12月31日午後7時ごろ。  
2年へ組の生徒達の多くが担任・糸色望の暮らす学校の宿直室に集まっていた。  
今年最後の数時間をみんなで集まって、ワイワイと騒ぎたい。  
そんな生徒達の要望を気弱な望が断れるわけもなく、ただでさえ狭い宿直室は人でいっぱいの状態。  
各々が持ち寄った料理を食べたり、テレビゲームやトランプに興じたりしながら、まったりとした時間を過ごしている。  
「今年も大変な一年だったわね」  
そう口にしたのは、女子数人でトランプに興じていた晴美である。  
「うんうん。学校にミサイ……じゃなくて飛翔体とか何とかそういうのが落ちてきたり」  
言いながら、奈美がカードを一枚畳の上に置く。ちなみに彼女達がやってるゲームは7並べである。  
「毎年思うけど、よくみんな無事に一年過ごせたよね」  
残りの手札からどのカードを出すか吟味しながら、あびるが応える。  
その発言に対して、隣にいた芽留が  
【オマエが一番無事じゃねーだろ。今日もなんかまた新しい包帯増えてるし】  
「心配してくれるんだ、芽留ちゃん?」  
【そ、そんなんじゃねーよ!!オレはただ…】  
「ありがと」  
【うぅ……】  
ご期待通りのツンデレを見せてくれた芽留の頭を、あびるがヨシヨシと撫でてやる。  
俯いた芽留の顔が一気に真っ赤になった。  
「うふふふふふふふふ……だいぶ場にカードが出揃ってきたわね…」  
そんな会話をよそに四列に並んだカードを眺めながら、千里はやたらとニヤニヤしていた。  
「ね、ねえ?千里ちゃん、いったいどうしちゃったの?」  
千里の様子に若干引き気味の奈美が晴美に尋ねると、彼女はため息まじりに答えた。  
「ああ、気にしないで。千里はこの手のゲームになると、いつもあの調子だから……」  
何においてもキッチリしたい、させたい千里にとって7並べ等のゲームは他の人とは違う意味を持つ。  
ゲームが進む過程で未完成だったトランプの並びが埋まっていく、その様子そのものに千里は勝負も忘れて夢中になってしまうのだ。  
「……ああ、だから藤吉さん、最初に何か他のゲームにした方がいいんじゃないかって言ってたんだ……」  
「そう…。千里とオセロなんかしたら大変よ。あのゲームって、勝っても負けても白黒どちらか一色で埋まるなんてあり得ないから……」  
なるほどと肯く奈美の横で、晴美は再び千里に視線を送る。  
千里は7並べの順番が回ってきて、どのカードを出すか考えている真っ最中だ。  
(……でも、千里がこんな風にみんなとワイワイ過ごせるようになるなんて、出会った頃は思ってもみなかったな)  
昔、晴美と出会ったばかりの頃の幼い千里は、その性格のせいだろうか、何かと孤立しがちだった。  
それは、千里の面倒見の良さとか、真面目さとか、まっすぐで優しいその心を知る晴美には辛いものだったけれど  
(……そっか、今はこんな時間を過ごせるんだね……)  
一年の終わりという節目の日だからだろうか。  
晴美はそんな事を考えてしんみりとしてしまう。  
と、そんな時、今度はその千里から晴美に声が掛けられる。  
「ほら、次は晴美の番よ」  
「うん。わかってる、千里」  
その楽しげな表情に、思わず晴美も微笑んでしまう。  
「ど、どうしたのよ?晴美?」  
「ううん、なんでもない」  
晴美は心の内で、今年一年、千里と一緒にいられた事に改めて感謝する。  
そして、また来年も彼女の笑顔を見られるよう、そっと祈るのだった。  
 
さて、一方こちらは宿直室備え付けのテレビ前の面々。  
「そろそろゲームも飽きたし、なんかテレビでも見る?」  
最初に言ったのは芳賀だった。  
長い事テレビゲームを続けて空気もダレかけていた頃の事、誰がそれを言い出してもおかしくはない状況ではあった。  
ただ、ゲームからテレビ番組へ切り替えるとなると、避けては通れない問題が一つ。  
「だね。なんかお笑いでもやってるかな?」  
「ちょっと待て、紅白じゃ駄目なのか?」  
チャンネルを変えようとした青山の手を、木野が遮った。  
ちなみに木野が紅白を見たい理由は、毎年恒例の某歌手の超巨大衣装。  
色が変わったり、変形したり、挙句の果てには飛んだりする事もある例の衣装を木野は毎年羨望の眼差しで見つめているのだ。  
「そういえば、格闘技もやってたな」  
「あ、まだ大晦日だよドラ○もん、後半やってるよ」  
「年末はクラシックでまったりと……」  
テレビは一つ、見たい番組は複数。  
チャンネル争い……古来から続くこの熾烈な戦いは2010年代を直前に控えた今も変わらず続いている。  
 
「視聴者役はいつも私と交くんなのにな……」  
テレビ前で繰り広げられる不毛な争いを見て、台所から出て来た霧が呆れ顔でつぶやいた。  
それから、運んできたお盆から蕎麦の入った椀をちゃぶ台の上に置いていく。  
「材料はたくさんあるから、先生もみんなも遠慮せずに食べてね」  
「ありがとうございます、小森さん。それじゃあ、いただきます」  
霧から箸をうけとって、望はさっそく年越し蕎麦を口に運ぶ。  
「今年はお出汁から色々工夫してみたんだけど、どうかな、先生?」  
「美味しいです……。いや、去年のもかなり美味しかったんですが、今年はまた一段と……」  
「えへへ……」  
心から感嘆した様子の望の言葉に、霧は嬉しそうに笑う。  
しかし、その時彼女は望のとなりで、何だかどんよりとしたオーラを発している人物の存在に気付く。  
「どうしたの、まといちゃん?お蕎麦、美味しくなかった……?」  
問いかける霧の言葉には若干の緊張が含まれている。  
何しろ、彼女とまといは望を巡って最大のライバルとなっている間柄なのだ。  
「………美味しい…わよ」  
「じゃあ、何でそんな顔するの?」  
「だって…その……」  
いつもならもっと積極的に噛み付いてくる筈のまといが口ごもるのを見て、霧は怪訝な表情を浮かべる。  
霧が顔を覗きこむと、まといは視線を逸らして決して目を合わせようとしない。  
明らかに様子がおかしい。  
「ホントにどうしたの?」  
「だって……このお蕎麦……」  
「…………?」  
まといは手に持った箸で蕎麦を一口すすって  
「やっぱり美味しい……私には、こんなの無理よ……」  
深い深いため息を一つ。  
それで霧はまといのこの態度の原因を理解した。  
何かにつけてぶつかり合い、意地を張り合うまといと霧だったが、家事全般については霧に一日の長があった。  
共に学校で寝起きする望や交のために家事全般を引き受けている霧と、  
持てる時間と労力のほとんどを望へのストーキングに費やしているまといでは料理の腕に差が出るのも当然の話である。  
すっかりしょげ返ったまといを、霧はしばらくの間じっと見つめる。  
それから、突然彼女の腕を掴んだかと思うと  
「まといちゃん、ちょっとこっち来て……」  
「えっ?ちょっと…何するのよ?」  
「いいから早く……っ!!」  
有無を言わせず、ぐいぐいと台所へ引っ張っていく。  
「ちょっと、いきなり何なのよ!!」  
「手伝って…」  
「えっ?」  
「お蕎麦、ここにいる全員分作るには私だけじゃ手が足りないから……」  
その言葉で、まといはようやく霧の意図に気付く。  
要するに、霧はこの場を借りて、まといに料理の技術を多少なりと教えてくれようとしているのだ。  
「………余裕のつもり?」  
「敵に塩を送る、って言って………それにね…」  
そこで霧は少し言葉に詰まり、それから照れくさそうにこう付け加えた。  
「まといちゃんがあんなだと、私も張り合いないから……」  
それを聞いたまといは一瞬ポカンとしてから、心底可笑しそうにくすくすと笑い始める。  
「な、何よ!?何か変だった?」  
「ううん。それよりさっさと始めましょう?ぼやぼやしてる内に今年が終わっちゃったら、年越し蕎麦にならないでしょ」  
「わかってるよ……」  
というわけで、台所に並んだ二人は、次のお蕎麦の準備に取り掛かったのだった。  
 
一方、再びテレビの周りの面々に目を向けると、どうやらチャンネル争いは落ち着いたらしく、みんな大人しくテレビの画面を見ている。  
結局、選ばれたのは紅白歌合戦。  
代わる代わるステージに上がって歌う歌手達の歌声は、年末のひと時をのんびりと過ごすためのBGMとしては最適だったようだ。  
宿直室のちゃぶ台の上には、霧の年越し蕎麦の他にも生徒達が持ち寄った様々な料理やお菓子が所狭しと並んでいる。  
適当にそれらをつまみながら、紅白を見ていた木野だったが、何となく宿直室の入り口の方に視線を向けて驚いた。  
「加賀さん……?」  
宿直室の扉を僅かに開いて、そこからおっかなびっくり顔を覗かせている愛を見つけて、木野はすぐに立ち上がった。  
人でごった返す部屋の中を苦労して通り抜けて辿り着くと、何を思ったか彼女はぺこぺこ頭を下げながら、扉を閉めてしまおうとする。  
「すいません、すいません、私のようなものがいては、せっかくの皆さんの楽しい時間が台無しですよね」  
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ加賀さん!お願いだから落ち着いて!!」  
閉まる直前の扉に強引に体をねじ込み、木野は廊下に出た。  
「か、加賀さん……せっかく来てくれたんだから、中に入りなよ……」  
「すいません。皆さん、楽しそうにしてましたから、私のような者が混ざってもいいのかと思って……なんだか、ご迷惑をおかけしそうな気がして…」  
「そんな事ないよ。加賀さん来たら、みんな喜ぶって」  
「そ、そうでしょうか?」  
「そうだよ、絶対っ!」  
人一倍気弱なこの加害妄想少女は、いつもの如く自分の存在が周囲の迷惑になるのではないかと考えているようだった。  
木野はおどおどと上目遣いにこちらの表情を窺う彼女に、そんな心配をする必要はないのだと、何とか伝えて上げたかった。  
(久藤だったら、こういう時何か上手い台詞を思い付くんだろうけど……)  
必死に頭を回転させた末、木野の口から出て来たのはこんな言葉。  
「加賀さんが一緒にいてくれると、俺、すごくうれしいんだ。……だから、その、少なくとも俺は加賀さんがいても、全然迷惑じゃないから。  
間違いなく、そう保証できるから………って、俺は一体何を言って……!!」  
一気にまくしたててから、自分の台詞の恥ずかしさに気付いて、木野は頭を抱える。  
だけど、次の瞬間、彼は目にした。  
「わかりました……」  
「へっ!?」  
「木野君がそこまで言ってくれるなら、私……」  
滅多に見る事の出来ないであろう、愛の本当に嬉しそうな笑顔。  
それを見た木野の顔もぱぁっと明るさを取り戻す。  
木野は愛の手を取り、言った。  
「それじゃあ入ろう、加賀さん。みんなも待ってる」  
「はい……」  
こうして、木野と愛は二人肩を並べて宿直室の扉をくぐったのだった。  
 
「そこでクマ五郎は言いました。『さあ、今のうちにオイラの背中の上を渡って、向こう岸に行くんだ!』」  
宿直室の一角、交やマリアに囲まれた久藤准は毎度の如く自作のお話を披露していた。  
ただし、今夜は大晦日。  
今年一年の最後の日であり、交のような小さな子供にとっては夜更かししても怒られない特別な日である。  
おかげで交はかなり興奮気味。  
ほとんど身を乗り出すようにして、准の膝の上にしがみつくような格好でお話に熱中している。  
「それで、その後クマ五郎はどうなっちゃうんだ?」  
「准、ハヤク続き!続き!」  
准の背中におぶさったマリアも完全にテンションが上がっている。  
いつの間にか宿直室に入り込んでいたマリアの友人までもが、キラキラとした眼差しを准に向けて続きを待っている。  
そんな彼らの興奮にあてられたのか、今日の准のお話はいつもの感動的な要素に加えて、山あり谷ありのスペクタクル長編になっていた。  
さらにその周囲では、他の2のへの生徒達も准の話に耳を傾けている。  
その輪の中に、無限連鎖商女コンビの一人、根津美子もいた。  
「ううん…この話を本にしたら、かなり売れそうなんだけどな」  
准の感動巨編を聞きながら、美子はそんな無粋な事を呟いていた。  
「だいたい、いつもちょっとした事からすぐに話を思いつくんだから、それが無駄にならないように活用してあげるのは、全然悪い事じゃないわよね」  
どうやら美子は准のお話を商品にして、一儲けしようと頭の中で計画を巡らせているらしい。  
「ただ、いつも突発的に話し始めるから、すぐに録音できる準備をしておかなきゃ駄目よね。  
それから、音声を文字に起こす人が必要よね。久藤くんの語りは聞き取りやすい良い声だけど、それでも素人の私じゃ手間が掛かりすぎるだろうし……」  
美子の中でどんどん広がっていくアイデア。  
だけどその時、彼女の肩をポンポンと誰かの手が叩いた。  
「ちょっと、美子……」  
「いっそ音声データをCDに焼いてそのまま売ってみるとか……って、どうしたの、翔子?」  
美子に話しかけてきたのは、相棒の丸内翔子だった。  
「どうしたのよ?せっかく新しいビジネスの可能性について、人が真剣に考えてたのに……」  
「ごめん、美子。でもね……」  
そう言って、翔子は美子の頬に手を伸ばし  
「美子が商売熱心なのは分かるし、それは良い事だと思うけど…………ほら」  
「あっ………」  
そっと、その指先で、美子の瞳から零れ落ちる涙を拭ってみせた。  
どうやら美子は商売の事を考えながら、その片手間に准のお話を聞いていたつもりが、無意識の内にストーリーに引き込まれていたようだ。  
「せっかく良いお話が聞けるんだから、今はそっちを楽しもうよ、美子?」  
「……うん。そうだね、翔子……」  
照れくさそうに目尻に浮かんだ涙を拭ってから、美子は翔子と一緒に話し手である准の方に向き直った。  
お話はいよいよクライマックス、森に迫る危機に、クマ五郎と仲間の動物達の最後の大作戦が始まろうとしていた。  
美子と翔子は胸踊り、感動に溢れたそのストーリーを心行くまで楽しむ事が出来たのだった。  
 
その頃、音無芽留は宿直室をこっそりと抜け出して、校門の前である人物がやって来るのを待っていた。  
門柱にもたれかかって、手持ち無沙汰に携帯をいじっていると、やがて道の向こうに見覚えのあるシルエットが現れた。  
(やっと来たか……)  
芽留がそちらに視線を向けると、相手も気付いたらしく、足取りを早めて芽留の方に近付いてくる。  
「おーい、芽留!!」  
しかし芽留は、手を降り、彼女の名を呼ぶその声には一切反応を示さず、相手が近付いてくるのに合わせて自分も一歩二歩と踏み出して  
(……せいやっ!!)  
小柄な体格を活かして相手の懐に潜り込み、鳩尾に強烈なパンチをめりこませた。  
「がはぁ……っ!!?」  
ものの見事に決まった必殺の一撃に、その人物、万世橋わたるは道路に崩れ落ちそうになるのを、ギリギリのところでもちこたえる。  
「い、いきなり何すんだ!お前っ!!」  
【遅すぎるんだよ、キモオタ!!!!】  
「だからって、何も出会い頭にあんな事をしなくても………って、ん…?」  
いきなりの理不尽な急所攻撃に抗議の声を上げたわたるだったが、芽留の顔を見て言葉を詰まらせた。  
芽留の表情は何か怒ってるとか不機嫌であると言うより、不安や寂しさでいっぱいだった心を必死に押さえつけているように感じられたからだ。  
「芽留、お前もしかして……」  
【な、なんだよ……】  
わたるは両手を伸ばし、未だ固く握り締められた芽留の右の拳に触れた。  
「冷たいな、お前の手……」  
わたるのその言葉に、芽留はぷいとそっぽを向いた。  
わたるは冷え切った芽留の手を握り締めながら、言葉を続ける。  
「ずいぶん長く待ってくれてたんだな……」  
【別に、そんな事はないぞ。さっきだって、出てきてまだ十分そこらだったし……】  
芽留は嘘を言ってはいなかった。  
ただし、七並べの決着が着いた後ぐらいから、何度も宿直室から校門の前まで出てきては、待ち人が来ないかと様子を窺ってはいたけれど……。  
「ごめんな、芽留……」  
【………わかりゃあ、いいんだよ…】  
わたるの手の平が、芽留の手を改めてぎゅっと握り直す。  
それに答えるように、芽留も、その小さな手の平で、わたるの手を強く握り返した。  
【それじゃあ行くぞ!オレを散々待たせた分は、後日きっちり償ってもらうからな!】  
「ああ、肝に銘じておく……」  
言葉だけは不機嫌を装って、だけど顔には満面の笑顔を浮かべて、わたるの手を引いた芽留は校門を抜け宿直室へと歩いて行った。  
 
一方、舞台は変わってとあるマンションの一室。  
そこは望の兄、糸色命の現在の住まいだった。  
「しかし、お前は望のところに行かなくて良かったのか、倫?クラスメイトはみんな集まってるんだろう?」  
「構いませんわ、命お兄様……正直、ちょっとぐらい顔を出したい気持ちもありますけど、命お兄様と過ごす時間には代えられませんもの……」  
「そうか……」  
命と倫、彼らは大晦日の夜を二人きりで静かに過ごす事に決めたようだった。  
ただ、命の方は現在の状況に少しばかり言いたい事があるらしかった。  
「ところで、倫……」  
「何ですの、命お兄様?」  
「そろそろ……起き上がっても構わないか?」  
問題は、現在の二人の体勢にあった。  
ソファの上に座った倫、命はその膝の上に頭を乗せて体を横たえていた。  
いわゆる膝枕というヤツである。  
倫にどうしてもと請われてその願いに応じたのだが、命はどうにも恥ずかしくていけないようだ。  
「あら、そんな遠慮なさらなくてもいいですわよ、命お兄様……」  
「いや、遠慮とかそういうのじゃなくて…………やっぱり、恥ずかしいんだ…」  
「ここは命お兄様のご自宅で、私以外、誰も見ていませんのに……それに、膝枕は男のロマンだと景お兄様もおっしゃっていましたし……」  
「確かに、その、倫の気持ちが嬉しいのも事実ではあるんだ。だけど、その、な………」  
命の気恥ずかしさの原因は、主に膝枕の相手が倫である事によるものだった。  
妹である倫に大して、命はこれまで年上の立場から色々と世話を焼いたりしてきた。  
しかし、今現在、その関係は完全に逆転していた。  
倫の膝に頭を預け、その温もりに見も心も委ねるのは、確かに幸せな時間ではある。  
だが、兄としての自分が頭をもたげてきて、『妹に甘える』という今の自分の行為が何だか落ち着かないものに感じられてしまうのだ。  
「よろしいではありませんか、命お兄様……」  
倫の顔に浮かんだ優しい笑顔に、命の言葉が止まった。  
「命お兄様は、少し、頑張りすぎる方ですから……今はこうして、倫の膝で休んでいてほしいんですの…」  
倫の物心ついた頃から、命は医者になるためにずっと勉強をし続けてきた。  
遠く故郷を離れ、個人で病院を経営するまでになった命。  
どんな時にも努力を欠かさないその姿は、倫にとっては強い憧れの対象だった。  
だが、その一方で、そんな真面目すぎるほど真面目な兄が、いつか無理を重ねて擦り切れてしまうのではないか、そういう不安も倫は感じていた。  
「上手に甘える事も、人生には必要な事ですわ。一年の最後ぐらい、命お兄様にはも身も心も安らかでいてほしいんですの……」  
「倫………」  
その言葉に、自分を思いやる倫の強い気持ちを感じ取った命は、もうそれ以上反論しようとはしなかった。  
「それじゃあ、もう少しだけこのままでいていいか、倫?」  
「はい。命お兄様……」  
優しく静かな空気に包まれて、命と倫の大晦日は穏やかに過ぎて行こうとしていた。  
 
さらに場所は変わって、今度は糸色家次男、景の自宅兼アトリエ『景』。  
「そう言えば今年ももう終わりなんだよな、由香」  
キャンバスに向かって一心に筆を動かしていた景は、ふと手を止めて壁に浮かんだシミ、彼の妻である由香に話しかけた。  
「12月に入ってからはコレの仕上げに掛かりっきりだったからな。すっかり忘れてた」  
彼の描くキャンバスの上を埋め尽くすのは、まるで絵の具箱の中身をぶちまけたような多種多様な色の乱舞。  
だが、それは景の筆先によって崩れるか崩れないかのギリギリの均衡を保たれ、全体に不思議な緊張感を与える事となっている。  
そして、その中心に描かれているのは、淡い金色に輝く流れるような紡錘形。  
他人が見ても何が何だかわからないが、景曰くそれは『魚』であるらしい。  
彼がここ最近、好んで描く題材である。  
それは逆巻くような色の渦を切り裂くように、力強く前へと進んでいく。  
独特な作風だけに、見る人によって評価はさまざまだが、少なくとも景はこの題材で描く事に強い自信とこだわりを持っていた。  
「うん。悪くない出来だ………」  
ほぼ完成間近の絵を眺めながら、景は満足げに肯く。  
一度、絵の制作に入ると他の事が一切目に入らなくなってしまう景だったが、今回の作品はその労力に見合うものになったようだ。  
「しかし、お陰でここ一月はほとんどアトリエに篭り切りだったからな……年が明けたら、みんなの所に顔を出さないと」  
景の脳裏に浮かぶ親しい人たちの面影。  
凄まじいまでの自己完結型人間で、常人には理解し難い独自の世界観を持っている景。  
周囲の反応など気にもせず、我が道を進んでいく彼の生き方は、最後には周りから友人も家族も恋人も消えて一人ぼっちになってもおかしくないものだ。  
だが、景の周りの人間達は彼の行動に苦笑いしつつも、結局は何だかんだで景の存在を受け入れてしまうのだ。  
彼らがいなければ、きっと景の人生はもっと違った物になっていただろう。  
孤独の内に自らの道を進み続ける人生と、気心の知れた仲間や家族とわいわいと騒がしく生きる人生。  
どっちが良くてどっちが悪いかなんて事は分からないが、少なくとも景は今の暮らしをまんざらでもないと感じていた。  
「おお、いい月だな……」  
ふと窓の外を見ると、どこまでも澄み切った冬の夜空の真ん中に、丸い月が浮かんでいた。  
静かに地上を照らす月は柔らかな金色で、景が今描いている絵の『魚』とちょうど同じ色だった。  
その優しい光を見つめながら、景は思う。  
幸せの尺度なんてものは人それぞれで、同じ人間の中でさえ簡単に揺らいでしまう不安定なものだ。  
いわゆる『普通』から外れた生き方をしている景だけに、その事は強く実感していた。  
だが、それでも願わずにはいられないのだ。  
せめて、自分の周りの大切な人達が笑顔でいられる、そんな日々が続く事を……。  
「来年も、いい年になってくれよ……」  
そう言った景の口元には、柔らかな微笑が浮かんでいた。  
 
さて、舞台は再び学校の宿直室に戻る。  
そんなこんなの騒ぎの内に、いつの間にやら時刻は午後の11時を回り、今年も本当に残り僅かになってしまった。  
霧お手製の年越し蕎麦に舌鼓を打った後、望は何をするでもなく、部屋の中で楽しげに騒ぎまわる自分の生徒達の様子を眺めていた。  
毎日、彼ら彼女らのお陰でエライ目にあってきた望だったが、こうして彼らの笑顔を見ているとそれも満更ではなかった気がしてくる。  
何だかんだと文句を言いつつも、結局根っこのところで自分は教師なんだなと実感させられる。  
疑いようも無く、今の望の居場所は彼ら2のへの生徒達の中にあるのだ。  
「まあ、今年もこの子達には苦労させられましたが、まあ、みんな元気に年を越せそうで何よりです……」  
「ホントにそうですね……お疲れさまでした、先生」  
「はいっ!?」  
驚いた望が声のした方を見ると、いつの間にやら自分の隣に座っていた黄色いクロスの髪留めの少女の姿を見つける。  
「我がクラス最大の問題児であるところのあなたが、それを言いますか、風浦さん……」  
「いやだなぁ、私はただ、純粋に先生に対する感謝の気持ちを言っただけですよ?」  
「それなら、毎回騒ぎがある度にさりげなーく事態をややこしい方に持っていくのをやめていただけると、先生、もっと嬉しいんですが……」  
「私はいつも、より前向きで希望の持てる考え方を、みんなに提案してるだけですから」  
彼女と出会ってから、もう随分と長い時間が経ってしまった。  
それなりに彼女の悪戯にも慣れた筈なのだけれど、対抗策は未だ見えず、やっぱり毎回こてんぱんにされてしまう。  
「せめてもうちょっとお手柔らかに願えませんか?」  
「うーん、それは無理ですねぇ」  
今も会話の主導権を完全に可符香に握られている自分を顧みて、やはり彼女には勝てないなと望は強く実感する。  
来年も、またいつものパターンで自分は彼女の手玉に取られてしまうのだろう。  
ぶすっとした顔で可符香に文句を言う望と、それをひらりひらりとかわしてクスクスと笑う可符香。  
思えば、こんなやり取りも今では望の欠かせない生活の一部だ。  
(それを心のどこかで幸せだって感じてるんですから……これはもう、私に勝ち目なんてありませんね。なら、せめて……)  
心の中で密かに呟いてから、望は可符香にこう言った。  
「それじゃあ、せめてこれだけお願いできますか?」  
「はい。何ですか、先生?」  
「来年もまた、好き勝手に飛び回って、巧みな言葉で人を煙に巻いて、そうやって私を困らせてください」  
望は可符香の頬にそっと手を伸ばし、おでことおでこをコツンとくっつけて静かに告げる。  
「私の傍にいてください。風浦さん……」  
「……先生……」  
望の言葉を聞いた可符香はしばしぼんやりと、彼の瞳を見つめていたが  
「わかりました……」  
それからにっこりと、いつもの彼女の笑顔ですら霞むような、幸せそうな笑みを顔に浮かべて望に答える。  
「先生も、きっと私の傍にいてくださいね……」  
「もちろんです……」  
やがて聞こえ始めた、一年の終わりを告げる百八つの鐘の音の中、  
たぶん、誰もが願っていた。  
不幸・理不尽、何でもありの世の中だけど、大事な人と過ごす穏やかな日々が来年もまた続きますように、と。  
 

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