『昭和七十八年・皐月』  
 
 倫はこの一時期、高校に上がるのを前にして華道の家元として多忙のさなかにあった。  
父が設けてくれた流派創始披露の宴席で糸色家所有の企業や傘下の関連企業の社長・重役に宣伝してくれたお陰で、  
弟子が殺到したためである。  
当然、流派組織の体系化、法人資格の取得、定款の作成などそれにまつわるあらゆる事務・実務作業が発生した。  
糸色家の法務や総務担当員から人数を割き対応がなされたものの、要所では家元の倫の関与が必要とされる。  
それら社会と組織のかかわりという面で倫は勉強を実地に重ねねばならず、必然、学業とあいまってたいそう忙しい。  
兄の家に遊びに行っている暇などなかった。  
いっぽう望のほうは教師三年目である。  
望は先年の倫の悪戯によって逆上した女の手で淫行教師の噂が校内にバラ撒かれていたたまれなくなり、逃げるように転勤していた。  
今期より東京府小石川区のとある高校に赴任している。  
赴任にともない同区に引越しし、趣味がひとめぐりしたのか畳の家で和装で過ごすようになっていた。  
さすがに懲りたのか、近頃は特に浮いた話も無いようである。  
 
 ようやく倫の嵐のような世事もやや落ち着きを見せてきた頃。  
倫は学習院で久々にまともに授業を受けている。  
すでに社会と関わりを持って収入を得ている倫は、学校の授業内容の社会生活における有用性は低い物であると判断していた。  
が、そこはそれ、まだ義務教育の縛りの中にいる年だ。そんな真理は言うだけ無駄であった。  
倫にとって、東京府の学校での授業の退屈さは兄の近くにいるために支払う税金のようなもの。それで納得していた。  
 内親王は倫の隣席であった。  
内親王は入学の日から糸色倫という凛々しい少女に無関心ではいられなかった。  
芸道の天稟は言うに及ばず、若年ながら流派の家元として一門を仕切るカリスマ、経営の才。  
それでいて驕りもたかぶりもしない快濶なたたずまい。  
その経済力も当然中学生の域を遥かに超えている。  
倫の華道の家元としての収入はかなりのもので、内親王は誕生日に時価数百万円は下らない大業物の名刀をぽんと贈られ仰天したものだ。  
一年、二年と日を重ねる内に次第にこの糸色倫という少女は年に似合わぬ傑人なのだと畏怖の念を抱くようになる。  
 (倫さんこそまさに絶倫の人、字義の通り『衆に優れたる者』だ。  
  それを下世話な解釈で揶揄する平民どもの、なんと愚劣、下劣、身の程知らず。ええいひれ伏せ平民ども)  
要するに、内親王は糸色倫にいつのまにか憧れていたのだった。  
 
 学習院では二人は敬して遠ざけられるような立場にあった。  
やはり同年代の少女たちとは感性や話題、経済感覚が合わないのだ。  
そんな気配は二人も察している。二人は休み時間ごとに教室の喧騒を避け、廊下のはずれで憩うのが習慣のようになっていた。  
内親王はそれが嬉しい。彼女もまた初等科時代は周囲から浮き気味で孤独をかこっていた。  
それだけに、今日の倫の、どこか足腰がおぼつかない様子をいぶかしんでいた。  
 
 「倫さん、最近お疲れに見えますが大丈夫でしょうか?」  
内親王の眼は倫が登校しているときは常に倫にそそがれている。いつもと違う友人の様子に気に掛けずにはいられなくなった。  
当の倫はそんな友人の観察など露ほどもしらず。  
 「ありがとうございます。‥体の方は問題ないのですが、どうも気だるい感じはしますわ。仕事疲れというものでしょうか」  
倫の口から軽いながらも弱音が出る。それだけ内親王に心を許しているという事だが、本人はそれを意識はしていないようだ。  
ところが、内親王はそんな倫の反応が嬉しい。親身な声で返答する。  
 「でしたらいっそ体を動かされてはいかがでしょうか?そのあと二、三日ゆっくりなさればよろしいでしょう」   
内親王にそう言われてみると、確かに倫は近ごろ花の弟子への指導に専心せざるをえず、剣の稽古からも遠ざかっている。  
内親王が続けた。  
 「聞けば倫さんは剣術も学ばれているとか。私も剣を嗜んでおりますが、警視庁の道場に凄い方が講師で来られるのです。  
  私の学ぶ流派の宗家なのですが、ひとつ出稽古に行ってみませんか?」  
そういえば内親王はいつも刀袋を持っている。倫は刀を贈ったりしているのにこの方面での話題が今までなかったのは不思議であった。  
倫は行ってみる気になった。友人の気遣いが嬉しかったからでもある。  
 「それではお言葉に甘えて、お邪魔させていただきましょう」  
 
 福徳円満、そんな言葉が相応しい老人だった。  
内親王とともに警視庁の道場に出稽古にきた倫は、特別講師というその老人を見てそう思った。  
中肉中背の均整の取れた体型ながら不思議と円相を思わせる優しげなたたずまい。  
ころりと丸い猫の肉球のような両の手。  
そして見るものの心を和らげる、柔和そのものの微かな笑みをたたえた顔貌。  
その道着に包まれた体躯の進退の、なんとやわらかなことか。  
よどみなく、力みなく、音も気配もなく、迷いなく隙もない。  
道場に整列した警察官剣士と倫ら出稽古の者への挨拶に頭を下げたしぐさですら、微塵の無駄も感じられない。  
美しい。  
倫は、およそ一般的な美の概念とはかけ離れているはずの高齢の老剣士に  
そんな思いを抱いたことに気づき、剣士として凄まじいまでの戦慄を覚えた。  
 
 道場で行われたのはいわゆる剣道の稽古ではなく古流剣術の稽古であった。  
老剣士は名古屋の道場でいにしえの道統を受け継いでいるということだった。  
基本動作、そして組太刀稽古−。  
倫には幼少より親しんだ流れであるが、初めて習う型はたいそう高度なもののように感じられた。  
使う竹刀が蟇肌しないという物で、これは竹の先を八つか十六割にして握りまでを皮で包んだものである。  
剣道に使う竹刀よりは当たりがやわらかい。そのため組太刀の型で実際に相手を打つこともできる。  
倫の学んだ流派では型稽古に木剣を用いていたため、この感覚は新鮮であった。  
倫は内弟子とともに型を示す老剣士の動きのなめらかさに目をみはる。  
動きに角がまるでないのだ。  
 
 その老剣士は一通り型を示すと生徒の間を歩き、柔和な笑みで動きを正す。  
倫も内親王と組になって隅のほうで黙々と組太刀に取り組んだ。  
内親王は先に述べた通り老剣士の流派を学んでおり、この流派の型に不慣れな倫にあわせてくれた。  
 だが、老剣士が最後に掛かり稽古を告げたとき、道場の空気が一変した。  
否、正確には警察官たちの気配が一変したのだ。  
必死、緊張、気負い、覚悟、気合、そんななんともいえぬ張り詰めた気が道場に満ちる。  
 この講義における掛かり稽古では、すなわち生徒がかわるがわる講師に挑むことも出来る、というものであった。  
生徒である警察官達は剣道の世界においてはまさに日本で最高峰、錬士・範士などという称号を受けた猛者どもばかりである。  
彼らの中には全国大会の優勝者すら何人もいるのだ。  
高校中学と言ったレベルではその身に触れることさえ出来ぬ高次の技量を備えた熟達の遣い手である。  
当然、倫や内親王からみても、雲上人のような名誉の剣士たちだ。  
そんな彼らが今にも血管が張り裂けんばかりの緊張の中にいるのである。  
 
 倫は末席に座しながら隣の内親王の緊張した面持ちを察し、問いただした。  
 「皆さん、人生一期の決戦におもむくような気ぶりですが‥」  
素面素篭手の老人に対し、警察官たちが普段用いているであろう剣道の防具を身につけ始めたさまが異様であった。  
内親王はうなづくと、倫を見て答えた。  
 「倫さん、今から面白い‥いや、恐ろしいものが見れますよ」  
冗談を言わぬ友人の真剣な剣幕に、倫は道場の中央に括目した。  
 
 そして倫は見たのだった。  
競技剣道の頂点に位置する日本最高の剣士たちが、素面素篭手の老人に手もなく捻られる光景を。  
防具に身を固めた警察官達の動きはまさに俊敏軽捷の獣−、風をまいて飛び込み、老剣士へと稲妻のような太刀を打ち込む。  
対する老剣士の動きはむしろ緩慢にさえ見えた。   
だがその緩慢な太刀遣いは、相手の打ち込みの動きの裏を取り、  
ほとんどは相手と刃を組み合わせることさえなく、一挙動で勝負を決していた。  
ぽん、と触れるだけに見える老剣士の竹刀が当たると、壮年の剣士たちは例外なく吹き飛び、或いは地にくずおれ、転がりまわった。  
老人は淡々と、敗れた相手に欠点や誤った箇所を丁寧に指摘してやっている。  
倫にはそれは魔法どころかおとぎ話を眼にしているのではないかという錯覚すら抱かせた。  
やがて老剣士に挑んだ剣士たちの全てが敗れ去り、出稽古の倫に順番がまわってきた。  
 
 「糸色倫と申します。よろしくお願い致します」  
 目上の者への敬意を込めて、倫は深々と頭を下げる。  
だが同時に道場はざわめき立っていた。  
倫が防具をつけておらず、講師である老剣士と同じく素面素篭手であったからである。  
 「内親王殿下から伺っておりますよ。なるほど、本当に美しい立ち姿です。  
  わたしの内弟子にもそうはいません、そこまで軸の通った者は」  
倫は褒められたのかわからない。  
だが親しく聞く老剣士の声は低いがよく通る心地よさを持っていた。  
 「ありがとう‥ございます」  
 「聞けば剣も古流を学ばれていた、とか。そのいでたちはそれゆえでしょうね。  
  ならば私も、古の道統を受け継ぐものとしてお相手いたしましょう」  
 「はい、かさねてよろしくお願い致します」  
格の違いか、流石の倫も極めて平凡な言葉をつむぐのみだ。  
 
 ともあれ、立合いである。   
倫は中段に竹刀を据え、―いざ向き合ったそのとき、それは来た。  
 
 それは、虚無であった。  
殺気、気合、敵意、憎悪、気負い、衒気、フェイント、そうした通常の試合に応酬するあらゆる気配・感情、  
それら一切が存在しない空白だった。  
それでいて、竹刀を無造作に垂らした老剣士の姿はいやに鮮明に写っているのだ。  
微かな笑みともつかぬ笑みが、倫に向けられている。  
 ―ほう、私が見えますか。なかなか出来ていらっしゃる―  
そうその口が動いたかと見たその時、老剣士の姿がふいに透明になり、掻き消えていた。  
 ぽんむ。  
竹刀の鍔元を握った倫の、右手首の上に老剣士の太刀が軽やかに乗っていた。  
瞬間、倫の肘の感覚がなくなり、肩から力が抜け、膝がくだけ、腰が支えを失った。  
それはなにか己の核とも言うべきものがこの星の中心へ墜ちてゆくかのような感覚。  
そして背骨のすべてが宙に飛び去ったかと感じた刹那、倫の体はぐしゃりと真下の地面へへたり込んでいた。  
 
 「均衡、つりあいを真っ直ぐ崩しました。が、かなり手ごたえを覚えました。あなたは天稟をお持ちのようだ」  
微笑む老人に助け起こされながら、倫は戦慄を通り越して愉しくさえなっていた。  
自分の技倆には多少は自信を持っていた。  
それがこれほど木っ端微塵、大人と子供どころか紙人形のごとくにあしらわれるとは。  
 「感動、いや感激いたしました。わたしどもの学ぶ先には、これほどの境地があることを教えて頂けるなんて」  
熱に浮かされたように、倫は興奮していた。  
何が起きたかわからなかった。  
何をされたのかわからなかった。  
上には上が、先には先がある。  
そのことがたまらなく嬉しかった。  
 
 翌日、ヘリコプターで信州の糸色邸に帰った倫は自室で眼を覚まし、常の二倍ほどにも脹れ上がった手首を見て愕然とする。  
老剣士の竹刀を受けたそこは真っ黒に変色し、肉どころか骨の髄のそのまた芯まで痛んだ。  
そして気分が悪くなって厠に行った倫は、はじめて己のからだから血尿が排出されるのを見る。  
ただ、腕いっぽん打たれたのみで何ということだろうか。  
だがそれ以上に驚きなのはいつ何時どう打たれたかがまったく解らなかったことであった。  
まるで時間でも止められたかのようだ。  
老人がその気であれば竹刀で倫の体の何処だろうと自在に打ち、いとも容易く撲殺できたであろう。  
それは速さも力も備えた上での、それ以外の異次元の何か。  
おのがたしなむ剣の道の遥か彼方に垣間見える最も恐ろしいものの片鱗を、倫は文字通り骨の髄に徹して感じたのだった。  
とにかくも、この腕と軋む体では何もしない方が良い。  
倫ははからずも先日の内親王の言葉どおり、しばらくゆっくり休む羽目になった。  
 
 腕が癒えるのにはその後数ヶ月もかかったが、倫は内親王に願い出てともに老剣士に師事することとなる。  
新しい刺激は、新しい感性を育む。  
倫の剣はそれから長足の進歩を遂げるが、老剣士の教える剣理は手先の領域のみならず組織のレベルにまで適用が可能な普遍性を持っていた。  
それはいわば大の兵法とでも言うべきもの。彼女は自らの華道糸色流の運営にも剣で培ったキレを示してゆく。  
ほどなく、糸色流は門下に三千人に迫る弟子を抱えるまでに拡大する。  
そのことは父の目にもとまり、糸色家の傘下にある企業の運営にも関わるよう命ぜられることになった。  
 
 
―この年の暮。糸色倫、糸色家の関連企業数社の役員に任命される。  
 
 
 『昭和七十九年・文月』  
 
 糸色倫は学習院女子中等科からそのまま高等科に進学した。  
相変わらず関連企業の経営参画や花の指導、学業に剣の稽古と、それらをヘリで往来する忙しい日々を送っていた。  
華道の家元であるということは学校内では有名になっており、口さがない級友たちから『絶倫先生』などと呼ばれている。  
倫にはうっとおしいだけの事だった。このころから「結婚して糸色の姓を捨てたい」などと言い出すようになった。  
だが一方で兄の望にちょっかいをかけることも忘れてはいない。  
生活のめまぐるしさに慣れた倫はそのなかで自分の自由な時間を捻出できるようになっていた。  
 
 
 内親王も倫と同じく高等科に上がっていた。  
先年より剣の稽古を共にするようになってますます親密となっている。  
護衛や侍従に囲まれ、同級生からは敬して遠ざけられる中にあって倫とともに汗を流す時間は彼女には貴重なものだった。  
最近では老師の東京府での稽古のほかにとある武道場を借りての自主練習まで倫と行うようになっていた。  
今日はまさに、その自主練習の日である。  
 
 組太刀の型がぴしゃりと決まる。一瞬に筋肉と神経の緊張が弾け、脱力の中に張りの気を秘めた残心に余韻がたゆたう。  
幾度も繰り返された型のなかで倫と内親王の剣はだいぶ練られてきていた。  
老師の内弟子との乱取りに近い間切り稽古でも、二人を打ち込める者は高弟数人に過ぎなくなっていた。  
内親王の剣は巧緻精密、むろん才の確かさはあるが修練を積み重ねた理詰めの強みがあった。  
型で培った、攻めるに重厚、守るに堅実の上品かつネバリの効いた剣風である。  
倫のそれは瞬速無形、切り覚えに身についた無駄の無い動きが如何なる態勢からも繰り出される天稟が光る。  
合理の極みとも言える型から斬法の精髄を吸い上げ、拍子を違えて展開する難剣であった。  
やがて組太刀を崩し、実際の立合いに近い形で展開される稽古の激しさは凄まじいものがあった。  
   
 見よや、内親王に向きあう倫の、竹刀を構えた立ち姿の凛々しきさまを。  
糸色倫は、美しい。内親王は友人を素直にそう思う。  
それは剣においてのみならず、日常の様々なる事柄においても―。  
それは挙措であった。  
立ち居振る舞い、たたずまいであった。  
手漉きに髪を漉く指先の柔らかな動き、食するに箸の扱いの確かさと整った作法。  
膝を不如意に割らぬ慎み、手を使うに必ずいま一方の手が動きにしたがうそのなめらかさ。  
歩むに踏み出すかかとを引きずらず靴音を不必要に立てず、その自らの重さを地球の中心めがけ真っ直ぐ貫きおろしている。  
なにより、背筋のきりりとした伸び、身を転ずるときも崩れぬ腰の落ち着き。  
それはつまりいかに動くともぴたりと決まって揺るがない正中線の美しさであった。  
 明治以前、日本人は手足を交互に振っては歩かなかった。  
階級職業によって姿の違いはあるが、みな腕を振らず腰を捻らず歩んだものだ。  
例えば侍は右手は扇を握り袴の膝上に当て、左手は袖口を持って動かさず、上体を伸ばして歩いた。  
その体を捻らない運用法は帯を締めたあわせ袖の着物を着崩れさせない。  
手足を同じく遣うのは武術においても同じだった。  
刀でも槍でも棒でも弓でもいい、打ち込むときに踏み出す足はどちらか考えてみるとよい。みな手足が揃っている。  
茶、花、香、書ほか歌舞音曲にいたるまで、芸能のすべてはこの着物をまとった体の用法を前提にしている。  
すなわち、日本人は伝統的に正中線を軸とした腰を捻らないからだの扱いを、自然に行っていたのだ。  
そしてその動きが洗練されていればいるほど、理にかなえばかなうほど、日本人はその者に『美』を感じたのである。  
美女を言う『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』などという言葉は、  
風雅な感性とともに運動体としての美のありかたをも表現している。  
現代の我々が、道行く着物の紳士淑女の歩みに郷愁とともにそこはかとない美しさや格好の良さを感じるのは、  
何世代にもわたって遺伝子のレベルにまで浸透しているその美意識によるものなのだ。  
 皇族という、伝統のうえではこの上ない立場にある内親王が、糸色倫に日本的な美しさ、  
その精髄たる正中線の美しさを感じたのは当然だった。  
倫は学校での制服を除けば生活のほとんどを和服で営んでいた。  
由緒ある家に生まれ、和の伝統的建築様式の屋敷に住まい、古き由来を持つ行事と芸能を自然のものとして営む生活を送ってきた倫には、  
いにしえの日本人の身体運用法が原型に近いまま染み付いていたのだ。  
そしてその美しさは老剣士の謦咳にふれて後ますます研ぎ澄まされて来ているように見えた。  
 
 互いの汗が剣尖より飛び散る。  
内親王は飛び違う倫の汗の匂いに脳裏を痺れさせている自分に気がついていた。  
倫の弾む胸、乱れる気息、筋肉のぴりりとした強張り、そうした気配に胸が疼く。  
それは甘やかな、しかしにぶい痛みを伴なう感覚であった。  
   
 その甘い痛みはなんという名であったか―。  
内親王の寸瞬の思考のぶれに、倫の太刀が決まっていた。  
びしりと左の肩口を袈裟に打たれ、内親王は手の竹刀を取り落としそうになる。  
 「参りました、倫さん」  
莞爾と笑みを浮かべた倫は残心を示し礼を返す。  
 「やっと打ち込めました。殿下の剣の綻びの少なさは素晴らしいですわ」  
 
 二人は更衣室に備え付けのシャワーを使い汗を流す。  
湯を浴びて後、二人は身体を拭いて鏡台の前に座った。  
内親王は髪を乾かしながら、同じく隣に座る倫を時々横目で見ていた。  
倫の白い喉、鎖骨の曲線、タオルにくるまれた胸のふくらみ。閉じられた膝からつま先までつたう汗がなまめかしい。  
倫は育ちのせいかはじらいに薄いところがある。汗がひくとタオルを取り捨て裸身をあらわにした。  
 「倫さん‥綺麗‥ですね‥」  
 内親王の声はどこか湿った響きを持っていたが、それには倫は気がつかない。  
倫は他人に裸体を誉められたのは初めてだった。同性に褒められると言うのは異性からのそれとはまた別の嬉しさがあるものだ。  
もう着替えるつもりでタオルを取った倫だったが、普段兄に発揮しているいたずら心が少し頭をもたげる。  
鏡の前に座る内親王にそろそろ近づくと、そのやや控えめなふくらみをおおうタオルに手をかけた。  
 「殿下のも、見せていただけるかしら‥?」  
 「え‥り、倫さん‥」  
 
 倫の指先が、内親王の鎖骨の下のくぼみをそろりと撫でるように動いた。内親王は思わず声が漏れ出そうになるのを、間一髪押しとどめた。  
倫の間近にせまった肌が眩しい。その身からはシャンプーでもボディソープでもないほのかな薫りが、内親王の脳裏をうずかせる。  
それは肌に焚きしめられた香の薫りだった。  
微かなるそれは嗜みの高雅さとゆかしさ、そしてどこか蠱惑的な官能を感じさせた。  
 内親王は頭が真っ白になり、鎖骨から肩へとうつる倫の手のひらの、その触るか触らぬかの微かな感覚に身をゆだね切ってしまう。  
先ほど打たれた左肩のあたりを倫の指が這うたび、痙攣する喉を奥歯を噛んで制した。  
倫の指が、脇に掻い込まれたタオルと肌肉の間に挿し込まれてきた。その爪は剣を扱うために爪が丸く切り整えられている。  
うずきは、もう脳裏からいまやからだの奥にまで広がっていた。それは初めて味わう、えも言えぬ心持ち。  
乳房の内が、肺の底が、そしてはらわたの奥深くの女の部分までが、甘い痺れを背骨を通して脳に送り込んでくる。  
内親王は他者にみずからの身体に触れられるのがこんなにも心地よいものとは、考えてみたこともなかった。  
‥否。  
他者、ではなく―。糸色倫だから、心地よいのではないのか。  
そんなことばが心に浮かんだとき、この日本国の皇統に連なる少女は、自分がはっきり眼前の友人を恋しているのだと自覚していた。  
気になって、いつも見ていた。いつも気にかけていた。  
見とれていた。そしてそんな自分が、わからなかった。  
 その答えは、あなたがくれました、倫さん―。  
 
 少し困ったことになった。倫は思っていた。  
ちょっとじゃれてみようかと思っただけだったのに、存外過敏な反応が帰ってきてしまった。   
頬も、耳も、ふるふると揺れる肩まで桜色に染まってしまった友人を見て、内心やり過ぎたかと後悔すること数瞬―。  
 「まぁ、殿下、鏡をご覧になって。殿下のお顔、まるで茹で上がった蛸のよう」  
 「‥ぁ」  
うっとりと半眼で何処か違う世界に遊んでいた内親王は倫の言葉に反射的に右手の鏡に顔を向ける。  
そこに本当に真っ赤になった己の顔を目の当たりにして、我に返る。いや『帰らせられた』。  
 「御免あそばせ、殿下。どうかいたずらをご寛恕くださいましね」  
芝居がかった台詞を畏まって吐いた倫は白い裸身をひるがえし、先刻稽古前に執事にヘリから持ってこさせた手荷物をほどきにかかっていた。  
 
 内親王は動悸を抑えるのに精一杯だ。  
なにかとても上手く機を外されてしまったような気がする。絶妙の呼吸と言うやつだろうか。  
彼女はタオルの乱れ捲れ上がった裾を整えると、逃してしまった官能の時に浮かんだ汗をぬぐいはじめた。  
それでも眼は倫を追ってしまう。  
花の稽古に直行すると言っていた倫は来た時に身につけていた制服をしまい、着物を纏わんとしている。  
 「‥?あ、あの、倫さん下着は‥」  
 「‥え?この襦袢が下着‥あ、なるほど。殿下、私は着物のときはお尻に線が出てしまいますので、つけてはおりませんわ。  
  色々便利なものはあるようですが、わたしはこれに慣れておりますので」  
 「!?」  
今日何度目かの動悸の高まりが内親王の胸を打つ。普段見慣れている友人の着物姿のその下は‥。  
 「殿下、今日は予定が押しておりますのでお先に失礼いたしますわ。ごきげんよう」  
そんな内親王の心は知らずもがな、倫は更衣室のドアを開け退出してしまった。ドアの向こうで執事を呼んだようだ。  
その声と足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなっても、内親王の動悸はおさまらなかった。  
 
 
 内親王は、この日の事をずっと後になっても忘れなかった。  
それは自分が自分の気持をはっきり自覚した日。そして公人たる皇族としては許されぬ同性に対する想いを自覚した日であった。  
この日から彼女は、表にはけして出せぬ想いを心中に蔵して日々を送る事になる。  
その埋み火は時折燃え上がり、内親王の臓腑を焼くこととなるのであった。  
内親王には知る由もないことであったが、奇しくもそれは、彼女が恋した少女と同じだった。  
 
 倫は時田の操縦するヘリのシートに身を預けながら、先刻の事は綺麗に忘れている。  
今日の弟子たちへの指導は信州の糸色邸である。  
倫はここ何日かの予定と懸案を脳裏に整理すると、その後にできる時間でまた兄の家に遊びに行こうかと考えていた。  
 
 
 この年はその後表面上平穏に推移した年であった。  
だがそれはやがてやってくる嵐の前の静けさに過ぎなかった。  
当然、誰もそれには気づいてはいなかった。  
 
 
『昭和八十年・葉月』  
 
 夏の盛りの暑い日であった。  
倫は夏休みであったが蔵井沢の糸色邸で弟子に稽古をつけており、それなりに忙しい。  
やがて稽古が一段落し、帰宅する弟子たちを玄関に見送る。そして涼を取りに庭へ回ろうと日傘をとった。  
 (そういえばお兄様はお出かけだったかしら)  
望も帰省してきていたが、今日はいつものちゃらちゃらした格好に着替えるとどこかに出かけたと聞いている。  
母屋の角をめぐり庭に向かった倫だったが、何やら庭が騒がしい。  
見ると、時田と望が何やら揉みあっている。  
その周りに自分と同じ年頃の少女たちが何人か立っていた。初めて見る顔である。  
 
 どうやら望の教え子であるらしい。  
すかさず時田が少女たちに倫を紹介した。三千の弟子をもつ糸色流華道師範にして糸色望の妹―。まぁ他に言いようもない。  
―ふむ、どれも庶民の娘のようじゃな。  
倫は時折、無意識裡にではあるが、話し言葉とともに思考言語すらもその口調が時代がかったものになる。  
その大元は小学校や学習院での疎外感からくるものなのかも知れなかった。  
孤独ではなく孤高。そう自ら思い込むための、倫が社会とその構成人員たる大多数の凡俗に対応するためにいつしか身につけた性質だった。  
弟子の指導時もこの口調であったがその場合は若年の自分―弟子たちの大半より、倫はずっと若い―を  
師として演出するためにあえて用いる仮面でもある。  
眼前の少女たちに改めて眼をやる。  
金髪の娘、小学生のような小柄な娘、真ん中分けの娘、ほか何人か―くるり見回して風体を確かめると、興味を失った。  
倫は兄の手前、適当に挨拶を返して去るつもりだったが、その少女たちの一人が倫の経歴を聞いて、ぽつりと言った。  
 「絶倫先生」  
途端に倫の血が沸騰する。初対面というのに学習院の下品な地女どもと同じ事をぬかす輩が、人もあろうに兄の教え子にいようとは!  
自分がこれほど短気だったとは思いもよらなかったが、湧き立つ怒りは止められない。  
 「刀を持て」  
 殿中でございますとなだめる使用人たちに囲まれ、ともあれ引き下がった倫だったが―。  
兄の教え子たちとの出会いは差し当たって最悪の部類であったと言えようか。  
   
 だが、本当に倫を仰天させたのは兄の帰省理由とその教え子たちの糸色家を訪れた理由であった。  
それは『見合いの儀』であった。‥よりにもよって見合いの儀とは!  
糸色家の伝統行事とされるそれは領内の人間同士が目と目を見合わせたら即座に結婚が成立するという冗談のような行事である。  
それは性別を問わない。男同士だろうと女同士だろうと、たちどころに婚姻させられてしまうのだ。  
もともとは領主主催の神事や祭の一種だったのだろうが、正確な由来は倫も知らない。  
長らく行われていなかったが、面白そうなものなら何でもありの現当主・大の代になって復活されたものであった。  
今回は乱脈生活を送ったあげく枯れたように身を謹んでいる望への、皮肉めいた父からの諧謔なのかもしれなかったが、  
父の差金であるならば冗談ではすまない。  
 
 とにかく問題は兄と目と目が見合った娘が兄の花嫁として迎えられてしまうということだ。  
当然ながら実妹である倫は対象から除外されている。聞けば実際に兄を慕う娘も何人かいるとのことだった。  
 兄が結婚!倫にとってそれは考えてみたこともない、否、考える事を無意識に避けていた絶望的悪夢であった。  
いつもなら時田を使いあらゆる妨害を行い、こんな行事などぶち壊しにする所だが、此度の時田は父の命で動いている。  
倫が命を下すことはできそうにない。  
ことここに至った上はみずから手を下すしかなかろうか―。  
倫は不安で波打つ自分の心裡が意外であった。自分はこんなに不安定な人間だったのであろうか?  
 
 ところが倫が動くよりも前に、事態は呆気無く終熄してしまった。  
当の望本人が、何があったのか、邸内で気絶してしまっていたからである。  
時田に介抱された望が言うには何か恐ろしいモノを見た、との事であった。  
 胸をなで下ろすと言うか、安心する、というのだろうか。  
倫は何とも言えない感情を胸に抱きながら時田の報告を聞く。兄の教え子たちは邸内の客殿に一泊し、翌朝帰京するという。  
 (お兄様を慕う娘、か‥私と同年代の)  
まだ個々の名前など記憶していなかったが、倫は『敵』というものの存在をおぼろげに認識させられた。  
また自分が糸色望の妹であるということ、そしてそれゆえにこうむる社会的制約というものを思い知らされた出来事でもあった。  
そう思うと何やら不快なものが胸に渦を巻きはじめた。  
 ―その夜、倫は刀を手に専用の竹林へと憂さを晴らしに向かったのであった。  
 
 
 この日を境に倫は兄の勤務する学校のリサーチを開始する。  
兄を取り巻く女生徒達、同僚の教員、近所の住人に至るまで調べ、報告書を上げるよう糸色家の情報部に命じる。  
そして見合いの儀で学習したのか、糸色家の歳時記を紐解いて伝統行事を把握し、積極的に催行しはじめた。  
それどころか倫本人が由来を捏造し勝手に催したものまであった。  
時系列順に―きもいだめし、架空人物誕生会、年が変わって地下段ひな祭り、無縁仏供養、ダメ通過儀礼の七五三などである。  
むろん、それを口実に兄に関わり、いじることが目的であった。  
倫本人も参加し、次第に兄の教え子たちとも関わるようになってゆく。  
 それは同年代の知己が少ない倫にとっての新鮮な刺激となった。  
学習院での疎外感の裏返しで、庶民の暮らしとその感性に関心を持っていたからでもある。  
それらに対する「貧乏人」「庶民」などという上から目線の言い回しは、倫らしい直截的なものだったが。  
後にクリスマスで自らが不要になったブランドバッグや高級車をただで配り、感覚のズレを兄から指摘されている。  
 
 上記のいわば私的な道楽にくわえ糸色家が新たに始める複数の事業への参画もあり、  
華道の指導もあわせるとこの年の倫は公私共に多忙を極めていたと言える。  
いぜんとして学習院女子高等科に在籍していたが、スケジュールのすり合わせの為に登校日が削られることが増えていった。  
過去最高の忙しさにてんてこ舞いとなった倫は今年度における出席日数が不足してしまい、結局留年する羽目になった。  
 もっともそんな事は倫は大して気にしてはいなかった。むろん父からの咎めもない。  
倫は企業複合体の支配者としての糸色家の家長・大からその代理人、エージェントとして自由に活動可能な、  
一族でも重要な役割を持つ立場であると考えられていたからであった。  
なにしろ本来その責務を負うべき四人の男子たちは独立してそれぞれの生業を持っている。  
本家の娘として兄たちの代わりにその任を果たしている倫に咎められる理由などなかったのである。  
 
 
 糸色倫、学習院女子高等科二年を留年。  
来年度もふたたび二年生に編入される。  
 
   
 

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