その時の彼女を見て、望が最初に思い出したのは彼が現在の学校に赴任してきた最初の日の光景だった。  
風がやんで、先ほどまで荒れ狂うようだった雪が、ひらり、ひらりと静かに舞い降りてくる。  
今は葉を落とした桜並木の道。  
舞い落ちる雪に花びらを重ねて、望は春のあの日を、モノクロにしてもう一度見ているような、そんな錯覚を覚えていた。  
積雪の為だろう、周囲の交通はほとんど途絶えて、海の底のような静謐がその場を支配していた。  
白と黒だけの景色の真ん中に、彼女は無言で立ち尽くしていた。  
これだけの寒さだというのに、彼女はいつものセーラー服に袖を通しているだけで、他には何の防寒具も着用していない。  
肩や頭の上には薄く雪が積もっている。  
彼女がどれだけの時間、ここにいたのかを考えて、望の顔が青ざめた。  
望はすぐさまに彼女の下へ駆けつけようとするのだが、足元に積もった雪の為に上手く進む事ができない。  
故郷の信州でこの程度の積雪には慣れている筈なのに、纏わり付くような雪が望を前に進ませてくれない。  
望は焦った。  
分厚い雪のカーテンの向こうの彼女の姿が、そのまま押し寄せる膨大な白の中に消えてしまいそうな気がした。  
ずっとこちらに顔を向けている筈なのに、彼女の瞳には望の存在も、それどころか周囲の景色さえも映っていないように思われた。  
雪の粒に紛れて、彼女の表情がよく見えない事が、余計に望を不安にさせた。  
一歩でも前へ、少しでも彼女の近くへ、望は雪の中を進んでいく。  
そして、ようやく望が彼女の下へ辿り着くその一瞬前に、彼女の小さな体は、ふらり、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。  
何とかその体を受け止めようと一歩前に進み出た望の腕は間に合わず、倒れこむ彼女の上体は望の鳩尾のあたりにぶつかる。  
それはちょうど、あの日、桜の木の下で首を括ろうとしていた望を引きずりおろそうと、彼の体に彼女がしがみついた光景を思い出させた。  
だけど、今度はその腕は望の体に触れる事すらなく、彼女はそのまま雪の中へとくずおれた。  
「風浦さんっ!しっかりしてくださいっ!!風浦さんっっ!!!」  
助け起こした望の呼び声に、彼女が応える事はなかった。  
 
それから、望は冷え切った彼女の体を背負って、雪道の中を兄・命の経営する病院へと急いだ。  
道路を埋め尽くし、交通を阻む雪の存在が、望にはこれ以上ない程に疎ましかった。  
やっとの思いで辿り着いた病院で、彼女はすぐさま暖房の効いた病室のベッドに寝かされ、命による診察が行われた。  
外ではあれほどに冷たかった彼女の体は、しばらくして恐ろしいほどの発熱を始めた。  
40度を越える高熱。  
だが、その燃えるような体温に反して、ベッドの上の彼女はうなされる様子さえなく、僅かな呼吸以外はピクリとも動かない。  
傍から見ているとそれは、まるで死体が横たわっているように見えただろう。  
看護師達が点滴を施した後も、熱は一向に下がる気配を見せず、彼女は昏々と眠り続けた。  
望は、その様子をただ見ている事しか出来なかった。  
結局、彼女に対する治療が効果を見せ、熱が下がり始めたのは望が彼女を発見してから、およそ二日後。  
彼女が深い眠りから目を覚まし、その瞼を薄っすらと開けたのはさらに半日も後の事だった。  
そして……。  
「気がついたんですね!風浦さん!!」  
「…………」  
ベッドの脇で彼女の様子を見守っていた望は喜びの声を上げたが、直後、自分を見上げてくる彼女の無表情に息を呑んだ。  
「……すみません、先生。迷惑、かけたみたいですね」  
一切の感情を感じさせない声で、彼女は望に言った。  
 
それ以来、目を覚まして一週間が経過した今日に至るまで、彼女・風浦可符香が笑顔を見せる事はなくなった。  
 
 
今日も望は糸色医院を訪れていた。  
一時の40度を越える高熱は去ったものの、可符香の体温は未だ37度台を上下し、平熱まで下がらなかった。  
食事にもろくに手をつけようとはせず、彼女はゆっくりと衰弱し続けていた。  
まるで、失われた笑顔と一緒に、生きる意志までもどこかに置き去りにしたようだと、看護師の誰かが言っていた。  
望が病室を覗くと、可符香はベッドの上に体を起こし、窓の外の景色をずっと見ていた。  
その窓ガラスに、彼女の無表情が映っている。  
「失礼します。今日もお邪魔しますよ、風浦さん」  
病室に足を踏み入れた望が声をかけても、可符香が振り返る事はない。  
だが、望はそれをさして気にする事もなく、可符香のベッドの脇へと歩み寄る。  
「これ、今日の分の学校のプリント類です。まあ、今は読んでられるような調子じゃないでしょうが、とりあえず置いておきますね」  
そう言って、望は鞄からプリントを入れた茶封筒を取り出す。  
そこで、ベッド脇のチェストの上に昨日持って来たプリントがそのまま手付かずで置かれている事に気付く。  
「…………」  
望はそれを見て、引き出しの一段目を開く、中に入っているのはこれまでの一週間で溜まった茶封筒の束だ。  
望はチェストの上の茶封筒を、今日持って来たものと一緒にそこに仕舞う。  
それから足元に鞄を下ろして、ベッド脇の丸椅子に腰掛ける。  
「体の調子の方はいかがですか?」  
「………変わりません、何も」  
そこでようやく可符香は望に言葉を返した。  
だが、望の方に顔を向けようとはしない。  
「そうですか……。せめて栄養のある物を食べて、体力を回復しないといけませんよ」  
「…………」  
再びの無言。  
望はそれ以上無理に言葉をかけようとはせず、学校から持って来た諸々の書類、生徒からの宿題を鞄から取り出し、黙々とそれらに取り掛かる。  
可符香が目を覚ます以前から見舞いに来ていた望だったが、現在の可符香は一事が万事この調子だった。  
自分からは何も喋らず、望に何かを問われても、ほとんど答えようとしない。  
それでも望は毎日可符香の下を訪れては、時間の許す限り彼女の傍らに居続ける。  
「例の大寒波の方はようやく去ってくれましたが、まだまだ寒さは緩んでくれませんね」  
時折話しかけてくる望の言葉にも、可符香は反応を示さない。  
ただ、可符香が倒れたあの日から十日近く経過したというのに、まだ雪を残している窓の外の道路だけを彼女は見つめている。  
望はしばらく可符香の背中を見つめていたが、やがて再び手元の宿題の束に視線を戻した。  
「…………」  
静寂に支配された病室の中、カリカリ、カリカリと望の赤いボールペンの音だけが絶える事無く響き続ける。  
時が止まったような病室の中、可符香は身じろぎもせず、ずっと窓の方だけを見ている。  
だが、果たして彼は気付いているのだろうか?  
窓の外、暮れ行く夕陽に照らされた街並みだけを見ている筈の眼差しが、時折、その窓に映る望の姿に向けられている事を………。  
 
それから3時間近く経過しただろうか?壁に掛けられた時計を見た望は、既に閉院時間が近付いている事を知った。  
「今日はそろそろ終わりですか……」  
望は今まで膝の上に広げていた仕事道具を鞄に仕舞いこんだ。  
それから、今日もほとんど会話を交わす事のなかった可符香の背中に視線を向ける。  
もうかれこれ十日以上も彼女の笑顔を見ていないのだと思うと何か不思議な気分だった。  
彼女が目を覚ましたときの、何の感情も感じさせない声を、表情を、望はまざまざと覚えている。  
そしてあの時自分が感じた、自らの足元が崩れていくような言いようの無い絶望感を……。  
それまでの平穏な日々はあの日呆気無く暗転してしまった。  
「それじゃあ、私はこの辺りで帰らせてもらいます。風浦さん……」  
そう言って、鞄を片手に立ち上がった。  
だけど、いつもならば『風浦さん……また明日』そう続く筈だった言葉が今日に限って遮られた。  
「先生……」  
他ならぬ、風浦可符香の言葉によって……  
「先生…もう、やめてください……」  
いつの間にか、彼女は振り返り、望の顔をキッと睨みつけていた。  
その顔に浮かぶのは、心の底から湧き上がる何かを必死で堪えているような、苦しげで険しい表情だった。  
「先生は親切のつもりでやってるんでしょうけど、迷惑なんです、正直」  
冷たく、突き放すように、淡々と、可符香は言葉を重ねていく。  
「先生は私にどうして欲しいんですか?前みたいに笑っていればいいんですか?  
どんな時でも、どんな事が起こってもニコニコ笑ってる、そんな私がお望みですか?」  
可符香の言葉は、望の心をズタズタに切り裂くナイフのようでありながら、同時に彼女自身の心まで抉っているようにも聞こえた。  
「残念ですけど、私にそんな余裕なんて無いんです。先生が思い描くような『風浦可符香』を演じて上げる余裕なんて、もうどこにも無い……」  
望はそれらの可符香の言葉をただ黙って受け止める。  
(全部、風浦さんの言う通りです。結局のところ、私は……)  
望にはもう、返す言葉などありはしなかった……。  
鞄の持ち手をぎゅっと握り締め、顔を俯かせて、望は病室を後にする。  
可符香もまた去っていく望の背中から辛そうに目を逸らし、窓の外へと視線を戻す。  
再び静寂に沈んだ病室の中に、言葉を発する者はもう誰もいなかった。  
 
望が可符香の見舞いに来たときは必ず、医院の建物を出る前に兄の命に彼女の様子を報告するのが常となっていた。  
診察室のドアを開くと、命は開口一番、こんな言葉で望を出迎えた。  
「お前、今日はまた一段と酷い顔だな……」  
呆れたような表情と口調、だが、その眼差しは可符香とのやり取りで憔悴した望を心配する色が滲み出ている。  
望もそれに気付いているのか、努めて明るい口調で命に応える。  
「ええ、どうにも、フラれちゃったみたいです……」  
望は患者用の椅子に腰を下ろして、命に力なく微笑んだ。  
「って事は、今日もいつも通り……」  
「それよりもう少し悪いですね。もう私には来ないでほしい、風浦さんはそう言ってました」  
望の言葉を聞いて、命は難しい顔で腕組みをした。命にとっても、可符香の容態は大きな懸案事項だった。  
ゆっくりと、しかし着実に可符香の体は弱っていた。  
それが肉体的な問題よりも、むしろメンタルの面に関わる出来事である事も命は理解している。  
だが、彼女の心を解きほぐすのは、命はもちろん、専門のカウンセラーや医師にとっても難しい仕事だろう。  
彼女の担任教師であり、最も親しい人間である望に一縷の望みを託していたのだが………。  
「私自身、今の風浦さんを見て焦りすぎていたんでしょうね。とりあえず、しばらくは彼女の言う通りお見舞いは控えようと思います」  
「そうか……」  
それから、望は鞄を手に再び立ち上がる。  
「そういう訳ですので、次に来るのは少し先になると思います。風浦さんの容態に急変があった場合は、すみませんけど、私に連絡、お願いします」  
それだけ伝えてから、望は診察室から出て行こうとする。  
その背中に命が問いかける。  
「大丈夫……なのか?」  
足を止め、振り返らないまま望が答える。  
「大丈夫ですよ。彼女はそんなに弱い人間じゃありません。いずれ必ず回復してくれますよ」  
「違う……。俺が言ってるのは、お前の事だ。望……」  
今の望はまるで、可符香の容態に引きずられるように、日に日に衰弱しているように見えた。  
望は命の言葉にしばし沈黙した後  
「すみません、命兄さん……」  
それだけ言い残して診察室を出て行った。  
命にはその力ない後姿をただ見送る事しか出来なかった。  
 
望が病室を出て行ってからも、可符香はずっと窓の外を見ていた。  
もとより、無機質で殺風景なこの部屋の中に、眺めている価値のある物などありはしないのだ。  
びゅおおお、と冬空の下の街を吹きぬける、冷たい風の音が部屋の中にいても聞こえてくる。  
寒々しいその音を聞きながら、可符香は先ほどの望とのやり取りを思い出す。  
『先生…もう、やめてください……』  
望に突きつけたあの言葉は、偽らざる可符香の本音だった。  
『先生が思い描くような『風浦可符香』を演じて上げる余裕なんて、もうどこにも無い……』  
彼女は疲れきっていた。  
幼い頃の幸せな日々が少しずつ壊れていくにつれて、彼女がかぶるようになった笑顔の仮面。  
過酷な毎日を生き抜くには、可符香はそれに縋るしかなかった。  
「だけど……」  
だが、あの十日前の雪の日、彼女は知ってしまった。  
郵便受けを確認して見つけたおじからの手紙。  
あの日の天気で郵便の配達がマトモに行われたとは思えないから、おそらく前日には届いていたのだろう。  
手紙の封を切った私は、その内容を読んで、何故もっと早くそれが届いていた事に気付かなかったのか、死ぬほど後悔する事になるのだけど。  
「おじさん……どうして…」  
封筒の中から出てきた三枚の便箋、そこにはおじから私に向けての謝罪の言葉がびっしりと書かれていた。  
『もう、杏ちゃんには迷惑かけられないから、俺が近くにいたら杏ちゃんきっと困るから、だから、ごめんな』  
刑務所で服役中だったおじは、今月の終わりにようやく刑期を終えて出所する筈だった。  
だけど、手紙を読んで初めて、おじが私に嘘を教えていた事が分かった。  
本当のおじの出所日は先月の中ごろ、刑務所を出たおじは僅かなお金と荷物だけを持ってどこかへと消えてしまった。  
『俺のように脛に傷持つ男が関わりを持てば、それだけで杏ちゃんがどんな目にあわされるか……』  
そんな事はない。  
これまでの短い人生の中で、数え切れない不幸に、可符香は晒されてきた。  
だけど、その中で可符香は少しずつ、この世界を生き抜くための力を貯えてきた。  
もうこれ以上、どんな事があろうとも、自分の大切なものを失いたくない、ただそれだけの為に……。  
だけど、運命は呆気なく可符香の傍からおじの存在を奪い去った。  
『そもそも、俺がどんな男かは、杏ちゃんだって知っているだろう?俺には杏ちゃんに顔を合わせる資格なんて本当は無いんだよ』  
違う!違う!違う!  
確かに可符香はおじの罪を知っている。  
金銭を目当てに家に押し入り、結果として相手の命を奪う事にはならなかったが、人を傷つけた。  
だけど、可符香はおじがその罪を悔い、塀の中で懸命に償いを続けている事を知っていた。  
だからこそ、可符香は数少ない面会の機会に、出来る限りの笑顔でおじを励まし続けたのではないか。  
可符香は以前から、おじの出所に備え、幅広い人脈を活用して彼のための働き口と住居の手配もしていた。  
前科者にはとかく厳しいこの世の中で、おじが生きていく為のあらゆる算段を整えてあった。  
だけど、それらは無残にも水泡に帰してしまった。  
他ならぬ、おじ自身の意思によって………。  
『散々世話になっておいて、礼も出来ずに本当にごめんな。杏ちゃんは幸せになってくれ。俺なんかの事は忘れて、誰よりも幸せに……』  
手紙はそこで終わっていた。  
 
最後の一文を読み終わった瞬間、可符香はその場に突っ伏した。  
「わ、笑わなきゃ…笑ってなきゃ………」  
心の痛みでグシャグシャになっていく顔に手の平をあてがい、必死で笑顔を形作ろうとする。  
「笑わなくちゃ……笑わ…なくちゃ…………笑えっ…笑えっ!!」  
だが、それはボロボロと崩れて、苦悶の表情へと歪んでいく。  
(私は笑ってなくちゃいけないのに……笑ってなきゃ、何もかも失ってしまうのに……)  
幸せは常に笑顔の人の下にある。  
どんな時も前を見ていられる人、笑顔と共にある人は最後には自分を取り囲む状況を幸せなものへと変えていける力がある。  
過酷な運命に翻弄されながらも、可符香は常にそう信じ、笑顔を絶やさずにいた。  
だけど、やっぱり無理だったのだ。  
結局のところ、可符香の笑顔は仮初めのものでしかない。  
そんな嘘に塗れた演技で、幸せを繋ぎとめる事なんて、最初から出来る筈がなかった。  
本当はずっと前から気付いていた。  
だけど、今更、長年かぶり続けた笑顔の仮面を脱ぎ捨てる事なんて出来なかった。  
仮初めの笑顔で作り上げた、仮初めの人間関係の中で、仮初めの幸せに浸って、いつかやって来る破滅の時に怯える。  
それが可符香の人生だったのだ。  
そして、今、ついにその時はやって来たのだ。  
今の自分には、バラバラに砕けた笑顔の仮面をつなぎ合わせて、もう一度笑う事なんて出来はしない。  
だけど、それが無くなってしまえば、可符香に残されるのは何もない、虫食いだらけで空っぽの空しい自分だけ。  
そんな人間に誰が触れてくれるだろう。  
誰が微笑みかけてくれるだろう。  
伽藍堂になってしまった自分には、もう何の価値もないのだ。  
だからこそ、可符香には望の存在が腹立たしかった。  
空っぽの自分に、かつての笑顔をどこかで期待する、そんな態度が憎たらしかった。  
「先生……私はもう、先生の期待なんかには応えられないんですよ」  
可符香はそう呟いて、口元に皮肉げな笑みを形作ろうとする。  
だけど、可符香の顔は見苦しくこわばって、結局そんな僅かな笑顔さえ装う事が出来なかった。  
ああ、本当にもう、私は空っぽになってしまったんだ……。  
窓辺に佇む可符香の小さな背中は、どこまでも孤独だった。  
 
蛍光灯の明かりを落とした暗い部屋の天井を見つめながら、望はずっと考えていた。  
(これから、私はどうすればいいんでしょうか……)  
三日前、今のところ最後のお見舞いとなったあの日の可符香の言葉がまだ望の耳に響いている。  
『先生が思い描くような『風浦可符香』を演じて上げる余裕なんて、もうどこにも無い……』  
彼女の言った通り、結局自分が求めていたのは、愛らしい笑顔を振り撒く、自分にとって都合の良い『風浦可符香』という存在ではなかったのか。  
勘の鋭い彼女が、それに気付かない筈はない。  
望のそうした態度が、何か深い傷を心に抱える今の彼女にとってどれだけ辛いものだったのか。  
考えれば考えるほど、望の頭の中は後悔の念でいっぱいになっていく。  
可符香が倒れてからずっと寝不足だった望だが、先日の一件以来それは酷くなる一方だ。  
日常生活、学校での授業にもその影響は出始めていたが、彼の担当する2のへの生徒達は何も言わなかった。  
彼らもまた、目を覚ました可符香の下へお見舞いに行き、そこで今の彼女の状態を目にしていた為である。  
そして、今夜も延々と可符香の事ばかりを考えている内に、望の眠れない夜は過ぎていく。  
 
夜中の三時を過ぎた頃、望は布団の中から立ち上がった。  
宿直室を出た望はそこから少し離れた、学校のトイレへと向かう。  
用を足してトイレから出てきた望は、ため息まじりに呟く。  
「こんな時でも、私の体は勝手に動き続けるんですね……」  
望は廊下の冷えた空気に体を震わせながら、窓の外に浮かぶ月を見る。  
「彼女は今頃、どうしているのでしょうか……?」  
一日毎に命に電話して、可符香の容態を聞かせてもらっているが、やはりどうにも芳しくないようだ。  
そして、彼女の今の精神状態が回復の足を引っ張る最大の要因となっている事はおそらく間違いないだろう。  
この月の下、彼女は今も眠れぬ夜を過ごしているのか。  
それとも、終わる事のない悪夢にうなされ続けているのか。  
考えるだけで、望の頭の中はいてもたってもいられない気持ちでいっぱいになる。  
だが、その度に望の耳にあの時の可符香の言葉が蘇る。  
『先生…もう、やめてください……』  
何もかもを諦めたような、力ない彼女の言葉。  
それを思い出すと、望は自分が彼女のためにしてやれる事などあるのだろうかと、圧倒的な無力感に苛まれる。  
きっと、あの雪の日、それまでの人生を必死で生き抜いてきた彼女の何かがプツリと切れてしまった。  
彼女がどれだけ心の中であがき続けてきたか、それを知らない望に一体何が出来るというのだろう。  
可符香の笑顔が戻ってくる事を願うのは、結局のところ己のエゴでしかない。  
彼女の精神はそれよりもっとずっと深いところで苦しみ続けてきたというのに………。  
ふらり、望は寝間着のまま、校舎の外へと出て行く。  
行き先は学校へ通じる道の途中にある、あの桜並木。  
あの日、望が雪の中で立ち尽くす可符香を見つけた場所であり、望と可符香が初めて出会った場所でもある。  
「やっぱり冬の間のこの場所は、どうにも寒々しいですね……」  
街灯に照らされ、道路に影を落とす木々の群れを見上げて、望が呟く。  
全ての葉を落とした姿で静寂の中に立ち続ける彼らの姿は、来るべき春に備えて眠っているようにも見えた。  
望はその光景を見ながら、あの春の日の出来事を思い出す。  
あの時、望はここの桜のうちの一本の枝にロープを括りつけ、首を吊っていた。  
それを発見した可符香が望を助けようと体にしがみついて来て、ロープが千切れて望が落下するまでずいぶんと苦しい思いをさせられた。  
「あの時は、どうして首なんて吊ろうとしてたんでしょうね……」  
今の望にはそれを思い出す事が出来ない。  
きっと、ほんの些細な事だったのだろう、他人から見れば鼻で笑ってしまいそうなほど、些細な原因だったに違いない。  
だいたいからして、望の自殺未遂はそうする事で自分の苦しみを周囲にアピールするかわいそぶりなのだ。  
ただ、そうだとしても……  
「そうだとしても、あの時の私は首を吊らずにはいられなかった……」  
あの頃の望は今以上に心が弱く、不安定だった。  
生徒向けの筈のカウンセリングルームに行っては、智恵先生に色々と話を聞いてもらったりもした。  
ほんの小さな不安にも怯える事しか出来なかったあの頃の彼には、それしか自分を支える術がなかったのだ。  
たとえ、誰に理解されなくとも、それは望にとって必要な事だったのだ。  
「考えてみれば、風浦さんだって同じですよね……」  
深く重い悩みを抱える彼女を、結局のところ誰も理解してやる事は出来ない。  
同じように、他の人間には理解できない苦しみの中で生きてきた望にはそれが痛いほどに分かる。  
「結局、私には風浦さんを助ける事なんて、出来はしない……」  
望は空に浮かぶ月を眺めながら、力なく呟く。  
だけど……  
 
「風浦さんっ!……風浦さん…っ!!」  
理解する事など出来ない。  
助けになんてなれない。  
それを痛いほど理解している筈なのに、止め処もなく湧き上がる強い思い。  
積み重ねてきた彼女との日々が、その思い出が、望の心を強く揺さぶる。  
「風浦…さ……」  
ボロボロと零れ落ちて止まらない涙が頬を濡らす。  
ぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆って、望はその場に膝をついた。  
やがて、彼は気付く。  
確かに自分は可符香の気持ちなど考えず、ただかつての彼女の笑顔ばかりを求めていたのかもしれない。  
そして、その事が結果としては、彼女を余計に苦しめる事になったのかもしれない。  
だとしても………  
「そうだ…彼女が笑うから……その笑顔が『風浦さん』のものだっただからこそ私は……」  
この学校にやって来てからこれまで、常に自分の傍らには彼女がいてくれた。  
それが望を支え、前に進ませてくれた。  
彼女は望の中でいつしか他の何にも代えられない存在へと変わっていた。  
かつての笑顔を求める事が今の彼女を苦しめる事になるなら、そんな物はもういらない。  
ただ、そこにいてくれるだけでいい。  
「……風浦さん、私にはあなたが必要です……っ!!!」  
 
翌日、糸色医院、可符香は昏々とした眠りの中にあった。  
身体的・精神的な限界が近付いたという事だろうか。  
彼女の体温は再び上昇を始め、命と糸色医院の看護師達は彼女の容態を固唾を飲んで見守っていた。  
そんな中、可符香の意識はゆらめく悪夢の中を漂っていた。  
暗く冷たい泥沼の中をどこまでも沈んでいく。  
見上げれば遥かかなたに光が見えるのに、何とか浮かび上がろうとしてもがけばもがくほど、  
手足にまとわりつく泥濘に邪魔をされて、さらなる深みに引きずりこまれていく。  
手を伸ばせばすぐにでも届きそうなのに、可符香はその光に触れる事すら叶わない。  
やがて、光は薄らいで消えて、どこまでも暗く静かな闇の底へ底へと可符香は沈んでいく。  
(笑わ…なくちゃ……)  
その暗闇の中で、可符香は思う。  
どんな深い絶望の中にあっても、前を向いて笑っていられる人間は、きっとそれだけで幸せなのだから。  
(だけど…私の笑顔は偽物だから……)  
嘘っぱちの笑顔。  
嘘っぱちの希望。  
そんなものを幾ら並べたところで、一体何を得られるというのだろうか?  
どれほど外側を飾り立てたところで、風浦可符香の内実は空しいばかりの伽藍堂だ。  
そして、いまやその虚飾の仮面は粉々に砕けて消えたのだ。  
それは風浦可符香、もしくは赤木杏と呼ばれた少女が消え去ったのと同義なのではないかと、彼女は考える。  
風浦可符香は空っぽになったのではない。  
風浦可符香は”いなくなった”のだ。  
かつての自分を、風浦可符香という名前の嘘っぱちで覆い尽くして、今までの日々を生きてきた。  
そして、その全ての嘘が崩れ去った今、そこにはもう何も残されていない事を知った。  
(じゃあ、今こうしてその事を考えてる私は、一体誰なんだろう……?)  
答えはきっと簡単だ。  
赤木杏でもなく、風浦可符香でもなく、この世界の誰にとっても価値を持たないもの。  
存在しない人間。  
(そうだ。もう、私は誰でもないんだ……)  
静かに肯いて、可符香はもがくのをやめた。  
やがて、可符香の意識は冷たい泥の中に溶けて消えてしまう、その筈だった。  
だけど……  
(あれ……?)  
ふと、左の手の平に熱を感じた。  
それが、溶けて消え去る筈だった可符香の心を一点で繋ぎ止める。  
その温もりに引っ張り上げられるように、可符香の意識は一気に覚醒へと向かった。  
 
「気がついたんですね、風浦さん……?」  
目覚めた可符香を出迎えたのは、見慣れた担任教師の安堵に満ちた表情だった。  
ここ十日ほどで見飽きるほど眺めた天井、薬品のにおいのする空気、窓の外は明るく、日差しの向きから考えてもう午後を回っているようだった。  
そこで改めて、可符香は自分の左手を強く握る、手の平の感触に気がつく。  
見ると、望の両の手の平が上下からそっと可符香の左手を包み込んでいた。  
「先生………?」  
「……命兄さんから連絡がありました。あなたの容態があまり芳しくない方向に向かっていると……  
でも、ようやく熱も下がってくれたみたいで、少し安心しましたよ……」  
望の言葉を聞いて、可符香の頭の中に先ほどの夢の内容が再びこみ上げてくる。  
もう来ないで欲しい、数日前、望に告げた言葉をもう一度口にしようとする。  
だけど、手の平から伝わる温もりは、優しく、そして頼もしく、彼女はどうしてもそれを言う事が出来ない。  
(違う。間違えちゃ駄目だ。先生が求めているのは”以前の風浦可符香”。今の私じゃないんだ……)  
可符香は、相反する二つの想いの狭間で葛藤激しくする。  
しばらくの後、やっとの思いで喉から搾り出したのはこんな言葉だった。  
「どうして…なんですか?」  
震える声を抑えて、できるだけ平静を装う。  
「あの時、言ったじゃないですか。もう私は先生の考えるような『風浦可符香』を演じる事なんて出来ない。  
先生が何を期待したって、私にはもう応える事なんて出来ない。それなのに、どうしてこんな所にいるんですか!!」  
しかし、可符香は湧き上がる激情を抑える事が出来なかった。  
高熱で消耗し切った体を強引にベッドの上に起こして、可符香はほとんど泣き出しそうな声で叫ぶ。  
「元から私には何もなかったんです。偽物の笑顔と偽物の希望の中に、偽物の幸せを見出して生きてきた私に真実と言えるものなんて何一つなかった。  
だけど、今の私には、その嘘を支えていくだけの力も残っていない………っ!!!!!!」  
「風浦さん……」  
「全部を嘘で塗り固めて生きてきた私から、その嘘さえ消えてなくなってしまった。……私にはもう何も残されていないんです!!!」  
そこまで叫び終えたとき、体力と精神の限界にあった可符香の体は、ぐらり、バランスを崩してベッドの上から崩れ落ちそうになる。  
しかし……  
「あ……」  
「風浦さん…それは違います」  
そのギリギリのタイミングで、可符香の体は望の腕に抱きしめられていた。  
「すみません。私の考え足らずのせいで、随分と苦しませてしまったみたいですね……」  
朦朧とする意識の中、可符香が見たのは自分をまっすぐに見つめる、望の決然とした表情だった。  
「嘘だとか演技だとか、それがどうしたって言うんですか?あなたは何も失ったりしていない。  
……私だって似たようなものです。その場しのぎの『絶望』なんかで自分を誤魔化して、ようやくここまで生きてきました……」  
「先生……」  
「嘘でも演技でも誤魔化しでも、それがたとえ何だったとしても、その積み重ねの上にあるあなたは本物の筈でしょう、風浦さん?」  
あの日、可符香に言い放たれた言葉、それだけを考え続けて望が辿り着いた答えがそれだった。  
確かに自分は、彼女の笑顔の中にどこか安易な安らぎを求めていたのかもしれない。  
だけど、それだけじゃあなかった。  
彼女に言われて、ようやく望は気付く事が出来た。  
彼女が、『風浦可符香』が笑うから、自分も笑う事が出来た。  
自分が求めているのは、他ならぬ彼女自身なのだと……。  
笑顔の仮面も、偽りの希望も関係ない。それら全てを含めた風浦可符香という存在を、望は求めているのだから。  
「私にはあなたが必要です、風浦さん……」  
静かに、しかしハッキリと望は言い切った。  
可符香は望のその言葉に、しばし呆然としていたが……  
「せんせ……先生……先生っっ!!!」  
ボロボロ、ボロボロと、まるで堰を切ったように流れ出した涙で濡れた顔を望の胸に埋め、彼の背中に回した腕にぎゅっと力を込めた。  
薄暗い病室の中、望の胸で泣きじゃくる可符香は、もう一人きりでも孤独でもなかった。  
 
それから数日をかけて、可符香はゆっくりと回復していった。  
そして、ようやく可符香が学校に復帰したのは、二学期の終わりを間近に控えたある日の事だった。  
久しぶりに教室に姿を現した彼女は、鞄の中から一通の封筒を取り出して、望に見せた。  
「それは、もしかして……?」  
「はい。おじさんからの手紙です」  
あの後、望は可符香から今回の一件のきっかけとなったおじからの手紙について話を聞かされていた。  
彼女はおじの服役していた刑務所の関係者から話を聞いて、出所したおじが向かった先を何とか特定する事に成功した。  
そして、現在の自分の心境をつづり、おじに宛てた手紙を出していたのだが……。  
「どうでしたか?おじさんからの返事は……」  
「やっぱり、私には迷惑をかけたくないそうです……。でも、定期的に手紙で連絡してくれるって、約束してくれました…」  
そう語る可符香の顔に、心の底からの安堵の表情が浮かぶ。  
可符香のそんな様子を見つめる望の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいる。  
「よかったですね、風浦さん……」  
「はい……」  
肯いて応える可符香の顔にも、また笑顔。  
それでも可符香は、この瞬間にも、どこかで笑顔の仮面を被って、『風浦可符香』を演じようとしている自分を感じていた。  
だけど、そんな部分も含めた全てが合わさって、今の自分が形作られている。  
あの夜、望の胸の中で思い切り泣いて以来、可符香はごく素直に、そう思う事ができるようになった。  
ふと窓の外を見ると、いつの間にやらちらちらと雪の粒が地面に舞い降り始めていた。  
「どうにも寒いと思ったら、降り出しましたか……風浦さん、あなたは病み上がりなんですから、特に気をつけてくださいよ」  
「いやだなぁ、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。あんな事があったばかりなんですから、当然気をつけますよ」  
振り返り、崩れ落ちそうだった自分を繋ぎとめてくれた、担任教師に微笑みかける。  
その表情に、どこかぎこちなさや、演技や嘘の気配が残っているのだとしても、もう彼女が迷う事はない。  
自分が今浮かべているのは間違えようもなく、『風浦可符香』の笑顔なのだから。  
 

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