夜明け間近のほの暗い街を、ゆらりゆらりと歩く男が一人。  
身長は高いようだが、今は手にした鉄パイプを杖代わりにほとんど這いずるように進んでいるので、一見しただけではそうは感じられない。  
時折、街灯に照らし出されて見える服の色は白に縁取られた赤。  
ただし、赤にも二種類があって、ごく普通の明るい赤の上に、白い縁取りの部分までを汚すどす黒い赤が散らばっていた。  
実は、どす黒い部分のほとんどは、彼が流した血の色である。  
僅かに混じる他人の血は、地獄の如き大乱闘の最中を彼が必死で逃げ回っている間に浴びてしまったものであった。  
彼は人気のない朝の住宅街をよたよた、よたよたと歩いていく。  
今にも倒れそうな彼がそうまでして歩き続けるのは、どうしても行かなければならない場所があるからだ。  
一歩、また一歩、足を踏み出す度に全身を駆け抜ける痛みを堪えて、彼は進む。  
やがて、彼の目の前にようやく目的の場所が、三階建てのアパートのシルエットが見えてくる。  
「も、もうすぐです……」  
彼は、何とかアパートのとある部屋のドアの前まで辿り着き、懐に手を入れる。  
「後は…”コレ”を……」  
だが、彼の肉体は懐の中の物を取り出す前に限界を迎えてしまった。  
ぷつり、彼の意識は唐突に途絶え、彼はドアにもたれかかるようにその場に倒れてしまったのだった。  
 
「あ、先生、やっと目が覚めたんですね」  
彼がようやく閉ざされていた瞼を開いたとき、まず聞こえてきたのは耳に馴染んだその明るい声だった。  
「風浦さん?どうしてあなたが……?」  
「いやだなぁ、どうしてってそれはこっちの話ですよ。朝起きてドアを開けたら、先生が倒れてたんですから」  
「そうですか。ああ、確かにそうでしたね。私はあそこで気を失って……」  
風浦可符香の言葉を聞いて、だんだんと記憶が鮮明になっていく。  
彼、糸色望はボロボロの体で可符香の部屋の前まで辿り着き、そこで気を失ったのだ。  
寝かされていた布団の上にゆっくりと起き上がり、改めて今の自分の状態を確認する。  
体中のところどころに、可符香が手当てしてくれたと思しき包帯を巻かれた箇所がいくつもある。  
服は気を失う前と同じ、血まみれのサンタ服。  
「そもそも、こんな格好をしたのが不幸の始まりだったんですよね………」  
望が何故そんな状態だったのか、全ては昨晩の出来事が原因である。  
未だにサンタを信じる千里のために、木津家総出で行われる小芝居の中、サンタ役を演じる羽目になってしまった望。  
ところが、千里の目の前でサンタの付け髭が取れてしまい、彼女が『先生がサンタだったのね』なんて言い出した辺りから事態は妙な方向に進み出した。  
サンタ達が集い、戦い、一番を決める……そんな場所に行く事になってしまったのだ。  
そこで待ち受けていたのは秋田社の月刊漫画誌辺りが似合いそうなおっかない面々。  
その上、何故だかいつもと違う鋭い目つきの甚六先生まで乱入してきたのだからもうたまらない。  
熱い血をさらに熱く煮えたぎらせた男達の決戦場で、望は必死で逃げ回り続けた。  
しかし、次々と襲い掛かる猛者達を前に、いつまでも無傷でいる事など出来る筈も無く………。  
「……というわけで、今の私はこの有様です。ホント、何でこうなってしまったんだか……」  
「それは災難でしたね……」  
望の話を聞いてから、気遣うような優しい眼差しで可符香がそう言った。  
望はその視線に、思わずグラリと心が揺れそうになるのだけれど………。  
「……って、あなたも割りと楽しげに傍観してたじゃないですか!!!」  
「あははー」  
悪びれもせず笑う可符香を、望は恨めしげな眼差しで睨みつける。  
「だいたいにおいて、あなたはいつもそうですっ!!毎度毎度私の心の隙間を突いて、ヤバイ方向に誘導して、  
自分だけは安全な場所にいて、私の苦しみのたうつ様を見てる!!それもずっと!この学校に来て以来ずっとですよっ!!!」  
「それは誤解ですよ、先生」  
望の言葉にも一切動じない可符香の笑顔。  
それを向けられただけで、望は、むぐぐ、と何も言えなくなってしまう。  
(うう……結局、私は風浦さんに丸め込まれてしまう運命にあるんでしょうか……?)  
だけど、そこからさらに可符香が呟いた言葉は、昨夜の凶悪なサンタ達の一撃を上回る衝撃で、望の思考を断ち切った。  
「……でも、『ずっと見てた』っていう部分に関しては、私も否定できませんけど……」  
それは正に殺し文句。  
何気ない顔で可符香が放った言葉は、望の心臓のど真ん中を撃ち抜いた。  
もはや思考停止状態の望は、せめて真っ赤になった顔を隠そうと、ドキドキと高鳴る心臓を抱えたまま俯いてしまう。  
 
(……それは…ちょっと反則じゃないですか……風浦さん…)  
顔を下に向けたまま、チラリと横目で彼女の様子を見ると、その顔には何とも嬉しそうな笑顔が浮かんでいた。  
たぶん、全ては彼女の計算どおり、望の行動は可符香の手の平の上なのだろう。  
こちらの気持ちを見透かされてる恥ずかしさも加わって、望の顔はさらに赤くなる。  
(ううう……おのれ……風浦さんめ………)  
そんな恥ずかしさの絶頂の最中、望はふとこんな事を考える。  
嘘か真か、可符香は望の事をずっと見ていたと、そう言った。  
ならば、自分はどうなのだろう?  
今の学校にやって来た当初から、彼女に振り回されるばかりだった自分は、一体どれだけ彼女の事を見てきたのだろう?  
ゆっくりと記憶の海を遡る望の脳裏に浮かぶのは、彼女の数え切れない笑顔と、時折見せる遥か遠くを見つめるような表情。  
(そういえば、小森さんの家に行ったときも思いっきり出くわしちゃったんですよね……)  
たぶん、ずっと見ていた。  
ふと気が付けば、彼女の顔が視線の先にあった。  
自分でも気付かない内に、視界に映る彼女の背中を追いかけていた。  
ああ、そうだ。きっと、間違いない。  
その証拠にほら、今だって必死に顔を隠そうとしながらも、チラリと盗み見た彼女の横顔から目が離せない……。  
「……惚れた弱みって奴なんですかねぇ……」  
小さな声で呟いて、望は苦笑する。  
と、そんな時である。  
「そういえば、先生」  
ふいに可符香がこんな事を聞いてきた。  
「どうして、私の部屋の前で倒れていたんですか?」  
ギクゥッ!!  
その言葉に、望は全身を強張らせた。  
「こんなにボロボロに怪我してたのに、どうして真っ直ぐ学校に戻らなかったのか、ちょっと気になります」  
「あ、その…それはですねぇ……」  
全てはサンタ同士の死闘からやっとの思いで逃れた望が、朦朧とした意識の中で行った事。  
もちろん、可符香の家に行こうとしたのはそれなりの理由があっての事だったが、今は少し『事情』が変わってしまった。  
今となっては、絶対にその理由を知られる訳にはいかないのだ。  
「…いや、例のサンタ対決の場所からは学校より風浦さんの家の方が近かったので……」  
「あの場所からだと、どっちもほとんど同じ距離の筈ですけど?」  
中途半端な誤魔化しは余計に彼女の付け入る隙を増やすばかり。  
(うう、本当なら私だって、きちんと理由を説明したいんですよ。でも……)  
俯いた姿勢のまま、望はサンタ服の上から懐の辺りに手を当てる。  
布地越しに伝わってくる感触は、そこにある物がもはや致命的に破壊されている事を望に教えていた。  
「へえ、そこに隠してるものが、その理由なんですね……」  
「ひっ…し、しまった……?」  
しかし、そんな望の僅かな仕草も、可符香は見逃さなかった。  
「先生に隠し事されるなんて、ちょっぴり心外です。なので、そこに何があるか、しっかりと確認させてもらいますよ……」  
「ひぃいっ!?風浦さん、やめてくださいぃいいいいいっ!!!!!」  
背中側から抱きついた可符香の手が、望のサンタ服の上着をいとも簡単に脱がせてしまう。  
そして、そこから出てきた物は………。  
「あ……これ……」  
千里を騙すために作られたサンタの衣装は、かなりしっかりとした作りをしており、胸元の辺りには内ポケットも備えていた。  
そこから、グシャグシャになった箱が一つ、可符香の目の前に転がり落ちた。  
「うう……だから、やめてって言ったじゃないですか………」  
涙目の望から顔を背けて、一際深いため息を吐いた。  
強い力で何度も押し潰され、もはや原型を留めていない箱だったが、  
薄水色の包装紙と白いリボンのおかげでプレゼント用のものである事は一目で分かった。  
「あの……開けても…いいですか?」  
「どうぞ……今更、もうジタバタしませんから……」  
少し緊張した声で可符香が言うと、望は暗い声で答えた。  
破れかぶれの包装紙をできるだけ丁寧に開いていくと、中から白い箱が出てきた。  
可符香は箱のフタに手を掛け、そっとそれを開こうとするが、箱自体が大きく歪んでいたため、  
途中でフタが引っかかって箱は可符香の手の上からひっくり返ってしまう。  
望の寝ている布団にバウンドして、ようやく開いた箱の中から出て来たのは幾つものキラキラとした破片だった。  
 
「これ、もしかして……」  
「全部、私が悪かったんです……」  
その日、望はずっとソレを懐にしまっていた。  
ところが彼は突然、木津家のサンタ役を引き受ける羽目になってしまう。  
望にとって、それは非常に大事な物だった。  
だから、望はそれをサンタ衣装の内ポケットに仕舞い、肌身離さず持っている事にした。  
しかし、その結果はご覧の通りである。  
千里が暴走する可能性ぐらいなら予想はしていたが、まさか不良まがいのサンタ軍団と戦う羽目になるとは望も思っていなかった。  
激しい乱闘の最中、内ポケットのソレは外箱ごと、原型を留めなくなるまでグシャグシャに破壊されてしまった。  
「絶対に壊したりしないように、安全な場所に置いておくべきでした。判断を誤りましたよ……」  
それはバラバラに砕けて、折れ曲がった、美しい細工の髪留めの残骸だった。  
可符香はその破片に混じって、一枚のメッセージカードを見つける。  
そこに書かれていたのは……  
「出来れば、あなたに手渡したかったんですけど。流石にこんな状態のものを見せる訳にもいかなかったもので………」  
望は可符香の見つけたメッセージカードに視線を落として、苦笑いを浮かべて呟いた。  
『メリークリスマス 風浦さん』  
サンタ合戦をやっとの思いで生き延びた望は、懐のそれが無残に破壊されている事に気付かなかった。  
気付かないまま、プレゼントを届けようと、傷だらけの体を引きずって可符香の部屋の前までやって来たのだけれど……  
「ホント、申し訳ありませんでした……」  
小さく沈んだ声で、望は可符香に謝った。  
だけど、そこで彼は気付く。  
「……風浦さん?」  
俯いていた顔を恐る恐る上げて、望は可符香の方を見た。  
彼女は何だか呆然としたような、不思議そうな表情で、自分の手の平の上をじっと見つめていた。  
そこにあったのは、バラバラになった髪留めの一部。  
細かな細工の施された、花の形の飾りであった。  
白い頬を薄桃に染めて、可符香はその眼差しを一心に手の平の上のソレに注いでいる。  
そして、ゆっくりと顔を上げ  
「すごく…きれいです……」  
花のほころぶような微笑みを浮かべて、望に語りかけた。  
「え……あ……その…」  
「すごく…嬉しいです。ありがとうございました、先生……」  
そして、両手で優しく包み込んだ髪留めの残骸を胸にそっと抱き寄せて、可符香は確かにそう言った。  
何か言葉を返そうとした望だったけれど、可符香のその幸せそうな表情を見ていると、何も言えなくなってしまった。  
それから、可符香は散らばってしまった髪留めの部品を一つ一つ拾い集め、歪みを直した元の箱に収め、  
それを見ながらもう一度微笑む。  
「ほんと…きれい……」  
その様子をじっと見ていた望は、ようやく喉から言葉を絞り出して、言った。  
「今度は、きっと壊れてないヤツをプレゼントしますから……」  
「はい、先生……また来年、待ってますから……」  
言葉を交してから、二人は照れくさそうに笑い合う。  
プレゼントは気持ちが大事、なんて言葉を聞くけれど、多分それは順番が違ってる。  
私はあなたが大事です。  
そういう気持ちを繋ぐために、プレゼントはきっと存在するのだから。  
窓から差し込む冬の晴れ日を受けて、可符香の手の上の箱の中、髪留めの欠片達はキラキラと輝いていた。  
 

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