「先生っ!」
ふわり、と自分の方に倒れこんできた少女の体を、望は反射的に受け止めた。
少女はそのままの体勢で望の背中に腕を回し、彼の体に抱きついた。
「うわ?な、な、何ですか、風浦さん?」
驚き戸惑う担任教師の反応に、可符香はこっそりと微笑んで、望を抱きしめる腕にさらにぎゅーっと力を込めた。
二人がいるのは放課後の教室。
窓から差し込む眩しい西日が、一つに重なった望と可符香の姿をほの赤く照らし出している。
女子の中では若干小柄な可符香と、長身の望とでは相当な身長差がある。
そのせいで、望に抱きついた可符香の頭はちょうど彼の胸のあたりに押し付けられる形になっている。
ドックン!ドックン!ドッ…ドッ…ドッ…!!!ドッドッドッドッドッ!!!
おかげで、可符香と密着状態になってどんどん早まっていく望の心臓の音を、彼女は耳元で聞くことが出来た。
まずは奇襲成功である。
「ふ、風浦さん、一体どういうつもりですか?」
「どうって、それは先生にハグしてるんじゃないですか」
「だから、なんでハグなんですか?どうして抱きついて離してくれないんですか!!!」
「まあまあ、その辺りの事は別にいいじゃないですか。それより、いいんですか?」
「はい?まだ何かあるんですか?」
「そんなに大声出してると、人、来ちゃいますよ?」
「ひっ!!?」
可符香の言葉に、望がビクンと全身を強張らせたのがわかった。
本当にわかりやす過ぎるぐらいにわかりやすい人だ。
そんな望の頭の中を駆け巡っているのは、これまたわかりやすい社会的破滅のイメージ。
(1)『糸色先生何してるんですか!』→(2)あっと言う間に広まる噂→(3)職員会議でつるし上げ
→(4)PTAでもっとつるし上げ→(5)同僚体育教師『いやはや、糸色先生もなかなか大胆ですな(ニヤニヤ)』
→(6)『ところで、こちらはご覧になられましたか?(ニヤニヤニヤニヤ)』→(7)なんか週刊誌の記事になってる!!
→(8)『スクープ!公立学校教員の淫行』→(9)記者会見→(10)懲戒免職→(11)東尋坊行きバスはやたらと揺れるんだなぁ……。
……以上のようなシュミレーションがおよそ1秒ほどの間に望の脳内で展開された。
(風浦さんから抱きついてきたなんて絶対絶対そんな言い分誰も聞いてくれないっていうか
むしろ『向こうから始めた事なのでこれは合意の上での行為』ってどこの犯罪者の言い分で
すかそんな事言ったら最後みなさんから袋叩きですよ袋叩き塵の一欠片も残さず完全粉砕
ですよホントにもうどうしてこんな事になってしまったんでしょうか神様………)
パニック状態の望は青ざめてガタガタブルブルと震えるばかり。
一方、その胸にぎゅっと顔を埋めた可符香は、何だかすごく安らいだような幸せそうな按配である。
(先生…あったかい……)
なんて望の慌てふためく様などどこ吹く風で、可符香は望のぬくもりを体いっぱいに享受する。
さて、それからどれくらいの時間が経過しただろうか、可符香の頭上から呻くような、泣き出しそうな声が聞こえてきた。
「ふ、風浦さん……ホントにこの辺で勘弁していただけませんか?」
「いやだなぁ、相手への好意を表すときは、外国なんかだとこのくらい大袈裟にいくじゃないですか。
というわけで、私も担任である先生への敬意をこの全身で表そうとしているだけで……」
「ここは日本!ここは日本ですからっ!!」
相変わらずのニコニコ笑顔の可符香とは反対に、望は今にも泣きべそをかきだしそうな様子である。
(うぅ、どうしてこう、風浦さんの仕掛けてくる悪戯って容赦がないんでしょうか……)
なんて、そんな事を考えたりしていたのだが、その時不意に彼は思い出す。
(そういえば、今日はろくに風浦さんと話せてませんでしたね……)
2のへでの毎度の騒動の中、毎回望をより破滅的な方向に誘導する可符香。
だが、今日は他の女子生徒達がいつもよりさらにヒートアップしていた為に、手を出せずにいたようだった。
それから、望はしばらく考えて……
「風浦さん……」
「えっ?…あ…先生?」
今度は自分から、可符香の体をぎゅーっと抱きしめた。
予想外の望の行動に戸惑う可符香、その耳元で彼はこう言った。
「離してほしければ、まずはそっちから手を離してください」
「先生、私に抱きつかれて凄く困ってたじゃないですか?どうしてそうなるんですか?」
「あのままじゃ埒が開きませんからね。あなたの手には乗りません。こっちからも反撃させていただきます」
望の言葉に答える可符香の声は、あくまでいつもと変わらない調子だったが、彼女の体を抱きしめている望には分かる。
腕に伝わる可符香の鼓動が着実に早まっている事が……。
(ついでに、こっちがさらにドキドキし始めてる事も風浦さんには筒抜けなんでしょうね……)
そのまま、望と可符香は互いの体を抱きしめ続ける。
意地っ張りでなかなか人に本音を語ろうとしない、実は似たもの同士の二人は抱き合ったまま動かない。
離したくなんかない、なんて口が裂けても言えないから、二人はずっと無言のままだ。
ただ、さらにギュッと力のこめられたお互いの腕と、高鳴り続ける鼓動だけが雄弁に二人の本音を語っていた。
二人っきりの教室に、だんだんと赤くなっていく夕陽の光を受けて佇むシルエットは、そのまましばらく動く事はなかった。
………のだけれど、
ガララララッ!!!
教室の扉が急に開いた。
「せ、先生も風浦さんも、何をなさってるんですかっ!!?」
その声に反応して、ギクリとした表情で顔を上げた望と可符香が目にしたのは、何だか今にも泣き出しそうな愛の顔だった。
「ちょ…加賀さん、これはですね……」
言い訳なんてある筈もなかった。
だって、見たまんまだったから。
「加賀ちゃん、これはね……」
「全然気が付きませんでした。風浦さんは先生の事が好きだったんですね……」
可符香も何も言えない。
『いやだなぁ』の『い』の字も出てこない。
「すみませんすみませんっ!私なんかがお二人の時間を邪魔するなんて、本当にすみませんっ!!!」
真っ赤な顔でそれだけまくしたてて、愛はその場から駆け出していった。
後に残された二人は、ただ呆然……
「見られちゃいましたね、風浦さん……」
「見られちゃいましたね、先生……」
力なく立ち尽くす望の脳内では、先ほど頭の中で繰り広げた東尋坊行きバスへ至るシュミレーションがもう一度繰り返されていたのだった。