糸色望が教師を勤める高校の校舎は、年代物ながらもしっかりとした造りで、外装及び内装のデザインもなかなか凝ったものになっていた。  
そんな学校施設の中でも、学校の設立当時、特に力が入れられたと思われるのが図書室だった。  
吹き抜けで繋がれ二階に分かれた室内には、ズラリと書架が並び、古典から最新のベストセラーまでありとあらゆるジャンルの書物が揃っている。  
何でも、現在の校舎を建設する際、多額の資金を寄付した人物がいたそうで、高校の図書室としては大仰すぎるほどの規模は彼の要望によるものらしい。  
その影響は現在にまで及び、ネーミングライツを売り払い学校名がくるくると変わるようになった今でも、  
図書室には比較的多くの予算が用意され、毎月結構な数の新刊図書が新たに書棚に並べられている。  
しかし、時の流れは残酷なものである。  
完成当初はその膨大な蔵書量で学生達に重宝された図書室だったが、活字離れの進んだ現在の生徒達はあまり利用しようとはしない。  
さまざまなメディアの氾濫する現代において、読書はもはや数ある選択肢の一つに過ぎないのだ。  
限られた時間を読書に割り当てようとする生徒はどうしても少なくなってしまう。  
それでも、近現代の名作を含めた小説の類の貸し出し状況はまだマシな方である。  
立派な装丁の百科事典や各専門分野の書物を手に取るものはほとんどゼロに近い。  
重たくて埃っぽいばかりの本を薄暗い図書室の奥からわざわざ引っ張り出すなんて、そんな面倒な事を好んでやる生徒など存在しない。  
だって、ググった方が早いから。  
ウィキでペディアなフリー百科事典の情報が必ずしも正確ではないとしても、宿題の空欄さえ埋まってくれれば問題はないのだ。  
本なんて、読みたい人間だけが読むもの。  
活字離れを嘆く教育委員会の面々にしたところで、この意見に本気で反論できるものやら……。  
 
というわけで、その日、放課後の図書室にいたのは、図書委員の生徒達とその顧問である教師だけだった。  
 
「そろそろ下校時間ですね…久藤君、木野君、二人は帰る用意を」  
時計を見上げてから、顧問の糸色望が図書委員にして彼のクラスの生徒でもある久藤准と木野国也に声を掛けた。  
彼ら三人は古くなった図書の修繕作業を行っていた。  
図書室が出来た当初からの古い本や、何度も貸し出しされた人気の本は、どうしても傷んでしまうものだ。  
剥がれかけた背表紙や破れたページをビニールテープや糊で丁寧に直していく。  
放課後いっぱい、この作業に従事していた図書委員有志の二人は流石にクタクタに疲れているようだ。  
「でも、まだ直さなきゃいけない本は残ってるじゃないですか。どうせだから、俺、最後まで手伝いますよ?」  
「僕も先生だけに任せて帰る気にはなれません」  
それでも、准と国也はそう言って、作業を続けようとしたが、望は首を横に振った。  
「もう二人は十分に仕事をしてくれましたから。急ぐ仕事でもありませんし、後は私がやりますよ」  
窓の外に目をやれば、既に空は濃い群青の中に沈んでいる。  
街が完全に夜の闇に包まれるのも、そう先の話ではない。  
「それに、あんまり生徒を遅く帰らせるのは忍びないんですよ。これでも一応、教師ですから。  
期末テストも近い事ですし、久藤君も木野君も、家に帰ってそっちの方を頑張ってください」  
望の言葉を聞いて、ようやく二人も肯いてくれた。  
それぞれ鞄を持って図書室から立ち去る准と国也、二人の背中を見送ってから、望は再び作業に戻る。  
しかし、一人になってみると思ったように作業が進まない。  
「さっきは二人の手前、ああ言いましたけど、一人でやると結構時間が掛かりますね。  
ていうか、さっきまでの作業で一番足を引っ張ってたのって、もしかして私ですか!!?」  
いやーな推理が頭をよぎり、望は情けなくうな垂れる。  
実際のところ、望の見立ては正しかった。  
望の本の修繕の手際自体はそれほど悪いものではない。  
ただ、彼のやり方は少し丁寧すぎた。  
テープの長さ、糊の塗り方、その他諸々、修理の出来栄えにはあまり関係のないレベルにまで望は拘ってしまっていたのだ。  
作業が遅れるのも道理である。  
望自身も薄々それには気付いていているのだが、元来の生真面目な正確が災いして手を抜く事が出来ない。  
 
「こりゃ当分終わりませんね……。あうう、自分の見通しの甘さに絶望しました……」  
とはいえ、下校時間までぶっち切って図書委員二人に無理をさせる訳にもいかなかったのだ。  
仕方がないと諦めて、望は目の前の作業に集中した。  
途中、宿直室に戻って夕飯を食べてから、また図書室で作業を再開する。  
節電のため、望の周りのものを除くほとんどの照明を落とした図書室は暗い。  
そこで一人黙々と破れて擦り切れた本達と向かい合っていると、まるで深い海の底にいるような気分になってくる。  
年代ものの暖房設備は広い図書室内の全てを暖めるにはあまりに力不足だった。  
宿直室から持って来た半纏越しに伝わってくる冷気に、望は何度も体をブルリ、震わせた。  
暗く寒い、一人ぼっちの図書室の中で静かに時間だけが流れて行く。  
相変わらず望の作業スピードは遅かったが、それでも休む事なくせっせと続けている内に直さなければいけない本はいつの間にか残り僅かとなっていた。  
「やっぱり随分かかりましたが、後少しですね……」  
そう言って、望が次の本を手に取った、その時だった。  
パタン!  
「………っ!?」  
それはほんの小さな音だった。  
だが、空耳などでは決してない。  
薄暗い図書室の、幾つも並んだ書架の奥の方から、それは確かに聞こえてきた。  
「……な、な、なんですか、一体?」  
肝の小ささと神経の細さに定評のある望にとって、これはかなりの恐怖だった。  
「不審者か何かでしょうか?もしかして、私が一度宿直室に戻ってる間に……でも、あの時は確かにしっかりと鍵をかけた筈なのに」  
ガタガタと震えながら、それでも音の正体を確かめるべく望は立ち上がった。  
宿直室に間借りしている以上、夜の学校に何者かが忍び込んでいるのを無視する訳にはいかない。  
望は足音を殺しながら、ゆっくりと音のした方に近付いていく。  
(もし泥棒か何かなら、図書室を狙ったりはしませんよね?まさか、幽霊とかじゃないですよね?)  
望の脳裏に、先日宿直室で見たホラー映画のDVDのワンシーンが蘇る。  
あの時は、交や霧も一緒に怖がってくれたが、今の望は一人ぼっち。  
(ホラーだと、こういう怪しい物音に近付いたりしたら、その時点で大抵アウトなんですよね……)  
不審者か?幽霊か?  
どっちにしても望にとっては恐ろしい事この上ない相手である。  
そして、立ち並ぶ書架の間を通り抜けたその先で、望はついに音の主に対面する。  
「あ、あなたは……?」  
そこにいたのは凶悪な強盗でも、泣き叫ぶ怨霊でもなかった。  
すーすーと穏やかな寝息を立てて眠る、見慣れた少女の姿。  
体育座りの姿勢で、本棚に背中をあずけて眠る彼女の表情はとても穏やかなものだった。  
「風浦さん?何してるんですか、こんな所で?」  
 
呆然としたまま、望が問いかけるが、可符香が目を覚ます気配はない。  
ふと彼女の座る傍らの床の上を見ると、何やら分厚い本が一冊転がっていた。  
恐らくはこれが先ほどの音の正体だ。  
可符香は膝の上に載せたこの本を読みふけっている内に眠りに落ちてしまったのだろう。  
そして、ふとしたきっかけでバランスを崩し、本は彼女の膝から転がり落ちた……。  
「しかし、私達が作業してる間、彼女を含めて誰も図書室にはやって来てはいない筈なんですが………まさか…?」  
望や准、国也が作業していた机からは、図書室の入り口は丸見えである。  
建物が古いだけあって、入り口の扉を開けるときの音も大きく、誰かが来たなら気付かない訳がない。  
窓は換気のために一度開けた後、しっかりと鍵をかけてしまった筈だ。  
それなのに、今、可符香はここに座って寝息を立てている。  
考え得る理由は一つきりだ。  
「もしかして、私達が来る前からずっとここにいたんでしょうか……?」  
果たして何を考えて、彼女が図書室のこんな片隅に居続けたのか、望には想像もつかない。  
望達の邪魔をしない為?  
彼女一人が本を読んでいたところで、作業には何の支障もない筈だ。  
それとも、彼女の読んでいた本は、時間も場所も忘れて夢中になれるほど面白いものだったのだろうか?  
望は足元に転がるその本を拾い上げる。  
「これは百科事典ですか……しかも、ウチの学校の蔵書の中では一番古いヤツですね…」  
発行されて年数が経ち過ぎた為に内容が時代遅れになって、すっかり役に立たなくなってしまった時代の遺物。  
だが、彼女がこの本に夢中になっていた理由が、望には何となくわかるような気がした。  
確かにこの百科事典の内容はもはや古臭く、正確さも欠いていたが、そこにはこの本が執筆された当時の空気のようなものが残っているように感じられた。  
「まあ、風浦さんらしいセレクトと言えなくもありませんね」  
望は微笑んで、百科事典をパタンと閉じた。  
 
さて、問題はこれからだった。  
「風浦さんをこのままにしとく訳にはいかないんですが……参りましたね…」  
可符香が起きてくれないのだ。  
下校時間も過ぎた夜の学校にこれ以上生徒を置いておく訳にはいかないのだが、望の再三の呼びかけにも彼女は反応しない。  
ただすやすやと安らかな寝息が返って来るだけである。  
もっと激しく肩を揺さぶって、耳元で大声を張り上げれば、もしかしたら目を覚ましてくれるかもしれない。  
だが、望はそれを実行する事が出来なかった。  
「…………」  
得体の知れない物音に怯え、おっかなびっくりで図書室の奥へと向かい、彼女を見つけた。  
その時、望の胸に湧き上がったのは安堵の気持ちと、もう一つ……。  
「風浦さん……」  
彼女の傍らに膝をつき、その寝顔を見つめた。  
望は早く可符香を起こさなければならないと頭では理解していながら、心のどこかで彼女をずっとこのままにしておきたいと、そう思ってしまった。  
可符香の寝顔は本当に穏やかで、幸せそうで、それを壊す事は酷い冒涜のように思えたのだ。  
迂闊に触れれば壊れてしまいそうな、たとえようもない程に愛おしいもの。  
例えるなら、迷い込んだ森の奥深くで、静かに眠る妖精を見つけてしまったような、そんな感覚。  
望はそれを、眠る彼女の姿の中に垣間見てしまった。  
だが、しかしである。  
「……やっぱり、体が冷え切っていますね」  
望は可符香の手の平に触れ、彼女の体が随分と冷えてしまっている事を知った。  
セーラー服の上にコートを着用していたものの、暖房の効果も薄い部屋の片隅で冷え切った床の上に座っていたのだ。  
ある意味、当然の結果だった。  
これ以上、彼女をこの場に留めておけば、確実に体調を崩してしまうだろう。  
 
「すみませんね、風浦さん」  
望は彼女を寝かせたままにしたい自身の感情を押さえ込み、再び可符香を起こすべく声を上げた。  
「風浦さん!起きてください、風浦さんっ!!!」  
「ん…んん……むにゃ…」  
先ほどよりも格段に大きな声に、可符香はやっと反応を示した。  
さらに望は手の平を打ち合わせて、彼女の耳元近くでパンパンと大きな音を立てた。  
「ふぇ…あ……先生?」  
「ようやくお目覚めですか、風浦さん……」  
ようやく目を覚まし、薄目を明けて自分の方を見上げてくる彼女の顔に、望は苦笑を返した。  
目をぐしぐしとこすりながら、寝ぼけ眼の可符香は不思議そうに周囲を見回す。  
「あれ?なんだか随分暗いですね……?」  
「そりゃ、下校時間をとっくに過ぎてますからね。図書室の照明もほとんど落としてますし」  
「どうして起こしてくれなかったんですかぁ…」  
「それは、あなたがこんな所にずっと隠れてたからでしょう。自業自得ですよ」  
寝起きの可符香は普段より少し子供っぽかった。  
望はやれやれと肩をすくめ、可符香の手を取ってその場から立ち上がるように促す。  
しかし……。  
「もうちょっと寝ます…」  
「って、何言ってるんですか、あなたは!?」  
可符香は書棚に背中をあずけ、可符香は再び目を閉じる。  
「こんな寒いところにこれ以上いたら、確実に風邪をひいちゃいますよ!!」  
「構わないから寝かせてください」  
どうやら今の彼女はまだ半分寝惚けているらしい。  
体を丸め、完全に就寝態勢に移行した彼女を立ち上がらせるのは至難の業である。  
(ようやく起きてくれたと思ったら、参りましたね……)  
果たしてこの難局をどう乗り切るべきか?  
顎に手を当てて、望はウムムと唸った。  
そして、しばしの思案の後、彼が出した結論は驚くべきものであった。  
「風浦さん、そちらがその気なら、こっちも強硬手段で行かせてもらいますよ……っ!」  
「えっ?…せんせ?……ふあ!?」  
右腕で彼女の肩を、左腕で彼女の両脚を支えて、全身に力を込めて一気に持ち上げる。  
いわゆるお姫様抱っこの態勢だ。  
望の、運動不足の全身の筋肉が悲鳴を上げたが、彼はそんな事は一切気に留めず可符香の体を抱えて歩き出す。  
「せ、先生!?…ちょっと待ってください……っ!!?」  
「強硬手段でいくと言ったでしょう?とにかく、あなたを放って置くわけにはいかないんですよ」  
 
驚きと恥ずかしさのあまり、頬を赤く染めた可符香に、同じく顔を真っ赤にした望が答える。  
もしかすると、先ほど目にした眠れる可符香の姿が、そこに感じた言いようの無い愛おしさが、彼を突き動かしたのかもしれない。  
可符香も最初は望の行動に戸惑ったものの、やがて諦めて望の腕にその身を任せた。  
「そもそも、どうしてあんな所で寝てたんですか、あなたは?」  
「あの本があんまり面白かったから、つい……それに百科事典って禁退出で貸し出し不可じゃないですか」  
「それならそれで、机のある場所まで引っ張り出して、そこで読めば良かったでしょう?あんな暗くて寒い隅っこにいる必要はないじゃないですか」  
望がそう言うと、可符香は悪戯っぽく微笑んで、こう答えた。  
「なら、あそこにこっそり隠れて、ずっと先生の事を待っていたっていうのは、どうですか?」  
可符香の口から出てきた言葉は、いつもの彼女の常套手段だ。  
虚実をない交ぜにした捉えどころのない言葉で相手を煙に巻き、決して自分の本心を明かそうとしない。  
こちらの心の隙間にはするりと入り込んでくるくせに、自分の心には複雑怪奇な言葉と論理の迷路を張り巡らせて、相手の接近を阻むのだ。  
彼女の言葉がどこまで嘘で、どこまで本当なのか、望には全く見当もつかない。  
だが、彼には一つだけ、確実に分かっている事があった。  
(あなたの真意はともかく、さっきからあなたの顔、とっても嬉しそうに笑ってるんですよ、風浦さん……)  
「暗い部屋の隅っこで、先生が見つけてくれる瞬間を、ずっとずっと待っていたんです。けっこうロマンチックでしょう?」  
尚も楽しそうに言葉を続ける可符香の顔を、唐突に望の真剣な表情が覗き込んだ。  
「えっ?…先生?」  
「風浦さん……あんまり言われると、本気にしちゃいますよ、その話……」  
思いもかけない望の切り返しに可符香はしばし、きょとんとした表情を浮かべていたが  
「先生……っ!!」  
そう言って、可符香は望の首元に、今度は自分からぎゅっとしがみついてきた。  
その腕から伝わってくる彼女の確かな体温を感じながら、望はしみじみと思う。  
眠る彼女を見たとき、自分が感じたものに間違いはなかった。  
あの時、望は図書室の奥で妖精を見つけたのだ。  
(まあ、随分とこちらを困らせてくれる妖精ですが、妖精なんてそもそもそういうものですからね……)  
気まぐれで捉えどころが無くて、こっちの迷惑なんて知らない顔で好き勝手に飛び回る少女。  
だけど、彼女が心底楽しそうに笑っている今この瞬間が、望には他に代えられないほど大切なものであると思えていたのだった。  
 

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