カリカリカリ。
カリカリカリ。
一定のリズムを保ちながら聞こえてくるその音に耳を傾けながら、可符香はまどろんでいた。
まだまだ残暑の厳しい日はあるものの、一頃の暑さは過ぎ去り、窓から差し込む日差しも今は心地良い。
若干、喉に渇きを覚えていた可符香だったが、それよりも今は全身を包み込むぬくもりに耽溺していたかった。
カリカリカリ。
カリカリカリ。
あの音はまだ続いている。
それは何となく可符香を安心させてくれる響きで、小さい頃に母が聞かせてくれた子守唄を思い出させてくれた。
幸せなまどろみの中で、時間はゆっくりと過ぎていく。
やがて、太陽がだんだんと西に傾いて、部屋の中が少しだけ暗く、少しだけ寒くなる。
それに無意識の内に反応したのか、可符香は体をゆっくりと丸め、少しでも多くのぬくもりを感じようと
自分が今触れているものの中で、最も確かで最もあたたかなものに縋りついた。
ぎゅっとしがみついたそれから伝わってくる温度は、同時に彼女にとって最も馴染み深いものである。
カリカリカリ。
カリカリカリ。
カリカリ………コトン。
音がやんだ。
そして、その事を可符香が疑問に思う間もなく、柔らかな感触が彼女の頭に触れる。
二度三度と頭を撫でてくるその感触に、覚醒と眠りの狭間をゆらゆらと漂っていた可符香は夢の中へと沈み込んでいく。
「普段はあれだけ好き勝手に周りを振り回すくせに、こうしているとすっかり子供ですね……」
苦笑まじりの、だけども優しげな声が耳元に届いたのを最期に、可符香の意識は本格的な眠りに落ちていった。
窓の外の日の光は既にすっかり弱まっていたけれど、可符香がそれを寒いと感じる事はもう無かった。
それからどれくらいの時間が経過しただろうか?
可符香は暗い部屋の中でゆっくりと瞼を開いた。
最初に目に入ったのは、ちゃぶ台に突っ伏した担任教師の安らかな寝顔だった。
「せんせい……寝てる?」
未だはっきりしない頭を抱えて体を起こし、彼女は周囲の状況を把握した。
ちゃぶ台の上には現在この部屋の唯一の光源となっている古い型の電気スタンドがひとつ。
そして、その周囲に散らばった万年筆、赤いサインペン、鉛筆、消しゴムなどの各種文房具。
その傍らにはクリップでまとめられた分厚い原稿用紙の束が五つ。
それらは夏休みの課題として提出された読書感想文の内の、二年生の分の全てだ。
夏休みの宿題は学生達にとってだけではなく、教師にとってもきつい仕事だ。
膨大な量の課題を一気に見なければならないのだ。
特に、決まった正解が存在せず、一つ一つの内容を吟味しなければならない感想文は最も厄介な代物の一つだろう。
望は数日前からこの大仕事に掛かりきりだった。
「そっか……それで先生の様子を見にやって来たんだっけ……」
寝ぼけていた可符香の頭にだんだんとその記憶が蘇ってくる。
今年の夏休み、望は休みの終わりを認めようとしない生徒達の下を駆けずり回って、新学期の開始を伝えた。
だが、その最後の一人、日塔奈美の説得にかなりの時間を要する事となってしまった。
そのために、彼が学校にようやく姿を現したのは、新学期が始まって一週間ほどが経過してからの事だった。
当然、宿題や休み明けテストの採点といった仕事は手付かずのまま彼の手元に残されていた。
やってもやっても終わりの見えない採点地獄に、ときに悲鳴を上げ、泣き言を言いながら、
それでも何とか辿り着いた最後の大仕事こそが、この読書感想文の採点だった。
しかし、その頃には望の方も体力の限界を迎えていた。
夏休みの終盤を、全国各地のスナックに流された女子生徒の下を巡ったり、灼熱のジャングルで生徒達の探索に費やしていたのだから、それも仕方のない話だった。
可符香が望のところにやって来たのは、望の仕事の進捗具合をちょっと確かめようと考えたからだった。
だが、二言三言、会話をして帰るつもりの筈が、何故だか腰を上げる気になれず、そのまま望の様子を見守る事となった。
仕事に集中している望はほとんど無言。
しかし、時折思い出したように可符香に向けて、ちょっとした冗談を言ったり、夏休みの思い出話なんかについて言葉を交わしたりした。
そういう時の望の顔は心底リラックスしているみたいで、それが可符香が望の下を立ち去れなかった一番の理由かもしれなかった。
カリカリカリ。
カリカリカリ。
望が走らせるペンの音が部屋に響く中、ただただ静かで安らいだ時間を可符香は過ごした。
だけど、そうしている内に何故だか可符香の意識を、気だるい睡魔が包み込み始めた。
「眠いんじゃないですか、風浦さん?」
「……い、いやだなぁ…先生みたいに疲れ切ってるならともかく、私はぜんぜん……」
「そうは言っても、夏休みの終盤はあなたも南の島だのジャングルだのを駈けずり回って、私と同じくらいに疲れてるんじゃないですか?」
「……そんなことは……」
「その半分閉じかけた目でこっちを見ながら言っても、説得力は皆無ですよ」
「うぅ…そうですね。結構、私も…限界だったみたいです……」
何かにつけて望の先回りをして、悪戯の用意をしたりするのが常となっている可符香もまた疲れを溜め込んでいたようだった。
しかもそんな状態でも平気な顔をし続けようとするものだから、一度限界を越えてしまうと一気に疲れが押し寄せてくる羽目になる。
「ごめんなさい……せんせ……」
「いいですよ、別に。今は疲れてる人間の気持ちが嫌というほど理解できますからね……」
望は苦笑しながら、さらにこう続けた。
「それに、居てくれるだけで良いんです。それだけで随分と落ち着くんですよ……」
「ふぇ…何ですか…?」
「いいえ、こっちの話ですよ」
望が何を言わんとしているのかは気になったが、ともかく可符香は、ちゃぶ台の上に上半身を預けようとした。
しかし、既に意識も朦朧とし始めていた彼女は体のバランスを崩してしまう。
「…ふわっ…うわぁああっ!!?」
倒れこんだ先、彼女の体を受け止めたのは、望の細腕だった。
「だ、大丈夫ですか!?思っていた以上に疲れていたみたいですね……」
しかし、心配そうな望の声も可符香にはほとんど耳に入っていなかった。
なぜなら………。
「風浦さん…おやっ?……」
その時の彼女はすでにすやすやと寝息を立て始めていた。
望の膝の上に状態を預けて、膝枕、というよりはほとんど彼の体に縋りつくような格好で可符香は眠りに落ちようとしていた。
望は、そんな可符香の姿にふっと微笑みを見せて
「おやすみなさい、風浦さん……」
そう呟いてから、彼女を起こさぬように静かに仕事を再開した。
カリカリカリ。
カリカリカリ。
心地良い眠りの中を漂う可符香の耳には、望の走らせるペンの音だけが聞こえていた。
その音に、望の存在を確かに感じながら、彼の膝の上で、可符香は安心しきった表情を浮かべて寝入ったのだった。
そして今、ようやく全ての仕事を片付けて、すやすやと眠る望の横顔を、可符香は見つめていた。
「そっか、私、先生に……」
思い返すと、まるで子供のような有様を見せてしまった事が恥ずかしかったが、それでも自分を気遣ってくれた望の優しさは嬉しかった。
それから、彼女はこの部屋の温度が現在、思った以上に下がっている事に気付いた。
できれば、望を布団に寝かせてやりたかったが、いかに痩身とはいえ男性一人の体を運んでいく自信はない。
そこで可符香は毛布を一枚、望の肩にかけてやる事にした。
しかし、押入れから出した毛布を望のところまで持って来たとき、彼女はある事を思いついた。
「先生のおかげで、ぐっすり眠れましたから、今度はそのお礼です」
可符香は望の体をそっと畳の上に横たえさせ、毛布をかけてやる。
そして、望の枕元に腰を下ろし、彼の頭を可符香の膝の上にのせた。
「…ん……んん……」
望は可符香の体温に反応したのか、まるで赤ん坊のように体を丸める望。
そんな望の頭をそっと撫でて、ちょうど自分が言ってもらったのと同じように、可符香は望に優しく囁いた。
「お疲れ様。おやすみなさい、先生……」
パチリ。
可符香がちゃぶ台の上のスタンドのスイッチを切る。
安らかな暗闇に包まれた部屋の中、可符香はいつまでも望のたてる寝息を聞いていたのだった。