そして私は長い長い夢から醒めた。
ズキズキと痛む頭を抱えて、私、風浦可符香はベッドの上に起き上がる。
「ここは……?」
見覚えの無い部屋だった。
くすんだ白の天井、薄いクリーム色のカーテン、枕元に見えるあのボタンはもしかしてナースコール?
という事は、ここは病院なのだろうか?
どうして私が病院なんかで寝ているのか、頭がボンヤリして全く思い出せない。
ただ、ハッキリと覚えている事が一つだけあった。
「行かなくちゃ……」
私はベッド脇の床の上にあったスリッパを履いて立ち上がろうとする。
どうやら足腰も相当弱っているらしく、それだけで私の足元はふらついてしまう。
だけど、そんな事は今はどうでもいい。
私は力の入らない足を、強引に一歩前に進める。
そこで、何かが腕を引っ張るのを感じた。
振り返ると、長い金属の支柱に引っ掛けられた点滴の袋が見えた。
その点滴の袋から私の腕まで、一本のチューブが伸びている。
点滴の中身は何か特別な薬という訳ではなく、栄養剤の類のようだ。
そういえば長い間眠っていた気もするし、こういう物も必要だったのだろうと私は納得した。
それに、点滴はともかく、支柱の方は今の私にはありがたい物だった。
移動用のコロがついた支柱は、杖の代わりにはもってこいだ。
私は点滴の支柱をぐっと握り締めて、再び歩き始めた。
頭の中に浮かぶのはただ一つ……。
「行かなくちゃ…先生の所へ…行かなくちゃ……」
病院の廊下を行き交う人々はみんな忙しそうで、私に構う人は一人もいなかった。
途中、エレベーター手前のロビーにあった日めくりのカレンダーで日付を確認した。
自分がどれくらい長く眠っていたかを知りたかったのだ。
だけど、私は自分がいつどうして意識を失ったのかを覚えていなかった。
それでも、その日数が決して長いものではないと分かったのは、私が『あの日』の事だけはハッキリと覚えていたからだ。
先生に、私達のクラスに思いがけず降りかかった不幸な出来事。
「そっか…もうあれから四週間も経ったんだ……」
四週間、つまりはほぼ一月……その言葉の重みに私の体は震えた。
もし、全ての事態が私が眠りに落ちる前から全く変化していなかったら?
もし、私が眠っている間に、事態がさらに悪化していたら?
点滴の支柱を握る手の平に、ぎゅっと力を込める。
そうだ。
急がなければ。
私なんかより、ずっと深くて暗い眠りに捕らわれていた先生がどうなったのか?
それを確かめなければいけない。
目指すは集中治療室。
逸る気持ちを抑えながら、私はエレベーターのボタンを押した。
意識を失ってから目を覚ました今日まで、私はずっと夢を見ていた。
夢の内容は何てことはない日常の光景ばかりだったけれど。
ただ、夢は夢らしく、おかしな部分もあった。
季節の感覚が滅茶苦茶なのだ。
春だったかと思えば、次には冬になって、そのまた次は夏になる。
春夏秋冬がシャッフルされたそんな時間を奇妙だと思わなかったのは、それもやはり夢ならではの事なのだろう。
だけど、それ以外はいつもと何ら変わらない。
私がいて、みんながいて、そして先生がいる、騒がしくも楽しい日々の夢だ。
どうしてそんな夢を見てしまったのか、それも分かり切っている。
その日常が壊れていく耐え難い現実を、私の心が拒絶したのだ。
そしてついに、私は集中治療室の前までやって来た。
エレベーターを降りてからここに来るまで大した距離は無かった筈だが、随分と長く歩いた気がする。
ここから先は関係者以外の入室は禁じられている。
「そうだ……」
私の記憶がだんだんと鮮明になっていく。
脱線を起こし暴走する路面電車に激突された先生は、すぐにこの病院に運び込まれ手術を受けた。
生死の境目を彷徨っていた先生だったけれど、何とか手術は成功し、みんなはホッと胸を撫で下ろした。
「………だけど、それからいつまで経っても先生は目を覚まさなかった」
いくら検査を重ねても、その原因はわからなかった。
最新の検査機器でも感知できないほどの脳神経の微妙な損傷が影響しているのかもしれない。
そう呟いた絶命先生の暗い表情を今でもハッキリと覚えている。
集中治療室の中の先生と会うのを許されたのは、先生の家族だけだったけれど、
先生のご両親のおかげで、私や他の2のへの生徒も特別に面会の許可を貰えた。
ただし、誰であっても時間は一日30分まで。
そして私はそれ以外の一日中を、部屋の外の長椅子に座って過ごした。
『お前、今日もいたのじゃな……』
『あ、倫ちゃん……』
あの日も、私は集中治療室の前にいた。
先生が事故に遭ってから、かれこれ24日が経過しようとしていた時の事である。
『先生は……?』
私の質問に、倫ちゃんは首を横に振った。
『いつもは絶望した絶望したとうるさいのに、まるで子供のようにすやすやと眠りこけておる』
倫ちゃんは寂しそうに笑った。
長く続く昏睡状態に加えて、先生の体は激しく消耗しており、その容態は芳しいものではなかった。
『このまま……本当にこのまま、目を覚まさないのかもしれんな……』
『いやだなぁ、そんな事あるわけないじゃないですか。先生はきっと目を覚ましますよ』
『本当に……そう信じておるのか?』
『もちろんです』
『………ならば何故、ほとんど飲まず食わず、眠りもせず、お前はここに居続けるのじゃ?』
私の言葉が止まった。
『お前も不安なのではないか?こうしていないと不安に押し潰されそうなのではないか?今のお前はあまりに痛々しくて……』
私の顔を覗き込んでくる倫ちゃんの瞳には、今にも泣き出してしまいそうな痛みの色が見えた。
(見透かされちゃってるな……)
倫ちゃんの言う通りだ。
2のへのみんなは無駄を承知で毎日かわるがわるこの部屋までやって来るけれど、私のようにずっとこの場に留まり続けるような事はしない。
だけど、私は弱いから、先生から離れるのが怖いから、ずっとこの椅子に座り込んだままだ。
『違うよ。ほら、先生って寂しがりやだから、目を覚ました時に誰かが居てあげないと可哀想だし……』
それでも、私は笑顔の仮面を捨て去る事が出来ない。
倫ちゃんに泣いて縋って、全ての気持ちを吐き出せば、きっと楽になれるのだろう。
だけど、それをしたら最後、私は、先生はきっと帰ってくるという、その希望を信じられなくなってしまう気がするのだ。
だから、私は笑い続けるしかない。
絶えない笑顔で先生を待ち続けるしかない。
私がそうしてる間は希望の火はきっと消えない。
『そうか………』
やがて、諦めたように倫ちゃんは長いすから立ち上がった。
時計を確認して、私も立ち上がる。
面会時間が終わるのだ。
今日も駄目だった。
でも、明日はもしかしたら……。
頭の中で何度も自分に言い聞かせる。
そうして、廊下の上に一歩踏み出した、その瞬間だった。
『あ……!?』
ぐらり、世界が揺れて、ひっくり返った。
支えを抜かれたように崩れ落ちた体が、無造作に床に叩きつけられた。
全身を襲う強烈な痛みが、まるで他人事のように感じられた。
(…駄目……私は先生を……待って…いなくちゃ……)
その叫びを声にする事すら、私には出来なかった。
目の前で青ざめた顔の倫ちゃんが何事かを叫んでいるのをぼんやりと眺めながら、私は意識を手放した。
そして今、私はあの時の自分が倒れたのと同じ場所に立って、集中治療室の入り口を見つめている。
私が倒れたのが事故から24日目で、目を覚ました今日がちょうど4週間、つまり28日目だ。
かれこれ四日もの間、私は眠っていた計算になる。
精神と肉体の疲れが限界に達していたのだろう。
問題は、その四日の間に何があったのかだ。
よろよろと手を伸ばして、私は部屋のドアに手を掛ける。
大丈夫、きっと先生は大丈夫。
呪文のように頭の中で繰り返しながら、ゆっくりと扉を開いた。
そこで私がみたものは………
「えっ………!!?」
さんざん見慣れた部屋の中、ずらりと並んだベッドの中でただ一つだけ、先生がいた筈のベッドだけが空っぽのまま放置されていた。
「あ……うあ……ああ………」
呻きながら、私は入り口へと後ずさっていく。
乱暴に扉を閉めて、その場に膝から崩れ落ちた。
だが、どんなに扉で閉ざしたところで、私の目に焼き付いたあの空白は消えてくれない。
何もかも、私が意識を失う前と同じ部屋の中で、そこにだけポッカリと開いた穴。
先生の不在。
「いや……先生…先生……っ!!!」
『長く続く昏睡状態に加えて、先生の体は激しく消耗しており、その容態は芳しいものではなかった。』
どうして気付かなかったのだろう、少し考えればわかる筈なのに……。
先生の心が戻ってくるまで、先生の体が待ってくれるとは限らない。
そんな単純な事に、何故………?
私は激しく床を叩いた。
その衝撃で点滴の支柱が倒れ、周囲の肉を抉りながら注射針が抜けた。
視界はボロボロと零れて止まらない涙で埋め尽くされ、喉はまるで呼吸困難に陥ったように泣き声さえ上げる事が出来ない。
「せんせ…先生っ……せんせいっ!…先生…先生……先生……っ!!!!」
苦しい呼吸の中で何度も何度もその言葉を繰り返す。
希望という言葉を糊塗して、無理矢理維持してきた堤防が音を立てて崩れようとしていた。
「ちが…先生は……きっと…」
私はあの部屋を見た筈だ!!!
「…先生は…目を覚まして…」
空っぽのベッドがそこにあった筈だ!!!!
「…戻ってくる…先生は戻って…」
違う!もう居ないんだっ!!!
「…信じない…」
信じろ!!!
「…希望は…きっと最後までなくならない……」
そんなモノはもうここには存在しないっっっ!!!!!!!!
そして、私の思考は真っ白な虚無の中に呑みこまれていく。
その筈だった……。
どこかで誰かが叫ぶ声がした。
だけど、空っぽになった私には何もかもが無意味で、私の体は床に突っ伏したままだ。
もう一度声が聞こえた。
今度はもっと近くで。
自分の名前を呼ばれたような気がした。
それでもピクリとも動かない私の右手首を、声の主が強く掴んだ。
(…………あれ?)
空白の意識が僅かに揺らめいた。
私は、この手の温もりを知っている。
私の右手首を掴んだ誰かは、もう片方の手の平を私の左肩に回し、私の体を抱き起こした。
そして、今度は真正面から、その叫びを私にぶつける。
「風浦さん………っっっ!!!!!!!」
「あ…………」
聞き間違える筈も、見間違える筈もなかった。
頬はこけ、事故の時に壊れたいつもの眼鏡は当然かけていない。
カサカサの唇はさっき叫んだせいで端っこが切れて血が滲んでいる。
艶を失った髪の毛はいつもよりボサボサだ。
だけど、私がこの人の事を間違う訳がない。
「先生……?」
「風浦さん、あなたは何をやっているんですかっ!!!」
先生は泣いていた。
私をぎゅっと抱きしめたまま、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いていた。
「事故の昏睡からやっと目を覚ましたら、あなたが倒れたって聞かされて、
担当の先生に無理をお願いして病室に行ったら、あなたのベッドはもぬけの殻で………」
ああ、なんて馬鹿みたいな早とちりだろう。
「先生…ごめ…ごめんなさい……」
再び私の心の中から、感情の津波が堰を切ってあふれ出す。
先生の服の胸元を濡らして、私は子供のように泣きじゃくり続ける。
騒ぎに気付いた看護師達や病院の関係者が駆けつける中、先生はずっと私を抱きしめ続けていた。