『昭和七十五年・文月』  
 
 湯殿での一夜から閲すること四年。  
倫は花と剣の稽古に専心し、その技に年を超えた冴えが出始めていた頃であった。  
来年に地元の私学に進学が予定されている。兄たちも通った中高一貫の学校である。  
 小学生最後の夏休みをひかえたある日の午後。  
糸色倫は招いている華道の師匠が帰った後、ふたたび花を生けはじめた。  
開け放った障子から次の間へと、敷地の山林から庭園を通った涼やかな風が吹き抜けてゆく。  
 涼しげに仕上がった作品を書院の棚にすえると、道具を片付け、耳を澄ます。  
と、足音が近づいてきた。耳に親しんだその足音の主は−。  
 「帰りましたよ、倫。久しぶりです」  
兄の望だった。  
いつものご多分にもれず、チャラチャラした出で立ちだ。着物の方が似合うのに、と倫は内心歯噛みした。  
 糸色望は東京府の大学に進学し、順調に四年に進級していた。来年三月に卒業を控えている。  
学業には生真面目であった望は教員となるための単位資格はすべて取得していたが、その私生活は迷走状態と言ってよかった。  
自動車学校は不登校になり、ギターを担いでフォークゲリラ。少々過激な社会思想サークル活動。文筆活動のあげく同人誌出版。  
大学進学のとたん遊んでしまうという一般的な日本人の若者らしい学生生活と言えなくもない。  
ともあれ望は、大学が夏休みとなり帰郷してきた。彼にとっては今年で最後の夏休みである。  
糸色邸のあるここ蔵井沢は高級避暑地としても名高く、夏は快適に過ごせた。  
 「お帰りなさいませ、お兄様。他のお二人は、一緒ではありませんの?」  
 「命兄さんはもう学生じゃないですからね。朝も夜も、こき使われていると思います。‥景兄さんは、‥行方不明。  
  アトリエにお札が貼ってあって‥。熊野牛王印‥ですかね?まぁ、人のいる気配はありませんでしたね」  
くすりと笑う倫。  
 「お二人とも相変わらずですこと」  
長兄の縁は既に弁護士として多忙の中にある。休みが取れるか、微妙なところらしい。  
次兄の景は画家として画壇に認められつつあり、現在は家を出て東京府にアトリエを構えていた。  
兄の望との関係は表面上は常に戻っている。かつて時田が言ったように時間が薬、であった。  
兄妹のあいだでは、あれはいたずら、そして二人しか知らない事だから誰にも言わない―という黙契のようなものが成立している。  
だがそれは、たがいの心にそれぞれ横たわる恐ろしい何かからの逃避であるのかも知れなかった。  
少なくとも倫の中には、黒い火はまだ燃えている。  
 望は棚に眼をやった。  
 「倫の作品ですか。見事なものですね。堂に入っているというか‥」  
堂に入っているも何も、もはや倫の腕は流派の宗家である師匠が絶賛するほどのものだ。  
流儀の宗家を自宅に招いての個人授業など、糸色家の家格と財力あってこそだったが、小学生の倫の才能は確かなものだった。  
 「まぁ、お兄様に花のことがわかりまして?でもありがとうございます。お兄様が帰ってこられるから、生けましたの」  
 「そ、そうですか‥。ありがとう、倫」  
倫はにこりと微笑むと、裾を払って立ち上がる。  
 「夕食はお母様が腕をふるって下さるそうです。わたしもこれから手伝いますので、お兄様はごゆっくり」  
 
 廊下を歩む倫はふと庭向こうの客殿に人の気配を感じた。  
ひとりは執事の時田。誰かを客間に案内しているようだ。  
その客は遠目に顔はわからなかったが、女のようであった。  
ふん。  
鼻をならす。お兄様ったら、また取り替えたのね―。  
今年新年の正月休みに望が連れてきた女とは、別人のようだった。  
 ふいに、倫の胸に黒いものが渦を巻く。  
いやでも、四年前のあの夜の記憶がはらわたの奥を焼いた。  
倫は歯を軋らせる代わりに、唇を噛んだ。  
右手が、うずいた。  
 
 夕食は料理家である母・妙の心づくしであったが、倫はどうでもよくなっていた。  
母に照れなく女を紹介する兄に作り笑顔を送りながら、内心は一刻も早くこの場を離れたい思いで一杯だった。  
その一方で、兄の連れてきた女を観察する。  
今回は清楚でしとやかな雰囲気の、知的な美人−。兄より年上に見える。  
手当たりしだいに目に付いた本を乱読するように、望の付き合う女は毎回タイプが違っていた。  
 ―この女で何人目だったかしら。  
のべつまくなし、という言葉がぴったりだろうか。女漁りという点でも望は迷走状態であると言ってよかった。  
いいかげん笑顔の仮面をかぶるのも限界に近づいた倫は、望に寄り添う女を冷ややかに一瞥すると、箸を置く。  
 父の声で酒が席に回り始めたので、倫はごちそうさまと食膳を下げた。  
胸中にくすぶり始めた黒い火を、何で鎮めようか−。  
 
 糸色望の部屋には、旅装が脱ぎ捨てられていた。  
倫は明かりをつけずに兄の部屋に突っ立ち、その残り香に浸っていた。  
先ほどまで兄が身に纏っていた衣服を抱えこみ、鼻先をうずめる。  
香道もたしなんだ倫の嗅覚は敏感である。  
兄の衣服に、女物の香水のにおいが混じっているのを嗅ぎ取り、不快げにそれを放る。  
ふと、靴下の丸まったのが転がっているのが眼に留まった。  
ぞくりと背筋に走った波を自覚しながら、倫はそれを手に取った。  
一瞬ためらう。  
それに鼻先を突っ込む自分の姿の浅ましさを脳裏に描いたためだ。  
 「お兄様」  
息が荒い。  
 「‥お兄様の、‥莫迦」  
歯止めがかかったのは一瞬だった。倫は半瞬前に脳裏に描いたとおり、兄の靴下を鼻面に押し当てていた。  
すぅ。鼻腔に広がる、ブーツの皮の匂いと、兄の濃い汗の臭い。  
それはどう考えても、常軌を逸した行為のはずだ。  
だが倫の脳裏には、脳髄そのものを兄に抱きしめられているのではないかという錯覚すら浮かんでしまう。  
 ―へんたい、というのかしら。変態。この、わたしが―。  
蔵井沢の名家の長女、学業は優秀、剣に花にその才能をひらめかせるスーパー小学生。  
近隣のもの皆知らぬものとてない、おらが町のお姫様、それが糸色倫。その、わたしが。  
自嘲の想念ですら、その変態的な行為の加速装置にしかならない。  
倫は着物の裾を大きくはだけると、すべらかな白い下腹を兄の部屋の空気に晒した。  
そこに手指をはわせる。旅装の上に転がりながら夢中でその指を動かす。  
かつてこの部屋の前で初めて覚えたその罪深い快感は病み付きになっていたと言っていい。  
兄が女を連れて来るその都度、倫はおのれのうずきを自ら慰めて来たのだった。  
 「んぅ、ぁあっ、んんぅ‥」  
靴下をにぎるその手の袂を噛みながらあえぎを押し殺す。  
裂け目を押し広げ、入口の周囲を指先でそろそろ掻き上げる。  
膝が体を支えられない。畳に四つんばいになると、腰を緩やかにうねらせながら指を動かす。  
快感が何度も走り抜け、倫はまだ肉のうすい尻をふるわせた。  
 「お兄様、いやらしいおにいさま‥。  
  お兄様のせいで、私は、こんな、こんな‥」  
倫は敏感なつぼみを指先につまむと、くりくりと転がした。  
おおきな快感の波とともに、いちどきに様々な想念が押し寄せてくる。  
どうせ今日は、この部屋であの女を抱くのだろう。莫迦、おにいさまのばか。  
わたしがこんな恥ずかしいことをするのは、お兄様のせいなのだ。  
この指がいやらしく動くのも、ここがこんなに気持ちいいのも、ぜんぶ全部お兄様のせいなのだ。  
 ―知っていまして?お兄様、倫はいやらしい娘なんですのよ?  
 誰のせいでこんな娘になったと思って?お兄様のばか、ばか、莫迦―。  
 「ぅあぁっ!」  
腰から下が、はじけたように波打った。  
すう、と兄の匂いで鼻腔を満たしたとき、意識がどこかへ飛び上がっていった。  
それは何度目の、後ろ暗い絶頂であったろう。  
 
 ひくりとその身を震わせながら、倫は望の部屋から逃げるように這い出てきた。  
また、やってしまった。  
官能の余韻に耳まで赤く染めてはいたが、心中は自己嫌悪で一杯だった。  
兄の靴下で自分を慰めたうえ、これ見よがしに部屋を散らかしたままその場を後にするとは。  
どうしようもなかった。  
 どうせ、あの女を連れ込むに決まっている。酔った兄が気に留めることなどないだろう。  
そう自分に言い聞かせながら倫は廊下で衣服を整えると、自室に戻ろうと歩み始めた。  
と、母屋の廊下で、配下の使用人を差配する時田に行き逢った。  
かすかに熱の残る頬を見咎められなかったろうか。  
倫は取り繕うように、もつれた小声で命じる。  
 「刀を持て」  
そう言ったとたん、部屋に戻る気が綺麗に失せたのは不思議であった。  
 
 月光降り注ぐ糸色家の庭園には、そこだけ別に区画された竹林がしめる一画がある。  
心身を憩わせるのとは別の目的に用いられるそこには、『倫様専用竹林』の札が立てられていた。  
倫は墨を流したように暗い闇の中、その竹林にためらいなく歩んできた。  
その手には抜き身の白刃―日本刀が握られている。本身である。  
小学生の倫には定寸の太刀は長すぎるため、これは摺り上げて寸を詰めた業物であった。  
入り口にある盛砂に、抜き身を何度か打ち込む。  
それによって刀身の刃がザラザラになり切れ味が上がる。荒砥をかけるのと同じ効果があった。  
そう、ここは糸色倫の試斬のための場なのであった。  
 「しぃっ!」  
押し殺すような鋭い気合とともに、倫は手当たりしだい、竹に真剣を打ち込む。  
台に据えた竹ならともかく、自然に生えた竹は風に揺れ、その強靭な繊維もあいまって断ち斬るのは容易ではない。  
刃筋をあやまれば刃が欠けたりめくれてしまい、或いは刀身が曲がったりしてしまう。  
だが倫の手練は凄まじく、生き胴にも匹敵する太い竹の身を一刀のもとに切り離す。  
しかも倫は据え物として竹を切るのではなく自ら動いて不規則に揺れる竹を打ち込んでいた。  
左右の袈裟、逆袈裟と横薙ぎ、そして文字通りの真っ向唐竹割りの単純な技を繰り返す。  
右方を打てば身を転じて左を打つ。打てば走り、走りながら打ち、飛び上がって打った。  
手の内の極まり具合、拍子呼吸の取り方、間の見積もり、身の柔らかさと弾力、体移動による体重の有効利用。  
それらを自然に行う倫の剣才は恐るべき天稟と言ってよかったが、今の倫には道に精進する清々しさだけが欠落している。  
両断する竹を何に見立てているのだろうか、倫の眼は吊りあがり白い歯をむき出しに鬼気迫る形相であった。  
 どれ程の時間が経ったか、やがて息を切らした倫は笹の枝葉の上にうずくまった。  
 
 「今頃、お兄様‥」  
望は連れてきた女と抱き合っているだろう。  
そう思い至り、腹の底のほうが重くねじれる。  
嫌悪と、憤怒と、羨望と、そして後ろ暗い先ほどの官能の残滓が、そこにたゆたっている。   
 「いっそぶった斬ってくれようかしら」  
ぽつりと、恐ろしい台詞が倫の口から吐き出される。  
‥そもそも、誰を?  
望お兄様?それともお兄様の連れて来る女ども?それとも、わたし?  
あるいは、湯殿の夜から変わってしまった世界のすべて?  
できるわけがない。  
―どれも、斬りようがないものばかりであった。  
だからこうして虚しく剣を振るうのではなかったのか。  
動いている時は忘れていられた想念が、倫の心を再び責めさいなむ。  
兄が東京府に戻るまで、こんな想いを重ねなければならないかと思うと、気が遠くなる。  
   
 
 ふと辺りを見る。  
斬りつつ動くうち、いつの間にか竹林の裏側に来ていたようだった。  
倫の立つ傍らに、笹百合がいく株か、ひっそりと咲いている。  
その清浄可憐な白い花弁をいつしか倫は無心に眺めていた。  
野の花は聞かず、問わず、悩まない。ただ咲き、それを繰り返し、やがて朽ちて地に還るのみだ。  
いつしか倫の頬は大粒の涙に濡れていた。  
 なぜ、涙が出るのだろう。  
天地自然の理のままに生きる花々を見ると、羨望と切なさでやりきれなくなる。  
ほろり、倫のその一粒の涙が花弁に落ちるか落ちぬかの一刹那。  
倫の心に何かが閃く。ふいに、太刀が奔った。  
笹百合が一輪、茎の半ばを断たれ地に落ちる。  
倫はそれを拾い上げるときびすを返した。  
自らが荒れ狂った竹林。掌中の白い大輪。  
倫の中に、何かがきざしつつあった。  
 
 殺伐。あらぶる心の中のまま斬り散らした、その一見無残な竹林の真ん中に、それはあった。  
天を刺すように立つ、袈裟に斬り断たれた若竹が一本。  
その竹の節の室に、倫は笹百合をたむけるように挿しつける―。  
 やわらかな月光しろしめす静謐に、おのれの心象が凝ったような一輪挿しが出現していた。  
若竹の切り口は涙滴のごとく、天を指すその切先は天地に寄る辺なき孤高の身の意地のごとし。  
言葉に出来ぬ思いが白い大輪と咲き、地と分かたれたその様はいずれ朽ちゆく儚き定めを暗示していた。  
 
このとき、倫は華道をたしなんで初めて、おのれの心の姿を顕すことが出来たと感じた。  
それは倫の中で剣と花、二つがひとつになった時。  
同時に、後の華道糸色流開眼の萌芽の時でもあった。  
 美しい。それは美しかった。  
自分を苦しめる、暗い、醜いものからこんなものが生まれるのが、倫には不思議であった。  
我が事ながらそのひらめきが尊いものであるという畏れも敬虔さもまた、同時に己の内にあるのがさらに不思議でならなかった。  
心に浮かぶものがあった。  
―わたしのうちにきざす、閃きに従おう。いまは、その想いをたどって、生きよう。  
 この地にとどまり、帰る兄を疎みながら待つなど、女々しいことこの上ない。  
 わたしも、せめてお兄様のそばへ。  
   
 ‥生けた花は、いつしか枯れる。  
けれど、花とともに生けた想いは心に力ある限り不朽なのだ。  
その時浮かんだ願いを抱いて、倫は母屋の明かりへと歩みを向けた。  
目指すは、父・大のもと。足取りは、軽かった。  
 
 
 ―その日よりしばらくのち。  
糸色倫、来年度より東京府・学習院女子中等科に入学内定。  
 
 
 『昭和七十六年・卯月』  
 
 東京府戸山、学習院女子中等科。   
凛然、威風辺りをはらう少女がやわらかな陽光のそそぐ中、校舎の前にたたずんでいた。  
長い髪をひとつに束ね背に流し、延びた背と微かにそらした顎がみなぎる自信をうかがわせる。  
傍らになぜか刀袋を捧げて立つ黒服を従え、彼女は校門をくぐって来る名も知らぬ同級生となるであろう少女達を眺めている。  
   
時はまさに草木萌え出づる春、同校の入学の日であった。  
春の日には珍しい風が、せっかくの満開の桜を虚空に舞わせてゆく。  
少女はこの日本国の皇統に連なる某宮家の長女、すなわち内親王であった。  
殿下、と尊称される身分である。  
 (※筆者註・その名を記すのは憚りがあるので、本編において彼女の呼称は基本的には『内親王』で通させて頂く)  
彼女は翻るプリーツスカートも気に留めず、セーラー服の襟もとに舞い込む花弁をはらう。  
花、といえばここ日ノ本においてはこの桜を云う。  
彼女は思う。  
−散るがさだめ、と誰が言う。無常のことわり、それがいのち萌えいづる春にこそあらわれんとは。  
 「吹かねど花は散るものを」  
眉をひそめ、つぶやいた少女の言葉を、ふいにとらえた者がいた。  
 「心みじかき春の山風、かしら。けれども、鮮やかに散り急ぐ姿もまた美しからずや―」  
豪奢な振袖を纏った少女が傍らに立っていた。  
波打つ黒絹の髪、天空海闊ということばが相応しい澄んだ瞳。  
その薄紅のつややかな唇にうかんだ笑みには気品が漂っていた。  
少女が言った。  
 「花、という字と死という字がそこはかとなく似るのは偶然でしょうが、  
  春の日に散りゆく花の儚く切ない様は、若人に末期を想う情緒を与えましょう」  
それを聞いてセーラー服の少女は白い歯を見せて笑った。  
 「入学の日に花を見て死を語るとは。剛毅も極まるとはこの事ですね。  
  少年少女よ、胸に大死をいだけ、と?」  
 「人生の暁の日に」  
 「ふっ、あははははは!‥花よりもあなたの方がよっぽど楽しい。  
  これからの三年間が楽しみになりました」  
振袖の少女も口元を袂でおさえ、眼を細めた。  
 「笑い声はあなたのほうが豪快ですわ、内親王殿下」  
セーラー服の少女は笑いをおさめ、面映げに姿勢を正す。  
 「わたしをご存知でしたか」  
 「殿下のご入学は様々なメディアにて報じられておりましたもの。同級の身となることができて光栄ですわ。  
  申し遅れました、わたしは信州蔵井沢の産、衆議院議員を勤めさせて戴いております糸色大の娘、糸色倫と申します」  
倫は優雅に礼をしめし、笑みを返した。  
さすがに相手が皇族では、普段身内以外には高飛車な倫も相応の敬意と礼儀を払って対するしかない。  
ちなみに内親王は昨年度も学習院初等科に在学していた。そのまま中等科に繰り上がった報道がなされたわけである。  
 「あなたが糸色倫さん‥そのお年で華道に稀有の才能をお持ちと聞き及んでおります」  
 「お恥ずかしい。習い事が高じたまでのこと、父にいろいろやらされましたがものになりそうなのは華の道だけ、ということでしょう」  
夏の夜の作品は華道の師匠にもしめされ、絶賛した師匠は斯界のみならず交友のある名士に触れ回っていた。  
倫の父・大もさぞ鼻が高かったであろう。  
二人は笑い収めるとともに護衛を従え、入学式の場へと親しく連れ立っていった。  
 
 それにしても中学生に上がったばかりとは思えない少女達の応酬だったが、  
これは上流階級ゆえに身に付けさせられた基本的な社交教育のためである。  
上位支配層のみずからの権力を維持・拡大するためのコネクションを形成する基礎が、  
こうした年代からの関係性に由来することはしばしばであるから、そうした教育は重要なものなのである。  
倫は幼少から躾けられてはいたが、学習院に入学するにあたって父から改めて仕込みを受けていた。  
ただこの場合、そうした辞令を抜きにしても少女二人は初対面でお互いに好意を抱きあったようであった。  
 
 これが、これより五年近くを共にすることになる少女二人の、出会いの一幕であった。  
 
 
 『昭和七十七年・水無月』  
 
 学習院の女子科はもとは明治帝の后・昭憲皇太后の思し召しによって四谷に創設された華族女学校という学習院とは別の教育機関であった。  
その後移転や学習院との合併・改称を経て先の大戦後、学習院女子として現在の戸山に落ち着く。  
明治・大正・昭和と、時の上流階級の子女を教導し、幾多の優れた人材を世に送り出してきた。  
もとは皇族・公家の教育機関であったため、現在も皇族の子弟の入学は多く、支配層に位置する諸名家の子女もまた然りであった。  
 だが昭和の御世も七十有余の歳月を重ねんとする最近においては―。  
戦後の昭和は立憲君主がまします民主主義国家という事になっている。  
身分や出自は問題にはされず、旧制において平民とされていた一般市民の子弟も憲法に保障された自由と平等のもと  
ここ学習院にて皇族や旧華族などの名家と机を並べている。  
その数は一年ごとに増え、むしろ内親王や倫などの貴種は少数派となっていた。  
 二人は校内でも浮いた存在であった。  
皇族の内親王は厳重な護衛やマスコミの取材などに囲まれる身。  
倫は信州県から毎日ヘリコプターで通学しているうえ、剣と花で培った典雅なたたずまいは同世代の少女には近寄りがたい威を放っている。  
しぜんと他の同級生達からは敬遠されるようになり、影で『デンカ』だの『絶倫』だのとあだ名を奉られるようになっていた。  
 倫にはそれがうっとおしい。  
兄達も『絶望』だの『絶命』だのと縁起でもないあだ名で呼ばれていたそうだが、今度は自分の番というわけか。  
倫の場合下世話にいう性豪の意味で揶揄されているようで、倫はその品のなさには呆れるばかりだった。  
それは友人となった内親王も同様のようである。  
 「平民の入学を認めたばかりに平民ばかりに」  
とは、内親王の談である。  
   
 そうした鬱屈はらしにかこつけて、倫は放課後、おなじ東京府内の望の部屋に遊びにゆく。  
糸色望は教師となっていた。府内のとある高校に赴任している。  
初任ということもあり、慣れぬ内は覚えることも多く、とかく忙しく時間を過ごしていた。  
 「‥という具合で、周りの方達のほとんどには品がありませんの」  
 「はぁ‥。そりゃあお前から見ればたいがいの人間は下品に見えるかもしれませんがね」  
 「それにしてもお兄様の格好も、倫には上品には見えませんわ。それにこの仮住まいも」  
細身のラフな洋装に、銀のアクセサリに皮の小物。もともとセンスに優れた望の出で立ちは二十代前半の男性としては相当お洒落な部類だった。  
だがそれは倫にはちゃらちゃらしたものと写るらしい。  
そしてこの部屋も、コンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションであった。  
洋式の硬質な空間は和の世界で生きてきた倫の基本的感性には少々そぐわない。  
ただ、革張りの大きなソファの感触は気に入ったらしく、倫は望の部屋に来るといつもそこに身を預けている。  
あれこれと文句をならべながらも、兄との時間は倫には楽しいものであった。  
暗い欲望に身を焼いていた頃に比べれば、こうして兄の所にまで押しかけるようになった今は一歩前進できたと言うところか。  
 
 楽しい時間は、過ぎるのが早い。  
傍らに立つ執事の時田が、ティーセットを片付け始めた。  
 「倫さま、そろそろお時間でございます」  
時田は本家の執事であるが、当主の大の命で倫にずっと付き従っている。倫の通学のヘリコプターすら彼が操縦していた。  
今日は花の稽古の予定が入っている。そろそろ本家に戻る時間であった。  
 「帰るんですね、倫。父上母上によろしく。時田、倫を頼みますね」  
かしこまる時田が倫の荷物を玄関に持ってゆく。  
倫はどこかそわそわしている兄の気配を感じ取ってぴんと来る。  
また、女だろう。望のご乱行はまだ続いていた。  
忙しくて遊ぶ暇はありませんとか言っていたのに、悪い癖が直らないなんて。どうしようもない、いやらしいお兄様―。  
もういい加減、望の女遊びにやきもきするのは倫自身うんざりしていた。  
 「あらお兄様、お行儀よろしいこと。なにか私達に早く帰って欲しいのかしら?どなたかお客様でもいらっしゃるとか?」  
 「いや、それは‥その、まぁ、来客があってですね」  
 「ふぅん‥」  
ちらちらと時計を気にする望。倫は掛け時計を一瞥し、ちょうど切りの良い時間が差し迫っていることを確認する。  
あと三十分で十九時であった。  
にやり。望のフードにゴミを入れたときの何とも言えない気分を思い出す。  
 「時田、出立は十九時に」  
倫の靴を揃えていた時田はその意を察し、白髯の下の唇をにやりと歪めた。  
 「かしこまりました。ではわたくしめは奥に控えております」  
 「とっ時田お前まで!」   
 
十九時のきっかり五分前、チャイムが鳴った。インターホンから女の声が聞こえた。  
 「望くん、来たよっ」  
何かを期待するような、踊った明るい声であった。  
インターホンの前に陣取った倫は時田に羽交い絞めにされた望を振り返り、にっこり笑った。  
 「はぁい。どちらさまでしょうか?」  
甘やかにつくった声で返答する。  
 「‥はぁ?ちょっと誰?」  
外の女の声がとたんに棘とげしくなった。  
 「開いておりますので、どうぞお入りください」  
倫は応えながら、兄の真っ青な顔をにやにや眺め、兄を押さえつける時田に目配せした。  
玄関が開き空気が動く気配、かつかつと靴が脱ぎ捨てられる音、廊下を足早に歩む音。心得た時田が望の拘束を緩める。  
時田はそのまま奥に身を隠す。  
 「ちょ、ちょっと待って下さい!今の声はですね‥」  
あたふたと、そちらに気を取られる望。  
倫はリビングに来客が侵入する機を計り振り返ると、自由になった望に向かい飛び出した。  
瞬間、一歩で望の内懐に入り、足に足を絡めて刈り、腰骨を手で押し込み、同時に肩で望の鳩尾を押す。  
重心を後ろに崩された望もろともに、倫は狙い通りソファに倒れこんだ。  
倫が学んだ古流剣術、その無手組打技の一手であった。  
 
 リビングに侵入した女が見たものは−。  
ソファに仰のけによりかかり、狼狽した望。  
そして、望の太ももにまたがり足を絡め、その胸にすがってうっとりしているセーラー服の少女だった。  
 「ちょっ、ちょっと!望くん、なにこれ!誰それ!なにやってんの!?」  
 「あ、あの、その、これは‥」  
倫はついと肩越しに逆上した女を振り返る。その眼は路傍の石ころか何かを見るように冷ややかだ。  
 「お兄様、新しい女ですの?わたしというものがありながら何人も何人も‥程ほどにして下さいませ」  
そう言いのけざまさっと飛び退り、着衣のしわをはらう。女を見て、憐れむようにふっと鼻で笑った。  
それは侮蔑と、何より倫の本音と願望の入りまじった自嘲気味の笑いでもあったが、女の肺腑を抉るには十分な鋭さだった。  
 「なぁっ!り、倫お前何を‥!」  
 「時田!帰ります。お兄様、ごきげんよう。また倫を可愛がってくださいましね」  
その声に現れた初老の男にあっけに取られた女の横を、倫はその時田を従えて悠然と通り過ぎる。  
部屋を出るとき、望に振り向いて舌を出し、いたずらっぽい笑みを送る。  
それは望にはさながら悪魔の笑みに映った。  
   
 玄関に倫たちが差し掛かったとき、我に返った女の怒鳴り声が聞こえてきた。  
 「い、妹とデキてたの!?変態!性犯罪者!ロリコン!最っ低!」  
 「違います、あれはただの‥」  
 「何人も何人もってのも何よ!」  
 「いや、それは‥!」  
 「ど許せぬ!!」  
何か打撃音もしたようだ。それは修羅場の開始のゴングと言ったところだろう。一方的な結果しか想像出来ないが。  
痛快ないたずらの成功に、倫のテンションは一気に上がった。つい先刻の、かすかな自嘲もどこへやら。  
倫は靴を履くと、時田の開けた玄関をくぐる。  
波打つ髪をぱっと払うと、空にうっすら照り始めた月を見上げ―、  
 「ほほほほ、ご乱行のむくいですわ!お兄様カッコ悪い!」  
口元を押さえ、高笑いを上げたのであった。  
 
 久々に晴れやかに笑った倫は、帰りのヘリコプターに揺られながら、今日の花は良いものが生けられると確信していた。  
 
 
 この日、糸色倫、花の師匠から免許皆伝の許し。  
一年後、師の承認を経て華道糸色流創始。齢十五に達せずして一流派の家元となる。  
 
 

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