先生が記憶を失った。  
買い物途中に拉致された糸色望は幾度となく頭を強打されて、いわゆる記憶喪失の状態に陥ってしまった。  
自分が誰なのかすらも判らなくなってしまった望。  
しかし、これは彼に思いを寄せる女子生徒達にとっては最高のチャンスでもあった。  
まず、望にアプローチを仕掛けたのは霧。  
霧は真っ白になった望の記憶に、自分と望は結婚していたのだという認識を植えつけようとした。  
一時は上手くいくかと思われたこの作戦だったが、他の女子達も指をくわえて見ている訳ではなかった。  
今度はまといが望を連れ出し、後頭部を強打する事で記憶をリセットしてしまう。  
ところが今度は真夜が望を連れ出し、同じ目的で後頭部を強打。  
さらに、あびるも望を連れ出して、またもや後頭部を強打。  
最後にやって来た千里のスコップが見事なまでにジャストミートして、そこで望は限界を向かえた。  
立て続けの衝撃ですっかりダメになってしまった望の頭は、一時は猿並みの知能にまで落ち込んでしまった。  
そして、宿直室で療養を続けていた望がようやく正気に返ったのは一週間後の事だった。  
 
ガラガラガラ。  
宿直室の入り口の引き戸を開いて現れたのは、千里、あびる、真夜の三人。  
彼女達は望が回復したという知らせを聞いて駆けつけてきた。  
「あっ、千里ちゃん、あびるちゃん、真夜ちゃん!」  
扉の開く音を聞いてやって来た霧に、千里が尋ねる。  
「先生が元に戻ったって、本当!?」  
「うん。まだ少しボーっとするみたいだけど、自分が誰かも判るし、頭もしっかりしてるみたい」  
嬉しそうに微笑んだ霧の言葉に、千里達はホッと胸を撫で下ろす。  
自分達が原因で望に手ひどいダメージを与えてしまった事に、彼女達は強い責任を感じていた。  
確かに望が何かにつけて暴力を振るわれるのは、2のへの面々にとってはありふれた日常の出来事だった。  
だけど、今回は少しばかり事情が違った。  
彼女達は望と結ばれたいと願うあまりに、際限を忘れて暴走し、望を壊れる寸前まで追い詰めてしまったのだ。  
「先生に、謝らなきゃね……」  
呟いたあびるの言葉に、他の三人が肯く。  
「先生はこっちで寝てるから……」  
そして、千里達は霧に先導されて宿直室の中に敷かれた望の布団の横に腰を下ろした。  
「やあ、あなた達も来てくれたんですね」  
「先生、無理なさらないで……」  
千里達の姿に気付いた望がよろよろと起き上がろうとするのを、すぐ傍らに座っていたまといが支える。  
「平気ですよ。これでも見た目よりはずっと頑丈なんですから」  
そうやって強がって見せる望の微笑みが、今の千里達の心には痛かった。  
「ごめんなさい、先生……」  
「ど、どうしたんですか?あなたがそんなにしおらしいと、こっちが逆に困ってしまいますよ」  
沈痛な面持ちで千里が頭を下げる。  
そして、戸惑う望の目の前で、霧が、まといが、あびるが、真夜が次々と頭を下げた。  
「ちょ…あなた達まで……!?」  
「ごめん、先生」  
「ごめんなさい、先生」  
「先生、ごめんなさい……」  
「…………」  
頭を下げた少女達にずらりと囲まれて、望の困惑もピークに達する。  
「そんな……頭を上げてくださいよ」  
「先生……。先生はもう、記憶を全部取り戻したんですよね?先生に怪我をさせたのが私たちである事も……」  
静かに語りかけるあびるの言葉に、ようやく望も彼女達の意思を汲み取る。  
「………そうですね。確かに今回のは、いつもよりかなり効きました。暴力を振るうのも褒められた話ではありません」  
望は改めて、優しい口調で少女達に向けて語る。  
「でも、まあ、一度暴走し始めたら止まらないあなた達の事ですから……そうですね。次はもう少しお手柔らかにしてもらえれば  
後はこうして、きちんと謝ったんですから、それでもう十分じゃないですか……」  
望の言葉を聞いて、五人の少女達はゆっくりと頭を上げる。  
「だから、もうそんな顔をしないでください……」  
「先生……」  
五人の少女達の顔にようやく笑顔が戻る。(若干一名、外からではわからない娘もいるが)  
その様子を見て、望も安心した表情でウンウンと肯く。  
ともかく、後は望が完全に復調すれば、今回の事については一件落着、この時、なごやかな空気の中で誰もがそれを疑っていなかった。  
だが、しかし……。  
 
「それにしてもさっきは驚きましたよ……」  
「私たちが謝ったのがそんなに意外ですか、先生?」  
「いや、それもありますけど……ほら、さっきからなんだか他人行儀だと思ったら…」  
「他人行儀……って、何の事です?」  
顔に疑問符を浮かべる千里に対して、望が口にした言葉は五人の絶望少女達をさらなる混乱の中に引きずり込むものだった。  
「先生、先生って……そりゃあ教室ではそう呼んでもらった方が助かりますけど、ここでは『望』ってちゃんと呼んでくださいよ、……千里」  
「へ……?…えっ!?」  
唐突に下の名前で呼ばれて、千里は目を白黒させる。  
さらに、望は他の少女達をぐるりと見回して  
「霧も、まといも、あびるも、真夜も、みんなちょっとおかしいですよ?」  
「き、き、霧って……えっ?…せ、先生!!?」  
「な、何を言ってるんですか?」  
「そう呼んでもらえるのは嬉しいけど……いきなりどうして?」  
「………(困惑しつつも頬を染めている)」  
そして、戸惑う絶望少女達の前で、望はこれ以上ないくらいとんでもない発言をした。  
「どうして、って………そりゃあ、私たち六人一緒の夫婦じゃないですか」  
 
つまるところ、望の記憶は完全には元に戻っていなかった、そういう事だった。  
なんとか意識と、これまでの記憶のほとんど全てを取り戻した望だったが、そこに致命的な混乱が生じてしまったのだ。  
望を巡る絶望少女達による争奪戦が起きたとき、彼は偽物の過去の情報を刷り込まれては後頭部を強打されてそれをリセットされた。  
しかし、頭部を強打される毎に消え去ったように見えたそれらの情報は脳の奥深くに蓄積されていった。  
そして、望の意識が覚醒へと向かい始めたとき、望の脳はそれぞれ矛盾するその記憶を合理的に処理するために、それらを一つにまとめ上げた。  
即ち、望と五人の絶望少女達、合わせて六人が共に暮らす夫婦であるとする架空のストーリーを作り上げたのだ。  
というわけで……  
「はい。リストにあったものはきっちり買ってきたわよ。それから、シャンプーもちょうど切れそうだったから、買っておいたわよ」  
「ああ、気付いてなかった……。ありがとう、千里ちゃん」  
商店街からの買い物から戻った千里に霧が礼を言う。  
「今夜は確か、肉じゃがだったわね?」  
「うん。後はお味噌汁の具を何にしようか決めてなかったんだけど……」  
夕食について話し合う霧と千里の横に、今度は真夜がひょっこりと顔を出す。  
「…………」  
「手伝ってくれるの?それじゃあ、まずはジャガイモの皮むき、お願いできる?」  
コクリ、肯いた真夜は早速大量のジャガイモの皮むきにとりかかる。  
ほとんどが女の子だけとはいえ、人数が多いのでかなりの量になるのだ。  
と、そこに今度は宿直室の入り口扉がガラガラと開く音が響いた。  
「ただいまー」  
「おかえり、あびるちゃん。アルバイトお疲れ様」  
動物園のバイトから帰って来たあびるの体には、新しい包帯が巻かれていた。  
「また、怪我したの?」  
「平気。いつもの事だから」  
心配そうに問いかけた霧に、あびるは柔らかく微笑んで答える。  
あびるが着替えのために部屋の奥に行ってしまうと、今度は窓の外から望の声が聞こえてきた。  
「洗濯物、もう取り込んでおきますね」  
「はい、せんせ……じゃなくて……望さん…お願いします」  
応えた霧の声は、慣れない呼び名に戸惑いを隠せずにいた。  
「まといは向こう側の洗濯物をお願いしますね」  
「わかりました、……の、望…さん……」  
そしてそれは、外で望の手伝いをしているまといも同様らしかった。  
無理も無い話しではあった。  
望が目を覚ましてから、既に一週間が経過しようとしていた。  
あの日、望に生じた記憶の混乱に責任を感じた五人の少女達は、それが偽物の記憶である事を彼に理解させようと口々に説明した。  
しかし、望はポカンとした表情を浮かべたままで、彼女達の言葉の意図するところすら理解できていないようだった。  
なにしろ、望にとっては五人の少女達と夫婦であったという偽の記憶の方が真実なのだから。  
それでも、彼女達の話に真剣に耳を傾け続けた望は最後に……  
「つまり、私の記憶も、信じてきたものも、そして何よりあなた達へのこの気持ちも全てが嘘っぱちだったというわけですね……」  
寂しそうにそう言って、笑った。  
「未だに信じられませんけれど、他ならぬあなた達が言うんですから、本当なんでしょう……」  
五人の少女達はそんな望を見捨てる事が出来なかった。  
 
「ち、ち、ち、違いますっ!!」  
千里が叫んだ。  
「えっ?千里…じゃなくて、木津さん、何を言って?」  
「違うんですっ!!全部間違いなんですっ!!!!」  
どうにか望を救いたくて口を開いたものの、何を言っていいかわからず千里は同じ言葉を何度も繰り返してしまう。  
と、そこに今度はあびるからの助け舟が入る。  
「これは……テスト。そう、テストだったんです」  
「テスト、ですか?」  
あびるの言葉を引き継いで、今度はまといが口を開く。  
「そうです。絶命先生からの指示で、せんせ…違った…の、の、望さんの記憶がしっかり戻ったかどうか確かめるために……」  
「本当の記憶が揺らいでいないか確認してたんだよ」  
そして、最後を締めくくった霧の言葉を聞いて、望の顔にようやく安堵の表情が浮かんだ。  
「そうか……そうだったんですね。…でも、命兄さんも意地悪ですよ。こんな方法で確認をとろうとするなんて…  
本当に…どうにかなってしまうんじゃないかと思いました」  
見れば、望の両手は傍目からでもわかるほどに、ブルブルと震えていた。  
よほど、霧達に自分の記憶を否定されたのが恐ろしかったのだろう。  
真夜が無言でその震える手の平に、優しく自分の手を重ねた。  
「だから、先生、安心してください。明日からはまた元通り、みんなで一緒に暮らしましょう」  
そして、千里のその言葉と共に、望と五人の絶望少女達の奇妙な夫婦生活が始まったのだった。  
交は幼いなりに何かを察したのだろうか、望が目覚めたその日の内に倫の家へと出て行ってしまった。  
そして、狭い宿直室の中、手探りで始まった共同生活は七日を経て、ようやく一定のリズムが生まれていた。  
 
「「「「「ごちそうさま」」」」」  
夕食が終われば次は後片付けだ。  
人数が多い分、洗う食器も多いけれど、それぞれ分担して仕事をこなせばそんなに時間は掛からない。  
「そしたら、ラインバックがすごく嬉しがって……あの子ったらはしゃぎ出すと止まらないから」  
「その度に生傷増やして帰ってくるのは、こっちとしては冷や汗ものなんですけど」  
苦笑しながら言った望に、千里も続く。  
「そうよ。あなたが動物大好きなのはわかるけど、もう少し気をつけないと」  
「そうだね。でも、あの尻尾を目の前にするとつい我を忘れちゃって……」  
一日の仕事を終えて、談笑する六人の様子はなごやかなものだった。  
最初の二日ほどは少しぎこちなかったが、元来この六人は知らない仲ではない。  
次第に夕食後のこの時間はこんな風に日常のこまごまとした話題で会話を交わすのがお決まりとなっていた。  
この時間があったお陰で、望の記憶の混乱から始まった生活に後ろめたさを覚えていた少女達の気持ちもだんだんと落ち着いていった。  
現在、最大の問題はまた別のところにあった。  
「みんな、お風呂沸いたよ」  
霧の声が聞こえて、みんな顔を見合わせた。  
「今日は誰から入りますか?」  
「動物園のバイトもあったし、一番に汗を流したいんじゃない?」  
「それじゃあ、一番風呂、もらおうかな…」  
元々が宿直の教師が一人で過ごすように作られた施設である。  
風呂も当然小さなものであり、望と霧とまだ小さな交で使う分には不自由しなかったが、その倍の六人ともなれば事情はかなり違ってくる。  
途中、水を足して沸かしなおしたりしても、湯量の限界は補い難いものがあった。  
「たまにはのんびり、銭湯とかどうです?」  
望の背後にぴとっとくっつきながら、まといが言った。  
「そうですね。悪くないと思いますよ。広いお風呂はやっぱり気持ちいいですからね」  
「…………」  
話を聞いていた真夜も、無言でコクコクと肯く。  
「でも、小森さんはどうするの?」  
「私はいいよ。その分、こっちのお風呂をたっぷり使えるしね」  
「それじゃあ、明日にでも早速行ってみましょうか」  
おだやかな会話と、絶え間ない笑い。  
明るい空気に包まれた宿直室はこれ以上ないくらい平和に見えた。  
 
だが、今この瞬間も、少女達は忘れてはいなかった。  
これが、自分達が発端になって生み出された、偽物の幸せである事を。  
 
例えば、それは夜、狭い部屋に敷き詰められた布団の並びから薄っすらと透けて見える。  
「これから……どうなるんだろう…?」  
なかなか寝付かれず、布団の中でゴロリと寝返りを打ちながら霧が呟いた。  
隣にはすやすやと眠る望の顔が見える。  
霧がこの場所で、望の一番近くで寝ているのは、彼女がこれまで一番長く望と生活を共にした人間だからだ。  
誰が言い出した訳でもない。  
一番最初の夜、布団を敷いた時、気がついたらこうなっていた。  
多分、誰もが後ろめたいのだろう。  
望は記憶の混乱によって生まれた偽物の過去の中で生きている。  
その中で、少女達は少しでも本当の彼の過去の生活の、その名残を残そうとしているのだ。  
望を挟んだ向こう側、彼にピッタリとくっついて眠るまといの行動も、いつものストーカー行為によって、昔を取り戻そうとしているのかもしれない。  
いつもなら望の隣を巡って争う事になるはずの千里やあびるも黙ったまま。  
不器用な真夜は部屋の一番端っこで寂しい背中をこちらに向けて眠っている。  
「全部…私たちが仕出かした事だけど…でも…いつまでもこんな事、続けてられないのに……」  
やはりどう考えても、望を間違った記憶の中にとどめておく事が良い結果をもたらすとは思えなかった。  
だけど、あの時不安に怯える望を見て、霧達は決断してしまった。  
一度始まった偽物の夫婦生活はいつしか彼女達自身をも飲み込んで、脱出不可能の底なし沼になろうとしている。  
「あの時…私が先生のお嫁さんになろうとなんてしなければ……」  
霧の胸は罪悪感ではち切れてしまいそうだった。  
望争奪戦の一番手となり、今も歪んだ共同生活をずるずると続けている事。  
そして何より、この現状にわずかばかりの幸せを感じている自分が、霧にはどうしても許せなかった。  
ほんの小さな違いだけれど、霧にはわかる。  
今の望の五人の少女達に対する態度は、一見すると今までと変わらないように見えるけれど、彼女達を妻として気遣うものに変化していた。  
それは、霧が長い間望んで得られなかったものである。  
嬉しかった。  
たとえ五人一緒とはいえ、望が自分の事をそういう目で見てくれる事が霧にはたまらなく嬉しかった。  
そしてだからこそ、間違った方法で手に入れた幸せに浮かれる自分が、とても汚いものに思えた。  
「ごめん…先生…ごめんなさい……」  
震えながら霧は呟いた。  
その時である。  
「そんなに自分を責めないでください、霧……」  
やさしい感触が頬を撫でた。  
気がつくと、いつの間に目を覚ましたのか、望が霧の瞳を覗き込んでいた。  
「気にするな……なんて、気楽には言えませんけど、私の頭の一件はもう過ぎた事なんですから……」  
「あ……うぁ…せんせ…」  
それは違う。  
そう叫びたかった。  
全ては現在進行形の出来事であり、取り返しのつかない事態になろうとしているのだと。  
そして、今の自分はそれを承知で、偽りの安寧の上に胡坐を書いているのだと。  
だけど、喉元まで出掛かった言葉は、口から出る前に砕けて消えてしまう。  
(ダメだよ、先生。私、こんな意気地なしの卑怯者なんだよ……)  
優しく頬を撫で続ける望の手のぬくもりが悲しくて、ぽろぽろ、ぽろぽろと霧は涙をこぼし続けた。  
 
翌日も、表面上だけは何事も無いように、宿直室の日常は続く。  
「なんで復帰させてくれないんでしょうかね?私はもうすっかり元気なのに」  
「そ、そうですよね…。でも、怪我した部分が部分ですし、大事をとれって事じゃないでしょうか?」  
誤魔化すように答えたまといの言葉にも、彼の表情は晴れない。  
目を覚ましてから一週間、怪我をした時から数えればおよそ半月近くも休んでいるというのにまだ学校に戻る許可が下りない。  
その事を、望はかなり気にしているようだった。  
まさか、怪我の後遺症が現在もしっかり残っているから、などと言えるはずも無く。  
まといは曖昧な笑顔を浮かべる事しかできない。  
(私があんな事をしたから……)  
記憶を失った望が霧のところにつれていかれたとき、まといはほとんど無我夢中で行動していた。  
望を他の誰かに渡したりしたくない。  
望の一番近くにいるのは自分なのだ。  
もし、再び記憶をリセットする事で望が自分の事だけを見てくれるようになるのなら……。  
ならば、躊躇う理由など何一つ無い。  
あの時は、本気でそう思っていたのだけど……。  
今になって理解した。  
それは自分の愛する望の心の大切な部分までも損なってしまう、決してやってはいけない方法だったのだ。  
 
そして、それ以上に許せないのは  
(私は、まだみんなに嫉妬してる……)  
まといは、心のどこかで現在の状況、五人の少女が望と共に暮らすという生活に不満を感じていた。  
霧も、千里も、あびるも、真夜も、全て追い出して望を自分だけのものにしたい。  
この期に及んで、そんな考えが浮かんでしまう自分がひどく醜く感じられた。  
「ちょっと、命兄さんのところに行って、今後の事について相談してみましょうか」  
やはり先行きの事がよほど不安なのだろうか。  
望はそう言って立ち上がり、宿直室の扉の方に歩いていく。  
まといもいつものように、気配を殺して望の背後に立ち、その後をついて行く。  
だが、学校の校門をくぐってしばらく進んだとき  
「…………」  
ピタリ、まといの足が止まった。  
「許してください、先生……」  
そして望の気付かぬままに、まといの姿はどこへともなく消えていったのだった。  
 
一方、そのころ藤吉晴美の部屋では……  
「どしたの、千里?さっきから、ずっとボンヤリして」  
「ん?あ、ああ……晴美、ごめん。すっかり手が止まってたね」  
「いや、それは大丈夫だよ。もう少しで原稿も片付いちゃうし」  
「うん……」  
きっちり几帳面で、いつもはっきりと物を言う親友が、こんな状態になっている事について大体の察しはついていた。  
「また先生の事、考えてたの?」  
晴美の問いかけに、俯いたままの千里は黙りこくっていたが、やがてぽつりぽつりと心情を吐露し始める。  
「本当は、きっちり伝えなきゃいけないってわかってる。このままじゃいけないって……」  
記憶の混乱した望の傍にずっと居続ける事。  
それはあの時、自分の記憶が偽物であると知らされて、怯える望を見た少女達が本心から選び取った行動だった。  
だけど、その一方で、望の妻でいられる時間を嬉しく思っていなかったと言えば嘘になるだろう。  
望の千里に対する態度は、基本的にはあの怪我を負う前と変わらない。  
しかし、彼の言葉や行動の端々に、妻として千里を大切にしようとしているのが感じられた。  
そのさりげない気遣いに、千里はどれだけ心躍らせた事だろう。  
「でも、それじゃいけない。先生をこのままにしてちゃいけない。それは分かってたのに……」  
本来ならば、少しずつ、望が現実を、本物の過去を受け入れられるように導いてやらねばならなかったのだ。  
五人の少女達が生活を共にするのは、それまでの暫定的な措置であるべきだったのだ。  
だけど、千里にはそれが出来なかった。  
思いがけない形で縮まった望との距離を壊してしまいたくなかった。  
「ほんと、いつも言ってる割には、きっちりしてないわよね、私……」  
「千里……」  
晴美は千里にどう言葉を掛けていいかわからなかった。  
何故ならば、彼女も理解しているからだ。  
千里が望に向ける感情と同じものを、彼女もまたほのかに心の奥に抱いているのだから。  
(このままじゃ、ダメ……だけど)  
どんなに言いつくろったところで、現状のままの生活を続ける事は望にとって良い結果をもたらすとは思えない。  
しかし、望に本当の記憶を戻す作業は、彼に恋焦がれてきた千里の心には耐え難いものだ。  
選ぶべき道は最初から明らかなのに、千里にはそこに進む勇気がない。  
ならば、このまま望を偽物の世界に引き止め続けるだけの自分がとり得る最善の選択肢は何なのか?  
(やっぱり、いけない事をしたツケは、きっちり払わなくちゃね……)  
その答えは既に、千里の心の中にはっきりと浮かび上がっていた。  
 
昔から、自分の気持ちを人に伝えるのが苦手だった。  
特に、相手を『好きだ』と思うその感情は、気がつけばいつも彼女を、三珠真夜を暴走させていた。  
殴って、叩いて、火をつけて……。  
何故かこれまでその行為を咎められた事はなかったけれど、好きな誰かを傷つけてしまう矛盾はいつも彼女を悩ませた。  
だけど、この一週間、彼女のそういった行動は、どういうわけか鳴りを潜めていた。  
その事に真夜自身が気付いたのは、いつも馴染みの彼と出会ったからだった。  
「わうっ!!」  
(あ、いつもの……)  
見慣れた顔の犬が真夜の顔を見上げながら、嬉しそうに尻尾を振っていた。  
真夜はこの犬の事が好きだったのだけれど、彼女の愛情表現はいつも斜め上に飛んでいってしまって、  
真夜は犬に出会うために、そのお尻の穴に棒をつっこむという、あんまりな悪戯をしかけてしまっていた。  
だが、今日の真夜は不思議とそんな事をする気になれない。  
(たぶん、先生の事があったからだ……)  
真夜たちによる連続後頭部強打のせいで、望は自分の過去さえ見失ってしまった。  
以来、真夜は事ある毎に暴発してしまう自分の感情と行動を、どこか恐れるようになっていた。  
そもそも、今までの方がおかしかったのだ。  
自分の愛情表現が一つ間違えばどれだけ致命的な結果をもたらすのか、考えればすぐに解る事なのに……  
「くぅん……」  
足元に擦り寄ってきた犬を見て、真夜はしゃがみ込んだ。  
震える手の平で、そっと犬の頭に触れる。  
「わう……」  
犬は気持ち良さそうに目を閉じて、真夜の手の平に撫でられる。  
(こんなに…こんなに簡単な事だったのに……)  
こんな風に望に触れられれば、彼の記憶を捻じ曲げてしまう事などなかった筈なのだ。  
だが、全てはもう遅い。  
ぽろぽろ、ぽろぽろと、真夜の瞳から涙が零れ落ちる。  
後悔と自責と、それでも消えない望への好意と愛情。  
激しい感情は真夜の胸の中を容赦なくかき乱した。  
「わうぅん?」  
突然立ち上がった真夜を、不思議そうに犬が見上げる。  
真夜はセーラー服の袖口でぐしぐしと涙を拭い、そのまま駆け出して行ってしまった。  
その孤独な後姿が道の先に消えるまで、犬は走り去る真夜を見つめ続けていた。  
 
「ところで、調子の方はどうだい?」  
腕のひっかき傷に包帯を巻いてもらっている間、ぼんやりと考え事をしていたあびるは、命のその言葉でハッと我に返った。  
「あ、はい…先生は元気にしてます。………記憶の方は相変わらず、あのままですけど…」  
「違う違う、望のことを聞いたんじゃないよ」  
慌てて答えたあびるに、命は首を横に振って  
「君の調子はどうなんだ?」  
「傷の事なら大丈夫です。慣れてますから。それにラインバックも最近、じゃれつくときの加減をわかってきてくれたみたいだし」  
「そうか。それじゃあ、君のメンタル面についてはどうだい?」  
「えっ……?」  
「元々あまり喋る方じゃないけれど、最近は特に元気がないように見える」  
命の言葉に、あびるはどう答えていいかわからなかった。何故なら、それは彼女自身が自覚していた事でもあったからだ。  
「君達五人が望と生活を始めたのは、記憶の混乱が起こっている望になるべくショックを与えないように、現実に引き戻してやるためだった」  
「はい……」  
「だけど、今では君の方が憔悴しているように見える。望との生活が君たちの負担になっているようなら、別の手段を考えるべきだ」  
あびるの瞳を覗き込む命の表情は真剣そのものだった。  
だからなのだろう。あびるはポツリポツリと、内心に秘めていた思いを口にし始めた。  
「……それも、ちょっと違うんです」  
「違う、というと?」  
「苦しいんです。先生やみんなとの生活が上手くいけばいくほど、なんだか逆に本当の先生から遠ざかってるみたいに感じられて……」  
あびる達の今の生活は、望に生じた記憶の錯誤が前提にあるものだ。これは本当の、本物の先生の気持ちではない。  
それを理解しながら現在の生活を続ける事は、あびるの心に深い葛藤を生み出してしまった。  
現在の望のその心の奥にあるのは、自分達が原因で作り上げられた偽の記憶なのだ。  
ならば、望が見せてくれる思いやりも、同じく偽物と言っても過言ではないのではないか。  
「先生が優しい言葉をかけてくれる度に、笑顔を見せてくれる度に、すごく嬉しくなるんです。  
でも、それが本物じゃないって本当はわかってる。だから、私、ときどき自分の気持ちがわからなくなってしまいそうで……」  
言いながら、あびるが浮かべた苦笑いは、とても寂しげで、この少女が今どれだけ精神的に追い詰められているかを命に教えてくれた。  
 
「やはり、現在のままの状況が続くのは良くないようだな。他の娘達も同じような状態じゃないのかい?」  
「でも、私たちがいなくなったら、先生は……」  
あびるの脳裏に、記憶を否定されたときの望の怯えた表情が蘇る。  
「先生を見捨てるわけにはいきません」  
「だからといって、これ以上君達が傷ついていい理由にはならない。近いうちに望にも話して、治療方針を大幅に変えよう」  
あびるにはもう何も反論できなかった。  
確かに、彼女自身を含めた少女達の心は、一見平静を保ちながらも、実は限界ギリギリにまで達しようとしていた。  
あの時、望に手を差し伸べた事が正解だったのか、それも今は解らない。  
ただ、自分達にもう望を助ける力がないというのなら、素直にそれを受け入れるしかないのではないか。  
あびるはぼんやりとそう思った。  
「とりあえず、今日話した件についてはしばらくは内密にしよう。だけど、いずれ準備が整ったときには……」  
「はい。わかってます……」  
一礼して、あびるは診察室を出て、糸色医院を後にした。  
無意識に踏み出した足の向かう先が望達の待つ学校とは反対方向である事に、彼女自身、気付いてはいなかった。  
 
「全く、命兄さん、結局具体的なアドバイスをくれないんですから……」  
ブツブツと呟きながら、糸色医院から望が帰って来た頃には既に時間は夕方の六時を過ぎようとしていた。  
命の対応に文句を言っていた望だったが、どうにも気がかりな事が一つだけあった。  
「それに、妻達をちゃんと気遣えって、一体どういう意味なんでしょうか?」  
妙に真剣な表情で命が言った台詞を、望はもう何度も頭の中で反復していた。  
「確かに、このまま私が仕事に復帰できないと、彼女達も不安でしょうけど……」  
訳もわからず、その事について考え続けていた望だったが、ふいに昨夜の記憶が蘇った。  
『ごめん…先生…ごめんなさい……』  
ぽろぽろと涙をこぼしながら、望に謝っていた霧の顔。  
どうして彼女が自分を責めるのか、何か頭の怪我の一件以外にも理由があるように感じたのだが、  
それが具体的には何であるのか、今の望には全く見当もつかない。  
だが、それと同じように、他の四人の妻達も何がしかの悩みを抱えているのだとしたら……。  
「まさか……でも、私の事がやっぱり彼女達の負担になっていたんでしょうか……」  
考え込みながら歩いている内に、気がつけば望は宿直室の前まで辿り着いていた。  
「とりあえず、みんなからじっくり話を聞いてみなければ……」  
呟きながら、扉を開いた望はその向こうの光景に思わず息を呑んだ。  
「えっ……!?」  
無人の宿直室。  
差し込む西日に照らされた部屋の中には人っ子一人いない。  
「おや、お帰りになられましたか?」  
と、その時、背後から聞こえた、耳慣れない声に望は振り返った。  
「あ、あなたは誰です?関係者以外が校内に入る事は…」  
「おや、小森さんの方からお聞きになっていませんか?私、全座連から派遣されたものです」  
まだ10代の半ばにも達していないのではないだろうか?  
声の主の少年は大人びた喋り方とは裏腹に、背も低く、ゆったりとした着物を着たその姿はまさに座敷童そのものだった。  
「全座連から?一体、どうして?」  
「本当に何もお聞きになっていないんですね。実は小森さんがこちらの学校から出るという事で、補充要員の要請がありまして」  
「そんな…霧が……っ!!?」  
望はその言葉に愕然とする。  
昨日、彼女が見せた涙と謝罪の言葉、あれにはやはり何か言い知れぬ事情があったのだ。  
「霧……いったい、どうして?」  
訳もわからず、頭をかかえる望は、ふとちゃぶ台の上に置かれた紙の存在に気付く。  
そこに書かれていたのは  
『ごめんなさい。突然ですが、この家を出て行こうと思います。  
先生をこんな風にしてしまった私が、平気な顔で先生と一緒に暮らすなんてやっぱり許されないと思うのです。  
多分、先生は私の事、心配するよね。  
でも、どうか気に病まないで。全ては、私の仕出かした事なのだから……。  
ごめんなさい。本当に、本当の本当に、ごめんなさい。    
                                    小森 霧』  
「そんな…霧……」  
震える手で手紙を持ったまま、望は呟いた。  
 
そして、気付く。  
いつもなら、この時間、この部屋には共に暮らす少女達の姿がある筈なのに……。  
(まさか、みんなまで……)  
最悪の可能性を想像して、望の顔が青ざめていく。  
「まといっ!まといっ!!いないのですか、まといっ!!?」  
藁にもすがる気持ちで、いつも自分のそばから離れなかった筈の少女の名を叫ぶが、返事は全く返ってこない。  
たった一人ぼっち、宿直室に残された望は、ただその場に立ち尽くしている事しかできなかった。  
 
それから二時間以上が経過しただろうか?  
霧は線路沿いの道を当ても無く、一人歩いていた。  
「先生、今頃どうしてるかな………?」  
昨夜、涙を流す自分に、望が優しく頬を撫でてくれた時の事がありありと思い出される。  
それでも行かなければならないと、霧は思っていた。  
今の彼女にとって、自分が望の近くにいる事、それ自体が罪悪なのだ。  
遠くへ。  
少しでも、望から離れた場所へ。  
ただそれだけを考えて、霧は歩を進める。  
普段、部屋の中に引きこもっているせいで、運動不足の足はすぐに悲鳴を上げたが、彼女は少しも気にしなかった。  
ただ、時折零れる涙が視界を滲ませて、前が見えなくなってしまうのだけは困りものだったけれど。  
「ごめん…ごめんね、先生…勝手に出て行って心配してるよね?怒ってるよね?…でも、だけど、私……」  
離れれば離れるほど、強くこみ上げてくる望への想い。  
しかし、だからこそ、霧は望の元を離れなければならないのだ。  
その想いが結局は、望から正しい過去と自由な意思を奪い去ってしまったのだから。  
やがて、霧の進む道の先に駅が見えてきた。  
霧はジャージのポケットから財布を取り出し、いくら入っているか金額を確認する。  
「やっぱり、そんなに余裕はないな。慌てて飛び出したから、あんまりお金持って来れなかったし……」  
このお金で買える限界ギリギリの額の切符を買って、どこか遠くへ行ってしまうのだ。  
学校付近の駅を使わなかったのは、少しでも自分の足取りを誤魔化すため。  
列車で行けるところまで行ったら、降りた場所からまた歩き続けて、辿り着いた街で何か仕事を見つけて暮らそう。  
引きこもりである自分にどこまで勤まるかはわからないけれど、ダメだったのならその時に考えればいい。  
駅舎の中に一歩足を踏み入れると、行き交う人の波が霧を圧倒した。  
だけど、この人波にまぎれてしまえば、もうこんな自分の事なんて誰も目に留めはしないだろう。  
電光掲示板で次の列車の時刻を確認し、財布の中身をほとんどひっくり返して切符の購入に宛てた。  
改札をくぐり、人がごった返すホームで列車を待つ。  
時間はもう残り少ない。  
あと少しで、先生とも本当にお別れだ。  
線路のずっと向こうに先頭車両のライトが見えて、こちらに向かってどんどん近付いてくる。  
やがて、ホームに滑り込んできた列車はゆっくりと停まり、霧の目の前で自動扉が開いていた。  
さあ行こう。  
このまま、行った事も無い遠い場所で、先生が忘れてくれるまでひっそりと過ごすのだ。  
きっと、先生は悲しむだろうけど、大丈夫、今の先生にはみんながいてくれる。  
だけど、自分だけは。  
全ての発端を作ってしまった自分だけは、先生の所にいるわけにはいかない。  
霧はホームに並ぶ人波に押されるように、列車に乗り込むべく一歩を踏み出した。  
そんな時である。  
「霧っっっっ!!!!!」  
聞きなれたあの声が乗客たちでごった返すホームのざわめきさえ吹き飛ばして、彼女の耳へと届いた。  
「せん…せい……?」  
振り返れば、改札口の辺りからこちらに向かって走ってくる望の姿が見えた。  
同時に彼女の胸にこみ上げてきたのは早く行かなければという焦りと、罪悪感さえ跳ね除けて湧き上がってくる言いようの無い嬉しさ。  
二つの感情の狭間で揺れ動く霧の心が、その足をしばしの間止めさせた。  
そうだ。  
いつだって、恋焦がれてきたのだ。  
先生の傍から離れるなんて、本当は考えるだけでも嫌な筈なのだ。  
「霧っ!待ってくださいっ!!霧っっっ!!!!」  
 
人ごみを掻き分けて、声が近付いてくる。  
ダメだ。  
行かなければ。  
そう思っている筈なのに、霧の足は地面に貼り付けられたように動いてくれない。  
それで、彼女は改めて悟った。  
望の事が好きだと、ずっと思ってきた。  
自分の中にあるその想いの強さを自覚しているつもりでいた。  
ああ、だけれども、それは違ったのだ。  
今だからこそ解る。  
自分はこんなにも望の存在を必要としているのだと……。  
「霧っっっ!!!!」  
「先生っ!!!」  
振り返り、望に向かって伸ばした手の平を包み込んだぬくもりは、霧にとって何にも代え難いほどに愛おしいものに思えた。  
 
望から差し伸べられた手を取り、彼の元に戻る事を決意した霧。  
その後、彼女は望から予想もしていなかった現在の状況について聞かされた。  
「とにかく、宿直室にみんな戻っていないんです。倫に協力してもらって、目下捜索中ですが……」  
「わかったよ、先生。みんなを連れ戻そう!!」  
望の叫びを聞き、自分の中の強い想いに気付いた彼女の答えは決まっていた。  
 
それから、望と霧は、倫からもたらされる情報を元に街中を駆け巡った。  
 
「真夜っ!!」  
「真夜ちゃんっ!!!」  
「…………!?」  
暗い路地裏に一人うずくまっていた真夜の元に駆けつけ、  
 
「ラインバック…今夜はちょっと場所借りるね……」  
「グルゥ……」  
「あびるっ!!やっぱり、ここだったんですね!!」  
「せ、先生……!?」  
ラインバックの飼育小屋の壁に寄りかかって膝を抱えていたあびるを見つけ出し、  
 
「ちょっと、寂しいわね。……でも、これで良かったのよね…」  
「良くなんてありませんよ、木津さんっ!!」  
「せん…せい?」  
ほとんど街灯もない林の中の道を俯いて歩いていた千里の肩をそっと抱きしめた。  
 
そして、最後の一人……  
 
とある駅の近く、長距離バスの発着場にまといは立っていた。  
いつもの袴姿ではなく、ごく普通の洋服に袖を通しているのは、望の元を離れる上での彼女なりのけじめなのだろう。  
「こういうのを着るのも、ずいぶん久しぶりだな……」  
思えば、望と出会い、彼に恋心を抱くようになってから随分と時間が経過してしまった。  
何かと移り気で好きな人がころころと変わってしまう自分がこんなにも長い間、一人の人を好きでいられた事自体、何か不思議な気分だった。  
「そっか、先生はいつもちゃんと私の事、見ててくれたから……」  
今まで、まといが好きになった相手は、いつもその執拗なまでのアプローチに辟易して、彼女の事を疎んじるようになった。  
だけど、望はまといのストーカー行為に迷惑顔を見せたりはしても、彼女を殊更に遠ざけようとしたりはしなかった。  
呼びかければ必ず帰ってきた『常月さん』という優しい声が、今もまといの耳に残っている。  
きっと、だからこそ、今まで好きになった誰よりも望の事を愛おしく思えたのだろう。  
 
「でも、やっぱり、私は先生と一緒にいちゃいけない……」  
彼女は知ってしまった。  
望が負傷し、正しい記憶を失ってしまったこの時でさえ、他の女性に嫉妬してしまう自分の心の凄まじさを。  
それは、普段ならどうという事も無い心の動きだった筈だ。  
想い人に近付く者があれば、それを妬んでしまうのは仕方のない事だろう。  
だけど、まといは、望の心と体を何よりも気遣うべき時に、そんな感情を抱いた自分が許せなかった。  
そして、自分では抑えられないこの強い感情の波は、きっといつか望を傷つけてしまうだろうと、そう考えたのだ。  
まといは手の平の上の、バスのチケットに視線を落とす。  
とりあえず、北に行こうと考えていた。  
これからの季節、日一日と増していく寒さが、望に向けられた想いをいくばくかでも鎮めてくれるのではないかと考えたからだ。  
ひゅうん。  
通り抜けた夜風の意外なほどの冷たさに、僅かに体を震わせながら、まといが呟く。  
「寒い……つい一月前はあんなに暑かったのに、もう少し、厚着して来れば良かったかな……」  
「それなら、これからみんなで銭湯にでも行きませんか?」  
「え……っ?」  
ふわっ、と肩にかけられた外套のぬくもりと、忘れる筈もない愛しい人の声。  
信じられないような気持ちで振り返ったまといの後ろに、彼はいた。  
「随分探しましたよ、まとい……」  
優しく微笑む望の背後には、霧が、真夜が、あびるが、千里がいた。  
「先生、ダメですっ!…私は先生の周りにいちゃいけないんです……っ!!」  
「何を言ってるんですかっ!!」  
イヤイヤと首を振り、泣きじゃくるまとい。  
その冷え切った手の平を、望の手のぬくもりが包み込む。  
「本当の事を言うと、目を覚ましてからずっと不安で仕方ありませんでした。  
私の記憶にはまだ欠落している箇所や、矛盾している部分がいくつもありましたから……」  
「先生……」  
「でも、一つだけ確かに覚えている事があったんです。………貴女達は私にとって、かけがえのない、大事な存在であると」  
それは、重大で致命的な錯誤だった。  
だけれども、同時にそれは誰も覆すことの出来ない、真実の言葉でもあった。  
彼は間違いなく愛していた。  
2年へ組、絶望教室と呼ばれるその場所に集まった生徒達を心底から大切に思っていた。  
5人の少女達全員と夫婦であるという、とんでもない記憶の混乱の根っこには、動かしようの無いこの真実が横たわっていた。  
刷り込まれた偽の記憶に対して、望の心の中に存在し続けていたその気持ちが強い背骨を与えたのだ。  
まといも、望の背後に控えた霧も、千里も、あびるも、真夜もようやくそれを悟った。  
「私には、貴女が、貴女達が必要なんです……っ!!!」  
確かに全てが偽物だったかもしれない。  
だが、望のこの言葉、この気持ちに偽りはないのだ。  
徒に自分を責める必要も、形の無い不安に怯える必要も最初から無かったのだ。  
理屈ではない。  
望は彼女達を心の底から必要としていたのだ。  
「先生っ!!私…っ!私……っ!!!」  
涙をこぼしながら縋り付いて来たまといの体を、望が抱きとめる。  
そして、霧も、千里も、あびるも、真夜も、同じように望にそっと抱きついた。  
吹き抜ける秋の冷たい夜風の中でも、寄り添い合った六人の周りの空気だけは暖かだった。  
 
その後、六人は宿直室に戻った。  
残念ながら、その頃には銭湯の営業時間をとっくに通り越しており、約束通りの銭湯行きは無理になってしまった。  
「仕方ないですが……いや、やっぱり残念ですね…」  
「家がいいよ」  
そう返した霧に、望は苦笑で答えるしかなかった。  
霧の代理の座敷童の少年は皆と揃って戻ってきた彼女を見ると、どこか安心したように微笑み、引き止める望達に一礼して去って行った。  
その後、望達は並べた布団に今日一日で疲れ切った体を横たえ、穏やかな眠りについた。  
だが、霧だけは、駅のホームで望に手を握られたときの感触が残っているような気がして、何となく寝付かれなかった。  
 
『私には、貴女が、貴女達が必要なんです……っ!!!』  
偽りの記憶の中にあって、唯一変わらなかった望の想い。  
それは、いつか恋人として一対一で望と結ばれたいと願う、霧の想いをは少し違うものだけれど……。  
「そっか…先生の中に、私もいるんだ……」  
あの時、望の言葉から感じたその実感は、霧の心の奥にしっかりとしたぬくもりを残した。  
そのまま、どれくらいの時間、暗い天井を眺めて過ごしただろうか?  
「眠れないんですか?」  
不意に隣の布団から、望の声が聞こえた。  
「うん。今日は色々あったから……目が冴えちゃって…」  
「そうですね。全く、大変な一日でしたよ」  
霧は望の布団の方を向いて、薄闇の中でもわかるその微笑みに向けて、しみじみと語りかけた。  
「でも、せんせ……じゃなくて、望さんのお陰で、みんなここに戻って来られた……」  
しかし、一方の望は何やら考えるところがあるらしかった。  
「本当に、そう言えるんでしょうか?」  
「えっ!?」  
「確かに私はあなた達を連れ戻そうと走り回りました。でも、その私自身が全ての原因だったとしたら……」  
その次に望の口から出てきた言葉に、霧は言葉を失った。  
「今日の事でようやく解りました。私の今の記憶は間違ったものなんですね?」  
「………せ、先生!?」  
「いえ、まだ本当の記憶というヤツを取り戻したわけではないんですけど、今日一日のみなさんの様子を見ていたら、何となく解ったんです」  
目覚めてから一週間、五人の少女達と共に過ごす生活の中で薄っすらと感じていた違和感。  
それが、何かから逃げ出すように望の元を去っていった彼女達の姿と重なったとき、突然に望は気付いた。  
彼女達の心を追い詰めてしまったのは、彼自身の中にある大きな矛盾である事に。  
その矛盾を取り繕おうとした事が、結果として少女達の心を疲弊させてしまったのだと、彼は理解したのだ。  
「結局のところ、私がみんなを苦しませてしまったも同然なんです。だから……」  
呟いた望の言葉には、強い後悔の念が滲みでていた。  
しかし……。  
「先生、違うよ………」  
暗い表情を浮かべる望の頬に、霧はそっと自分の手の平を伸ばした。  
そして、あの駅のホームで望の手から伝わったのと同じぬくもりが、今度は霧から望へと伝わっていく。  
「みんな、先生と同じだったんだよ……」  
「私と、同じ……?」  
「みんな、先生を大切に思ってた。みんな、先生の事を必要としてた。それだけなんだよ……」  
「霧……」  
霧は思う。  
結局のところ、望の記憶の混乱はきっかけに過ぎなかった。  
それが、五人の少女達が抱いていた望への強い思いを、思いがけない形で解き放ってしまっただけの事。  
それ以上でもそれ以下でもあり得ないのだと。  
「だから、もう少しだけ……先生……」  
「そうですね……きっと、そうなんでしょうね」  
望の手の平が、彼の頬に触れる霧の手の平に覆い被さる。  
指を絡み合わせ、手をつないだ二人の意識は、そのままゆっくりと安らかな夢の中に沈んでいった。  
 

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