ある雨の日の早朝、黎明の明かりがほんのり地上を照らしはじめる時間。
煙雨にかすむ閑静な住宅街を、一人の少女が歩いていた。
雨だというのに傘はたたんで手にしたまま−。
うなじに束ねた髪が揺れ、濡れそぼってからだに張り付いた純白のワンピースに、水色の下着がうっすら透けている。
あらわになった華奢な肩にどこかはかなげな空気を漂わせながら、少女・加賀愛はぱちゃりと水たまりを踏んでゆく。
加賀愛は、こんな雨の朝が好きだった。
まるで世界に自分しか存在しないかのような、そんな錯覚を覚えるほどの静寂な時空。
ここでなら自分は誰にも迷惑を掛けることなく、誰も傷つけずにすみ、世界に対し敬虔で謙虚で在ることが出来る‥。
それは所詮はありえない願望、独りよがりの妄想錯覚に過ぎないと聡明な彼女は理解してはいた。
だがこの肌に張り付くような、微細な雨の降る空のもとでは、
自分が生きる世界で犯してしまった様々な罪が清められてゆくような気がしていた。
張り艶のある瑞々しい肌膚を、雨が玉粒となって無数流れ落ちてゆく。
心地よいその感覚を、加賀愛は久方ぶりに満喫していた。
いつの間にか−。
彼女は普段自分が本来属する世界において日常的に通うところである場所、学校の校門前まで歩んできていた。
「わたしときたら、なんて迂闊‥」
部活の朝錬の生徒達すらまだいない静謐な校舎に正対し、愛の足はふいに重くなる。
その眼は自分の学級の教室と、そして宿直の部屋を交互に見つめていた。
ながつきの、しぐれのあめのやまぎりの、いぶせきあがむね、たをみばやまん‥。
万葉の一首が、愛の胸にふと浮かぶ。
「糸色、せんせい‥」
そっと口にしてみる。
かっ、と身体に火がともる。
宿直の部屋には、彼女の敬愛する担任教師・糸色望が寝泊りしているのだ。
敬愛?
とんでもない。
それは自分の罪深き人生で初めて芽生えた恋情ではないのか?
級友の一人に促されたとはいえ、一対一で告白までしてしまったのだ。
どうして先生は、あの時返答をくれなかったのか。
白皙の秀貌のその頬を赤らめて、うつむくわたしを見つめていたのに。
嗚呼。
先生を責めるような思いを抱いてしまった−。
すみませんすみません。
同時に、その宿直室に同居する同級の女生徒たちに対し暗い嫉妬の炎もまた、揺らめいてしまう。
「ああ、小森さんすみませんすみません、常月さんすみませんすみません−。
わたしは醜い生き物です!」
自分に、こんな感情があったなんて。
雨は、いぜんさやさやと愛のからだを濡らしていた。
彼女は校門の門札にすがるように手を掛け、心中その罪状を列挙していた。
わたしは不注意にも先生の前を横切ってしまいました−。
わたしは恥知らずにも先生に倒れ掛かり、抱きついてしまいました−。
わたしは破廉恥にもテストの補修で赤点をご勘弁頂く為、敷き延べたしとねで先生を篭絡しようとしてしまいました−。
わたしは忙しいはずの先生を煩わせ、映画に同行し、あまつさえ隣に座ってしまいました−。
わたしは不遜にも遊園地で先生におあしを使わせてしまい、先生の隣で楽しんでしまいました−。
わたしは身の程知らずにもプールで未熟な肢体を水着に包んで先生に晒してしまい、お眼を汚してしまいました−。
わたしは傲慢にも流れ着いた場末のバーで先生を見ない顔よばわりしてしまいました−。
ああ、ああああ、そしてそして。
わたしはふしだらにも今朝も先生を想い、この指でみずからを慰めてしまいました‥。
もう何度目でしょう。
そんなことでは決して満たされないとわかっている筈なのに。
とどまらぬ劣情を、とまらない指を、いっそ食いちぎってしまいたい。
告白以来、こんなに思っているのに先生はどうして何もしてくれないのか。
ああ、また先生を責めるようなことを思ってしまいました、わたしは卑しい女です。
すみませんすみません‥。
熄むことなき罪の意識の無限連鎖、螺旋回廊。
顔中を真っ赤に染めた愛は、いつしかうずくまってしまっていた。
束ねた髪が、濡れそぼって重く揺れる。
自らを清めてくれるように感じていた雨が、次第に重く感じられてくる。
愛は罪の記憶とともに浮かんできた今朝の寝床での孤独な快感に再び捉えられていた。
傘を地べたに放り出し、その手をもう雨しずくが滲みてきてしまっている下着に這わせる。
いや、雨だけではない。
愛は自分の両足のあいだに触れて、糸引く透明な粘液に濡れていることを知った。
路上で、それも学校の前で−。
今朝何度目かの自己嫌悪とともに愛は暗い欲望に身を焼きながら、指をそろそろと動かし始めた。
薄い翳りの奥に指を差し入れかき回しながら、反対の手指で胸の控えめなふくらみの先端をまさぐった。
「ふ‥く‥」
唇を噛んで声を押し殺す。
自分のもっとも敏感な肉のつぼみに、いつ触れようか−。
妄想の中では優しく愛のからだに触れてくる担任教師を想う一方で、愛は考えていた。
やっぱりわたしはふしだらな女です。
こんなわたしが先生を想ってしまってすみません‥。
ふと、うずくまって身もだえする愛に傘が差し掛けられた。
「どうしましたか?」
「ひっ!!!」
息を呑むどころか、心臓が凍って砕けてしまいそうになった。
その声は気配は、間違えようも無い−。
「せ、先生‥」
「ああ、やっぱり加賀さんですね。また傘もささずに‥風邪をひいてしまいますよ」
担任教師、糸色望だった。
望は心配そうに愛の顔を覗き込んでくる。
「気分でも悪いのですか?それにしてもあなたとは雨の日に何かと縁がありますね」
愛はつい先刻まで行っていた罪深い行為を必死で取りつくろおうと慌てながら傘を拾った。
「い、いえいえいえ、散歩をしていたら、その‥その‥」
「立てますか?さ、つかまって下さい」
望は屈託無く手を差し伸ばす。
愛はその手を掴むのを躊躇った。
ほんのさっきまで、この指は自分の恥ずかしい部分に触れていたのだ。
雨に濡れてはいるが、糸引く粘液に汚れているかもしれない−。
愛は遠慮しようとしたが、望はその手を掴むと愛のからだを引き上げ、立たせた。
あああ、先生すみませんすみません、わたしの穢れた部分に触れていた指にふれさせてしまって−。
当然ながら望はそんなことに気づきもしない。
「顔、赤いですね。風邪ですか?いけませんよ、こんな薄着で」
愛の濡れ透けた下着や華奢な肢体、玉雫の散る白磁の肌はことさら無視するいつもの望の様が、むしろ愛を安心させた。
「だいじょうぶです、先生。朝の散歩で、たまたまつまづいただけですから‥。
お手を煩わせてしまってすみませんすみません」
「それにしたって傘を差さないのは良くはありませんよ。また地面への加害もう‥」
それでも少しは意識しているのか、愛のからだから望は視線をそらす。
望の差す蛇の目の番傘の下に細かい雨が微かに音を立てている。
落ち着いた愛は、望の長い睫毛や浮き出た鎖骨や喉仏に色気を覚える。
望はいつものカッターシャツの書生スタイルではなく、胸元をあけた着流しである。
望のほうこそ、朝の散歩のようだった。
「なるほど‥普段の罪穢れが洗われるようだと‥。
確かに、けぶる雨に静かな朝。そんな思いも浮かびましょうか」
自分のいやらしい行いを糊塗するかのようにいけしゃあしゃあ説明してしまったと、愛はまた内心望に謝罪していた。
そんな愛のこころは知らずもがな、望は説明を聞いて蛇の目傘をぱたりとたたむ。
「あなたらしいですね‥。先生もそれにあやかってみましょう。
私のような最低最下の者は、それだけでもう罪で一杯ですからね」
「え?」
愛の手がつい、と引かれ愛が先ほど歩いてきた道のほうに促される。
「あなたの家まで送りましょう。はじめはわたしの部屋で服を乾かして頂こうかとも思いましたが‥、
交や、その、小森さん‥もまだ寝ていますからね」
愛の胸は小森さん、の言葉にちくりと痛んだが、同行してくれるという言葉に嬉しくなる。
「では参りましょう、加賀さん。せっかくですから、雨の日は雨を愛す‥そんな風情を楽しみましょうか」
「吉川英治、ですね‥。楽しみあるところに楽しみ、楽しみなきところに楽しむ‥。
すみませんすみません、わたしのようなものが偉そうに」
望はにっこり笑うと、愛の手を握ったまま歩き出す。
「良くご存知ですね。先生なにやら楽しくなってきました」
愛しき先生とともに同じ雨に濡れながら、愛は幸せだった。
先生の手はいつもは別の生徒の髪を撫でているかもしれない。
だが、今このときはわたしの手を握っていてくれる。
この女の子に自然に妙な気を持たせることばかりの先生。
きっと自分は特別でもなんでもないただの生徒にしか過ぎないのだろう。
でも‥。
望の頬が微かに赤い。
掴んだままになっている愛の手に、望の温度が伝わってきた。
愛は少し首をもたげ、望の首筋や耳の裏、そしてつややかな髪を見上げていた。
自分が何処をどう歩いているのかもわからない。
すみませんすみません、わたしは今、傲慢にもまるで先生が恋人であるかのように勘違いしてしまっています。
身の程知らずのうぬぼれです。
でもまた明日の朝も、先生を想ってみずからを慰めてしまうかもしれません。
わたしは破廉恥な勘違い女です‥。
しかしその内心の謝罪は先刻までとは違い、どこかうきうきとしていた。
やがて愛の家の前にやってくると、望はきびすを返す。
「すみませんすみません、わたしのようなものに付き合って頂いて‥」
愛がいつものように頭を下げていると、視界が明るくなっていることに気づく。
「加賀さん、虹ですよ」
望の声で暁の空を見上げる。
いつの間にか雨が上がり、薄い雲が朝日に溶け始めた空。
そこには大きな美しい虹のアーチが掛かっていた。
「これは見事な‥。加賀さんと私だけがこれを見ていると思うと贅沢ですね。
ではまた後ほど教室でお会いしましょう」
曙光を前にこちらを振り返る望の顔は、どんな貌だったのか−。
愛はぼう、と血が上った頭の片隅で考えていた。
わたしの顔は変にゆるんでいないだろうか。
クラスの皆さんに不快な思いや不審な思いを抱かせてしまいはしないか。
きょうはいつにも増して目立たないようにしていよう、愛はそう思った。