糸色命は昔から、ほんのささやかな、ある願いを持っていた。  
 
末っ子で、しかも男ばかりだった兄弟に初めて生まれた女の子であったためだろうか、倫はやたらと甘え上手だった。  
例えばある時、倫の持って歩いていた風船が風に飛ばされ、木の枝に引っかかった事があった。  
「あっ…りんのふうせんが…っ!!」  
倫は声を上げて木に駆け寄ったが、風船の引っかかっている位置にはとても手が届かない。  
よほど身軽な人間でなければ、登って取って来るのも難しい、それほどの高さだった。  
「倫、残念ですけど、あの風船は諦めましょう」  
倫の傍らに立っていた望がそう言った。  
だが、倫は高い木の上で、風に吹かれて今にも飛んでいきそうな風船をじっと見つめて、その場を動こうとしない。  
「仕方ありませんよ、倫。あんな高さじゃあどうやったって手は届きません」  
そんな倫を諦めさせようと望はさらに言葉を重ねた。  
しかし、その時、ずっと風船を見つめていた倫が、突然望の方を向いた。  
「望…おにーさま……」  
「ちょ…倫っ!…そ、そ、そんな目をされたって僕は……っ!!」  
潤んだ瞳が、じっと望を見上げてくる。  
倫がそれ以上言葉を発しないのは、自分の願いが無茶なものであると自覚しているからだ。  
だけど、諦め切れなくて、何とかしてほしくて、縋るような目つきで倫は望を見つめる。  
いつもは喧嘩ばかりしている妹だというのに、望はそんな倫の瞳の色に心揺れてしまっていた。  
今にも泣き出しそうなこの顔を、笑顔に変えてやりたい。  
そんな気持ちが望の胸の中をいっぱいにする。  
「ええいっ!!仕方ありませんっ!!!」  
「あっ、おい、望っ!!!」  
傍らで見ていた命が止める間もなかった。  
望は声を上げて巨大な木に挑みかかって行った。  
上に登るにつれてだんだんと細くなっていく幹や枝に必死にしがみついて、望はついに風船の紐をつかむ。  
そして、ゆっくりと慎重に地面まで降りてきた望は風船を倫に差し出す。  
「……はぁはぁ…取ってきましたよ、倫……」  
「望おにいさま……」  
倫は望から風船の紐を受け取ると、  
「ありがとう、望おにいさま……っ!!」  
花のような笑顔を浮かべて、そう言ったのだった。  
 
大体、万事がこんな調子だった。  
倫は滅多な事では自分の願いを口にしたりはしない。  
ただ、その黒い瞳を潤ませて、じっと見つめてくるのだ。  
これには誰もがイチコロだった。  
兄弟達だけでなく、父や時田、躾には厳しい母の妙までもが、あの瞳に心を射抜かれてしまった。  
特に、倫の願いを聞くことが多かったのは、倫にとって一番身近な家族である望だった。  
その一方で、何故だか命は倫から願い事をされた経験がほとんどない。  
当時、医師を目指して勉強に明け暮れていた命だったが、倫と一緒に過ごす時間は決して少なくなかった。  
望や他の家族も不在で、倫と二人きりになる事だってあった。  
それなのにである。  
命の記憶には倫の願いやわがままを聞いてあげた記憶がほとんど存在しないのだ。  
僅かに一度か二度、命に願い事をしてきた時の倫は、他の家族に見せるのとは違う、なんだか申し訳なさそうな心苦しそうな表情を浮かべていた。  
それっきり、倫は命に何か願い事をした事はない。  
時田や望には、今も滅茶苦茶なわがままを言ったりしている様子なのに………。  
 
「なんでだろうなぁ……」  
命はふかぶかとため息をついた。  
「なんでなのかは私は知らないですけど、別に構わないじゃないですか」  
そんな命の様子を冷めた目つきで眺めながら、望がぶっきらぼうに言った。  
「命兄さんは倫のわがままに付き合わされる苦労を知らないから、そんな気楽な事を言えるんですよ」  
「とはいえ、俺だけだぞ。父さんも母さんも縁兄さんも景兄さんも時田も、みぃんな何がしか倫に甘えられた経験があるのに……」  
「一度か二度、頼みごとをされたって言ってたじゃないですか」  
「だから、その時の様子が問題なんだろう。あんな申し訳なさそうな表情で他人行儀にしなくっても……」  
「私には全く理解しがたい悩みですね……ていうかですね、命兄さん」  
「ん……何だ、望?」  
望はコホンと一つ咳払いをしてから  
「わざわざ宿直室を訪ねてきてする話がそれですかっ!!!」  
若干呆れた顔で、命にそう言った。  
「むぅ……それは確かに済まないと思うが……」  
ほんの少し弟の顔を見ようと立ち寄っただけだったのだが、気がつけば延々自分の悩みを話していた。  
確かに、望の方からすればたまったものではないだろう。  
「あれが『しすこん』ってヤツなのか……」  
「こら、交くん、そんな事言っちゃ駄目だよ」  
外野の声が耳に痛い。  
むろん、客観的に見て今の自分がどれだけ滑稽なのか、命も理解していない訳ではない。  
それでも気になってしまうのは、今の命と倫の関係がただの兄と妹に止まるものではないからなのだろう。  
命は一人の女性として倫を愛し、そして愛されている。  
妹に向ける想いと、愛しい女性に向ける想い、その二つが重なり合って命が倫を想う気持ちはより一層強く大きくなった。  
だからこそ、命の頭からは、倫がどうしてそんな態度を取るのか、その事が離れなくなってしまった。  
「……情けない話だけど、倫に遠慮されてると思うと、正直辛いんだ……」  
呟いてから、命はちゃぶ台の上の、霧が出してくれたお茶を手に取る。  
夢中で喋る内にすっかり冷めてしまったそれを一気に喉に流し込んで、命は息を吐いた。  
そんな兄の様子を困り顔で見つめながら、望が言う。  
「そうは言いますけどね、命兄さん。倫が理由もなく、そんな態度を取ってると思うんですか?」  
「何か心当たりがあるのか、望?」  
「いいえ、全然全く見当もつきません。でも、倫が命兄さんをどう思っているのか、私なんかより兄さんの方がよく知ってるでしょう?」  
確かに。  
倫が命を想う気持ちは疑いようもない。  
それで十分ではないか。  
倫には倫の事情がある、考えがある。  
今は余計な事に頭を悩まさず、ただそれを信じていれば良いのかもしれない。  
「そうだな……すまなかったよ、望」  
「全くですよ」  
それから、命は宿直室を辞去し、幾分落ち着いた気持ちで家路についたのだった。  
 
そして、数日後の糸色医院。  
「ううん……この訳ではどう考えても不自然ですわ……」  
診察室の片隅の机に、英語の宿題に取り組む倫の姿があった。  
診察時間の終了した糸色医院を訪ねて、命と他愛もないおしゃべりをするのが倫のここ最近の日課だった。  
ただ、診察が終わっても命にはカルテの整理など、細々とした仕事が残っているため、  
倫も命がそれを片付けるまでの時間、宿題や予習などをして過ごすのがお決まりのパターンだった。  
学校の成績も優秀な倫は、大抵早々と勉強を終えてしまうのだが、今日は少し様子が違うようだった。  
「ふう、これで今日の分はお終いだ」  
「命お兄様、すみません。こっちはもう少しかかりそうですわ」  
「いや、全然構わないよ。だけど、珍しいな。倫がそこまで手こずるなんて…」  
倫はさきほどから、辞書を何度もめくり、教科書とにらめっこを続けている。  
明日の英語の授業範囲をあらかじめ訳しておく事。  
予習を兼ねたその宿題は、いつになく倫の頭を悩ませるものらしかった。  
何度もノートに訳文を書きかけては、途中で手を止めて、結局消しゴムで全て消してしまう。  
そんな事を果たして何度続けただろうか?  
ついに倫の左手は辞書に手を掛けたまま固まり、右手に持ったシャープペンシルもピクリとも動かなくなってしまった。  
それまで倫の様子を見守っていた命だったが、見かねて助け舟を出す。  
 
「倫、私にもその英文、少し見せてくれないか?」  
「えっ?でも……」  
倫はこういう所ではとことん真面目な娘だ。  
出された宿題にはあくまで自分の力で挑むべきだと考えているようだ。  
「知らない事を学ぶのが勉強なんだ。自分一人では行き詰る事だってあるさ。  
そういう時に他人をあてにするのは悪いことじゃないよ。最終的に倫がその知識を自分のものに出来ればいいんだから」  
「………そう、ですわね…」  
命は倫から教科書を受け取り、早速、問題の英文に目を通す。  
一読して、倫が悩んでいた理由が、命にはなんとなく理解できた。  
「なるほど、わかったよ。これはむしろ、この英文が悪いな」  
「どういう事ですの?」  
「文章としての筋が通っていない。文章の前後で微妙に文脈がズレたり、見当ハズレな事を書いたりしてる。  
それを一本の筋の通った文章として訳そうとしてたから、倫もあんなに悩まなきゃいけなかったんだよ」  
それから、命のアドバイスを受け、倫は訳文を完成させた。  
だけど、ようやく宿題を終えたというのに、倫の表情にはなんだか辛そうな、苦しそうな色が浮かんでいた。  
命は倫のその表情に見覚えがあった。  
それは、ずっと昔、倫が珍しく命に頼みごとをした時のそれと良く似ていた。  
「情けないところを、お見せしてしまいましたわね……」  
理由はわからない。  
しかし、倫は以前と同じく、命の手を借りた事で落ち込んでいるようだった。  
「いつもこんな事ばかりですわ。肝心なところで失敗して、みっともない姿を見せてしまう。………命お兄様は、ずっと見ていてくださったのに…」  
「……私が?」  
「あら、お忘れですの?ずっと昔、私が華道を始めた頃から、ずっとそうだったじゃありませんの?」  
倫の言葉で、命は思い出す。  
まだ幼い倫が、つたない指先で、それでも一生懸命に花を活ける姿を、その傍らで見守っていた記憶。  
「だけど、私は忙しくて、いつでも倫の傍にいられたわけじゃあなかった……」  
「そうですわね。でも、命お兄様は時間の許す限り、私の事を見守っていてくださった……だから」  
幼い頃の倫にとって、自分を見守り励ましてくれるような命の眼差しは何よりも頼もしいものだった。  
たとえその場にいなくとも自分の事を思ってくれている、そんな命の存在が与えてくれるエネルギーが小さな倫の心を支えてくれた。  
だからなのだろう。  
倫はいつしか、自分を見守ってくれる命の想いに応えられる存在になりたいと、そう願うようになっていた。  
「でも、実際は気持ちばかりが先走って、上手くいかない事ばかりでしたわ。今だって、たかだか学校の宿題なんかに手こずって……」  
「倫……」  
命は悟った。  
倫がどうして命に願い事やわがままの類をほとんど言わなかったのか。  
倫は命に、全力で、精一杯に頑張る自分を見て欲しかったのだ。  
花を活けるとき、勉強をするとき、その他の生活の諸々に至るまで、いつだって倫の眼差しは命に向けられ、命の存在を感じていたのだ。  
「倫………。倫、そんな事はない」  
「命お兄様……」  
命の手の平が倫の頬をそっと撫でる。  
そして、瞼を閉じた倫の額に、命は優しくくちづけをする。  
「倫がどれだけ頑張っているか、私はよく知ってるよ」  
命のその言葉に倫が浮かべた微笑は、命には他のどんなものよりも輝いて見えた。  
 
「………それで、倫の態度の謎も解けて、倫が何を考えていたのかもわかった訳ですよね」  
「ああ」  
「別に命兄さんを距離を置いたり、変に遠慮していたわけじゃないとわかった訳だし、もう問題はない筈ですよね」  
「まあ、そうだな」  
「………じゃあ、これ以上、何の不満があるんですかっ!!」  
数日後、命は再び宿直室を訪れていた。  
単なる事後報告と思い兄の話を聴いていた望だったが、しかし命にはまだ何か思うところがあるらしい。  
「いや、不満はないんだが、ただ……」  
「ただ、何ですか?」  
すっかり辟易した様子で聞き返した望に、命は少し照れくさそうに笑いながらこう言った。  
「それはそうと、やっぱり倫に甘えられたいなぁ……と」  
倫の自分に対する気持ちは有難かったが、それはそれ。  
やはり、もっと倫に可愛らしく甘えられてみたいというのが命の正直な気持ちらしかった。  
呆れ顔の望からはもうぐうの音も出ない。  
「『しすこん』って、すげえ」  
「こら、交くん!!」  
見守る外野の声は相変わらず。  
そして、そんな宿直室の入り口の扉一枚向こうでは、  
「……もう、命お兄様ったら……」  
困り顔でため息をつく妹が一人。  
さて、次に会ったとき、命の希望する通り甘えてみるべきか否か?  
悩む倫をよそに、秋の空はどこまでも青く高く晴れ渡っていたであった。  
 
 

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