「『先生』って呼ぶの、どうなんでしょうね」  
腕枕してやっていた少女がぽつりと呟いた言葉に、望はきょとんとして、何のことです、と聞き返した。  
「いえ、ちょっと今思いついただけなんですけど」  
そう応えると可符香は身じろぎして望の胸に擦り寄ってきた。猫がマーキングをするように擦り擦りと顔を素肌に擦り付けられて  
一瞬ためらってから遠慮がちにその髪を撫でてやる。  
「あの、多分汗臭いですよ、私」  
「そんなことないですよ」  
笑って軽く口付けてから、いかにも今気付いたと言わんばかりに悪戯っぽく上目遣いで微笑む少女。  
「あ、でも確かにお互い結構汗かいちゃいましたよね。先生が頑張っちゃいましたから」  
「……そういうオヤジくさい表現をするものではありません、幾つなんですか貴女は」  
「若者っぽく言えば、先生が」  
「言い直さなくて結構ですっ!」  
明らかにからかわれていると分かっていても、真っ赤になってムキになってしまう自分が哀しい。  
もっと言えば、事後の、本来ならもっとロマンチックな睦言の一つや二つがあるであろうシチュエーションで  
年下の少女にいいようにいじり倒されている自分が哀しい。  
――が、それと同時に自分をいじり倒すこの少女がどうしようもなく愛しいのだから、自分もとことん軸がぶれきっていると思う。  
ため息を1つついて可符香の体を抱きしめると、くすくすと笑う声が密着した体に響いてくる。  
温かくて柔らかい肌の汗ばんでしっとりとした感触に、今更ながら自分がどれだけ  
この少女に対して『頑張った』のか思い知らされて、激しくなる鼓動を誤魔化すように話題を振った。  
「――それで、何の話なんですか」  
「何がですか?」  
「貴女が言い出したんでしょう、先生がどうとか」  
ああ、と可符香が思い出したように頷く。  
「大したことじゃないんですけどね、先生と私って、一応世間一般で言うところの恋人同士じゃないですか」  
「……一応も何も、この関係が世間一般で言うところの恋人同士じゃなかったら何なんですか」  
「先生、セフレとかパパとか、今時の世間にはいろいろとあるんですよ?」  
「お願いですから本気で止めて下さい、絶望しますよ」  
それって脅迫ですか?と吹き出す可符香。ひとしきりくすくすと笑った後に改めて「恋人じゃないですか」と仕切り直してくる。  
「まぁ……そう、ですね」  
僅かに照れを滲ませながら応えた。可符香とお互いの気持ちを伝え合って、体もこの少女の弱点が  
分かる程度には重ねてきて――どこからどう見ても立派な『恋人同士』だと思う。  
改めて認識させられて赤くなった望を見上げて、可符香がですよね、と言いながら少しだけ眉を顰めて見せた。  
 
「それなのに、未だに『先生』『風浦さん』って呼び合うのも、どうかなーって思ったんです」  
 
「……ああ」  
ようやく合点がいって、大きく頷いた。  
頷いた、はいいものの。  
「……とは言いましても、ねぇ……」  
なだめるように可符香の頭をぽんぽんと撫でながら、顔をしかめる望。  
「先生、私のこと『可符香』って呼びたくないんですか?」  
拗ねたような口調に、いやそんなことは、と慌てて否定して少しだけ赤面しながら  
「教師として生徒の貴女に接してきた時間が長いですからね、『風浦さん』という呼び方に馴染んでしまっているんですよ。  
 落ち着く……と言いますか、まぁ、要は――」  
「今更恥ずかしくて呼べません?」  
「心を読むのは止めて下さい!」  
「嫌だなぁ、先生の考えてることぐらい心なんか読まなくてもお見通しですよぉ」  
ニャマリ、と微笑んでくる可符香。どうやら先程の口調はお芝居らしい、と今更気付いて  
わざとらしく咳払いをしてみせた。  
 
「……まあそれに、私と貴女はまだ担任と教え子の関係でもあるわけですからね。  
 あんまり気安い呼び名に慣れてしまって、うっかり周囲に勘付かれるようなことになってもまずいでしょう?」  
「ああ、そうですね」  
先生、埋められちゃったり刺されちゃったり縛られちゃったり殴られちゃったりするかもしれませんね!と  
自分の腕の中でやけに楽しそうに言う少女を半目で見下ろす。  
「それもありますが、何より社会的に色々と問題です」  
本人達がいくら真剣に愛し合っていたとしても、世間というのは色眼鏡をかけて物事を見るのが好きなのだ。  
いくら留年を繰り返しているとは言え、可符香はまだ高校生。そして自分は高校教師。  
ワイドショーだの週刊誌だの某巨大掲示板だのが全力で食いつくネタであることは間違いない。  
分かりましたか?と問い掛けると、可符香がはい、と頷いた。  
「つまり、先生はあくまで私に『先生』って呼ばれながらの、教師が教え子を調教するっていう設定での  
 プレイの方が好きなんですね」  
「どこをどう解釈したらそうなるんですか!?」  
思わず上半身を起こしながら全力で突っ込む。こちらを見上げながらあはは、と笑ってくる愛しい少女に  
大きくため息をついた。  
ふと、思いついて尋ねてみる。  
「それじゃあ、貴女は私のことを何て呼びたいんですか?」  
「私ですか?」  
丸い目を瞬かせた後、うーんと首を傾げる可符香に重ねて問い掛けた。  
「『糸色さん』っていうのも恋人としては変でしょう、やっぱり……『望』って呼びたいですか?」  
「そうですね、それもいいですけど」  
応えて、悪戯っぽく――どこか嬉しそうに、にっこりと笑う可符香。  
 
「私としてはやっぱり、『あなた』って呼んでみたいです」  
 
こうして思い知らされる。  
結局自分は、この少女にはどんなに頑張っても一生勝てないのだと。  
 
「先生?」  
再び抱きしめられた可符香が、不思議そうな声をあげる。憎たらしいほど落ち着いた様子に  
大きな大きなため息をついて、その肩口に顔を埋めた。  
「……そういうのは、できれば男の口から先に言わせて下さいよ」  
「駄目ですよ、先生チキンだから、私がおばあちゃんになっちゃいますよぉ」  
掠れた声で呻く、あっけらかんとした声が応える。  
 
だが、『一生勝てない』というのは『一生勝負し続ける』ということであって。  
それはつまり――『一生この少女と一緒にいられる』ということに、他ならないのであって。  
 
――それなら別に勝つ必要ないんじゃないかと考える辺り、とことん駄目人間なのだ、自分は。  
軸がぶれきっていて、チキンで、駄目人間で――それでもみっともないほど、彼女の愛を請うている。  
 
「……ん」  
強く強く抱きしめられて、可符香が幸せそうな声を漏らした。  
華奢な腕が望の体に回って、抱きしめ返す。くすくすと笑う声が耳をくすぐった。  
「――先生、ひょっとしてまた頑張れそうじゃないですか?」  
「ですからその表現は――ああもう」  
彼女の額にそっと口付ける。枯れてなくてよかったですねー、とムードもへったくれもない台詞を口にする少女と  
この先ずっと結果の見えている勝負をし続ける覚悟を決めて。  
「頑張ってくださいね、先生」  
僅かに上気した頬で楽しそうに微笑む恋人に、せめてもの反撃を試みるつもりで  
「……頑張ります」  
と苦笑してから、深く深く、唇を重ねた。  
 

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