その日の夕方、倫は糸色医院の前に立っていた。  
「よく考えたら、ここに来るのは久しぶりですわね」  
ここ2ヶ月ほどの間、華道の師匠としての仕事に追われ、倫は多忙な生活を送っていた。  
そんな状況の中でも欠かさず学校に通い、また望への大掛かりな悪戯もやめなかったものだから、糸色医院に来る時間がなかったのだ。  
しかも、倫が糸色医院を訪れる目的である愛しい兄・命が、自分の方から倫の家をたびたび訪ねて来たので  
倫は糸色医院に行く必要性をあまり感じる事がなかった。  
恐らく倫が多忙である事を知っていた命が気を遣ってくれたのだろう。  
医院まで出向かなくても、倫はたっぷり命との時間を過ごす事ができたのだ。  
というわけで、久しぶりの糸色医院。  
倫は早速、玄関をくぐり中へ入ろうとしたのだが、ふとある事を思い出して足を止めた。  
「そういえば、”あれ”はどうなったのかしら?」  
呟いてから、倫は小走りに医院の建物の裏手に回った。  
目指すのは医院の玄関の正反対、関係者用の入り口のある建物の裏手だ。  
だが、そこに倫の捜し求めたものはなかった。  
「まあ、当たり前の話ですわね……もう十二月にもなろうというのですから」  
予想していた事とはいえ、倫にとっては医院に来る度にその姿を確認していたお馴染みの相手がいないというのは寂しいものだった。  
「そういえば、もう半年は前の事になるんですわね……」  
かつて”それ”があった場所を見つめながら、倫の心は記憶をさかのぼっていった。  
 
約半年前、だんだんと蒸し暑さが気になり始めてきた六月の頭のある日、倫は命を訪ねて糸色医院にやって来ていた。  
出迎えた命がまず気付いたのは、倫が左手に下げた荷物だった。  
「倫、何を持って来たんだ?」  
「プレゼントですわ」  
悪戯っぽく笑う倫に、命は首を傾げた。  
そして、倫に手を引かれるまま、命は医院の裏手にまで連れ出されてしまった。  
「命お兄様に是非差し上げたくて……」  
倫が荷物の中から取り出したのは、茶色い鉢植えだった。  
既に中には土が入れてあり、何かの植物の芽がそこから可愛らしく頭を出していた。  
「倫、これは……?」  
「朝顔ですわ。命お兄様も小学校の頃、夏休みの宿題でお育てになった事がおありでしょう?」  
倫はさらに荷物の中から、じょうろやスコップ、朝顔のツルが巻きつくための園芸用の支柱を取り出していく。  
「病院の中は何かと殺風景になりがちですわ。育てるのもそう難しくはありませんし、命お兄様の心の潤いにでもなればと思って…  
もちろん、命お兄様が駄目だとおっしゃるなら、無理に置いていったりはしませんけど」  
命は鉢植えの中の瑞々しい朝顔の芽の緑をしばし眺めてから、柔らかな微笑を浮かべる倫の顔に視線を戻した。  
「確かに、なかなか悪くなさそうだ…」  
病院の中でも花瓶に花を活けたりはしていたが、小さな芽の状態から自分で育てるのは、それとはまた違った喜びを命に与えてくれるだろう。  
何より、愛しい倫がわざわざ自分の為に用意してくれたという事もあって、命の心の中にはまだ小さなこの朝顔の芽に対する愛着が生まれようとしていた。  
「ありがとう、倫。大事に育てさせてもらうよ」  
「どういたしまして、命お兄様。この子がきれいな花をつけてくれるのを、楽しみにしていますわ」  
 
それから、倫が糸色医院を訪ねる度に、みるみると育っていく朝顔の様子を見る事が出来た。  
「花が咲くのも、もうすぐですわね」  
「ああ、今からそれが待ち遠しいよ」  
やがて七月の半ばごろだったろうか、朝顔が一輪目の花を咲かせた。  
梅雨が開け抜ける様な青空から真夏の日差しが降り注ぐようになると、朝顔の花はその数を増やしていった。  
夏休みに入り、糸色医院を訪れる機会がさらに増えたので、倫は朝顔の様子を逐一見る事が出来た。  
「命お兄様、仰っていた通り、大事にしてくださってるのですわね」  
瑞々しい緑の葉と、濃い紫の大輪、美しいその姿を見れば、命が朝顔を大切に育ててくれたのがよくわかった。  
倫はそれを見ていると、自分が命に優しくしてもらったような気分になる事が出来た。  
夏休みが終わり、九月に入ってからも、真夏の頃の勢いは無くなったものの朝顔は美しい花を咲かせ続けた。  
だが、ちょうどその頃から、徐々に華道家の仕事が多くなり始め、倫が糸色医院を訪れる事も、そして朝顔の姿を見る事も無くなっていった。  
 
そして現在、おそらくは完全に枯れてしまったのだろう、病院の裏手にはもう朝顔の姿は無い。  
自分はどこかであの朝顔を命との繋がりの証のように考えていたのかもしれない。  
兄妹でありながら、恋人同士でもある倫と命。  
望は倫の事を応援してくれていたが、二人の関係はとても公にできるものではない。  
当然、命と倫が恋人として振舞える時間はごく限られたものであり、またその関係はいつ周囲の事情によって崩壊してもおかしくないものである。  
それだけに、命が倫からの贈り物である朝顔を大事にしてくれた事が、倫には嬉しくてたまらなかった。  
だが、時の流れは残酷である。  
夏の盛りには見事に咲き誇っていた朝顔は、もう陰も形もない。  
「せめて、最後まで見届けてあげたかったですわね……」  
寂しげに呟いて、倫は再び玄関前に戻り、糸色医院の中へと上がった。  
既に診療時間は終わり、院内はひっそりと静まり返っている。  
そんな中、唯一明かりの漏れている診察室で、命はカルテ整理などの仕事をやっている筈だ。  
「命お兄様、お邪魔しますわ」  
「ああ、倫、忙しいのによく来てくれたな」  
診察室のドアを開け命に声を掛けると、思いがけないほど明るい命の笑顔と声が返って来た。  
そのお陰で、倫の中でさっきまでの塞いだ気分が少しだけ晴れた。  
「カルテの整理はもうすぐ終わるから、それまで少し待っていてくれ」  
「はい」  
倫は診察用ベッドの端に腰掛け、英語の教科書を開く。  
今日の授業で出された課題をやりながら、チラチラと仕事に励む命の背中を盗み見る。  
だんだんと寒くなり、体調を崩して風邪をひく者も増え、また新型のインフルエンザへの対応など、いつもは閑古鳥の鳴く糸色医院も今はそれなりに忙しい。  
積み重なったカルテの一枚一枚に真剣な表情で向き合う命の横顔が、倫には愛おしかった。  
(命お兄様、頑張っていますのね……)  
倫は公務員であるのをいい事にのんびりと仕事をしているもう一人の兄を思い出すが、あれはあれでハードな環境なんだからその辺り少し理解してあげてほしい。  
(最近は少し疲れ気味でしたけど、私も頑張らないと……)  
命の後姿に少し元気を貰って、倫は再び英語の宿題に意識を集中させた。  
 
それからしばらくして、命の仕事がようやく終わった。  
「思ったより待たせてしまって、悪かったな、倫」  
「いいえ、命お兄様といられるだけでも、私は幸せですわ」  
そんな倫の言葉に、命は少し顔を赤くする。  
ここからは大抵、命と倫がそれぞれ思い思いの事を話しながら、ゆったりと二人の時間を過ごすのがいつものパターンだった。  
だが、今日に限っては、それは少しだけ違った。  
「あ、そういえば……」  
「どうかいたしましたか、命お兄様?」  
ふいに顔を上げた命に、倫が問いかけた。  
「ちょっと思い出した事があるんだ。一緒に来てくれるかい?」  
「ええ、それは勿論……でも、一体何ですの?」  
不思議がる倫の手を引いて、命は診察室を出た。  
医院の奥へ向かう廊下を歩き、辿り着いたのは命や看護師達が使う小さな休憩室だ。  
「確か、ここに置いておいた筈なんだけど……」  
呟きながら、命は部屋の中に置かれた腰までの高さのチェストの、一番上の引き出しを開けた。  
そして……  
「ああ、やっぱりここにあった……」  
そこから小さな箱を二つ取り出した。  
そしてその片方を倫に手渡す。  
「命お兄様、これは……?」  
「開けてごらん。倫ならすぐわかるだろ」  
小さな紙箱の蓋を外すと、中には幾つもの小さな粒が入っていた。  
「これ……もしかして……」  
「ああ、朝顔の種だよ。倫がくれたあの朝顔が、これだけたくさんの種を残してくれたんだ」  
園芸は専門でないとはいえ、華道家である自分がそんな事も忘れていたなんて……。  
倫は不思議な気持ちで箱の中の種を見つめる。  
確かに、倫の贈った朝顔は枯れて無くなってしまったけれど、確かに生きた証をここに残したのだ。  
そして、あの日、朝顔と共に倫が命に託した思いも、消える事なくここに存在している。  
倫からの贈り物であるあの朝顔を、命は本当に大切にしてくれた。  
そしてそれは見事に実を結び、今度は命から倫へと手渡されたのだ。  
「こっちの箱にも同じ数だけの種がある。これだけあると、また来年朝顔を育てるにしても、鉢がいくつあっても足りそうにない」  
命は自分の箱から種を一粒取り出し、それを愛しげに眺めながら言う。  
「せっかくだから、今度は倫にも一緒に育ててほしい。倫が咲かせた朝顔を、私は見てみたいんだ」  
「はい!命お兄様……」  
倫は種の入った小箱を胸元にそっと抱き寄せ、命の言葉に深く肯いた。  
倫が感じていたように、あの朝顔が二人の絆の証だったというのならば、それが結実したこの種もまた同じだ。  
しかも次は、命と倫、二人がそれぞれに朝顔を育てるのだ。  
二人で朝顔を育てて、また種が残されて、それを次の年も二人で育てて……。  
その繰り返しの中で、朝顔に込められた二人の想いも幾重にも折り重ねられて、大きく育っていくのだろう。  
「来年の夏が楽しみですわ、命お兄様」  
「ああ、そうだな、倫……」  
見詰め合い、微笑みあう二人の手の中、小さな箱の内側でやがて来る芽生えの時を待つ種子達がカラリと音を立てて転がった  
 

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