今朝見た夢が忘れられない霧。  
飛び起きた時間は、いつもの起床より少しだけ早い。  
朝食の準備をする前に、鏡台に向かう。  
鏡に映る自分は、やはり髪が長かった。  
毎日丁寧に洗っている甲斐もあり、枝毛もほとんどない。  
霧にとっては、自信のある女の武器だった。  
時間に余裕のある今朝は、いつもより慎重に、手間をかけて櫛を通す。  
黒く美しい髪が、鏡の中で揺れる。  
満足のいく結果となったのか。  
霧はニッコリ笑って鏡台の前を離れた。  
 
望が起き出す前に、朝食の準備を始める。  
和食が好きな望のために、朝食には必ず味噌汁を作る。  
けれども、低血圧な望は朝から多くは食べない。  
長い間、望の世話をしているので、霧は望の好みや趣向を十分に理解していた。  
時計が7時を回った頃に、望が起き出す。  
襖一枚奥の空間で、望が伸びをするのが分かる。  
幸せな気持ちが胸に拡がり、つい微笑んでしまう。  
味見をしようと、味噌汁をおたまで掬ったときに望が襖を開けた。  
 
「おはようございます、小森さん」  
「おはよう、せんせぇ。ご飯もう少しだから、ちょっと待ってね」  
「いつもすみませんね」  
 
そう言って寝間着のまま、ちゃぶ台の元へと行く望。  
上半身から手を伸ばしてテレビの電源をいれる。  
昨夜、霧が見ていたテレビショッピングのチャンネルを変えて、ニュースを見る。  
台風による日本列島の被害状況を映し出す。  
テレビに釘付けの望は、霧のほうを向いていない。  
台所から望の様子をチラ見しながら伺っていた霧は、すぐにそれに気付いた。  
 
(せっかく頑張って梳いたのに…)  
 
やはり夢のように上手くはいかず、苛立ちが募る。  
出来上がった朝食をちゃぶ台に移動させて、食事を整える。  
 
「今朝も美味しそうなご飯ですね、いただきます」  
 
子供のように、喜びながら言う望。  
普段からはあまり感じない可愛らしさに、霧の胸が高鳴る。  
少し赤くなった顔を隠すために、両手でお椀を持ち味噌汁を吸った。  
その時、霧は気付かなかった。  
自分の肘の位置に、お茶を置いていたことを。  
少し腕を動かしただけで、霧の肘は見事に湯呑みに当たり、中身が一気にこぼれだす。  
 
「きゃっ!?」  
「あっ!?」  
 
熱々に煎れていたお茶は、霧に向かって脅威を放つ。  
ちゃぶ台に留まらない茶の滴は、滝となり。  
宿直室の畳を濡らす。  
そして、霧自身をも。  
幸い肌にはかからず、霧が纏う毛布が濡れていた。  
 
「大丈夫ですか?小森さん」  
「う、うん。大丈夫…」  
「すぐに拭かなくては…。タオルを取ってきますね」  
「ごめんね、せんせぇ」  
 
先程まで高鳴っていた気持ちはがた落ち。  
お気に入りの毛布に染みができるのではないかと心配をしていると。  
すぐに望が戻ってきた。  
 
「ありがと、せんせぇ」  
 
手に持ったタオルを受け取ろうとするが、無視する望。  
霧の後ろに回り込み、自ら持ってきたタオルで毛布を拭き始める。  
男特有の少しだけ力強い動作で、毛布を乾かしていく。  
 
「いいよ、せんせぇ。自分でやるから…」  
「しかし、毛布を脱ぎたくはないでしょう?」  
「…そ、そうだけど」  
「では、大人しくしていて下さい」  
 
望の命令通り、大人しくなる霧。  
後ろで懸命に奉仕する望の優しさにドキドキする。  
まるで抱き締められているかのような近い距離で。  
霧の心は更なる高揚を感じていた。  
十分に拭き取られた毛布。  
望は他にもかかっている所がないか、入念に確かめる。  
毛布を捲った時にある事に気が付いた。  
毛布に隠れて見えていなかったのだが、長い霧の髪にもお茶がかかっている。  
 
「髪の毛まで濡れてしまってますね…」  
「えっ!?ウソッ…!?」  
「少しだけですから、ジッとして下さい」  
「あ、…うん」  
 
毛布を拭くのとは訳が違う。  
濡れているであろう部分を、優しく持ち上げる。  
さらさらに流れていく髪を注意深く見つめると。  
しっとりと、美しく光る場所が見える。  
艶やかで、それでいて整っている。  
微かに香るシャンプーの薫りは、望の心を少しだけ揺らす。  
自分に出来得る限りの丁寧さを持って、霧の髪を撫でる。  
日本人特有である黒髪の美しさに、朝食の途中であることも忘れて没頭する  
何度もタオルを重ねて、雫を吸い上げる。  
 
「ごめんね、せんせぇ。こぼしちゃって…」  
「いえ、大丈夫ですよ。…それにしても、小森さんは髪が長いですねぇ」  
「い、嫌かな?髪長いの…」  
 
その時には、もう夢のことなんて忘れていて。  
ただ、望と一緒に甘い時を過ごすことだけが、喜びだった。  
 
「先生は、小森さんの髪の毛、好きですよ」  
「…!?」  
「とっても、綺麗ですね」  
「あ、ありがと…」  
 
呟いたお礼は吐息のようで、望の鼓膜に届いたかは分からない。  
望は再び手を動かし、作業を続ける。  
髪の中に手を通して、掬い上げる。  
最後の手櫛は、まるで、霧の頭を撫でているかのようで。  
霧を幸福の崖へと、叩き落した。  
 
学校が予鈴が鳴り響かせるまで、その幸福は続いた。  
 
 
 

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