人は誰しも己の過去から逃げ出す事は出来ない。  
時の彼方から己が身を縛り付けんと伸びてくる戒めの鎖の重さは、他の誰にも背負う事が出来ない。  
それがどんなに辛く苦しいものだとしても、過去はその人物の現在を形作る要素として自身に組み込まれているのだから。  
たとえ自身が忘却の彼方へ追いやった筈のものだとしても、それはいつか必ず己の前に舞い戻ってくる。  
人にはいつか、積み重ねたその膨大な過去を清算しなければならない、そんな運命の時が訪れるのだ。  
 
と、いうわけで………。  
 
「ん〜〜………」  
頬を染め、瞼を閉じ、恥じらいの表情を浮かべつつ唇を突き出す糸色望。  
彼に対する周囲の反応は冷たかった。  
「だから、僕は使いませんよ。この券」  
言ったのは、古本屋で見つけた本に挟まっていた問題の品を見つけた人物。  
久藤准、彼が見つけたのは糸色望が幼い頃につくったという『キッス券』。  
一枚につき一人一回、この券を望に提示すると彼とキスができるという、いわゆる肩たたき券と同種の自分券である。  
幼い頃の望は女の子と見紛うほどの容姿で、周囲の大人からも随分と可愛がられた。  
恐らくそのとき、誰か大人の女性が言ったのだろう。  
『望くんがキスしてくれると嬉しいわね』  
それがきっかけになった。  
小さな頃から寂しがり屋で周りの人間に構ってもらいたくてたまらなかった望に、その記憶は鮮烈に焼き付けられた。  
『自分がキスをすると喜んでもらえる』  
寂しがりやの小さな男の子には、それはこの上なく嬉しい出来事だった筈だ。  
彼は早速、大量の色画用紙から数え切れないほど多くの枚数のソレを作り上げた。  
そして、幼稚園の先生に、友達の女の子に、その他思いつく限りのありとあらゆる人物にそれをプレゼントした。  
当時、可愛らしい子供だった望からの風変わりなプレゼントを多くの人が喜んでくれた。  
そして、受け取った人間の何割かは実際にそれを使って、望とキスをした。  
が、その程度で全てを消費し切るには、浮かれて舞い上がった望の作った券の枚数は膨大すぎた。  
現在、未使用のまま残されているキッス券の枚数、およそ千枚以上!!  
彼の妹である倫は刀を鞘から抜き放ちつつ、望に断言した。  
糸色家の人間たるもの、課せられた義務は果たすべし!!  
『ん〜〜………』  
というわけで、望はいつでも受け入れオーケーな態勢でキッス券の使用者を待っている。  
だが、現在の望は恐ろしく整った顔をした細面の美男子であったが、かつての小さな男の子ではない。  
二十代も半ばのいい大人である。  
そんな望が一人唇を突き出してる様はハッキリ言って異様だったし、軽々しくキスを求める人間はいなくて当然である。  
だが、しかし………。  
「先生のキッス券かぁ。なるほど、面白そうだな……』  
キス待ち顔の望を物陰から見ながら、何かを企む少女が一人……。  
ところが、この後、事態は彼女の予測を越えて、とんでもない方向に転がっていってしまうのだが……。  
 
その後の一週間、望のキス受け入れモードは続いていた。  
相変わらず、キッス券利用者はゼロ。  
ただし、彼を慕う2のへの絶望少女達にとっては、これはまたとないチャンスだった。  
何やら気配を感じて、薄く瞼を開けた望は自分の周囲の状況を目にして驚愕する。  
ふと気がつくと、望は彼のキスを求めて唇を差し出す四人の少女達に囲まれていた。  
(常月さん、小節さん、日塔さんに小森さんまで!!?な、な、何なんですかぁああああああっ!!?)  
ついさっきまでキッス券の使用者を待っていたくせに、こうなってしまうともう完全に及び腰である。  
どちらに進んでも四人の内誰かとキスせざるを得ない状況に望は頭を悩ませる。  
そして……。  
(なら、この隙間から……っ!!)  
唯一脱出可能な隙間へと走っていった望の末路は悲惨なものだった。  
ぶちゅうううううっ!!!  
激突!!  
最悪のタイミングで出くわした旧友・一旧さんと望は出会い頭に思いっきりキスをするハメになってしまった。  
知らない仲じゃないだけに、余計にキツイ。  
というわけで、キッス券の義務を果たそうとした望の行動は惨憺たる結果を生み出して終わる事となった。  
(だいたい、キッス待ちで待機してた一週間の間に、実際に券を持って来た人なんていませんでしたし、とんだ骨折り損ですよ……)  
まあ、20年近く前の自分券を今更使おうなんて人物、そうそういる筈がないのが当たり前なのだが……。  
放課後、とぼとぼと学校の廊下を歩きながら、望は深くため息をついた。  
 
と、そんな時である。  
「先生っ!」  
明るい少女の声に、望は俯いていた顔を上げた。  
「風浦さんですか」  
望の歩く廊下の先、曲がり角から顔を出して微笑む可符香に、望も笑顔で答えた。  
だが、しかし、曲がり角の陰から全身を現した少女が持っていた物を見て、望は怪訝な表情を浮かべる。  
「何ですか、その箱?」  
可符香は小ぶりな段ボールの箱を両手で抱えていた。  
「それはもちろん、『いいもの』ですよ、先生!」  
「……?」  
まるで訳がわからないといった表情を浮かべる望の懐に、可符香はすっと滑り込んだ。  
そして……  
「えいっ!」  
「おわっ!!?」  
望の不意を突くように、可符香は彼の唇に自分の唇を重ねた。  
「な、な、な、いきなり何ですか!?風浦さん!!?」  
突然のキスに、顔を真っ赤にしてドギマギとうろたえる望。  
可符香はそんな望に、ひょいっと一枚の紙切れを手渡した。  
「これ、まだ有効なんですよね?」  
それは件のキッス券だった。  
「え、ええ、それはもう…自分で義務を果たすって了解して始めた事ですし」  
望と可符香が互いに恋人同士として付き合うようになって、既にそれなりの月日が経過していた。  
出会った当初から変わらぬ可符香の行動に、望は振り回されるばかりだったが、それでもこの少女が傍にいてくれる事が望には嬉しかった。  
例のキッス券を口実にした先ほどの口付けに、照れくささを感じつつも可符香の振る舞いを愛おしいものとして望は感じていた。  
だが、しかし、ここで望はよくよく考えてみるべきだったのである。  
「良かった……。倫ちゃんはああ言ってましたけど、やっぱり昔の話ですからね。  
今日の一旧さんとのアレのせいで、先生、嫌になってるんじゃないかと思って……」  
「あ、あの件については…その…あまり思い出させないでくださると、有難いです……」  
旧友との正面衝突を思い出して青ざめる望に、可符香はにっこりと微笑んでこう続けた。  
「とにかく、それなら残りのコレも全部有効って事ですよね?」  
「へっ!?」  
可符香の台詞の意味がわからず、ポカンとする望の前で彼女は抱えていた小さな段ボール箱の蓋を開けた。  
そこにあったものは……  
「ちょ…これ、一体どうやって……っ!!?」  
「苦労しましたよ。蔵井沢の昔の先生の知り合いに連絡を取って、集められるだけ集めたんですけど……。  
でも、未だにこれだけの数が残ってるって事は、なんだかんだでみんな先生から貰ったコレが嬉しかったんですね!」  
目の前の少女の無邪気な笑顔が、人を惑わす小悪魔のソレに見えた。  
段ボールの中身は言わずもがな、幼い望が配って配って配りまくった自分券、それがギッシリと詰まっている。  
「先生のキッス券、全部で1235枚。遠慮なく使わせてもらいますね!!」  
 
可符香が大量のキッス券を手に入れた事で、望の生活は大きく変わった。  
「こ、ここでですか?」  
「はい。何かいけませんか?」  
学校の昼休み、袖を引っ張られてやって来た校舎の廊下の人通りの少ない一角で、望は可符香と向かい合う。  
「それじゃあ、先生……」  
そっと首下に腕を回し、望の目の前で可符香は瞳を閉じる。  
望は覚悟を決め、彼女の唇に自分の唇を近づけていく。  
「ん……っ」  
「………ぷあっ…先生…」  
唇を離した瞬間、こちらを見上げてくる可符香の潤んだ瞳に望の胸はドキリとしてしまう。  
しかし、その直後  
「これで、残り1199枚。やりましたね、先生!1200を切りましたよ!!」  
なーんて事を言われるものだから、望はどっと脱力してしまう。  
「それじゃあ、また次もお願いしますね」  
「……はーい。わかってますよ、風浦さん……」  
キスを終え、ひらひらと手を振りながら笑顔で駆けて行く可符香の姿を見送ってから、望は深くため息をついく。  
「1199枚って、終わるのはいつですか?」  
あの日、初めてのキッス券使用の後、戸惑う望に可符香はこう言った。  
『私一人で独占するのも悪いから、2のへのみんなに配ってもいいんですよ?』  
完全な脅迫である。  
ただでさえ望を巡って熾烈な争いを繰り広げている絶望少女達がこれを手に入れれば、結果は火を見るより明らかだ。  
恐らく望は少女達に揉みくちゃにされて、徹底的にボロボロにされてしまうだろう。  
そんなこんなで、可符香の望むままに、望は彼女とのキスに応じるしかなくなってしまった。  
だが、はっきり言って1000枚を越えるキッス券を消費し切る事にはどれだけの時間が必要になるのか、望には想像もつかない。  
そして、何より困った問題が一つ……  
(それなのに……何を嬉しくなっちゃってるんですか、私はっ!!)  
完全に可符香に主導権を握られ、彼女がキッス券をちらつかせらば、たとえいつどんな場所でもそれに応じなければならない。  
しかも可符香が指定してくるのは、どこかで誰かが見ていてもおかしくない、際どいシチュエーションばかり。  
もちろん、彼女の事だから、その辺りの注意は十二分に払っているのだろうが、望はいつ誰かに見つかってしまうのかと不安でたまらない。  
回数を重ねる毎に危険度を増していく可符香の要望に、望の精神は磨耗していくばかりである。  
それだというのに、望は、キスを終えた後、可符香が見せる笑顔が眩しくて、嬉しくて、どうしても彼女に意見する事が出来ないのだ。  
詭弁と演技を分厚く身にまとった彼女だけど、その時の笑顔だけは何の裏表もない本心からのもの。  
ずっと可符香に接してきた望には、それがよくわかった。  
彼女のあの笑顔を見たい。  
そんな思いが、今の望を可符香に従わせている、大きな要因の一つになっているのは間違いなかった。  
(はぁ……我が事ながら、こりゃあ、相当風浦さんにイカれちゃってるんですねぇ、今の私は……)  
 
というわけで、望のキッス三昧の日々は今日も続いていく。  
ある時は体育倉庫で……。  
「今回はベタなシチュでいってみたんですけど、どうですか、先生?」  
「外でバスケ部が練習してるじゃないですかっ!!」  
 
またある時は夜の宿直室から呼び出されて……。  
「なんか、最近小森さんの視線が痛いんですけど……こう立て続けに呼び出されると…」  
「先生、一つ屋根の下で暮らしてるんだから、ちゃんとフォローしてあげなくちゃダメじゃないですか」  
「ちょ…あなたがソレをいいますか!」  
「まあまあ、それじゃあ今回もお願いしますね」  
 
そしてまたある時は始業前の2のへの教室で  
「ヤバイヤバイヤバイですよっ!!いつ誰がやって来てもおかしくないじゃないですか!!」  
「言ってる間に千里ちゃんが校門くぐったみたいですね。…早くしないと……」  
「ひぃっ!!やります!やりますからぁ……っ!!」  
 
果たしてこんな事を何度繰り返しただろうか?  
既に気が遠くなり始めている望だったが、キッス券の枚数は一向に減る様子がない。  
「やりましたよ、先生。今ので残り枚数は1175枚!着実に減ってます!!」  
「私にはぜんぜんそんな風には思えないんですが……」  
「いやだなぁ。千里の道も一歩から、焦っても仕方ないですよ、先生」  
券を使うタイミングや状況についての決定権は可符香が握っているので、望がいくら焦ろうと全ては彼女の気分次第。  
可符香自身もそれをしっかり自覚していて、なるべく長くじっくりと楽しめるようペース配分をしているようだ。  
まあ、一気に券を消費するためにキスを10連発・20連発するなんてのも想像するだけでゾッとしない話なのだが。  
そんな風にして続いていた望のキッス地獄が大きな変化を見せる事になったのは、  
ちょうど券の枚数が残り1100枚を切ろうとしたある日の出来事がきっかけだった。  
 
「キッス券も残り1100枚、今日もお願いしますね、先生!」  
「うう、まだしばらくは1000枚以下になりそうにないって事ですね……」  
相も変わらぬ笑顔の可符香と、毎日が緊張の連続で少しやつれ気味の望。  
その日、二人は放課後の2のへで向かい合っていた。  
キッス券の残り枚数の事も望にとってはかなり憂鬱だったが、既に100回を越えるキスをしたのだという事実もかなり恥ずかしいものがあった。  
「いやだなぁ、今更そんなの気にする仲じゃないじゃないですか」  
「いかにも見つかりそうな際どい場所や時間帯ばかり指定されるから、余計に気になるんですよ!」  
顔を真っ赤にした望と、クスクスと笑う可符香。  
おそらくは、望がこうして恥ずかしがる姿を見る事も、可符香にとってはお楽しみの内なのだ。  
果たしてこんな日々がいつまで続くのか望には見当もつかなかったが、今は彼女に従い続ける以外の選択肢はない。  
「しかし、今日は何だかいつもより随分と普通な指定ですね」  
「えへへ、たまにはこういうのストレートなのも良いかと思って……」  
夕陽の差し込む、誰もいない教室。  
茜色に染まった彼女の姿が何故だか眩しくて、望は少し目を細めた。  
(ああ、きれいだな……)  
胸の内で、望はしみじみと思った。  
今、夕暮れの色に染まったこの教室の中に立つ少女の姿は、ただ美しかった。  
望は今自分がここにいる理由さえ忘れて、何もかもが赤く染まった空間の中、キラキラと輝く少女の姿に見入る。  
「先生、どうしたんですか、そんなボンヤリして?あんまり見られると、ちょっと恥ずかしいですよ?」  
「あっ、すいません…少しボンヤリしていたようです。……ていうか、見られて恥ずかしいとか、それこそ今更でしょう、風浦さん」  
「それとこれとは別なんですよ、先生」  
可符香の言葉で我に返った望は、恥ずかしさを誤魔化すように可符香に対して言い返す。  
だから、望は気付いていなかった。  
望の視線に気付いてから、僅かに数瞬、可符香もまた同じように、ぽーっとした表情で彼を見つめていた事に。  
「それじゃあ先生、お願いしますね」  
それから、いつも通りに可符香が取り出したキッス券を受け取り、望は彼女の間近に歩み寄った。  
何度繰り返しても、この瞬間の気恥ずかしさには慣れる事がない。  
だが、今日に限ってはついさっきまでの、可符香を見つめていたときの形容し難い感情が望の心を包み込んでいた。  
伸ばした手の平で、そっと彼女の頬に触れる。  
「あ………」  
ふっと漏れ出た可符香の小さな声。  
それがさらに望の心を掻き立てた。  
 
胸に湧き上がる強い気持ちをあえて言葉で表現するのならば、己が身を焼き尽くすほど激しく、そして危ういほどに純粋な彼女への愛情。  
そのまま思い切り可符香の背中をかき抱き、彼女と額をくっつけ合った状態で望は囁いた。  
「いいですか、風浦さん?」  
「あ、は…はい……」  
望の突然の抱擁に呆然としていた可符香には、それだけ答えるのが精一杯だった。  
なぜなら彼女もまた、望を動かしていたのと同じ感情に、いつの間にか巻き込まれてしまっていたのだから。  
言葉の代わりに、可符香は望の背中をぎゅっと抱きしめて、その想いを伝える。  
やがて、ゆっくりと近付いていった二人の唇が、そっと重ね合わせられた。  
「せんせ……んっ…」  
いつもとは比較にならない、熱く激しいキスが可符香と望の理性を溶かしていった。  
どちらともなく突き出した舌先が触れ合う。  
数度の接触の後、求め合うように二人の舌は絡み合い、時の経つのも忘れて互いの唇を味わう。  
元々、この話を可符香が持ち出したときから、こうなる事は決まっていたのかもしれない。  
キッス券なんて言い訳を間に挟んだ事が逆に望と可符香の熱情をここまで加速させてしまった。  
肺の中の酸素が残り僅かとなり、限界ギリギリにまで達したところで、二人はようやく唇を話した。  
荒く息を切らせながら、可符香と望は熱っぽい視線を交し合う。  
「お、思ったより大胆なんですね……先生…」  
「あ、うぅ……す、すみません、風浦さん……」  
今更になって縮こまる望に、可符香も照れくさそうに微笑みかける。  
いつの間にやら夕陽はほとんど沈みかけて、教室は薄闇に染まっていく。  
二人は寄り添い合ったまま、しばしの間、言葉も無く窓の外の藍色の空を眺めていたが……  
「あの、先生……」  
不意に可符香が、望に話しかけた。  
「何ですか、風浦さん?」  
「今日は、もうちょっとだけお願いしても…かまいませんか?」  
三枚のキッス券を持って、恥ずかしげな表情を浮かべた可符香が小さな声でそう言った。  
「風浦…さん……」  
もはや、望の側に可符香の要望を拒む理由などなく………。  
 
その日を境に可符香のキッス券消費量は増えた。  
元々、キッス券の使用で望を振り回し、彼を困らせたのは、複雑な性格を持つ可符香流の照れ隠しの部分が大きかった。  
当の望にしたところで、可符香に呼び出されて行うキスの時間を、表面上はどうあれ、まんざらでもないと思っていた。  
だが、お互いが夢中になって交わしたあの一回のキスの為にそのバランスは一気に崩れてしまった。  
「んぁ…あ……せんせ……まだ、もう二回……」  
「ええ、わかってますから……さあ、風浦さん……」  
二人が会う頻度、時間の長さはそれまでとほとんど変わらない。  
変わったのは、その僅かな時間に交わされるキスの、行き交う感情の圧倒的な密度と濃度。  
坂道を転がり落ちるように、底なしの沼に溺れるように、望と可符香はお互いを求めて逢瀬を重ねた。  
その中で、可符香の照れ隠しと悪戯の道具であったキッス券は、二人の熱情を高めるためのスパイスへと役割を変えた。  
……まあ、それでもキッス券は全然減ってくれなかったんだけれど……  
「おかしいですよね、先生。私たち、毎回あんなにキスしてるのに……」  
「あの、それは、だって、風浦さん……」  
「…?どうかしたんですか、先生?」  
「だって、あれ以来、私たちのキス……一回あたりが物凄く長くなってるじゃないですか……」  
真っ赤になって答えた望に、可符香も頬を染めて俯く。  
確かにキッス券の消費量は増えた。  
およそ3倍から5倍ほどの飛躍的増加である。  
が、元から二人は一回会う毎に一枚しか券を使っていなかったのだ。  
一枚だったものが、三枚や五枚に増えたところで、  
1000枚の大台はなかなか突破できるものではない。  
というわけで、二人のキッス三昧の日々はもうしばらく続く、その筈だった。  
 
キッス券にうんざりしたような顔を見せながらも、正直なところ、この頃にはすっかり可符香と過ごす時間を待ち望んでもいた望。  
(うぅ…風浦さんの事は好きですけど…現金な自分にちょっと絶望です……)  
なんて、ちょっと節操のない自分に自己嫌悪したりもしていた。  
だが、彼は気付けなかったのだ。  
キッス券の持ち主である可符香の様子が次第におかしくなっている事に……。  
 
事態がさらなる変化を見せたのは、とある日曜日の出来事だった。  
「風浦さん、来ましたよ」  
とあるアパートの玄関、呼び鈴を鳴らして、望は中にいる筈の人物、自分を呼び出した彼女に呼びかけた。  
ほどなくして、ドアの向こうから足音が近付いてきてから、ガチャリ、扉の鍵が開かれ少女が顔を出した。  
「あがってください、先生」  
望は可符香の様子に若干の違和感を覚えた。  
確かに目の前の望の姿を捉えている筈なのに、どこか焦点の定まらない瞳。  
宙を漂っているような、心ここにあらずといった感じの口調。  
何より、いつも2のへの騒動を安全な高みから見下ろしている、あの超然とした雰囲気が少し薄れているように感じられるのは気のせいだろうか?  
「先生、はやく……っ!」  
そんな可符香の様子をしばし見つめていた望を、彼女は急かすように部屋の中に引き込んだ。  
(やっぱり、おかしい……風浦さんはこういうタイプじゃない筈なんですが……)  
何事においても、周囲の条件や言葉でもって開いてを誘導するのが可符香のやり方だった。  
先ほど、望の手を取り、玄関の内側に引っ張り込んだ強引さは普段の彼女なら見せないものだ。  
(そういえば、最近の風浦さん、少し様子がおかしかったようでしたけど…まさか……)  
今更になって気付いたここ最近の可符香の変化に、望はなんとなく不安になる。  
一人暮らしの簡素なアパート、可符香の住まいの奥まで通された望はいつも以上に緊張しながら、目の前の少女と対峙した。  
「先生、おねがいします……」  
可符香がキッス券を差し出す。  
その手が微かに震えている事を望は見逃さなかった。  
それでも、なるべくいつも通りを装って、可符香の傍に歩み寄ろうとした望。  
その動きを、可符香は小さくてをかざして制した。  
「今日は……ちょっと……違う事を頼みたいんです、先生…」  
「……違う事?」  
鸚鵡返しに聞き返した望の目の前で、可符香は自分の上着に手をかけ  
「場所は違っても…キスはキス……ですよね?」  
胸の上まで上着と下着をたくし上げ、その白い肌を望に晒しながら、たどたどしい言葉でそう問いかけてきた。  
「唇だけじゃなくて…もっと…体中に…先生のキスが欲しいんです……」  
「ふ、ふ、風浦さん…あなたは…っ!?」  
目を白黒させ完全にパニックに陥る望。  
だが、頭の片隅では、可符香のその行動の意味するところをボンヤリと理解していた。  
(そういえば、色々と素直じゃない娘でしたからね……)  
可符香がその真意を他人に見せる事はほとんど無い。  
なんだかんだで相思相愛の仲となった望に対してでさえ、迂遠な表現でその意思を伝えるのみだ。  
いつも笑顔を振り撒き、詭弁まがいのポジティブ思考を語り、笑顔で人を煙に巻く。  
だが、そんな厄介な精神構造を持つ彼女も、結局のところその実体は歳相応の少女でしかない。  
ただ一人の人間に過ぎないのだ。  
しかし、それでも彼女は頑なに自分の胸の内を閉ざし続ける。  
可符香との付き合いも長く、その心の動きをある程度読み取る事の出来る望だったが、それとて完璧ではない。  
今回のキッス券。  
そして、あの日の熱く激しいキス。  
それが可符香の内に鬱屈していた感情を呼び覚ましてしまったのだろう。  
と、まあ、分析するだけなら簡単な話である。  
「先生、駄目…ですか?」  
「あ、いや、それは………」  
即答できない時点で、望の負けは決まったも同じである。  
一歩、また一歩と近付いてくる可符香の前から、望は動くことが出来ない。  
やがて、望の目前でしなだれかかるように倒れこんできた彼女を、彼はその腕でしっかりと抱きとめていた。  
「先生……先生…」  
いつもの彼女らしくない囁くような、おっかなびっくりの呼び声。  
「……わかりました……風浦さん……」  
それを聞いた時にはもう、望には彼女の言葉に肯く以外の選択肢は残されていなかった。  
 
一体、どうしてこんな事になってしまったのか?  
望の頭によぎる疑問も、一度始められてしまった行為を止める事は出来ない。  
「いいんですね、風浦さん?」  
「はい……」  
望が手渡されたキッス券はおおよそ五十枚以上、今までの十倍を上回るとてつもない数である。  
それが意味するところは、可符香が望とのより深く、強い繋がりを求めているという事に他ならない。  
そして、それに応じてしまった望もまた………。  
「は…あ……ああっ……せんせ……っ!!」  
カーテンを閉ざし、照明を落とした薄暗い部屋に、少女の悩ましげな声が響き渡る。  
可符香の胸の膨らみの先端、薄桃色の突起に望は唇で吸い付き、舌先で延々とその敏感な部分を刺激する。  
可符香は細い体をくねらせ、望の舌が動く度に走り抜ける刺激の奔流に震える。  
望の舌先による丹念な愛撫によって可符香の胸は驚くほど敏感になってしまう。  
そんな部分をさらに望の舌先に転がされ、ねぶられ、可符香の感じる刺激はさらに激しくなっていく。  
最初はくすぐったいような感覚だったものが、電流を流されたかの如き刺激に変わり、最後には快楽とも判別できないジンジンとした熱だけを感じるようになる。  
ようやく望が唇を離したとき、可符香の体はへたりとその場に崩れ落ちた。  
「大丈夫ですか、風浦さん!?」  
「はい。ちょっとふらついただけですから……」  
驚いて助け起こそうとする望に、可符香が答える。  
しかし、残されたキッス券の量はまだまだ膨大。  
そして、熱に浮かされた二人も、自分達の行為をもはや止める事が出来ない。  
「それじゃあ、次はここに……」  
「わかりました」  
可符香が指差す場所に、望は次々とキスマークを残していく。  
首筋に、鎖骨に、背中に……。  
その度に震える少女の体を望の腕が優しく抱きしめ、可符香は応えるように望の手を握り指を絡める。  
まだ幼さすら残した少女の白磁の肌に、望の唇がいくつもの赤いマークを刻んでいく。  
「ああっ…はぅ…くぁ……先生…っ!!」  
鎖骨に残されたキスの感覚の余韻も消えない内に、望の舌先が可符香の唇をなぞる。  
望の背中に回した腕にぎゅっと力をこめ、可符香は全身を駆け抜けていく激しい刺激の波の中で声を上げ続けた。  
目尻から零れる涙と、絶え絶えの息、キスマークがひとつ増えるごとに可符香は乱れていく。  
「風浦さん、少し休んだ方がいいんじゃ……」  
「嫌です……」  
そんな可符香の様子を心配した望の言葉を、彼女はいつにないキッパリとした言葉で断る。  
「それより…もっとください……先生のキス…もっと……」  
可符香の足首から腿の付け根まで、延々と刻まれる赤いしるし。  
少女の体の上に望の唇が触れるごとに、可符香の口からは苦しげで、悩ましげな、それでいて甘く蕩けるような声が漏れ出る。  
熱情に身も心も奪われた二人の体温は火傷しそうなほどに熱く燃え上がり、その熱気が可符香と望をさらなる狂熱の中に追い立てていく。  
「…風浦さん……私は……」  
「ふああっ!…せんせ……先生っ…!!!」  
時の経つのも忘れ、二人の行為はいつ果てるともなく続いた。  
 
この一件が引き金となり、望と可符香はますますこの行為に没入していく。  
そして、その過程において、実はキッス券の存在が大きな役割を果たす事となった。  
『キッス券を用いて、可符香が望にキスをしてくれるように頼む』  
二人の間で交わされる行為が大きく変わっていく中で、キッス券を介するこの形式だけはいつまでも変わる事がなかった。  
そしてその事が、キッス券の存在に新しい意味を与える事になってしまった。  
「先生…今日も…胸のとこから……」  
「わかりました……」  
キスをするもしないも、それを体のどの部分にしてもらうのかも、全てが可符香の意思で決定されるのだ。  
要するに、可符香が自分がそうされる事を望んでいると、望に対して表明し続ける事と同じである。  
対する望も、それがキッス券という建前がクッションになって、自分からでは躊躇ってしまうような行為にも積極的に応じるようになってしまっていた。  
「はひっ…あっ…ああっ…せんせいっ…せんせ……っ!!!!」  
長い長い行為の後、二人は互いの体を強く抱きしめ合う。  
キッス券の存在ははからずも、ひねくれ者の二人が自分の想いを解き放つ、その為の鍵となっていた。  
当然の如く、キッス券の消費量は膨れ上がり、ついには最初の百枚を使い切ったのと同じ日数で残り枚数は半分の600枚を割ってしまった。  
そしてそれに伴って、可符香が時折暗い表情を見せるが多くなっていったのだが……  
「風浦さん…最近、あなた、変じゃありませんか…?」  
「うぅ…そりゃあ、自分でもエッチな事してる自覚はありますからね。少しは調子も狂いますよ…」  
可符香の様子に気付いて問いかけた望の言葉に、彼女は誤魔化すように早口で答えて立ち去っていった。  
残された望は、その少し寂しげな後姿を見ている事しか出来なかった。  
 
「そっか、あんなにあったのに、もう残り半分なんだ……」  
薄暗い部屋の中、キッス券の枚数を数え終えてから、可符香は深いため息をついた。  
たとえ券が無くなろうと、望との縁が切れる訳ではない。  
これまでと変わらぬ生活が続いていく。  
それは十分理解出来ていた。  
だが、それでも望と過ごす秘密の時間が失われてしまう事に自分が強い不安を抱いている事を、可符香は認めざるを得なかった。  
「そろそろ、先生が来る頃か……」  
部屋の時計を見上げ、時間を確認した可符香が立ち上がった。  
そして、ちょうどその時、玄関の方から望の鳴らす呼び鈴の音が部屋の中に響いてきた。  
 
可符香の体の上に望のキスが雨の如く降り注ぐ。  
刻まれたキスマークは時間を置いてもジンジンとした熱で可符香の心と体を苛み、さらなる快楽の中へ彼女を没入させていく。  
「くぁ…ああっ…せんせ…つぎは……」  
「…わかってます…風浦さん……」  
先ほどまで券の残り枚数を気にしていた筈なのに、可符香は行為に溺れる自分を止める事が出来ない。  
もっと強く、もっと熱く、そして誰よりも間近で望の事を、愛しい人の存在を感じていたい。  
その想いが可符香の理性をやすやすと蕩かし、自分の体のいたる所に触れる望の唇の感触が彼女の全てとなる。  
そして、それはおそらく、望の方も同じだった。  
「うあ…はぁ…せんせ……そんな…こゆび…ばっかり…」  
「すみません…私も…もう自分で止まれなくなってるみたいです……」  
望の舌が小指に絡み、細く繊細な指先が舌の上で思う様に転がされ、すみずみまでねぶられる。  
物に触れ、掴むための器官であった筈の指先が、望の執拗な愛撫によって快楽を受容するだけの物体へと変えられていく。  
延々と続く指への攻撃が終わったとき、それまで刺激に晒され続けてついに限界が来たのか、可符香は望の胸元に倒れこんだ。  
 
「大丈夫…ですか?」  
「いやだな…これくらいどうって事ないですよ。だから、先生……」  
望の体に縋りつきながら、小さな声で答える可符香。  
だが、そこで彼女の言葉が止まった。  
(あ…もう体中…先生にキスしてもらったんだっけ……)  
既に思いつく範囲では、可符香の体の上で望の唇の触れていない場所はもうほとんど無い筈だった。  
(ううん…違う…本当はまだ一箇所だけ…キスしてもらってない場所が……)  
しかし、彼女は思い出した。  
自分がまだ望に対して、キスの場所として指定していなかった部分がある事を。  
恥ずかしすぎて、どうしても言えなかったその場所を、可符香はついに言葉にした。  
「先生……次は…」  
震える指先でスカートを捲り上げる。  
ショーツを下ろし、呆然とする望の前で、真っ赤な顔で俯いたまま可符香はその場所を告げる。  
「次は…ここに……先生のキス…ください……」  
脚の付け根と付け根の間、自分の一番敏感な部分を彼女は指差した。  
「言いましたよね?…私は、先生のキスが欲しいんです……体中…先生の唇の触れていない所がなくなるまで…全部…」  
今の望は可符香のその願いを拒む事が出来なかった。  
何よりも、自分自身が可符香にもっと触れていたいと、そう願っている事を理解していたからだ。  
一度外れた熱情のタガを元に戻せる人間など存在しない。  
ましてや渦中にある人間が、その抑えがたい衝動を前に踏みとどまる事など不可能だ。  
「…風浦さん……」  
囁き、自分の名前を呼んだ唇が、そっとその部分に触れるのを可符香は感じた。  
瞬間、甘く痺れる電流が背筋を駆け抜け、可符香の体がビリビリと震える。  
「あぅ…っくぁああっ…ひっ…あはぁあああっ……っ!!!」  
大きく声を上げ、髪を振り乱し、望の熱い舌先に触れられ、ねぶられ、かきまわされる悦びに声を上げる可符香。  
望もまた、耳元に届く彼女の声に、手の平に伝わる震えに、そして舌先に感じる熱に浮かされて、可符香への責めに夢中になる。  
「はぁ…ひっくぅ……うあ…せんせ…そこ…すごい……っ!!!」  
丹念に、執拗に、外側の部分を這い回った舌が、今度は肉と肉の狭間を割り入って、可符香の中に入ってくる。  
浅い部分をかき回されたかと思うと、奥の方まで突き入れられ、さらには唇でその部分全体に吸い付かれる。  
間断なく続く責めは可符香の心と体を思う存分にかき乱し、さらなる快楽の渦へと彼女を引きずり込む。  
「ああっ…ひああっ…せんせいっ!…せんせいっ!!…せんせぇええっ!!!!」  
激しい刺激に苛まれ続ける可符香は我知らず背中を反らせ、腰を浮かせ、少しでも次に訪れる快感の衝撃に耐えようとする。  
望は浮き上がった腰を強く抱きしめ、さらに密着した状態で可符香への責めを続ける。  
恐ろしく敏感で、恥ずかしいその場所に吹きかかる望の息遣いと、感じる舌先の動き。  
羞恥心も快楽も愛情も、全てがない交ぜになり、可符香の心はその灼熱の中でどろどろに溶けていく。  
迸る激感に何度も思考を寸断され、めくるめく快感の中で意識が明滅する。  
「ふあ…ああああああっ!!!…せんせ…わたしもうっ!!…もう…………っ!!!!!」  
やがて、可符香の中で渦巻いていた、熱が、快感が、心の昂ぶりが、全て彼女の許容量をオーバーする。  
そしてそれは、表面張力のギリギリまでコップに注がれた水のように、望が与えた最後の舌の一突きでいともたやすく崩壊した。  
「…せんせ…せんせぇええええええっ!!!!!…ひああああああああああっ!!!!!!」  
弓なりに反らせた背中を痙攣させ、押し寄せる絶頂の高波に可符香は声を上げる。  
そして、その激しい快感の嵐の中で、可符香は自らの意識を手放した。  
 
それからどれくらいの時間が経過したのか?  
暗い部屋の中で、可符香はゆっくりと瞼を開けた。  
そして、気付く。  
「あれ……?先生、どこですか…?」  
部屋の中には、彼女が意識を失う前までは一緒にいた筈の望の姿がなかった。  
その代わり、行為の為に乱れた衣服が直されていた。  
恐らくは望がやった事だろう。  
「何にも言わずに帰っちゃうなんて……」  
少し寂しそうに、可符香は呟く。  
それから何となく、一人ぼっちの部屋をぐるりと見渡してみた。  
「やっぱり、先生と一緒の方がいいな……」  
きれいに片付けられ、隅々まで掃除の行き届いた部屋は見方によっては恐ろしく殺風景だった。  
結局、キッス券なんてものを持ち出したのも、この部屋と同じくらい空虚な自分の心を少しでも埋め合わせたかったからなのだろう。  
だが、そこで彼女は、望と同じく本来この部屋にあった筈のものが消えている事に気付いた。  
 
「そんな…うそ…?」  
目を擦り、何度も部屋中を見渡して、可符香は必死でそれを探した。  
だが、彼女の手の届くところに置いてあった筈のソレは陰も形も無くこの部屋から消え去っていた。  
勝手に無くなる筈がない。  
ならば奪い取られたと考えるべきなのだろうが、それが出来る人物は可符香には一人しか思い当たらなかった。  
だが、その推理は余計に可符香を混乱させた。  
一体どうして彼は、そんな事をしなければならなかったのか?  
「どうして……どうしてなんですか…!!?」  
靴を履き、可符香はアパートを飛び出した。  
頭の中がぐちゃぐちゃになってしまいそうな混乱の中、可符香は住宅街を駆け抜けていく。  
そして、ほどなくして、アパートのすぐ近くの公園で可符香は探していた人物、キッス券泥棒の犯人を見つけた。  
コンクリート製のベンチに腰掛けた後姿に、可符香はゆっくりと近付いていく。  
「先生……」  
「ああ、ちょうど良い所に来てくれましたね、風浦さん」  
あの時、キッス券の間近にいたもう一人の人物。  
そもそも、これだけ大量のキッス券が存在する事を知っているのは、可符香を除けば彼しかいない。  
「先生…キッス券は……?」  
「あの券ならここにありますよ」  
そう言って、望が指差したのは彼の足元。  
そこでは、たくさんの落葉が積み重なって、真っ赤な炎と煙が立ち上っている。  
そして、そのたくさんの落葉に混じって、見覚えのある紙切れが燃えていた。  
それは彼女の最も危惧した事態だった。  
「先生…どうしてこんな事………」  
「すみません、風浦さん…私にはもう、耐えられなかったんですよ……」  
力なく問いかける可符香の声に、望はそう答えた。  
「馬鹿馬鹿しい話です。こんな紙切れにすっかり心を縛られていたなんて……」  
『耐えられそうになかった』  
望は確かにそう言った。  
互いに唇を重ね合わせたあの時間、二人は同じ熱と感情を共有していると、可符香は思っていた。  
だが、それさえも単なる可符香の願望に過ぎなかったのだろうか?  
可符香の体から一気に力が抜ける。  
しかし、うなだれる可符香の方に振り返った望の顔に浮かんでいたのは、少し困ったような、けれどもとても優しげな微笑みだった。  
「この券が無くなったら、風浦さんと会えなくなるんじゃないか……そんな馬鹿みたいな妄想に本気で怯えていたんですから……」  
「えっ?」  
「だから、燃やしちゃいました。こんなものに惑わされるくらいなら、何も持たずにあなたの傍らにいる方がずっといい」  
照れくさそうにそう言い切ってから、望は可符香にある物を手渡した。  
「うあ…先生…これ、熱過ぎます……」  
「何しろ焼きたてですからね。火傷しないよう、気をつけてください」  
それはアルミホイルに包まれた熱々の焼き芋だった。  
「ただ捨てただけじゃ、また誰かが拾って使いかねませんし、こうして全部焼いてしまう事にしたんですが、  
折角焚き火をするならと思って用意してみました……って、やっぱり熱いですね焼き芋は…」  
「そっちこそ火傷しないでくださいよ、先生……」  
アルミホイルと皮をむいて、白い湯気を立てる焼き芋を口に運ぶ。  
口の中に広がる優しい甘さを噛み締めながら、可符香は思う。  
(そっか、先生も同じ気持ちでいてくれたんだ……)  
あくまで建前だったはずのキッス券の存在に、いつの間にか縛られていた心。  
もし券が無くなってしまったら、そんな不安に取り付かれて、少しだけ憂鬱になっていた自分。  
だけど、可符香は忘れていた。  
同じように可符香の事を思い、同じように悩んでくれる人が隣にいる事に彼女は今の今まで気付いていなかった。  
「だけど先生、こんな焼き芋くらいで全部をチャラにするのはちょっと虫が良すぎますよ」  
「う……やっぱり、そう思いますか?」  
「要するに先生は、借金を全部踏み倒しちゃったわけですから、それ相応の埋め合わせをしてもらわないと……」  
ニヤリと笑う可符香と、困り顔の望。  
だけど、二人の様子はどこか楽しげでもあった。  
「そういう事ならわかりましたよ。私も大人です。あなたがどうしてもと言うのなら……」  
そう言って、望は可符香の方に身を乗り出した。  
「きゃ……せんせ……んんっ…」  
再び重ね合わせられる唇と唇。  
その時、可符香が感じたほんのりとした甘さは、きっと焼き芋のせいだけではなかった筈だ。  
 

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