意識は宇宙を漂っていた。  
くるりくるくると回る視界の中で、太陽が、月が、地球が幾度も現れては消える。  
「きれいだな……」  
可符香は嬉しそうに、楽しそうに笑っていた。  
広大無辺の宇宙を、まるで川の流れに落ちた木の葉のように流されていく。  
これは一体どういう状況なのか?  
これから自分はどうなってしまうのか?  
何一つわからなかったが、可符香はそんなものは気にしていなかった。  
「うわあ………」  
眼下に広がる青い星を見つめながら、可符香は感嘆の声を上げる。  
先の事など大した問題ではないのだ。  
ここからはきれいなものが沢山見えて、重力の戒めから限りなく解き放たれた体はどこまでも自由だった。  
これ以上、一体何を望むというのだろう?  
もはや可符香の心は満たされて、この世界の何一つとして必要としないように思われた。  
だけど、それなのに………。  
「やっぱりきれい……」  
もう一度呟いた彼女の心の片隅に、何だか割り切れないもどかしい感じがあった。  
何かが足りないような気がする。  
可符香は周囲を見回した。  
だけど、暗黒の宇宙では太陽と月と地球がくるくるとコマのように回っているばかりで、それ以外の何も見つけられない。  
「なんだろう……?」  
足りないのだ。  
足りない筈なのだ。  
いつもそこにある筈の、大切な何かが足りないのだ。  
いつしか、可符香の心の中に、言い知れない不安が滲み出し始めていた。  
そんな時である。  
「あ、あれ……?」  
ほんの少しだけ、体が重くなった気がした。  
それとも、可符香を捕らえる地球の重力が少しだけその力を増したのか。  
ゆっくり、ゆっくりと可符香の体は下降を始めた。  
 
落ちていく。  
まるで風に舞う鳥の羽のようにゆるやかに、だけど確実に地面へと向かって可符香は落下していた。  
地球を覆う空気は壁となって可符香の前にあったが、それも一般的な大気圏突入の摩擦熱を生じるほどではない。  
せいぜいが風の強い日に街の中を歩いている程度。  
頬を撫でる風は心地良く、だんだんと宇宙の暗黒から群青へと色を変えていく空はとても美しかった。  
だけど、可符香の心の片隅で先ほどの感覚はさらに強く疼き出している気がした。  
まるで親とはぐれた幼子が訳もわからぬまま彷徨っているような、  
夕暮れの迫る暗い森の中を、遠くから聞こえてくる獣の声に怯えながら歩いているような、そんな感覚。  
どこまでもどこまでも落ちていく可符香は、その胸の疼きをどうしていいかわからず、母親の胎内にいるときの赤ん坊のように体を丸める。  
空はすでに晴れ渡ったコバルトの色に変わっていた。  
青い空とコントラストをなす白く大きな雲。  
きれいだな、としみじみ思う。  
だけど、瞳に映る世界が美しければ美しいほど、可符香の胸の疼きは強くなっていくようだ。  
きれいだけど。  
きれいなのに。  
きれいだから………?  
そうだ、きれいだから、私はこの景色を………。  
丸まっていた体を、手足をのばす。  
すうっと、誰かに差し伸べるように広げた両腕の、その向こうに広がる空に可符香は確かにその人の笑顔を見た。  
「あ………」  
と、そのとき、そんな彼女の周囲を強烈な風が吹き抜けていった。  
舞い落ちる木の葉同然の可符香の体は思う様に揺さぶられて、思いがけない衝撃に彼女は意識を手放してしまう。  
 
落ちる落ちる落ちる。  
地表が近付くにつれて、可符香の体の落下速度は確実に増していく。  
びゅぉおおおおおおお………っ!!!  
耳元を通り過ぎる風の音が可符香を覚醒させた。  
ちらり、首を回せる範囲で周囲の状況を確認すると、相変わらずの青空の下にはどこまでも続く荒野が広がっていた。  
意識を失っている間に、随分と地表まで近付いてしまったようだ。  
可符香が地面に落ちるまで、もういくらもない。  
今現在の可符香の落下速度は先ほどよりもう少しだけ増していて、上手く着地できなければ結構な衝撃が彼女の体を襲うだろう。  
体勢を整えなければ……。  
そう思って、ほんの僅かに首を動かしたとき、可符香はその姿を見つけた。  
「あ………せんせい…!?」  
走ってくる。  
可符香が先ほど思い浮かべた笑顔の主が、今は驚き慌てた様子でこちらに向かって走ってくる。  
糸色望。  
彼の視線の先にはまっすぐ、落ちてくる可符香の姿があった。  
「……先生っ!!!」  
可符香が小さく叫んだ。  
胸の疼きはいつの間にかそれを凌駕する心の熱に取って代わられていた。  
望の姿を見つけて呆然としてしまったほんの僅かな時間が災いして、もはや可符香は自分では着地態勢を取る余裕はなくなっていた。  
だけど、彼女の胸には一かけらの不安も無い。  
ただ必死に、ひたすらに、彼女の姿だけを見つめて走ってくるあの人の、望の存在がそれをいとも簡単に打ち消してしまうのだ。  
自分は落ちてきたのだと思っていた。  
重力に捕らわれ、天上の世界から引き摺り下ろされたのだと思っていた。  
だけど、違った。  
(私は帰ってきたんだ……)  
地表が迫る。  
可符香はそっと目を閉じて、全てを『彼』に委ねる。  
その『彼』、糸色望は目一杯に広げた両腕を可符香に伸ばして………。  
「風浦さんっっっ!!!!」  
叫び声が耳元に響いた。  
可符香の華奢な体は、地面にぶつかる直前に望の両腕に受け止められる。  
やがて、ゆっくりと可符香が瞼を開いたとき、目の前には心配そうな、戸惑うような望の顔があって……。  
「大丈夫ですか、風浦さん?」  
「はい。大丈夫です」  
そう答えた言葉に、望の顔がホッと安堵の色に染まるのを見ていた。  
そして、望がそっと降ろしてくれた地面の上で、可符香は望に向き合って改めて思う。  
帰って来た。  
一人ぼっちで漂う宇宙で感じた心の疼きの原因は、わかってみれば単純なものだ。  
いるべき人が、自分の隣にいなければならない人がいなかったのだから。  
可符香は心配そうに見下ろしてくる長身の担任教師に、チラリと空を見上げてから話しかけた。  
「きれいですね、空……」  
それを聞くと、望は言われてから初めて気付いたように、眩しげに目を細めながら広がる青い空と白い雲を見上げた。  
「ええ、きれいですね……」  
それから、感嘆したように呟いてから、可符香の方を見て笑った。  
可符香もにっこりと笑い返した。  
(そうだ。太陽も、月も、地球も、広がる宇宙も、そんなものそれだけじゃ意味がないんだ……)  
どちらともなく差し出した手の平を、望と可符香の二人はしっかりと繋ぐ。  
(ここが私の居場所だから……先生がいなくちゃ、先生と一緒でなくちゃ、そうでなくちゃ何も始まらないんだから……)  
広がる荒野の真ん中、固く手を繋ぎ合わせた青年と少女は、高く広がる空を見上げる。  
出会った頃は戸惑うばかりで、だけどいつの間にか、お互いがお互いの隣にいるのが当たり前になっていた。  
いつの間にか胸の奥でこんなにも大きく育って、私を変えてしまったこの気持ち。  
「それじゃあ、そろそろ行きましょうか、風浦さん」  
「はい、先生」  
やがて、そんな受け答えと共に、二人は歩き出した。  
どちらともなく歩調を合わせ、時折くだらない会話を差し挟みながら歩いていく二人。  
どこまでも高く広い空と大地、その果てに消えて見えなくなるまで、二人の後姿はいつまでも寄り添い合っていた。  
 

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