……先生?」  
望の手の平が可符香の背後から、彼女が組んだ両手の上に覆い被さった。  
少し驚きながらも、可符香は背中に感じる望の体温の暖かさにふっと表情を柔らかくして肯いた。  
お互いの存在を感じながら、二人はしばしの間祈り続けた。  
望は思う。  
もしも、誰かがいるのなら。  
絶望と希望を無作為に混ぜ合わせて出来たかのような、この理不尽で残酷な世界を創造し、見守る者がいるというのなら。  
ただ、感謝を伝えたい。  
これまでこの身に受けたあらゆる苦しみと、あらゆる喜びを生み出してくれた事に。  
今の望には、それに確かな意味を見出す事ができるのだから。  
腕の中、ただ純粋な祈りを捧げ続けるこの少女と、共に見て聞いて感じる事の出来た全てのものに感謝の気持ちを……。  
「先生……」  
やがて、可符香は組んでいた手の平を離して、そっと望に体を預ける。  
望はその小さく華奢な体を、ただ優しく抱きしめた。  
窓の外、朝日に照らされて周囲の景色が色を取り戻していく中、二人はそのままずっと抱き合い続けたのだった。  
 
 
黎明 side可符香  
 
それはとても穏やかで、安らかな一時だった。  
自分の体を優しく包み込む温もりに可符香は身を委ねていた。  
夢も見ないほどの深い深い眠りの中、しかし可符香の意識はその温もりだけはしっかりと感じ取っていた。  
 
可符香はよく夢を見る。  
それ自体は何の不思議も無い事である。  
ただ、彼女の場合、問題になるのはその頻度だった。  
毎晩欠かさず夢を見る、といった程度の話ではない。  
一晩に幾度と無く夢を見るのだ。  
良い夢も悪い夢も、そのどちらともつかない意味不明な夢も、繰り返し彼女の意識の中に立ち現れては消えていく。  
そして、そのほとんどを可符香は覚えていた。  
もちろん、一つ一つの夢が持つ意味など知りようもないし、恐らくは詮索しても仕方のないものだろう。  
問題は、先ほども言った通り、その頻度・回数だ。  
一般に知られるように、夢は眠りの浅い状態、睡眠下で脳の活動が比較的活発な時に見るものである。  
可符香の異常な夢見の多さは、すなわち、可符香がほとんど深い眠りを得られていない事を意味していた。  
一体、どうしてそんな事になるのか、可符香自身にもわからない。  
しかし、それは可符香にその原因の心当たりがないからではなく、心当たりとなる出来事が多すぎて特定できないためであった。  
深い眠りを得られないのは、一日を終えて布団の中に入る時でさえ、可符香が心の底から安心できてはいないためだ。  
そして、自分の心から安心や安堵といった言葉を奪い去るような経験には、いくらでも心当たりがあった。  
 
だけど、今の可符香は深い眠りの中に居た。  
それは心の底から自分の全てを委ねる事ができる、そんな存在が今、彼女の隣にいるからだ。  
やがて、彼女の意識は深い深い眠りの底から浮かび上がってくる。  
目覚める直前、今夜初めて見る夢ともつかないおぼろげな夢の中で、彼女はその名を愛しげに呼んだ。  
「…せんせ……」  
その言葉に応えるように、彼女を包み込む温もりが、彼女の担任教師・糸色望の腕が彼女の体をきゅっと抱きしめた。  
そのくすぐったさに、可符香は子供のような無邪気な表情で笑う。  
やがて、窓の外、カーテンの向こうの景色がほんの少しだけ明るくなり始めた頃、彼女はゆっくりと瞼を開けた。  
 
寝ぼけ眼のまま、布団の上に体を起こした可符香は薄暗い部屋の中を見回して首を傾げる。  
「あれ?……ここ、どこ?」  
壁が、窓が、カーテンが、家具が、広さが、空気が、自分の部屋とは違う。  
しばしの間考え込む彼女だったが、ふいに聞こえてきた自分以外の人間の寝息でようやく気付く。  
「そっか……先生…」  
自分と同じ布団の中で、安らかな寝息を立てる望を見て、可符香は昨夜の事を思い出した。  
理由もわからない、得体の知れない不安に捕らわれ、どうして良いかわからなくなってしまった可符香。  
そんな彼女が頼ったのが、今はすやすやと眠る担任教師だった。  
彼は突然に現れた可符香を受け入れ、同じ布団の中で一緒に眠ってくれた。  
望の温もりに包まれただけで、可符香は安心して眠る事ができた。  
「先生……寝顔、可愛いな…眼鏡つけてないところ見るのも、よく考えたら久しぶりだし……」  
言いながら、可符香は熟睡する望の頬をそっと撫でた。  
その可符香の手の平の感触に、望が心地よさそうに反応するのが嬉しくて、可符香は何度かその動作を繰り返す。  
思えば、こんなに安らいだ眠りと目覚めはどれくらい振りだろう。  
彼女にはすっかりお馴染みとなった、断続的に現れる夢に惑わされ続ける眠り。  
これだって、よくよく考えれば昔よりはずいぶんとマシになっているのだ。  
数年前、まだ可符香が中学校に通っていた頃は、彼女を取り巻いていた厳しい現実をそのまま映し出したかのような悪夢と、  
不安に震えながら過ごす眠れない夜の繰り返しだった。  
それが、まがりなりにも眠りを得られるようになったのは、望との出会いから始まった2のへでの日々のおかげであると可符香は確信していた。  
担任教師・糸色望と、2のへの友人達と過ごす日々は徐々に可符香を変えていった。  
 
先生が、みんなが自分を受け入れてくれている。  
その確信が、可符香の心の底にわだかまっていた過去の暗闇を少しずつ晴らしていった。  
まあ、そのおかげで、最近では2のへの面々の前でまで、自分の黒い一面を見せてしまうようになったのだけれど。  
でも、彼女の友人達はそれさえも平然と可符香の一部として受け入れてくれているようだった。  
少しずつ少しずつ、変わっていく自分に喜び、戸惑う日々。  
その傍らにはいつだって、望がいてくれた。  
臆病で小心、だけど、可符香がどんな無茶をやっても望は彼女を絶対に拒絶しなかった。  
情けない顔で文句を言いながら、それでも笑って可符香の行動に付き合ってくれた。  
幼い頃から色んな物を失い続けて、何もかもが信じられなくなって、  
何もかもを無理矢理信じたように振舞うしかなくなった可符香に、初めて出来た安心できる場所。  
それが、この担任教師の隣だった。  
「こんな風に眠れたのも、先生のおかげですしね……」  
可符香は思い出す。  
かつては彼女も何の不安も感じる事なく、安心して眠る事ができた。  
その頃、可符香の傍らには大好きなお母さんがいて、彼女が眠りにつくまで色々な絵本を読んで聞かせてくれた。  
そんな母親が、彼女の元からいなくなってしまったのは、一体どれくらい前の事だったろう。  
『…神様にお縋りするにはね。現世のしがらみを全て捨てなくちゃいけないの……』  
母親が家を出て行く前、何度も何度も言い訳のように繰り返し可符香に聞かせた言葉を思い出す。  
今頃、母は一体どこで何をしているのだろう?  
と、ここで、記憶の海をさまよっていた可符香は、彼女の日課を思い出す。  
「あ、そうだ……お祈りしなくちゃ……」  
彼女が信じる神様へのお祈りは、欠かすことの無い習慣となっていた。  
 
布団のはしっこにひざまづいて、両手を胸の前で組み合わせる。  
そして、だんだんと明るくなっていく窓の向こうの東の空に向かって、彼女は祈る。  
「………………」  
実のところ、彼女はこの習慣を、神様の実在を信じて始めた訳ではない。  
かつて、まだ彼女が母親と一緒に暮らしていた頃、彼女の母はエクソシストによる悪魔祓いを受けた事があった。  
その頃の母は突然に不可解な言語を喚き散らし、暴れまわるといった事を繰り返していた。  
過剰なストレスによって抑圧された母の精神が悲鳴を上げていたのだ。  
母はそれら全てを、悪魔の仕業であると確信していた。  
相談を受けた母の知人は、腕の良い精神科の医師を紹介し、さらに母の精神状態を安定させるために悪魔祓いを行う事を決めた。  
母の妄想の存在である悪魔を、実際にエクソシストによって祓ってもらう事で、母に悪魔はいなくなったのだと安心してもらう。  
それが、母の知人の狙いだったのだが………  
「すごい……神様って、本当にいるのね………」  
悪魔祓いの劇的な経験は、母に神の存在を確信させた。  
精神科での治療によって症状が安定し、ようやく元の生活を取り戻し始めた頃、  
可符香の家を男女数人ずつのグループが訪れた。  
自分達の所属するボランティアグループで、今度、とても面白い講演を企画しているのだと彼らは言った。  
テーマは『神の実在と救済・天上における救いについて』  
実際のところ、古今東西のさまざまな思想宗教を切り張りし、自分達の教祖を現世に降り立った神そのものであるとする彼らは、  
信者の救済よりも、その救いを受けるために信者がどれだけの物を教祖に対して差し出せるかにしか興味はなかったのだが。  
しかし、可符香の母は信じた。  
母の知人や担当の精神科医、悪魔祓いを行った当のエクソシストまでもが説得したが、彼女の心は動かなかった。  
全てを差し出し、全てを捨てれば救われる。  
単純で短絡的な教えは、困窮を極める生活と不安定な精神状態に苦しむ母にはあまりに魅力的だった。  
そして、母は消えた。  
自分一人が救済されるために、可符香を捨てたのだ。  
可符香は泣いた。  
泣いて泣いて泣き続けて、母親を求めて泣きじゃくって、そしてそこで初めて両手を組んでどこにいるともしれない神様に向かって祈りを捧げた。  
 
それは、あまりに子供染みた考えだった。  
可符香の考えはこうだった。  
自分が祈る神様は、お母さんが信じる神様とは全く別の神様だ。  
神様は一人だけと決まっているのだから、もし自分の祈りが届けば、お母さんの神様は偽物という事になる。  
神様が偽物ならば、きっといつかお母さんは戻ってくるはずだ。  
可符香の神様は、ただ母の信じる神を否定するために作られたつくりものの神様だった。  
可符香は来る日も来る日も祈り続けた。  
ささやかな幸せを、家族との団欒を、もう一度母と過ごしたいという願いを、可符香はつくりものの神様に祈った。  
一年、二年と時間が過ぎても、可符香はそれをやめようとはしなかった。  
つくりものの神様を心底から信じていたわけではなかったけれど、  
母を連れ去った神への挑戦をやめれば、母親と自分の間の最後の絆までが断ち切られるような気がして恐ろしかったのだ。  
だけど、何かに追い立てられるように祈り続ける日々の中で、可符香はある疑問を抱いた。  
神様って、一体なんだろう?  
全知全能にして善なる存在である筈の神様がお作りになったこの世界は、こんなにも理不尽と不幸に塗れている。  
なんてのは、まあ、大昔から考えられてきた定番の疑問だ。  
先人達が頭を悩ませたのと同じく、可符香も考え続けた。  
だけど、結論どころか、答えに近付く足がかりさえ得られなかった。  
理不尽なこの世界の意味も、母親を取り戻す方法も何もわからず、それでもがむしゃらに可符香は祈り続けるしかなかった。  
だけど………  
『死んだらどーするっ!!!!』  
満開の桜の下で、あの人と出会った。  
あの日から、何かが変わった。  
大好きな先生と、気の置けない仲間達、その中で心の底から笑えたとき、ふと思ったのだ。  
祈ってみたい、と。  
今の自分を成り立たせている全てのものに、祈りたい。  
良い事も悪い事もひっくるめた、自分を取り巻く世界の全て、そういうものに対して祈ってみたいと、可符香は思った。  
いつかまた、手痛い不幸で可符香を叩きのめすかもしれないこの世界を、それでも今の可符香は好きだと言えるような気がした。  
自分がこの世界を好きになっている事に、可符香は気がついた。  
可符香は、自分の神様を見つけた。  
「………………」  
だから、可符香は両手を組み合わせて、ただ無心に祈る。  
たぶん、世界に意味なんてなくて、不幸と理不尽もいつまでも消えてなくならない。  
だけど、この世界は可符香と絶望教室の面々を、そして最愛の担任教師とをめぐり合わせてくれた。  
いい事も悪い事もひっくるめて、今の可符香が可符香でいられる全てを与えてくれた。  
今の可符香は、その全てを肯定できるような気がしていた。  
それは多分、可符香が自分を好きになれた事と同じ意味なのだろう。  
可符香は祈る。  
あらゆる出会いと、日々の思い出に最大限の感謝を込めて。  
そして、心の真ん中にいつだっている、あの眼鏡のレンズの向こうの優しい眼差しを思いながら、祈る。  
そのまま、可符香が祈り続けてどれくらいの時間が経っただろう。  
「あ……」  
不意に自分を包み込んだ温もりに、可符香は声を上げた。  
「先生……?」  
組み合わせた可符香の両手を包み込む、見覚えのある細く繊細な指先。  
可符香は、望が自分と一緒に祈ってくれているのだと理解した。  
手の平から伝わる温かさが、望の心が嬉しくて、可符香はもう一度愛おしげに彼に呼びかける。  
それ以上の言葉は無く、ただ伝え合う温もりに最愛の人の存在を感じながら、可符香は祈る。  
「先生………」  
やがて、お祈りを終えてそのまま望のいる方に体を傾けた可符香を、彼はそっと受け止め、優しく抱きしめてくれた。  
可符香も身を捩り、体勢を変えて望の背中に手を伸ばし、きゅっと抱きしめる。  
暗闇の中、何をすればいいのかもわからず震えていた自分を受け入れてくれた人。  
共に過ごす毎日の喜びを分かち合ってくれる人。  
大好きな、本当に大好きな、私の先生。  
あなたがいてくれたから、きっと、私の世界は色を変えた。  
いつかまた不幸の大波に飲み込まれ、全てを失う時が来たとしても、  
今あなたといられるこの瞬間があるから、私はきっと生きていけるんです。  
 
窓から差し込む眩しい朝日を背後に感じながら、可符香は望の温もりにその身を委ね続けたのだった。  
 

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