『昭和八十一年・師走』  
 
   
 内親王は学習院女子高等科三年に進級している。留年した倫の一学年先輩になってしまったわけで、当然教室も別となる。  
そのため彼女は倫が登校しているか、休み時間などに二年の教室を覗くのが日課のようになっていた。  
 ―また、倫さんは学校に来ない。  
廊下の窓から覗いた教室の、ぽかりと開いた倫の机をぼんやり眺めていた内親王は憂鬱の中にあった。  
今年度も倫は出席日数が怪しいのではないか、という心配すら抱いていた。ここ一月程はほとんど登校していない。  
近頃はともにしていた剣の稽古も倫の予定が合わず、流れ続けている。  
会えない、それだけのことで内親王の恋情はつのりにつのった。  
あの日の倫の手指の感触と温度を思い出すだけで、内親王のからだは火をともしたように熱くなるというのに。  
 ただ、今日の放課後には久しぶりに倫に会える。  
体調を崩し入院している剣師の見舞いに、ともに訪う約束があったからである。  
老師が入院しているのは彼の地元の名古屋の病院であった。  
倫とは東京府内で待ち合わせ、ヘリで移動する事になっている。  
 
 「お久しぶりです、殿下。少々立て込んでおりまして、ご無沙汰しておりました」  
放課後、なんと校庭に降り立ったヘリから現れた倫は、内親王を見ていつものように優雅に挨拶した。  
豪奢な振袖に毛皮の外套を合わせた冬の装いであった。  
 「今度は製菓業を立ち上げる事になりまして、父の代理としてこき使われておりました」  
会社組織の整備と工場の手配や従業員の確保などはほぼ済み、やっと自由の身になったという。  
内親王は倫の話も上の空に、ただその姿を見て動悸を高鳴らせていた。  
 「ただ、殿下―。せっかく久しぶりにお会いしましたのに、それが先生のお見舞いになるなんて‥。  
  相当お悪いとうかがい、心配しておりました」  
その言葉に、はたと我に返る内親王。  
 「はい、内弟子方のお話ではもはや道場には立てぬとか。次回の東京府での指導を楽しみにしておりましたのに‥」  
倫はうなずいて内親王の手をついと取ると、ヘリへいざなう。すぐさま、操縦席の時田に離陸を命じた。  
   
 老剣士はもはや死病の床にあった。  
警察剣士と倫たちを手も無く捻った頃から兆候は顕れていたらしい。  
寒さ厳しい二度の冬を経て、症状がはっきり出たということである。  
 護衛と執事を従えた少女たちは病院に特有の薬品の微かな香りただよう廊下を下り、目指す老師の病室を訪う。  
夫人に先立たれた老剣士には内弟子が交代で世話に当たっていた。少女たちの姿を見て、当直の内弟子が席を外した。  
   
 病棟の隅にある個室はこぢんまりとして静かであった。  
倫がヘリの中で生けた花を、棚に飾り付けた。内親王は見舞いに携えてきた茶をいれ、老師に捧げる。  
 「いや、この年になって年頃の女性の見舞いを受けるとは―」  
柔和な顔に照れる様がいっそ可愛らしいとさえ言える老師の様子であった。  
一見、その顔は死病にある人間とはとても思えない穏やかさだ。  
だがその体はげっそりと肉が落ち、なんとも言えぬ衰えた気配が漂っている。死の匂い、とでも言うべきものだろうか。  
 「お見苦しいでしょうが、ご覧の有様です。殿下、糸色さん、お見舞いに感謝しますよ」  
すでに末期を悟った観がある老師の静かな表情に、明日ある若者である少女たちはことばをつぐんでしまう。  
だが、老人は違った。  
 「稽古は続けているようですね。歩む動きが以前より綺麗です。大変結構‥いつまでも精進を忘れぬように。  
  あなたたちにはまだまだ先があります」  
 
その言葉に、少女たちはどう仕様も無い切なさを覚える。  
老師の見舞いにかこつけて倫に会えると心弾んでいた内親王は、師の姿を目の当たりにして己を恥じていた。  
 「先生にはもっともっと、教えていただきたい事があります。早く良くなって、また道場に‥」  
内親王の言葉は、重い声に寸断された。  
 「殿下。私の体です、もう保たぬことは己が一番わかっております」  
それは長い人生を重ねた者にしか出せぬ深い響きを持っていた。  
 「‥」  
 「稽古、とはいにしえにならう、と読みます。型には先人が辿り着いた剣理の精髄と自らの人生への想いが詰まっています。  
  そしてそれらを受け継ぎ、精進した私の想いも。‥稽古なさいませ。私が去っても、型の中に私は剣理とともにあります」  
倫の胸にもそれまでにない何かが去来していた。  
 「先生、でもわたしどもは、とても先生のようには」  
老人は茶を一口すすって湯のみを置き、おもむろに答えた。  
 「私は四、五才の頃より剣を初め、以後七十有余年、一日十時間、たゆまず稽古を重ねて来ました。  
  糸色さん、あなたにもあと六十年はありましょう。道に果てはなく、ただ生に涯てあるのみ。  
  ひとそれぞれ、行けるところまで行ってみようと思えば、歳月は意外に早いものですよ。‥花でも、剣でも‥人生でも、ね」  
倫たちには返す言葉が見つからなかった。  
最期の時を淡々と受け入れつつある老人に、若者が掛けられる言葉などない。  
 
 押し黙ってしまった可憐な見舞い客を思いやったか、老人は口を開く。  
 「では余興までに、最後の技を見せましょうか。よろしいですかな」  
突然のことにはっとなる少女たち。老人は寝床に端然と座った姿であるのに、技とはなんとしたことかと一瞬疑問が浮かぶ。  
 その刹那であった。  
倫と内親王はその背後に何者かの気配を感じ、身を翻す。倫たちは見た―真剣を掲げた老剣士の、今まさにこちらを断ち割らんとする姿を。  
それも倫と内親王の後ろにそれぞれひとりづつ――老師が二人いる!  
あまりのことに驚愕し身体が強張ったその時に、空気が振動した。  
 ずしん。  
いきなり腹の底に重い何かが叩きつけられた。  
その衝撃は少女たちの背後、すなわち身を翻す前に向いていた方向、老人の寝台の方から発せられた。  
茶を注いだ湯のみがまっぷたつに割れ、ふたりの黒髪が幾筋か虚空にはね散る。  
 「!!!」  
数瞬の意識の凝固のあと、再度身を転じ半歩下がって身構えようとした少女たちであったが、なぜか膝に力が入らずよろめいた。  
腰が痺れ、肩がすくんでいる。今の衝撃ゆえかと眼前の老人を見て愕然とする。  
老人は座したまま、指一本だに動かしてはいなかったのだ。  
 「いかがですか?体は動かずとも技を練ることはできます。意念をもってあなたがたの心をくらまし、  
  我が斬ノ気をあなたがたの心へ打ち込みました。‥軽く、ですが」   
 
 無形ノ神剣。  
敵手を居すくめて気絶させたり、甚だしきは気死すらさせる気合術であった。  
この老人は死病の床で動かぬ体を横たえながら、一意専心、自らの術技を飽くこと無く研ぎ澄まし、ついにこの神妙絶域にまで至らんとは。  
畏怖、感動、恐怖、感謝―。いくつもの想いが少女たちの中に浮かんで消えた。  
言葉にできぬ想いは涙と凝ってあふれゆく。  
倫と内親王はいつしか滂沱と流れる涙を止めもせず、老師の前に立ち尽くしていた。  
老人は二人へにこりと笑う。  
 「今日のお礼までに、そして遺言がわりに秘伝口訣を授けましょう。  
  ‥それ武は、戈を止めるの意に非ざるなり。『止』とは『歩』なり。則ち戈を担いで戦に歩み赴かん、の意なり。  
  行く手に何が待ち受くるとも断じて征かん戦人の心なり。  
  ‥当流道歌に云う。切結ブ刀ノ下コソ地獄ナレ、タダ切リ込メヨ神妙ノ剣。‥歌うは武の心、それすなわち『勇心』なり。  
  私は一生剣術莫迦でしたが、案外人生に通じる言葉だと思いますよ」  
 
 看護師が面会時間の終りを告げに、病室を巡回し始めた。  
倫と内親王は涙を拭くと老師に名残惜しく別れを告げ、部屋をあとにした。  
 
 
 帰りのヘリの中で、倫は押し黙る友人をおもんぱかり、そっと見やる。  
内親王は沈鬱げに眉をひそめていたが、その瞳には悲しみより何か名状し難いものが浮かんでいる。  
倫はそれは今日の濃密な時間の追憶であろうかと憶測した。彼女の方が老師との関わりは長く深かったはずだ。  
友人を府内のヘリポートにおろす。  
倫は憂いに眉をひそめて、窓から曇天の闇空を眺めていた。  
 
 内親王は押し黙って、北西に去ってゆくヘリの光を見送っている。  
‥地獄。そう、地獄。  
口に出せない、出してはいけない想いを抱いて生きるなんてそれ以外の何物でもない。  
倫さんの温度と気配はこうして感じても、その身に触れることはできない。  
誰にも相談できず、そして先生にだって言えなかった。  
でもその先生は、言葉を遺して下さった。  
『勇心』。勇気のことだ。人生勇気が大切、そんな単純な真理。  
ああ、私にそんなものがあるのだろうか。  
‥人生は、切り結ぶ刀の下だ。  
こわい。こわい。こわい。  
倫さん、私は−。  
 内親王はうつむくと、しばらくそのまま胸を押さえていた。  
 
 
 その日が、老師との今生の別れとなった。  
しばらく経った年の暮れに、倫は老師の死の知らせと葬儀の日取りの連絡を受ける。  
倫にはそれは病死でありながら、朽ちる直前まで己を磨き術技を研ぎ澄ました求道の果てであると感じられた。  
最後のときこそ、老師のその生涯で最強の瞬間であったろうとさえ思う。  
 内親王と初めて出会った桜舞い散る日の会話を思いだす。  
あのとき己が語った何気ない言葉、そして内親王の言葉。  
 (人は、花なのだ。散るが定めの儚き花だ)  
倫は思う。  
―その花は、老師のように死の寸前に最も大きく咲き誇り、その姿のまま地に落ち逝くことすら、できるのだ。  
わたしも、花でありたい。老師のような理を超えて咲いた花でなくともよい。  
まずは咲き開き気高く薫る花となりたい。  
―常に死を思おう。  
去りゆく定めの人の身なれば、悔いを顕世に残さぬように。  
 
寂びゆく余韻を加えた倫の芸道はまた一段、高みへのぼってゆく。  
その日から、倫の花に剣に、一層の凄みが加わった。  
 
 
 『昭和八十二年・睦月』  
 
   
 剣師の逝去は悲しみとともに様々な思いを倫にもたらした。  
人は死によって無に返るゆえに、生ある今を愉しまねばならない。  
さしあたっては、また兄にイタズラでも仕掛けてみようか。気持ちを切り替えた倫はまたそんな事を思っていた。  
冬休みの倫は信州の糸色邸にて新年を迎えていた。  
望も帰省してきている。標的は同じ屋根の下にいるのだ。  
幸い新事業は工場の稼働を待つばかりとなり、今の倫には少々時間がある。  
さらに新学期の開始まで、あと数日の猶予があった。  
 ちなみに他の兄たちはというと、長兄の縁は数年前に息子の交が誕生し時折家族で帰省してきたものの、ある日父に勘当され行方知れず。  
交は現在望とともに生活している。次兄の景は暦に縛られるような男ではないため、不意に現れてはいつの間にかいなくなる気ままぶり。  
三兄の命は医師として開業し一城の主となったが看護師を数名使うのみの零細医院であり、おいそれと休むわけにも行かない内情があった。  
余裕がある時には望と連れ立って帰省してきてはいたが、今年は新年早々忙しいようで、府内にとどまっていた。  
 
 
 雪ぶかい信州の冬は寒い。日の落ちた夜分はなおさらである。  
この日の倫は自室で火鉢に手をかざしながら、花の稽古始めに飾る作品の想を練っていた。  
夜食にと火鉢の灰に埋めたホイルに包んだ芋の火の通り具合を気にしながら、籠の蜜柑を引き寄せて皮を剥く。  
蜜柑もあぶったら美味しかろうかと他愛も無い考えが浮かんだとき、廊下から時田の声がした。  
 「倫お嬢様。望ぼっちゃまの身辺調査定期報告書が上がって参りました」  
望の事は常に悪戯出来るように定期的に調査員を送り込んでいる。だが、ここしばらくは忙しさに報告書を手に取る暇がなかった。  
最新の報告を受け取ると、時田を下がらせる。  
眼を通していなかったここ二、三ヶ月分のものを引っ張り出し、ファイルをめくりはじめた倫だったが―。  
肩がわなわなと震え、見る見るうちに不機嫌になった。  
それには望がいかに教え子の女生徒と親睦を深めているか、かつまた女生徒達がいかに望を慕っているかという事ばかりが書かれてあったのだ。  
 たとえば、『同校生徒・小森霧と宿直室にて同棲状態。交もまじえさながら家族の如し。小森は望の財政管理も行っている模様』  
といった具合である。他にも日を遡れば『同校生徒・木津千里と保健室にて同衾したる事実が判明。その後木津は何度も求婚』だとか、  
『同校生徒・常月まといと幾度も心中未遂したる事実が判明。以下詳細云々』等といったものだ。  
 望の生徒たちとは時折倫の催行する行事で顔を合わせていた。  
少々極端に過ぎる性格の者ばかりではあった。  
だが、学習院の地女どもより余程面白みがあり、兄へのイタズラに巻き込むには最適のスパイスであると思っていた。  
しかしながらこのような事実があり、あくまで兄に思いを寄せるというのなら話は別だった。  
それに兄も兄だ。悪い癖は治らなかったということだろうか。  
自分と同年齢の娘たちに囲まれ、その恋心の対象となっている兄を想像すると、無性にイライラする。  
居ても立ってもいられなくなった倫は褞袍を羽織ると勢い良く立ち上がった。膝が火鉢に当たり、埋み火がぱっと火の粉を散らす。  
倫の胸中の火も、もう自分ではとめられなかった。  
 
 しんしんと冷気の滲みてくる廊下を、兄の部屋めがけて足早に歩む。  
お兄様。お兄様。お兄様。倫の中はその言葉でいっぱいになっていた。  
とにかく、お兄様の顔が見たい。  
 
 だが、何処かで冷たく今の己を俯瞰している自分もあった。  
―いったい今時分兄の部屋に押しかけて何をしようというのか?  
 いったいどう声をかけて部屋に入り、そして兄になんと言うつもりなのか?  
 
 倫はいつしか辿り着いた兄の部屋の前で、引き戸に手を伸ばすことができずに立ち尽くした。  
その向こうには確かに兄の気配がする。何年か前のような女連れではない。  
障子を透かし見ると、どうやら何か書き物をしているようだ。几帳面で生真面目な望のことだ、何か学校の書類ででもあろうか。  
そういえば、幼い頃もこんな姿を見たような気がする。  
手が震える。それは寒さのためではない、どう力を込めようともそこから先に伸ばせないのだ。  
 幼い頃は何の遠慮も会釈も無くこの戸を引き開け、無茶な事を言っては兄を振り回した。  
いや、つい最近まで、兄の家に前触れなしにいきなり遊びに行き、ずいぶんと兄を困らせていたはずだった。  
それが何故か、今この時は手が出ない。まるで壁でもあるかのように―。  
 「倫?倫ですか?」  
 「!」  
いきなり、中から声を掛けられた。廊下の薄い明かりが倫を影絵のように浮かび上がらせていたのだろう、望が振り返れば一目瞭然のはずだ。  
倫は、何故か声が出ない。ただ眉根を顰ませて、唇を震わせるのみだった。苦しい。からだが重かった。  
―お兄様。お兄様。お兄様。‥たすけて。倫を、助けて。  
すらりと障子が開き、倫と同じく部屋着の着流しに褞袍を羽織った望がひょいと顔を出す。力なく震える妹を見て少し驚いたようだった。  
 「どうしたんですか、風邪をひいてしまいますよ。さ、入りなさい。何か用でもあったんですか?」  
寒いところに立っている妹を気遣った、それは兄として自然な台詞であったろう。望は機嫌がいいのか、屈託がない。  
優しくぽんと肩を叩く兄の顔を、何故か倫は真っ直ぐ見れなかった。  
顔をうつむけたまま手を遠慮がちに伸ばし、兄の褞袍の襟をそっとつまむ。  
 
 「‥入っても、よろしいの?」  
やっとそれだけを搾り出す。倫は自分のそのしわがれた声を聞いて、さらに暗澹たる気分に落ちていく。  
―何故、こんな優しく声を掛けられているのに、胸が痛いのだろう。  
 「?あたりまえです、何か用があるんでしょう?それにそんな所にいたら寒いですよ」  
 「お兄様の‥クラスは‥」  
 「え?」  
 「どうですの?」  
倫には見えなかったが、望は怪訝な顔をしたようだ。  
 「どうって‥ま、まぁ騒がしいと言うか賑やかと言えばいいのか‥色々大変ですが、楽しいところですよ」  
 「お兄様を慕う娘などいるのではなくて‥?」   
そのとき倫には兄が一瞬強張るのがわかった。その喉がふるえ言い淀んだ気配を感じ取る。  
 「い、いや、中にはそんな生徒さんもいますが、それはそんな年頃にありがちなはしかみたいなものですし‥。  
  だいいち、私がはるかに年下の、そう、ちょうどお前ぐらいの女の子に手を出すわけないじゃないですか」  
 
 倫の視界で、ぐらり、と足元が揺らぐ。  
兄はいま、なんと言ったのか。  
そして、なぜ言い淀んだのか。  
どうしてそのあと言い繕うような否定的な言葉を吐いたのか。  
 ―だいいちわたしがはるかにとししたの、そう、ちょうどおまえぐらいのおんなのこにてをだすわけないじゃないですか。  
‥そして。‥‥おまえぐらいの。‥お前ぐらいの?‥お兄様それはどういうことなの。  
なんで私が例に出てくるの?  
 
 「ほら、倫。立ち話もなんです、入りなさい。そうだ、蜜柑でもあぶりましょうか?美味しいですよ」  
 「‥入っても、‥よろしいの?」  
さっきと同じ質問が倫の口から出た。だがその声色は先刻より遥かに暗く沈んでいた。  
 「‥?‥あたりまえです、なに遠慮しているんです、兄妹じゃないですか。それにそんな冷える所にいたら‥あっ、倫!」  
‥兄妹。  
きょうだい!  
その言葉を聞いた刹那、倫は兄の顔を見ると身を翻し、冷たい廊下に駆け出していた。  
 
 「倫‥」  
望は伸ばしかけた手で虚空をなぜると、その手を胸に置いた。そして廊下の鎧戸を開け、しばらく庭の雪を眺めていた。  
なにか思い当たる事があったのか―。ぽつりと呟く。  
 「なんて顔を、するんですか‥」  
 
 
 廊下を髪振り乱し駆けながら、倫のはらわたは捻れそうだった。   
―きょうだい。兄妹。そう、私は妹であの人は兄なのだ。兄の部屋の引き戸に手を伸ばせなかった理由がこれだ。  
兄の言葉にやるせない思いを抱いた理由がこれだ。  
 壁はあったのだ。そう、それはまさしく壁だ。超えられない壁、超えてはいけない壁、‥人倫の壁だった。  
 
 自分の部屋の前に戻ってくると、障子を開けて中に飛び込む。さらに奥の寝室の襖を開けると、敷き延べたしとねにうつ伏せに転がった。  
兄が自分の生徒を女性として相手にするにしてもしないにしても。  
妹である自分は兄から恋愛対象になりうる異性とすら見ても貰えないのだ。  
それはただ兄妹であるゆえに。自分では選べない、両親がそう産んでくれた事によって成立した関係であるがゆえに。  
あの部屋には、兄の部屋には。‥自分は『妹』としてしか、入れないのだ!  
――絶望した!超えようがない壁に絶望した!  
なにも考えず、ただ衝動だけで兄に迫ることが出来た幼時の自分が羨ましい。もうあんな真似はできない。  
長ずるに従って身についた常識、理性、道徳。それが恨めしかった。  
そして『倫』と言う自分の名前も、今では重かった。  
その名はまさに、人として守るべき道徳、正しき行いを意味していたからだ。  
己の望みとまさに相反するその名前。  
なんという皮肉か!まるで呪いでも掛けられているようだ。  
思えば、自分は兄に迫ったその日に拒絶されているのではなかったか。それは、兄に人倫の分別があったからだ。  
こんなに近くにいるのに、けして触れてはいけない、なんて。  
 ―いちばん、わたしが、ちかくにいるのに。  
 
 ぼろぼろと、ただ流れる涙だけが熱い。身体は冷え切ってしまった。  
もう竹林で荒れ狂うなどという幼稚な真似はする気も起きない。そんな力も出ない程、倫の心は拉がれてしまっていた。  
倫はそうしてしばらくしとねをかきむしっていたが、今は風邪などで体調を崩すわけにはいかないと思い至り、布団をかぶろうとした。  
その時であった。  
廊下から、時田の声がした。  
 
 
 「倫お嬢様。お手紙が届いておりますのを失念しておりました」  
倫は涙を急いで拭くと鼻をかみ、ひきつった喉を咳払いで整える。  
寝室を出て居間に戻り、時田に部屋に入るよう促した。火鉢を火箸でかき回し、息を吹いて炭の火を生き返らせる。  
障子を開けた時田が盆に載せた奉書紙と思しき封書を倫に捧げた。  
 「‥ずいぶん大仰じゃな」  
手に取った倫はまっさらの表面を一瞥し裏を返す。ぴくり、倫の眉がわずかに跳ねた。  
封書は左封じとなっていた。  
 文面には墨痕鮮やか、見事な筆跡で―。  
 『ともに精進練磨せし剣の道、一手試したく候。  
  即ち来る初稽古の折、道場にて仕合所望にて候。  
  木剣、真剣、何れなりとも苦しからず候』  
とだけあった。その署名こそは―。  
 「殿下‥!」  
これはすなわち、内親王からの果たし状とでも言うべきものであった。  
 「倫様‥それは‥」  
控える時田には文面は見えない。ただ、左封じや封書の大仰さから、何かただならぬものであるということは感じているようだ。  
 倫はしばらく押し黙っていたが、やがてにやりと唇を釣り上げた。  
―老師が亡くなられて思うところあったのかしら。ちょうどいい、私もどう仕様も無いこの胸の内を持て余していたところ―。  
 「光栄にもデートのお誘いじゃ。時田、紙と筆硯を持て」  
 
 時田はむしろ凄絶さを覚えさせる倫の笑みに不安を感じないでもなかったが、いわれるまま道具を用意する。  
そして倫はこれも見事な筆蹟でただ一字、『諾』と記したのであった。  
ぱきん。  
剥き出しの炭火が撥ね、火の粉が舞った。  
倫の心にも、先ほどまでとは別の烈々たる焔が踊っていた。  
だが、その色は前にも増して黒かった。  
 
 
『同・昭和八十二年・睦月』  
 
 東京府には雪は積もるどころか降ってさえいない。ただ高く晴れた寒空に冷たい風が吹きすさぶのみだ。  
いつも倫たちが稽古に借りている武道場も、そんな厳冬の風になぶられていた。  
件の果たし状を受けてから三日が過ぎていた。この日はもともと倫と内親王がかねて約束していた稽古初めの日であった。  
この日はいつもとは違い、倫は単身新幹線で府内に乗り込んでいた。乗り換えの後、最寄の駅からタクシーで武道場に到着する。  
その手には道着袋とともに、あでやかな振袖に似つかわしくない無骨な荷物を携えていた。  
真剣と木剣を収めた、刀袋であった。  
 
 
 内親王はこちらも一人、道場の一隅に座して倫を待っている。ウォームアップは既に済ませ、その身は軽く汗ばんでいた。  
彼女は上下する己の胸を見下ろしながら、自問自答している。  
―どうしてあんな書面など書き送ってしまったのだろう。確かに剣友としての倫さんと仕合をしてみたいと思ったことは一度や二度ではない。  
 でも、どうしようもなかったのだ。面と向かって倫さんに、『好きです』などと言えようか?  
 あのひとはどう思うだろう?  
 きっと自分は異常な人間だと思われてしまうだろう。平民の言葉で『きもい』、とかいうのかしら?  
 せっかく親友と思えるほど仲良くなった、そんな関係が、自分が想いを告げることで壊れてしまうかも知れない。それが恐ろしい。  
 そう、恐ろしかった。  
 でも、倫さんとは真っ直ぐ向き合いたい。とは言え私は恋愛なんてした事ない。どうしたらいいかわからない。  
 周りの男性はみんな大人で、私をお姫様としてしか扱ってくれなかった。ただ倫さんだけが、私と同じ高さで接してくれたのだ。  
 だから、一緒に汗を流したこの剣でなら、倫さんに真っ直ぐ向き合えるのだ。  
 これがわたしの精一杯。『勇心』の、かけら―。  
 
 そのとき内親王は道場の隅の入り口に気配を感じた。そこには道着袴の倫が刀袋を手に、ふわりとたたずんでいた。  
 「明けましておめでとうございます、殿下。お誘いにより糸色倫、まかりこしました」  
倫は音も無く道場の床を歩み、内親王の正面の壁際で止まった。  
 内親王は八方眼に倫の姿を捉えながら、語りだす。  
 「陛下より賜剣の儀にて賜った小刀を手にした時から、日ノ本の皇族に連なる者として日本文化の精髄たる剣を学ばねばならぬと志し、  
  稽古を始めました。それより幾星霜―。  
  剣師の逝去を節目として師より承けしこの身の技倆、あなたと一手試したく書を致した次第。  
  ‥不躾な申し出ながら、快諾頂けたこと感謝いたします、倫さん」  
すでに、ぴりぴりと空気が張り詰めてきている。互いの肌に感じる冷気は、気温の為だけではなかった。  
倫は木剣と真剣を包む刀袋の緒を解くと、両刀の柄をあらわにした。  
 「口上承りました。して、木剣、真剣何れにて仕らん?」  
 「真剣が所望!」  
内親王が叫ぶ。  
二人の少女は同時に抜刀すると鞘を置き、道場中央に歩む。立間合いを取って向き合うと、ゆっくりとその剣尖を上げていった。  
 
 
 対峙した二人のあいだに、重く、しかし澄んだ空気が満ちてゆく。  
おたがい、その身に変化未然の剣気を練りながら、張り詰めた虚空に意識のフェイント−斬の意のみを飛ばしあう。  
中段青眼の剣尖が鶺鴒の尾のごとく揺れ、体中の筋肉が寸瞬、痙攣する。  
心気のこもらぬフェイントといえど、それに迂闊に反応してしまってはその動きの裏を取る様な嵌め技が仕込まれている。  
それが二人の学んだ剣術の特徴であり、お互いその手の内は知悉していた。  
それゆえに、不動無言の心と心の削りあいは熾烈を極めた。  
 
 えぇい!  
ぅおおう!  
臍下丹田の底から上がる唱歌の気合が応酬する。いつしか二人はびっしりと汗を流し、息も僅かに乱してきていた。  
 (流石ですね、倫さん。これほどの敵手とは‥冥加!)  
内親王が唇を僅かにほころばせる。  
倫はその一瞬に一足一刀の間ざかいを割り、上段から打撃を相手の真っ向に送り込んでいた。  
内親王が剣を逆立てて右半身に体を移しざま打撃を鎬で受け流した。  
上体が流れかける倫に、かぶせた太刀でがら空きの頚動脈へ袈裟に切り落とす。内親王が自信をもって送った一刀であった。  
その必殺の太刀の閃くところ、倫の姿が消え去っていた。  
 「!」  
倫は内親王の返し技を自らの打撃の瞬間に読んでいた。太刀を流される一刹那前に膝を抜き、相手の斬撃を潜ったのだ。  
倫はその地を摺るような脇構えから内親王の足をなぎ払う。瞬転、内親王は飛燕のごとく横っ跳びに飛び退った。  
空中で刀身に身を蔵し、地に着くときには身をかばいつつ既に次の動きの態勢を整えていた。  
倫は地から伸び上がりながら真半身上段に太刀をかかげると、鳥居の構えに移りざま一気に踏み込み、右片手打ちに相手の真額を襲う。  
これははるか遠間からの奇襲となった。半瞬反応が遅れた内親王だったが着地の態勢が前面投影面積の狭い半身だったことが幸いした。  
その一刀を鎬で撥ねそらしつつ剣を左肩に柄尻を前に担ぎ、逸れた倫の太刀道の内側に入り込みつつ柄尻を踏み込んできた倫の顔面に叩き込む。  
そのカウンターを倫は小首をひねって躱し、腰に控えさせていた左腕の突きを内親王の水月へ打ち込んでいた。  
片手打ちを内側に入られて生命あった時のために備えた、窮余の一手であった。  
もし脇差か小刀を帯びていればそれを用いてまさに必殺の交差法となったであろう。  
 「ぐぅっ!」  
だがそれは所詮は素手の打撃。呻くだけで耐えた内親王は踏み込んだ自らの左足を倫の右足膝裏に踏み変えて刈り、身を転ずる。  
重心を掛けた前足を一瞬で崩された倫はあおのけに倒れかかった。その崩れた倫に内親王が横薙ぎの一刀を容赦なく送り込む。  
倫の反応は凄まじかった。  
地に残った左足で跳び相手の斬撃の外側に身を逃すと同時に交差するように反撃を繰り出していたのである。  
 だがそれはさすがに不十分な態勢であったためか、内親王の拳を狙った一撃はその鍔の端を削り落としたのみであった。  
倫は後ろに一歩二歩と跳び、立間合いを保って剣を構え直した。  
一方の内親王もまた攻勢を収め呼吸を整える。鍔を越えた倫の切先が僅かにかすったか、左手の甲に一滴、血が滲んでいた。  
 ほんの十秒にも満たない、つむじ風のような攻防であった。  
 
 二人の少女は互いの太刀の重さ、駆け引きに瞠目していた。  
倫は内親王の手堅く揺るがぬ磐石のような身構えと隙のなさに。  
内親王は倫のどんな態勢からでも繰り出してくる変幻万化の技に。  
たがいにぶるぶると、胆の底から震えが走る。  
最も親しい友でありながら、最もかみ合う恐るべき敵手たるとは。  
 
 
 「心底恐ろしいと思いながら、不思議に安らぎますわ。あなたは、ほんとうにふしぎ」  
倫は剣の向こうに敵手をみつめた。  
 「こうしていると、嫌なことも憂し事もみな忘れられそう」  
脳裏に浮かんだ、兄の笑み。におい。温度。  
倫はそれらが決して手に入らぬという絶望から、今この時だけは自由に解き放たれていた。  
   
 「安らぐ、と?倫さんこそ、本当にふしぎですわ」  
内親王は僅かに歯をきしらせる。  
 ―忘れられない。  
倫と刃を重ねれば重ねるほど、黒雲が心の地平を覆いゆくようだ。  
ああ。本当に伝えたい事は違うのに。あなたの芸道への賞賛などではないのに。  
言ってはいけない言葉、抱いてはいけない思い。それゆえに剣を交わす事を望んだはずなのに―。  
 彼女はこうして己が剣を手に友人と対峙しているという事に、揺らぎ始めていた。  
師に示された『勇心』をなんとか奮って、倫の前に立ったはずであったのに。  
   
 
 「倫さん‥私は‥」  
 「殿下‥もっと、いいですわよね?もっと、この時間を―」  
 いつしか倫の気配が変わっていた。  
自分の中でどうにも処理しようのない兄への想い。  
それをすっかり忘れ去って思うまま生命を燃焼させることのできる仕合という時空に、倫は現実世界を離れて逃避しつつあったといっていい。  
それは一度兄に迫るも拒絶され、その後少々屈折したやり方でしか兄に関わってこれなかった倫の精神の弱さであろう。  
だからこそこの真剣と言う常軌を逸した仕合を受けたのだ。  
 極論すれば彼女は逃げ続けてきたのだ。花に、剣に、兄へのイタズラに。  
そして今またこの真剣勝負のもたらす麻薬にも似た充実感に。  
今このときの倫は、嫌な事に眼をそむけ、貪欲に目先の快感を追求しようとするわがままな少女にすぎない。  
だがそれだけに、剣への全霊の傾注ぶりは凄まじい。さながら鬼神憑きのごとく、この時の倫の技量は研ぎ澄まされつつあった。  
   
 内親王は眼前の剣友が、自分の知らない何か別のものに変じてゆくように感じられた。  
倫の掲げる剣に篭もる剣気は試合の領域を遥か越えつつあった。  
彼我の生死を問わぬ必死必殺の境地−。  
倫は岩間に染み入る水のように自然に、内親王の間を侵し始めた。  
 
 内親王には倫の姿がおぼろにゆらぎ、その剣ばかりが巌山のごとく巨大に迫って見える。  
そしてその剣にたたえられた静謐な殺気は、まっすぐに『死』のイメージとなって彼女に衝きつけられてきた。  
 「り、倫さん‥私はもう‥」  
 「何をおっしゃるの、殿下‥私はまだ満足してはいませんわ。‥さぁ、いきますわよ」  
 一刹、白刃が虚空を裂いて走った。  
その凄まじい迅さは、内親王が回避に専心せざるをえないほどのものだった。  
倫の一撃はまったく剣を振り上げずに体移動と手の内の締まりのみで打つ、最短最速の『石火の打ち』であった。  
もし決まっていたら、内親王は横面から脳漿を撒き散らして地に転がっていただろう。  
内親王が倫の太刀をかろうじて避けえたのはともに技を練った間がら、かすかに太刀筋と呼吸の見切りがついたゆえか。  
 激烈な打撃を避けてかしぎながらも間を取ろうと退る内親王のからだを、倫はつるつると、流水の足捌きで追うともなく追う。  
恍惚となった倫の菩薩のような半眼は、眼前の敵手が己の親友であるという認識をもとうに離れ去っているかのように静かであった。  
すい、と、倫の剣先が虚空をたゆたう。  
風に舞い上がる花びらのように軽く自然な動きであった。  
その虚空に巻く風を、内親王はもう読む事はできなかった。  
 
 ―次は、斬られる‥。  
内親王は迫り来る絶望的な現実にかろうじて自我を保ってはいた。  
倫は先ほどまでとはまるで別人のようだ。  
倫をさながら剣鬼ならしめたきっかけは、自分がもたらしたものなのか−。  
 ―怖い。  
初めて抱くその感情は、剣術において最も忌まれるものであった。  
身がすくみ、心がかたまり、気が萎え、意は働かなくなる。  
行き着くところは、ただ死である。  
 人は変わる。  
何かがきっかけである刹那とつぜん、それまでとは別の存在に変わってしまう。  
転生とさえ言えるほど、異次元の技量が突然備わってしまう者もいる。  
そして、凛々しき者も心くじけた瞬間、永遠に卑屈な者に変わりうる‥。  
内親王の心は今にも砕かれんばかりとなっていた。  
 その時、倫の身体が間ざかいを無造作に割っていた。内親王が恐怖に身の運びがほころんだその意の虚の一刹那。  
絶妙の、そして必殺の拍子であった。  
 
 そのとき倫は、ただただ楽しかった。  
掌中の剣と自分がまるで一体のように感じられ、心とからだが自在に動くのだ。  
圧倒的な歓喜と全能感の中で、眼前の存在などもはや塵芥ほどの障害にも感じなかった。  
もう倫にはその想念のどす黒さに気づける理性はない。  
その心はもはや剣の魔界にあり、その中には次は何をしても斬れるという確信だけがあった。  
 ―もうお仕舞いにしようかしら。  
終局の決断にためらいはなかった。  
 ―そう、こうやって、手を伸ばすだけで−。  
 
 内親王の頭上に、もはや受けもかわしもならぬ絶対必殺の一刀が振り落とされた。  
 
 まさにその、涅槃寂静の時空の一点に。  
内親王は認識だけが鋭敏となり、死を前に極限まで引き伸ばされた時空感覚の中で複数の思考の海に浮かんでいた。  
 ―嗚呼。  
 仕合には負け、心を折られ、何も出来ず何も言えず、果ては命まで喪う!  
 絶望した!己に絶望した!  
 眼前の相手は、もう糸色倫ではないのか。まるで剣魔、恐怖の存在―。  
 ああ、見える、私の頭上に三日月のごとく煌めく太刀が落ちてくる。  
 私をまっぷたつに断ち割って、その血の海に一掬の涙を注いでくれるだろうか?それとも‥?  
 ‥いやだ。  
 倫さんの手にかかるのも、倫さんがその手を汚すのも、いやだ。  
 そんな事のために、私は立合いを望んだのではなかった。勇心をふるって、私は‥!  
 ふるって?  
 ‥そうか。それも、ごまかし、ただの逃避だったのだ。本当はわかっていた。  
 私が想いを伝えても、勝手に倫さんはこう思うだろう、どうせ駄目だと諦めていたのだ。  
 果たし状など送って、真剣で斬り合っても、それは『真剣』なんかじゃ、なかった。  
 ‥死ねない。‥逃げたまま、死ねない。  
 先生、私は、ばかでした―。  
 もう一度、今度はしっかり勇気を持って、やってみます。  
 ‥わ た し の 、 い と し き ひ と に 向 か い 合 う た め に ―  
 
 ―切結ブ刀ノ下コソ地獄ナレ、タダ切リ込メヨ神妙ノ剣―  
 
師より受けた道歌が脳裏に閃く。手にはしかと、愛刀の感触があった。血が通い、意が通い、気が満ちる。動く。この手は動く!  
やいば閃く地獄の底に、すくむ己を動かすものは。  
武の本儀、生の極意。  
まことの、『勇心』であった。  
からだが剣が、自然に技に乗っていった。  
 
 喝吶!  
倫の一刀に、後から発した内親王の太刀が鎬あわせに交錯した。  
体移動とシンの重さが乗った内親王のネバりの効いた太刀が、倫の正中線にぴたり、合わさる。  
内親王の正中線を断ち割るはずだった倫の剣はそれによって太刀道をはずされ、半身に体を移した内親王の体の外にはじき出される。  
倫の太刀の鎬から峰に合い乗りスリ落とした内親王の太刀は手もと鍔元に倫の太刀を押さえ、  
その物打ちはぴたり、倫の頭上一寸で止まっていた。  
 剣と剣の交差法、その窮極の一手‥合し撃ち、であった。  
 
 
 内親王が剣を止めねば倫は脳中まで斬割されていたはず。  
絶対必勝の勢にあったはずの倫の、完璧な敗北であった。  
倫が呆然、眼が見開いて固まったその心気意の虚に。  
内親王は剣を倫からはずすと、自然に一歩を踏み出していた。  
 その足が地を踏むと同時に。  
口唇が、倫のそれに押し当てられていた。  
 
 
 「え‥?」  
 「倫さん‥眼が覚めまして?」  
 「‥‥。わたし、あなたを斬ろうと‥!」  
人肌のぬくみが、人外魔境にあった倫の心を呼び戻す。  
倫は今まさに友を手にかけるところを、その友によって救われたのだと悟った。  
 「わたし、わたし‥何ということを」  
内親王は唇を倫のそれにふれさせたまま、剣をはなしたその手を倫の背に廻した。  
そのまま、みずからの想いを倫の中に注ぎ込むかのように、静かに言葉をつむいでゆく。  
 
 「わたしは、倫さん、あなたが好きでした。あなたはとても綺麗で‥気品、威厳、才能、そして自由、その全てを持っていました」  
 「‥」  
倫はただ黙ってその告白を聞いていた。友人の言葉が重く肺腑にのしかかる。  
しかし自分が人生でも幾度もあるわけではない真実の時間に立っている事を自覚していた。  
 「なればこそ、あなたの奔放と闊達は私の憧れとなったのでしょうね‥それが恋へと育つのを、とどめる事ができませんでした。  
  おなじ、女性であるというのに」  
倫の背に回した手が、震えた。  
 「けれどこの身は皇族、逃れることもやめることもできぬ立場。  
  ‥いずれは国民の前に立ち、その代表として異国の貴顕と交わり公務を果たさねばならぬ身。  
  だから、言えませんでした。ずっとずっと、あなたを好きでした、と」  
自らに言い聞かせるかのような内親王のその声は震えしわがれ、自らの境遇への呪詛すらも滲んでいた。  
抱いてはいけない思い。  
口に出してはいけない言葉。  
彼女にとって人生とは逃れえぬさだめ、未然の夢幻境ではなく確定された閉塞、牢獄だったのだ。  
   
 倫は手の内をゆるめ、掌中の白刃を放り出す。  
倫の太刀は重力に従い道場の床に突き立った。  
いつしかふたりは眼を閉じ、身じろぎもせず、その唇が魂のふるえと温度を伝えあうのみとなっていた。  
 「こうして、あなたに真剣白刃での試合などを望んでしまったのは‥ただの逃避、わたしの弱さでした」  
倫は親友の抱擁に身をゆだねながら、その言葉を自らの身に引き比べていた。  
 
 想いあぐねて悶々とし芸事に気を紛らわせ、挙句に勝負に淫してこの友人を手にかけようとすらした自分に比して、何という強さだろう。  
刀の下に命をさらし、今またこの糸色倫のみならずおのれ自身をも打ち破って心を直接ぶつけてきている―。  
 「その弱さゆえに、わたしは倫さんを人殺しにする所でした。  
  すみません、倫さん。わたしは愚かでした。はじめからただこうして向き合って、想いを告げればよかったものを。  
  本当に私は、ばかでした―」  
倫は、内親王が身に宿した強さのみなもとを、はたと悟った。  
自らの弱さ、愚かさを受け入れ、そしてなお前へと進んでゆこうとする意志―それは、『勇心』であったのだと。  
途端に、恥ずかしさで頭がいっぱいになった。自分の愚かしさに胸が潰れそうになった。  
そして自分はこの友に救われたのだと思い知らされた。  
 「殿下‥あなたは本当の『勇心』を悟られたのですね。  
  先の一刀は愚かなわたしとあなたの弱さを斬って捨てる、会心の一太刀‥。  
  糸色倫は負けました、そして、‥ありがとうございます」  
その時、ぱたぱたと倫の頬に熱い雫が散りかかる。  
唇以上に熱いそれは内親王の涙―倫がその人生で初めてその身にうけた、真実の『生命の水』であった。  
 
 内親王は倫の衷心からの言葉に誠を感じていた。  
だが彼女の悲しいまでの聡明さは涙と感動に流されることはなかった。  
倫が自分の恋情を受け入れてくれたとは、判断しなかったのだ。  
涙をおさめ、彼女はまっすぐ倫を見た。倫もまた、彼女を見返していた。  
その倫の瞳の色を、何とあらわせばいいだろう。  
からだは触れ合いながら、永遠に遠い−。  
こころは届いた。  
だが、まごころは届くとも、相手がそれを受け入れるかどうかとは別の物語なのだ。  
 「ですが、殿下。申し訳ありません、わたしは−」  
恋する者の勘働きに、年齢や経験は関係がない。内親王は倫の様子を見て、すぐに答えを悟った。  
 「‥好きな方が、いらっしゃるのでしょう‥?倫さん。  
  今日は何という日でしょう、決死の勝負に勝って、必死の恋に敗れるとは」  
 
 内親王の肩に両手を置き、倫はそのからだを離す。  
倫は、答えねばならないと感じていた。  
命を懸け、勇気を振り絞って己に挑んできた対等の者へ。  
誰にも漏らすことのなかった秘めおきし感情がいま、真摯な言葉に答えるため倫の中で形となる。  
 「あなたの想いには‥応えることはできません。  
  私は、ずっと恋する人がいます。  
  それはけして口に出してはならぬひと、抱いてはいけない想い。触れてはならぬ‥禁忌」  
 「倫さん‥わたしと、おなじ‥?」  
 「私が恋ふるのは‥わが四人の兄の末兄、望‥お兄様」  
 
 二人の少女は、いまや深閑と静まり返った道場の中央、突き立つ太刀を傍らに正座して向き合っていた。  
薄明かりに鈍くきらめく白刃のごとく、彼女達は抜き身の己を晒し合っている。  
 「まだ分別もつかないころ‥兄には一度迫って拒絶されました。あの時は恋というものでもなく‥  
  でもきっと、今の私はあの夜から生まれた」  
 「‥」  
 「それから私は‥きっとまた拒絶されるのが怖くて、いたずらして兄を困らせるぐらいでしか関われませんでした。  
  兄の怒る顔、困る顔を見るのが楽しくてしょうがなかった。  
  このくらいなら許してくれる、ここまではやっても大丈夫、そんな卑しい見切りを心のどこかでつけながら。  
  今までずっとそう。そうするたびに、あの人への想いは強まっていったのに」  
同じだ。内親王は思っていた。程度の差こそあれ、怖くて、臆病で、恋する相手にたいした事も出来なかった自分と。  
何でも出来て颯爽としていた倫さんが、私の憧れだったこの人が。  
 「これからも、そうなさるの?倫さん」  
 「‥それは‥。‥あれから何年も経って、色々と知って‥。  
  身についた常識や道徳や人倫の道が、邪魔をします‥。兄妹‥ですもの」  
 
 突然、内親王の両腕が倫の肩をつかんだ。  
 「倫さん!これから一生迷うの?ずっとそうやって死ぬまで悶えているの?そしておばあちゃんになって、死んでいくの?  
  私は嫌、だから生きるか死ぬかの瀬戸際で勇気を出して自分を変えて、倫さんに告白したんです。  
  ねえ倫さん、先生から何も感じなかったんですか?今のままじゃ、何も変わりませんわ!」  
 「殿下‥」  
 「先生の道歌を思い出して。私でさえ、勇の心であなたに向き合えました」  
 「‥」  
倫の手が内親王の身体を引き寄せ、その背に回されていた。  
倫は腕の中の友人を抱きしめながら、溢れ出る涙で相手の肩を濡らしていた。  
先ほど嫌というほど思い知った恥が、自らの愚かしさが、再び身を焼く。  
自分は逃げていた。逃げて逃げて、やけになっていた。  
だが、生命を懸けて自分の眩んだ眼を覚ましてくれたこの友の想いからは逃げるわけにはいかなかった。  
変わらねばならない。応えねばならない。そう思ったとき、倫の心は決まっていた。  
 「そう‥ですね‥。‥道徳も、常識も、顔も知らない他人が作ったもの。何が人倫、ですか。そんなものまっぷたつですわ‥」  
それは道徳という人として守るべき道、即ち『倫』をみずから打ち破るという宣言だった。  
それは破倫の恋という許されぬ道へ踏み込んでゆく、不退転の覚悟だった。  
そして糸色倫が糸色倫を打ち破り、越えて行くという決意であった。  
 「殿下、‥いえ、眞子さん。ありがとうございます。私はもう一度、もう一度だけ兄にぶつかってみます。  
  後悔しないよう、‥ええ、この生命かけて」  
内親王は胸と胸をふれあわせているこの友に、いま何かが宿ったことを確信していた。  
そして失恋の痛みはあったが、倫に何かを与えることが出来たという喜びも感じていた。  
 「‥やっと名前で呼んでくれましたね。‥嬉しい。‥わたしも今日できっぱりけじめがつきました。  
  ではいつか、上手くいったかどうか聞かせて頂けますね‥絶倫先生?」  
 「まぁ」  
 
 ぱっと身を離しざま、口さがない同級生達が呼んでいた倫へのあだ名を、ほろり口にした内親王。  
いたずらっぽい笑みに込められた、そう諧謔に紛れさせてしかあらわせない何か。  
それは少々の悪態や悪口の応酬をむしろ楽しむ、人と人とのある関係性へ、二人が踏み出した証なのかもしれなかった。  
ぷう、と頬を膨らませた倫は、次の瞬間、ころころと笑い出した。  
その笑い声に、すぐにもうひとつの笑い声が重なる。  
広い道場に、年頃の少女たちの楽しげな声がしばらくやまなかった。  
 
 
 人は生きる間、幾度も真実の瞬間に出会う。それは人の人生に成長と変化を与える運命の種子だ。  
多くの人はその刹那、それが宝石のように貴重なものだとは気付かない。遠く過ぎ去った或るとき、もどらぬ時の重さに気付くのみだ。  
けれどこの二人の少女は、今日幾度もその一瞬を共有し、それを認識し、その価値を受け止めあった。  
身を重ねずとも心をともにせずとも、白刃に散らした火花、そして手に入れた心の力は、彼女たちが人生を生きるしるべとなるだろう。  
 
 
 
 新学期初日。  
糸色倫、学習院女子高等科より小石川区の某高校へ転校届を提出。  
 
 

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