港から学校へ続く道のりを望はトボトボと歩いていた。  
彼には今日とある離島への出張があったにも関わらず、島に向かう船に乗りそこなってしまったのである。  
「仕方ありませんよ、先生。いくら仕事でも命には代えられませんから」  
「そうは言いますけどねぇ……」  
背後を歩くまといの励ましの言葉を聞いても、望の表情は暗いままだった。  
望が船に乗り損なったのには理由があった。  
彼のクラスの生徒の一人、風浦可符香曰く『0.001秒のチキ……もとい天使』と名付けられた望の驚異的な危機回避能力。  
何故だか望には可符香そっくりの天使の姿に見えるソレが彼を船に乗らせなかったのである。  
ほとんど予言じみたその能力が警告した通り、望の目の前で出航した船はものの見事に沈没してしまった。  
まあ、その事自体には何の問題もないのだが……。  
「そもそも、私が出張を度忘れせずに、もっと早い船便に乗ってれば島にも辿り着けた筈なんですよね……」  
その辺りに関しては言い逃れのしようもなく、望の落ち度であると言えた。  
望は自分の右隣、少し宙に浮かんで彼に寄り添う『0.001秒の天使』に対して恨めしげに話しかける。  
「だいたい、あんな事になるって解ってるなら、もっと早くあなたが教えてくれても良かったじゃないですか……」  
「そう言われても、私は危険回避が専門ですし、流石にあんまり先の事はわかりませんから」  
答える天使はあくまでマイペース。  
むしろ望に迫る危険を回避出来たので少し得意げなくらいである。  
しっかり身の危険を防いでもらった以上、文句を言う事も出来ず望は黙り込む。  
「あの、先生、誰とお話になってるんですか?」  
望の深層心理に潜む存在である『0,001秒の天使』はまといには見えない。  
天使と望の会話に置いてけぼりのまといはふくれっ面で望の横顔を睨む。  
と、その時だった。  
「……あっ!?」  
「……んっ!?」  
天使と望は同時に背後を振り向いた。  
バロロロロロロロロロロロッッ!!!!!  
轟くエンジンの爆音。  
キキ――――――ッッッ!!!!  
アスファルトとこすれ合うタイヤの摩擦音。  
天使の力を借りるまでもなく察知できる、迫り来る危険の予感。  
案の定、振り返った望の視線の先、今しがた望達が通り過ぎた交差点を曲がって、恐ろしいほどのスピードでこちらに走ってくる一台の車が見えた。  
フロントガラス越しに見える運転手の青年の顔には、明らかな焦りと恐怖の表情。  
後輪の片方を歩道のブロックにぶつけ、完全にコントロールを失った自動車は反対車線を横切って、そのまま望達の方へ突っ込んで来る。  
本来なら、一目散にその場を逃げ出すべき状況だったが、望にはそれが出来なかった。  
何故ならば……  
「えっ!?…く、車が……っ!!?」  
望と見えない天使の会話に注目していたまといは、車が間近に迫るまでその接近に気付いていなかったのだ。  
「常月さんっ!!!!」  
望はなりふり構わず、体当たりでまといを車の進路上から突き飛ばした。  
だが、まといの事で頭が一杯になっていた望はその場から自分も逃げ出すことが出来なかった。  
「あ………」  
全ての風景がスローモーションになっていく中、望は目の前の自動車を呆然と見つめていた。  
視界の隅で、『0,001秒の天使』が青ざめた顔でこちらに手を伸ばしているのが見えた。  
(そういえば、物理的に回避不可能な危険には天使も無力なんでしたっけ……)  
そして、次の瞬間……  
「先生――――っ!!!!!」  
まといの悲鳴が響き渡る中、望の意識はホワイトアウトしていった。  
 
開け放たれた窓から吹き込む爽やかな秋の風がカーテンを揺らしていた。  
既に時刻は午後の2時ごろ、この秋一番の陽気に恵まれたおかげか部屋の中は温かい。  
そんな心地良い空気の中、薄っすらと瞼を開いた望の視界に真っ先に映ったのは、見慣れた兄の顔だった。  
「ああ、望、気が付いたんだなっ!!」  
「…はい……起き抜けに見たのが角メガネの顔だってのがアレですが、目は覚めました…」  
ペチン!!  
目覚めていきなりの憎まれ口に、命は望の頭をクリップボードで軽くはたいた。  
「うぅ…怪我人にひどいじゃないですか……」  
「自業自得だ。ていうか、お前、自分が怪我してここに運び込まれた事は理解できてるんだな?」  
「いや、そういう訳でもないんですが……気がついたら全身ボロボロで病室にいるなんてのは、日常茶飯事ですから……」  
「なるほど、お前も苦労が絶えない訳だ……」  
そこでふうっとため息をもらし、命は優しげに望に微笑んだ。  
「……な、なんですか、命兄さん?…なんか気持ち悪いですね」  
「気持ち悪いとはなんだ。これでもかなり心配したんだぞ。お前が車にはねられたって聞いた時は……」  
「あ………そう、でしたね……」  
命の言葉で望はようやく思い出す。  
自分は暴走した自動車からまといを庇った為に逃げ遅れてしまったのだ。  
だが……  
(あの時、車は確実に私との正面衝突コースに入って、逃げる余裕もなかった筈なのに……)  
望の瞼の裏には、目の前ほんの2、3メートルまで迫った自動車の姿がその細部に至るまでしっかりと焼きついている。  
毎回、絶望少女達に好きなように遊ばれ、度々暴力を振るわれて否応もなくタフになった望だったが、  
車に真正面からぶつけられ、押し潰されては流石に生きていられる筈がない。  
「兄さん、私にぶつかってきた車はどうなったんですか?」  
望が質問すると、命は少し暗い表情になり  
「即死……だったそうだ。相当スピードを出していたからな。  
突っ込まれた酒屋はたまたま休業中で、ご主人は奥の方にいたんで無事だったそうだが、店は半壊状態だ……」  
「それなら、どうして私は……」  
望は納得できなかった。  
確かに今の望の体は怪我だらけで、全身が痛みに悲鳴を上げていたが、望の記憶が正しければこんな程度で済む事故ではなかった筈なのだ。  
思案顔の望に、命も少し困ったような顔で口を開く。  
「何だか知らないが、お前避けたらしいぞ」  
「へ?」  
「いや、正確には避け切れなかったんだがな……お前、あの時首吊り用のロープを持ってただろ」  
命は、事故の一部始終を見ていたまといからその様子を聞いたそうだ。  
望は迫る車を前に、淀みのない動作でロープを取り出し、まるでカウボーイの投げ縄のようにその先端の輪っかを近くに立っていた街灯に引っ掛けた。  
そして凄まじい力でロープを引っ張りながら、背後の酒屋のシャッターを蹴って宙に跳んだのだという。  
「火事場の馬鹿力というヤツなんだろうな。前後左右逃げ場のないお前はロープをたよりに上へ逃げたんだ」  
それでも、完全に車を回避し切る事は不可能だった。  
宙に逃げるすれ違いざまに、望は車に全身のあちこちをぶつけられたという。  
車体前方に両脚をぶつけられ、ボンネットの上を転がってフロントガラスにぶつかりアバラや腕の骨を折られた。  
それでも、望は致命的だった筈の自動車衝突の衝撃をほとんど逃がし、車と酒屋の間でサンドイッチになる事を免れた。  
「ほら、お前の右の手の平、包帯が巻いてあるだろ?とんでもない握力でロープを掴んでいたらしいな、手の平の皮が擦り切れてズルズルになっていたぞ」  
言われて、望は初めて自分の右手をまじまじと眺めた。  
「というわけで、お前は何とか生還できた、という事みたいだな。正直、私も信じられないが……」  
「ええ、多分事実なんでしょうね……」  
包帯に隠された傷からじんじんと伝わってくる熱を帯びた痛みが、命の話が事実であると裏付けているように感じられた。  
事故の説明を一通り終えた命は手元のクリップボードに視線を落として、望に怪我の状態を告げる。  
「ちなみに私の見立てでは、怪我は全治二ヶ月ぐらいだから……そうだな、三日もあれば退院だろう」  
「ちょ…っ!?何でですか!!どこをどうやったらそんな計算に……っ!!!」  
「だってお前、こないだもクラスの女子生徒にボコボコにされて全治三週間の大怪我を負ってたけど、翌日には完全復活してたじゃないか」  
「う……そういえば…」  
「正直、最近のお前は景兄さんとは別の方向で人間離れしてるみたいで、見ていてちょっと怖いぞ……」  
確かに2のへの担任職は修羅場の連続である。  
ちょっとやそっとでダウンするようでは勤まらないのだ。  
 
何とも言いがたい表情で苦笑いする望に、最後に命はこう付け加えた。  
「まあ、早く教室に戻って無事な姿を見せてやる事だな。かなり心配してたぞ、お前の生徒達」  
そう言って病室を立ち去る兄の背中に何とも言えない照れくささを感じつつも、望は穏やかな笑顔で見送ったのだった。  
 
翌日も、望は糸色医院のベッドの上で目を覚ました。  
トイレに行こうと起き上がり、スリッパを履いた所でしばし戦慄。  
「私……確か両足骨折してましたよね?」  
昨日の命の言葉の通り人間離れしていく自分を実感して、望はブルリと全身を震わせる。  
用を足して部屋に戻ってきた望は昨夜からずっと考えていた事、事故当時の記憶を少しずつ思い出そうとしていた。  
徐々に浮かび上がってくるパズルのピースのような記憶の断片から考える限り、昨日命に伝えられた話は真実らしい。  
「これも、例の『天使』の仕業なんでしょうかね……」  
あの『0,001秒の天使』は可符香曰く望の「生き意地の汚さ」、つまるところ彼の生存本能のようなものから生み出されたのだという。  
倒れてくる黒板や窓から飛び込んできたボールを最小限の動きでかわし、ついには船の沈没まで予言した天使は、  
物理的に回避不可能な事故に対して、ダメージを物理的最小限に抑えるよう働いたのだ。  
「生き意地汚いってのはちょっと失礼ですが、今回ばかりは天使に感謝ですね……」  
今、望の周りには事故直前まで見えていた例の天使の姿はない。  
おそらく、現在の望の傍には大きな危険はないという事なのだろう。  
こうして気分が落ち着いてくると、望の中で今度は別の疑問が頭をもたげてくる。  
それは、あの天使が現れた時にはあえて考えないようにしていた事……。  
「あの天使の姿……あれって、どう見ても風浦さんですよね?」  
もし、あの時の望と視覚を共有できる人間がいたら、間違いなく望と同じ感想を抱くだろう。  
髪の色と服装と背中の翼を除けば、独特の雰囲気まで含めて、あの天使は風浦可符香と瓜二つだった。  
さらに厄介なのは、あれが望の深層心理が生み出した存在だという事で……  
「あうう……やっぱりこれは、私が風浦さんの事を…て、て、天使だと思ってるとかそういう事なんでしょうか?」  
それはかなり恥ずかしい推論だった。  
頭の中では、色々と反論を組み立ててみるのだが、実際に見てしまった事実に勝る証拠はなかった。  
しかも、正直、天使の可符香が自分の中にいる事がとても嬉しい自分がいたりして………。  
「いや、でも風浦さんは天使っていうよりは…なんというか小悪魔的な……って私は何を言って!!?」  
考えれば考えるほど、混乱していく望の頭脳。  
ウンウンと唸りながら頭を抱える望だったが、ふとその脳裏に何か奇妙なビジョンがよぎった。  
(何ですか、これは……?)  
白い闇。  
目前に迫った車を前にした望の思考がホワイトアウトした時、視界を覆ったまばゆい光。  
同時に、望はその時の自分の心の動きを思い出す。  
迫り来る自動車に対して、何とか助かろうと一瞬の間に凄まじい勢いで思考を回転させていた望の意識がゆっくりと停止していく、そんな感覚。  
(これは……諦めだ……)  
あの時、望はギリギリのところで、助かろうとする心と体の働きの全てを放棄しようとしていたのだ。  
彼はそれを表現する、ピッタリの言葉を知っている。  
(……0,001秒の悪魔……)  
自分の中には、生き意地の汚さ・生存本能から生まれた『天使』ぐらいしか宿っていないのではなかったのか?  
疑問に駆られる望の頭の中で、真っ白なビジョンは徐々に変化をしていく。  
光の向こうに、薄っすらと何かのシルエットが見える。  
それは望に向かって必死に手を差し伸べようとしている。  
(…何ですか、これは?…一体、誰なんですか!!?)  
そして光の中のシルエットが明確な形を結ぼうとした瞬間……  
「先生、失礼しますっ!!!」  
「はいっ?」  
飛び込んできた耳慣れた声に顔を上げると、病室の入り口には黄色いクロスの髪留めをしたセーラー服の少女の姿が……。  
思わず、望は口走った。  
「天使……?」  
「えっ!?」  
きょとんとする少女、風浦可符香の背後から、彼女に続いて部屋になだれ込んで来た2のへの面々が、  
望にその発言の真意を吐き出させようとし始めるのは、この後僅か三十秒後の事である。  
 
『天使発言』についての2のへの生徒達の詰問から望が何とか逃れる事が出来たのは、遅れてやって来た今回の事故のもう一人の当事者のお陰だった。  
「せ…んせ…ごめ…ごめんなさ…、わ、わ、わたしのせいで…わたしなんかのせいで……」  
「ほら、もう泣かなくていいですから。あれは私が仕出かした事であって、常月さんが自分を責める謂れなんて無いんですから……」  
「でも……でも………っ!!!」  
いつもの勢いをすっかり無くし泣きじゃくるまといを宥めながら、望は改めて今ここに自分の命がある事に感謝した。  
もし自分が命を落としていれば、眼前でそれを見せ付けられたこの少女の心にどれだけの傷を残した事だろう。  
「せんせい…せんせい……ごめんなさい…ごめんなさい……」  
ギシギシと軋む腕を持ち上げて、まといの頭をそっと撫でる。  
望にはそれ以上の事は出来そうになかった。  
自分のせいで大切な人が死んでいたかもしれない、その事実の圧倒的な重さがもたらす痛みを消す術を望は知らなかった。  
だが……  
「せんせ…ひっく…ごめんなさ…………ぎゃんっ!!!?」  
痛烈なチョップの一撃がまといの声を断ち切った。  
「何をするのよ……っ!!」  
涙声で叫びながら、振り返ったまといの視線の先にいたのは小森霧だった。  
今回、彼女は全座連に代理を頼んで、望の見舞いにやって来ていた。  
「ちょっと、いきなりどういうつもりよ……っ!!!」  
「涙、鼻水……顔、ぐしゃぐしゃで汚いよ…」  
「汚いって何よっ!!!!」  
「汚いから汚いって言ってるの……ほら」  
霧はジャージのポケットからハンカチを取り出すと、まといの顔を半ば強引にぐしぐしと拭った。  
「だから、さっきから何するのよっ!!!」  
「きちんと顔きれいにして、ほら、先生に言う事があるでしょ?」  
「言う事って、だから私は……先生を死なせそうになった事を……」  
「そうじゃなくて、謝るより先に言わなきゃいけない事、わからないの?」  
目元に涙を浮かべて、しばし霧とにらみ合いを続けていたまといだったが、その言葉を聞いてハッと何かを悟ったような表情を浮かべた。  
そして、ゆっくりと再び望に向き合ったまといは、着物の袖で涙を拭ってぺこりと頭を下げて、言った。  
「先生、ありがとうございます……」  
『まといのせいで』望は事故に遭い、もしかしたら死んでいたかもしれない。  
それも一つの見方ではある。  
だが、今回の事故を解釈する視点は当然それだけではない。  
『まといのために』  
今回の事故における望の行動の起点はそこにあった。  
それはもしかしたら、望の死というまといが最も恐れる事態に帰結したかもしれないけれど、少なくともあの時望を動かした意志をないがしろにするのは違うはずだ。  
「どういたしまして……こちらこそ、心配かけてすみませんでした…」  
「先生……」  
望を見つめるまといの顔には、いつの間にか少しだけ笑顔が戻っていた。  
そして入れ替わりに、今度は霧が望の傍らに座り、彼の耳元にそっと小声で囁いた。  
「私からも、ありがとうね、先生。まといちゃんの事も、それから、ちゃんと生きて帰ってきてくれた事も……」  
「なんだかんだでいいコンビですね、あなたと常月さんは……」  
「それは……だって、立場が逆だったら、きっと私もまといちゃんみたいになってたから……」  
照れくさそうに答えた霧の目は少しだけ赤く、頬を伝い落ちた雫の後がかすかに残っていた。  
それからも続いた2のへの面々によるお見舞いは、彼ららしい容赦のないものだった。  
「先生、いくゾ〜ッ!!!」  
「うわああっ!!関内くんっ!!やめなさああああ……ぐはぁっ!!!?」  
マリアのフライングクロスチョップをまともに喰らって悶絶しながら、  
(さっきの感触や痛みからして、折れてた筈のアバラ、もう繋がってる!!?私の体はどうなってるんですかっ!!?)  
自らの肉体の神秘に戦慄する望。  
さらに、包帯ぐるぐる巻きの望の姿を見て、あびるがポツリと呟いた  
「先生、お揃いですね……」  
の一言から始まった絶望少女達の争いに揉みくちゃにされ、望はすっかり疲れ切ってしまった。  
望は生きも絶え絶えの声で千里に問いかけた。  
「あのぉ、そろそろ閉院の時間なんじゃ……」  
「ああ、それなら絶命先生から許可、もらってますから」  
「へ……!?」  
「好きなだけ病室にいて、好きなだけ先生を玩具にするといいって」  
「あの角眼鏡ぇええええええっ!!!!!!」  
かくして生贄に饗された弟の悲鳴を遠くに聞きながら、診察室の兄は  
「楽しそうだなぁ」  
と鼻歌まじりにカルテの整理を行うのだった。  
 
そして、日もとっぷりと暮れ夜の闇が街を包み始めた頃、ようやく2のへの面々はそれぞれの家路についた。  
ただ一人を除いて………  
「話すのなら、もうちょっとこっちに近付いたらいいんじゃないですか、風浦さん?」  
「えへへ、たしかにそうですね」  
言われて、隣のベッドの端に腰掛けて、静かに望の方を窺っていた可符香は立ち上がり、望のベッド横の丸椅子に腰掛けた。  
「いつもなら、色々とちょっかいを出したり絡んでくるところなのに、今日はやたらと静かでしたね」  
「ああ、それはですね。先生に対する放置プレイですよ」  
「いぃっ!!?」  
先ほどまでとは一転、いつもの快活な笑顔を浮かべて彼女は続ける。  
「真っ先に病室に入ってきたのに、みんなの後ろに下がって話しかけても来ない私………。先生、寂しかったんじゃないですか?」  
「うっ……!!?」  
「チラチラ私の方を何度も見てましたもんね。不安だったんでしょう?」  
「そ、それは……っ!!」  
「どうやら、大成功だったみたいですね。放置プレイ……」  
「うぅ、あなたという人は……どうしてこう…」  
クスクスと笑う彼女に、言葉もない望。  
だけど次の瞬間、可符香の笑い声がフッと途絶えた。  
「あっ……」  
「…どうしてこう、素直じゃないというか、天邪鬼というか……」  
「先生……」  
途絶えた笑いの代わりに彼女の口から漏れたのは微かな驚きと、そして次に心の底から湧き上がる様な安堵の声だった。  
いつの間にやら、膝の上で組まれた彼女の両の手の平の上に、そっと望の右手が重ねられていた。  
「いつもだったらこれくらい気付くでしょうに……どうやら、あなたにもかなり心配をかけたみたいですね……」  
「私は絶命先生から事故の事を知らされて、その時にはもう先生の命に別状はないってわかってましたから、そこまでショックは受けなかったですよ。………でも」  
「でも?」  
可符香はしばしそこで言葉を区切り、慈しむような優しい手つきで望の右手をきゅっと握った。  
「ほら、まといちゃん泣いちゃって凄かったじゃないですか。それを見てたら、今更ちょっと怖くなって来て……先生が死んでたかもしれないんだって……」  
「心配しなくっても、私にはあなたの言う生き意地汚い天使がついてるんですから……」  
なるべく明るい言葉を返そうとした望だったが、俯き押し黙る可符香の表情に言葉を詰まらせる。  
そもそも、『0,001秒の天使』はあくまで物理的に回避可能な危険に対してのみ有効なものである。  
今回はダメージを最小限にする余地があったからこそ、この程度で済んだのだ。  
人は死ぬ。  
たとえ天使が守ってくれようと、唐突に、残酷に、人生はその幕を下ろす。  
望は擦り切れた皮膚が痛むその右手で、可符香の手を握り返す。  
「私はここに居ます。ついこの間も死に掛けて、明日や明後日、この先の未来でどうなってるか分かりませんが、少なくとも今私はここに生きています」  
「はい……」  
「すみません、風浦さん……今の私にはこんなこんな事しか言ってあげられない……」  
「いいですよ。それで十分です……」  
可符香は両手で握った望の右手の平を、そっと胸元に持っていく。  
「私もここにいます。この先どうなるかはわからないけど、今、先生といられる事がとても嬉しいです……」  
そこでようやく、可符香の顔に笑顔が戻った。  
釣られたように、望もにこりと微笑んだ。  
と、その時である。  
(なんですか……これはあの時の…!?)  
目の前で、自分の手をきゅっと握って微笑む少女の姿に、望は強烈な既視感を覚えた。  
(デジャヴ!?……いいや、違う!これはあの時の……)  
望は思い出す。  
迫り来る自動車、白い光の中、諦めに包まれる意識。  
その時、光の向こう側から、こちらに向かって懸命に手を伸ばすシルエットを望は確かに見た。  
それは……  
(風浦さん……いや、あの天使!?)  
望に手を伸ばす天使の顔には、それまでの微笑みはなく、今にも泣き出してしまいそうな必死の表情が浮かんでいた。  
 
小さな手の平をめいっぱいに開いて、天使は望に向かって手を伸ばしていた。  
その姿が、声にならない声が、『悪魔』に捕らわれていた望の心を解放する。  
天使に応えるように、大きく手を伸ばした望は、彼女の手の平をしっかりと掴んだ。  
天使の顔に安堵の表情が浮かび、その頬を一筋の涙が流れ落ちていく。  
そして次の瞬間、白い光と、天使の姿は掻き消え、気が付くと望は右手に掴んだロープを頼りに暴走自動車から逃れようとしていた。  
「先生?どうしたんですか、ボーっとして?」  
「あ…いえ、すみません。ちょっと、事故の時の事で思い出した事があって……別に大した事じゃあないんですけど」  
可符香の言葉で現実に引き戻された望は、たどたどしく彼女に弁解した。  
「ふうん……そうですか」  
望の言葉に対して、可符香は意味ありげな眼差しを投げ掛けて、そう呟いた。  
果たして、この少女はどこまでこちらの考えを呼んでいる事やら。  
望の前に始めて『天使』が出現したとき、何やらと意味ありげな眼差しでこちらを見ていた気がするが、  
もしかして天使が可符香の姿である事など当に見抜いているのだろうか?  
(正直、風浦さんは底が知れないところがありますからね……ありえない話じゃありません…)  
内心の動揺を隠しつつも、とりあえず望は強引に話題を逸らす事にした。  
「そういえば、明日でもう入院最終日なんですよね。全治二ヶ月が三日で完治とか、本当に命兄さんの見立ては当てになるんでしょうか?」  
「でも先生、実際私たちがお見舞いに来た時より確実に動きが良くなってますよ」  
「わ、僅か数時間で……!?私の体、本当にどうなっちゃってるんですか!!?」  
「丈夫で健康なのは良い事ですよ」  
暴力慣れし過ぎの自分の体がだんだん空恐ろしくなってきた望の横で、可符香はニコニコと笑う。  
その後も二人はしばし、他愛の無い雑談を続け、それからついに可符香は病室を後にする事になった。  
「明日もお見舞いに来ていいですか?」  
帰り際、可符香は望に問うた。  
「もちろん、来てもらえると嬉しいですよ」  
望の答えに心底嬉しそうな微笑みを返して、可符香は病室を去っていった。  
彼女が帰ってしまった後も、部屋の中には可符香のぬくもりが残っているようで、それに包まれた望はすやすやと穏やかな眠りにつく事ができた。  
 
翌日、午前中。  
可符香が二度目のお見舞いに来る筈の放課後までの時間、望はある一つの事だけを考えて過ごしていた。  
それは……  
(どうしてあの時、天使は泣いていたんでしょうか?)  
天使が可符香の姿をしていた理由。  
望は最初それを、自分が可符香の中に生きる希望のようなものを見出しているからだと考えていた。  
だが、その解釈は事故の時垣間見た、涙を零し望の手を掴んだ天使の姿と微妙な齟齬があるように感じられた。  
ただ憧れ求める希望の対象が、あんな今にも泣きじゃくりそうな表情を浮かべるだろうか?  
それに、望自身にとっての可符香という存在を考えたとき、単に『希望』という言葉だけでは言い表せない何かがあるような気がするのだ。  
仰向けに寝転がったベッドの上で、時間の経つのも忘れて望は『天使』とそして、風浦可符香の事だけを考え続ける。  
やがて、時計の針が正午を回る頃、思いがけない来客が望の病室にやって来た。  
「お怪我の具合はどうです?糸色先生」  
「智恵先生……来てくださったんですか?」  
「ええ、ちょっとだけですけど、時間が取れましたから。甚六先生も心配していらっしゃいましたよ」  
ベッド横の椅子に腰掛けた智恵は望の怪我の具合について尋ねたり、学校の、特に2のへの様子について話してくれた。  
「常月さんはどうしていますか?」  
それから望は、昨日この病室で泣きじゃくっていたあの少女の事を智恵に尋ねた。  
やはりまだ望に対する罪悪感が拭い切れないのだろう、常に望の傍から離れなかった少女の姿は今ここにはない。  
「元気になった……というわけにはいきませんね、流石に。あの事故からまだ何日も経っていないんですから……」  
「そうですか……」  
無理もない話だった。  
一応、昨日のお見舞いでとりあえずの落ち着きは取り戻しただろうが、そう簡単にあの事故のショックが和らぐ筈もない。  
「ただ、学校を出る前に宿直室を覗いてみたんですけど、常月さんもそこにいたんですよ」  
「彼女が宿直室に…?」  
「ええ、いつものように小森さんと喧嘩をしてた訳じゃないですけど、なんだかあそこにいるのが一番安心できるみたいですね」  
やはり、まといと霧の間には奇妙な友情、もしくは信頼関係があるようだ。  
望の顔にも少しだけホッとした表情が浮かぶ。  
と、そこで望はある事を思い出した。  
「智恵先生、もう一つお聞きしてもいいでしょうか?」  
それは昨日、断片的に頭の中に蘇ってきた事故の瞬間の記憶についての事だった。  
暴走車が目前まで迫った瞬間、望の意識はそこから逃れようとする思考を完全に放棄していた。  
先日、クラスの話題に上った『0,001秒の悪魔』にものの見事に捕らわれていた訳である。  
何とか危うい所で『天使』に救われる形になったわけだが、生き意地汚いとまで言われてしまう自分の心の中にどうして『悪魔』は存在していたのだろうか?  
「それは……そもそも、風浦さんの説ですから、私にははっきりした事は言えないんですけど…」  
望の問いに、智恵は一つ一つ慎重に言葉を選びながら答えていった。  
「自分でも気付かない『無意識下の自己破壊願望』、それを私は『0,001秒の悪魔』と呼びました。  
人間の心は無数の要素が複雑に組み合わさって出来ていて、その中にこの『悪魔』も潜んでいるんです。  
それはどんな人でも例外はありません。糸色先生、あなたも同じなんです」  
「えっ、でも私は……」  
「そう、確かに糸色先生には、深層心理に潜む強烈な生存への欲求……風浦さんが言うところの『0,001秒の天使』がいるんでしょう。  
でも、『天使』の存在はそのまま『悪魔』の存在を否定する事にはなりません。  
生を強く望みながら、同時にどこかに自己の破滅への願望も存在する……  
人間の頭の中にはそれこそ無意識なんていくらでも転がっています。単純に割り切れるものじゃあないんですよ」  
 
なるほど、と望は肯いた。  
『天使』と『悪魔』、『生』と『死』、相反する要素である事から、それらが同時に存在するとは考えてもみなかったが、それは間違いだったようだ。  
望の中にも『悪魔』はいた。ただ、それが『天使』の存在によって覆い隠されていただけの話なのだ。  
「糸色先生の『天使』は普段から自己破壊に向かう『悪魔』を打ち消しています。  
でも、何かの拍子に先生の心に生まれた隙に『悪魔』が入り込んで、破滅へと向かわせる事もある。  
今回のケースでは、たぶん常月さんを助けた事がトリガーになったんじゃないでしょうか?」  
「彼女を車から逃がした事がですか?どうして?」  
「たぶん、常月さんが危ないと気付いたとき、糸色先生の頭の中は彼女を何とか助ける事でいっぱいになっちゃったんじゃないでしょうか。  
だから、突っ込んで来る車の前から彼女を逃がした時、その事に安心してしまって、先生の意識に一瞬の空白が生まれてしまった。  
その0,001秒に『悪魔』が入り込んで、先生の心から目前の危機を逃れようとする意思を奪い去ってしまった……」  
望は事故の時の事を思い出す。  
確かに、こちらに向かって暴走してくる車の存在に気付いていないまといを見たとき、望の頭はその危機感でいっぱいになってしまった。  
何も今回のような極端な事例を出すまでもなく、目下の目標を達成したとき、人間の心にはどうしても弛緩が生まれてしまうものだ。  
望はその隙を『悪魔』に狙われてしまったのだろう。  
「でも、そんな状態の糸色先生の心をもう一度立ち直らせた『天使』って何なんでしょうね……?  
ここまでくると、単に『生き意地汚い』という言葉だけでは、ちょっと説明できそうにありません……」  
「そ、そうですよね……私にも何がどうなっているのやら……あははは……」  
まさか、その『天使』が自分の教え子、風浦可符香に関係していそうだとは、流石に口が裂けても言える訳が無い。  
乾いた笑いでその場を誤魔化そうとする望を、智恵は少しの間怪訝な眼差しで見つめていたが  
「それじゃあ、そろそろ学校に戻らないといけないので……とりあえず、元気そうで安心しました」  
椅子から立ち上がり、望に向かって微笑んで見せた。  
「お見舞い、わざわざありがとうございました。智恵先生…」  
「どういたしまして…次は学校で会いましょう、糸色先生」  
そして、小さく手を振ってから、智恵は病室を立ち去った。  
残された望は先ほどの智恵との会話を思い出しながら、またあの『天使』について考えを巡らす。  
『ここまでくると、単に『生き意地汚い』という言葉だけでは、ちょっと説明できそうにありません……』  
智恵はそう言っていた。  
望も同意見だ。  
そして、望の中に『天使』が生まれた理由……それはあの事故のとき『天使』が見せた泣き出しそうな表情と深く繋がっている。  
今の望にはそう思えて仕方がなかった。  
 
「先生、来ましたよ、お見舞い」  
「待ってましたよ、風浦さん」  
時計が午後の四時を回る頃、約束通り可符香は望の病室にお見舞いにやって来た。  
いつも同じように見える彼女の笑顔が、昨日に比べて少し明るく見えるのは、やはり昨夜の会話が彼女の不安をいくばくかでも取り去ったからなのだろう。  
それからおおよそ30分ほどの間は、可符香が今日クラスであった事を色々と話してくれた。  
どうやら、また千里が暴走して教室が半壊状態になったらしい。  
つまりは……  
「今日も2のへは平和だったって事ですね」  
「はい。平和そのものでした」  
そう言って笑い合う二人は、果たして2のへの凄まじさを自覚しているのかいないのか……。  
「しかし、こっちはずっと退屈でしたからね。智恵先生が来てくれたのと、命兄さんが診察に来たのを除いたらずっと一人きりでしたから」  
可符香の話を聞き終えた望は、今度は自分の今日一日を思い出してみる。  
智恵と命の二人と会話した以外は、延々とベッドの上で例の『天使』について考えていた記憶しかない。  
ぼやくような望の言葉を聞くと、何故か可符香は悪戯っぽく笑って  
「じゃあ、外出てみませんか?」  
「はい?」  
「今からの時間だとちょっと寒いですけど、一日中この部屋に缶詰じゃストレスたまっちゃいますから」  
「一応私入院中ですよ?」  
「大丈夫。復帰直前のリハビリだって考えれば問題ありません」  
「でも、入院患者が勝手に出歩いたりしたら……」  
「その点もオーケーです。実は既に絶命先生の許可を取ってあったりします」  
「あの角眼鏡……また私の見てない所で勝手に……」  
自分の知らない所でポンポンと話を進めていく兄がどうにも憎らしい。(可符香については既にこういう娘だと諦めている)  
確かに外出自体は嬉しくない事もないのだけれど、どうにも納得がいかない。  
ぐぬぬ、と望が歯軋りしていると……  
「おーい、望っ!!」  
唐突に開いた部屋のドアから、当のその人物、命の声が飛び込んできた。  
そして、  
「ここまで回復して風邪でもひかれると大変だからな、着ていけ」  
ぽいっとドア越しに投げ渡されたのは命のコートだった。  
ここまでお膳立てされてしまうと、もはや反抗する気力も湧いてこない。  
可符香に一旦部屋を出てもらい、望はいつもの袴姿に着替え、渡されたコートを肩にひっかける。  
それからこの三日間、ほとんど使わなかった手足を、一箇所一箇所確認するように動かした。  
体のあちこちに痛みは残っているものの、外に出るのに支障は無いところまで回復しているようだ。  
「ほんとに命兄さんの話の通りになってきてるみたいですね……まあ、ギャグ漫画の人は死んでも死なないと言いますし……」  
自分の回復力の異常さ加減にいい加減くらくらしてきた望。  
ともかく靴も履いて準備万端整えた彼は、ドアを開いて病室の外へ  
「お待たせしました、風浦さん」  
「それじゃあ行きましょうか、先生」  
 
糸色医院の入り口扉を通って数日振りに望は街に出た。  
夕暮れ迫る街を吹きぬける風は思いのほか冷たく、望はブルリと体を震わせたが、  
ずっと病室に閉じこもっていた彼にはそれさえもどこか新鮮で心地の良いものに感じられた。  
「どこへ行きたいですか、先生?」  
「あなたの行きたい所へ、ってのはダメですか?」  
「何でも人に任せっ切りにするのは良くないですよ。まあ、先生らしいですけど」  
「私らしいってのはどういう意味ですか……」  
「ほら、何処か思いつく場所ないんですか?」  
「……そうですね、ずっと味気ない病室にいましたから、緑のある公園なんか見てみたいかもしれないです」  
というわけで、近所の公園に向かって望と可符香は歩き出した。  
糸色医院や可符香の家も近くにあるこの一帯の地理は望もよく知っているのだが、何やらご機嫌な様子の可符香が一歩前に出て彼を先導した。  
二人は病室で交わしていたような他愛も無い会話を繰り返してはくすくすと笑った。  
ある時は望が前を歩く少女の背中に話しかけ、彼女が返した少し毒を含んだ返答にへこまされたり。  
ある時はくるりと振り返って話しかけてきた少女の可憐な笑顔に、思わず言葉が出なくなってしまったり。  
だんだんと薄暗くなっていく街の寂しさは、むしろ間近にある愛しい人の存在を際立たせて、望と可符香の周囲を親密な空気で満たしてくれた。  
 
「先生……」  
「なんですか?」  
「もし先生が死んでたら、こうして二人で歩いたりも出来なかったんですよね」  
「そうですね……。話す事も、触れる事も、笑い合う事も、二度と出来なくなっていたかもしれません」  
「先生、そこにいますよね?」  
「ええ、黙って消えたりしないですから、安心してください、風浦さん……」  
赤い夕陽を背に受けて、道の先に長く延びる自分の影を踏みながら、二人は歩いていく。  
やがて、二人は少し交通量の多い交差点にまでやって来る。  
ここを渡れば、すぐに公園に行き着く筈だ。  
信号待ちの間、望は周囲を確認するが、この間のように無茶な運転をしている車は見当たらない。  
やがて、信号は赤から青に変わり、周囲の車や歩行者といっしょに、望と可符香も歩き出そうとしたのだが……  
「…………っ!!?」  
それは、唐突に目の前に現れた。  
「天使……!!」  
両手を大きく広げて、行く手を遮るように現れた天使に、思わず望の歩みが止まった。  
だが、可符香の方はそれに気付く事なく、立ち尽くす望の前で、横断歩道に踏み出していく。  
(いけないっ!!この『天使』が現れたという事は何か危険なものが……っ!!!)  
望は周囲を見渡すが以前のように乱暴な運転をする車も、凶器を携えた通り魔の類も見当たらない。  
一体、何が起ころうとしているのだろうか?  
その答を求めて、望は必死に思考を巡らせる。  
そして、気付いた。  
(もしかして……あれが…!!?)  
交差点を通り抜けようとする一台のトラック、その運転自体には問題はない。  
だが、望には確かに見えた。  
トラックの積荷である数十本の鋼鉄製の建材を束ねるワイヤー、それを繋ぎとめる金具が今にも砕け散ろうとしている所を。  
望は再び正面に立ち塞がる『天使』に視線を戻す。  
彼女の顔には優しげな微笑が浮かんでいた。  
だけど、その微笑みは、この間の事故で必死に望に向かって手を伸ばしていたときの泣き出しそうな表情と同じくらい、切なく、悲しげに望には見えた。  
やがて、望が後からついて来ていない事に気付いた可符香が横断歩道の途中で足を止め、こちらに振り返ろうとした途中で自分の真横を通るトラックに目を留めた。  
何か予感があったのだろうか?  
可符香の視線は望と同じく、今にも壊れそうなワイヤーの金具に向けられていた。  
彼女は気付いたのだ。  
そして、再びゆっくりと振り向いた可符香の顔に浮かんでいた表情は……  
「先生、ごめんなさい……」  
望の目の前の『天使』と同じ、悲しげな微笑だった。  
『天使』と可符香、二つの笑顔が望の視界の中で重なる。  
そして、望はようやく悟る。  
いつの間にか自分の深層心理に宿っていた、この『0,001秒の天使』の正体を……  
(そうか、だから…………)  
あの『天使』は単なる希望の象徴や記号として、望の生存への欲求が可符香の姿を借りたものでは決して無い。  
満開の桜の下であの日望が出会った少女。  
可符香はときに巧みな詭弁で望を操り、ときに手痛い悪戯で望を困らせた。  
そして、いつも望の隣で笑っていたのだ。  
彼女は望の傍にいる事を、望の存在を必要としてくれた。  
それが望の中にあの『天使』を作り出した。  
望の中に蓄積されていった彼女との日々の無数の欠片が集まって形作られたもう一人の可符香。  
望の心に映し出された、彼女の鏡像。  
望は知っている。  
可符香がどれだけ自分の事を必要としてくれているかを。  
笑顔の仮面に隠して、決して素直には見せようとしないその気持ちがどれだけ深いものであるかを。  
あの事故のとき、『悪魔』に捕らわれ諦観に飲み込まれようとした望の心を揺り動かしたのは、そんな可符香が与えてくれた望への想いだった。  
『天使』がそれを思い出させてくれた。  
望を失う事が、彼女の心にどれほどの痛手を残すのかを教えてくれた。  
(あの時の私はただ風浦さんが涙を流す事が許せなくて、その一心だけで『天使』の手の平を掴んだ……)  
そして、今眼前にある『天使』の、可符香の笑顔。  
本当は誰よりも寂しがりやで、誰よりも幸せを求めている筈なのに、いつも一歩下がったところで悲しげに微笑んでいる彼女の表情。  
自らの死を間近にしてなお、彼女がまだそんな顔をするというのならば……  
(なら、私がするべき事は決まっています……っ!!!)  
望は何の躊躇いも無く、横断歩道へと踏み出していった。  
 
(そっか、私、死ぬかもしれないな……でも、良かった。あそこにいれば、きっと先生は安全だから……)  
刻一刻と迫る最期の瞬間を前にして、可符香の心は驚くほど穏やかだった。  
例の『天使』のお陰なのだろうか、望は横断歩道の手前で踏みとどまったままだ。  
それだけでいい。  
彼さえ、糸色望さえ無事ならば、自分は満足だ。  
例え、二度と話す事も、触れる事も、笑い合う事も出来なくなったとしても、先生が生きていてくれるなら……  
だけど……  
(あれ?……私の手、震えて……)  
不意にこみ上げてきた本能的な恐怖が、可符香の心を揺り動かす。  
それでも、こぼれそうになる涙を堪えて、彼女は微笑み続ける。  
(…いやだなぁ……怖いなんて…そんな事、あるわけないじゃないですか……)  
自分はこれでもう十分に幸せなのだ。  
思い残す事など何もないのだ。  
恐怖を堪え、可符香は何度も自分に言い聞かせる。  
しかし、彼女の脳裏に『彼』の姿が閃いた途端、それは脆くも崩れ去った。  
(先生………っ!!!!)  
湧き上がる恐怖すら押し流して、可符香の心を圧倒的な悲しみの色が覆い尽くしていく。  
そうだ。  
だって、私は……  
「死にたくないっ!!ずっと一緒にいたいっ!!!先生っっっ!!!!!!」  
堪えきれずに漏れ出た、少女の悲痛な叫び。  
それは虚しく響き渡って、そのまま崩れ落ちる鋼鉄の建材に飲み込まれて消えてしまう筈だった。  
だが、しかし……  
「風浦さんっ!!!!」  
「えっ!?」  
少女の声に応える者がいた。  
「あなたを死なせはしませんよっ!!!」  
耳元で聞こえた望の叫び声。  
その声で意識を現実に引き戻された可符香を、何度も触れた彼のぬくもりが包み込んだ。  
そのまま可符香の体は地面を転がり、横断歩道の向こう側まで辿り着いたところで、望の体が彼女を庇うように覆い被さった。  
そして……  
「先生……」  
可符香の口から発せられた小さな呼び声をかき消すように、辺りに崩れ落ちる建材の轟音が轟いた。  
 
「すみません、命兄さん……」  
命の手で包帯を巻かれながら、望が言った。  
彼と可符香は今、交差点での事故で負った怪我の手当ての為、糸色医院に戻っていた。  
「お前が謝る事はないさ。事故なんて、いつどこで出くわすかわかった物じゃないんだから」  
望の咄嗟の行動のお陰で、彼と可符香に大した怪我は無かったものの、トラックから落下した建材によって十数名の死傷者が出てしまった。  
望の目には何人もの怪我人がうめき声を上げながら救急車に運ばれていく地獄絵図のような現場の様子が焼きついている。  
「せっかく貸してやったコートをボロボロにされたのは噴飯物だが、弟の命には代えられない。よく無事でいてくれたな、望」  
一通りの手当てが終わり、腰掛けていたベッドから立ち上がった望に、命はマグカップを二つ渡した。  
中に注がれていたのは熱々の紅茶、たっぷりのミルクと砂糖が入れてあった。  
「彼女も一人で待たされて不安がってるだろうから、さっさと行ってそれを飲ませてあげろ」  
「言われなくてもわかってますよ」  
中身をこぼさないように慎重に二つのマグカップを運びつつ、内心では兄の気遣いに感謝しながら望は命のいる診察室を立ち去った。  
 
可符香はほとんどの照明を落とした暗い待合室のベンチに座って、望を待っていた。  
望は紅茶の入ったマグカップを一つ可符香に手渡し、自分もその隣に腰掛けた。  
「命兄さんが入れてくれました。こういう時は甘いものを取ると落ち着きますよ」  
「はい……」  
やはり事故のショックのせいか、可符香の言葉はいつもより力ない。  
正直に言えば、望も気力体力をすっかり消耗していたのだが、今の彼女の前でそれを見せるわけにはいかない。  
なるだけ明るい口調で、望は可符香に話しかけた。  
「それにしても、災難でしたね。まあ、お互い大した怪我が無かったのが何よりです」  
「………そうですね。それも、先生が助けてくれたお陰ですけど……」  
しかし、慎重に選んだつもりの望の言葉は、いきなり可符香の地雷を踏み当ててしまった。  
マグカップを持つ手を震わせ、可符香は一段と表情を暗くする。  
「先生が助けてくれなかったら、きっと私、あのトラックの積荷の下敷きになって死んでました……だけど」  
今にも消え入りそうな微かな声で可符香は語る。  
「だけど、あの時、私思ってしまったんです………嬉しいって、心の底から…」  
「嬉しい……?」  
「先生が助けに来てくれて、嬉しいって思ってしまった。……もしかしたら先生が死んでたかもしれないのに、助けられて、私嬉しかったんです…」  
孤独と恐怖に苛まれながら最期の瞬間を迎える事を覚悟していた筈なのに、それでいいと思っていた筈なのに、  
絶対に傷つけたくないと思っていたその人が、命を投げ出してまで自分を救おうとしてくれた事に喜びを感じている自分。  
それが可符香にはとてつもなく卑怯で、許し難い事のように思えていた。  
望はそれだけ言って俯いてしまった可符香の姿をしばし眺めてから、ゆっくりと口を開いた。  
「なら、私も同罪ですね」  
「えっ?」  
「私の死を一番悲しむ人の前で、自分の命を危険に晒してしまった。許し難い事です」  
「でも、それは……!?」  
思わず顔を上げた可符香に、望は微笑んみかけて言葉を続ける。  
「だけど、それだけの事をしたのに、今の私は嬉しいんです。こうしてまた、風浦さんに触れて、話して、笑い合える事が……。  
一歩間違えば、全て台無しになったかもしれないのに、無責任もいい所でしょう?」  
それはあの『天使』が教えてくれた事であり、つまりは風浦可符香という少女との日々が望に与えてくれたものだった。  
何にも代えられない大切な人の存在。  
望も可符香もやっていた事は結局何も変わらない。  
愛しい人の傍に居たくて、だけどその人を傷つけるのが怖くて、悩み苦しんで自分の道を選び取った。  
あなたに笑っていてほしくて……。  
あなたに幸せでいてほしくて……。  
「風浦さん、こんな私を許してくれますか?」  
「せんせ………」  
ぽろぽろと涙を零しながら倒れこんできた可符香の体を望は受け止める。  
それからしばらくの間、薄明かりの待合室で望と可符香は寄り添い合い、固く抱きしめ合っていたのだった。  
 

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