『昭和八十二年・卯月』  
 
 信州県蔵井沢市。  
高級避暑地として知られるここには、元禄から続く名家・糸色家がその広壮な本家邸宅を構えていた。  
時は冬が去り、新緑萌えいづる春花の頃。  
雲ひとつ無い皓々と月の照る夜。  
 母屋の奥まった所に建てられた湯殿は濛々と湯けむりにおおわれていた。  
その間に見える、肌色のやわらかな曲線―。  
成熟一歩手前の、少女の背中であった。  
ここちよい檜の香りが、湯殿に陣取る少女の鼻腔を潤す。  
少女は肩に集めたゆるやかに波打つ濡羽色の髪を手櫛で漉き、ほう、とため息をもらした。  
練絹のような白い肌に、玉の雫が無数浮かんでは流れ落る。  
糸色家長女・糸色倫であった。  
澄んだ水面に、時おりはらり散るのは、格子より舞い込む桜の花びら。  
広い湯船の縁に腰掛けた倫は、そのはかなげな花弁にうっそり見とれていた。  
 (あれから何年になるかしら。わたしの想いがはじまった日から―)  
 それは遠い日の記憶。  
糸色倫はしだいに桜色に染まりゆく自らの肌をかき抱き、しばし過去に思いを馳せた。  
 
 
 『昭和六十九年・卯月』  
 
 うららかな春の朝のことであった。  
ところは信州、糸色邸内。  
 「おにいさま、一緒に遊びませんこと?」  
倫はぐいぐいと兄の袖を引っ張っている。  
望の上の三人の兄達は学校である。  
本来望も高校生に上がったばかりの身、当然学校に通っているべきところ。  
ところが先日入学の日に何か恐ろしい事態に遭遇し、それで登校を躊躇っているうち行く気がなくなったらしい。  
つまるところ学校はサボり、優雅にテレビ三昧を決め込んでいたようだ。  
両親はそれぞれの仕事に忙しく、家を空けていることが多い。  
必然今このときにおいて、倫の標的、もとい遊び相手は(糸色家に仕える者を除けば)望一人しかいないわけであった。  
 「はあ‥今日は何?」  
 「なにがよろしいかしら?またチャンバラごっこにしましょうか?」  
家長である父・大の教育方針で、糸色家の子弟はみなあらゆる習い事を幼時から仕込まれる。  
その中から当人たちが気に入ったものに専心すればよい、ということだった。  
闊達な倫はまず剣術が気に入ったようだった。  
糸色家は信州の一角を支配した武家の血統である。地元に道統を伝える剣流に庇護を与えていた。  
糸色の子弟は武道といえばまずその剣を学ぶのだ。  
 「ほほーい、ひかえひかえ控えおろう!抜けば玉散る氷のやいば、さぁおにいさま、はやくわたしをころしにいらっしゃい‥」  
 「‥色々混ざっているなぁ‥でもね、倫。今日は駄目、忙しいの」  
望はてきとうにあしらって画面に視線を戻してしまう。  
たちまち倫の頬がふくれた。  
 「妹よりテレビなんかがたいせつなの?!ひどいおにいさま!」  
腰に手挟んだ子供用の竹刀を見事にスッパ抜くと、兄の背中をぶったたき始めた。  
習い始めたばかりといえ、その打撃はなかなか強烈だった。  
 「いたっ!痛たた、わかったわかりました!一緒に遊んでやるから‥」  
 
倫はその日、望と心ゆくまでチャンバラに興じる。  
望は学校をサボったことを後悔しながらも、妹の無邪気な笑顔の前に、優しい兄の笑みを返していた。  
 
−まだ無垢も無邪気も罪にも功にもならず、ただ楽しく過ごすことがすべてだった時代。  
それは糸色倫の原初の記憶として、その心に刻印されている。  
その楽しき記憶の中に、やがて育ちゆくなにかの萌芽があった。  
倫は、その時それに、気付いてはいなかった。  
 
 
一年後。糸色倫、蔵井沢の小学校に入学。  
 
 
 『昭和七十一年・卯月』  
 
 地元の小学校での倫はひとりでいることが多かった。  
この蔵井沢一帯はもともと糸色家の領地であったため現住民はその臣下や領民であったものの子孫が多い。  
つまり倫はお殿様のお姫様というわけで、毎日高級車で執事の送迎つきとあっては同級の子どもたちも自然と距離をおいてしまう。  
学校は倫にとっては義務的に勉学をこなす場所であって遊びの場ではなかったのだ。  
そのため倫の遊び盛りの活力は自邸に戻ってから存分に発揮されることとなった。  
 
 その日は新しい学年の一学期を控えた春休みの日であった。  
倫はその時はわくわくしながら、忍び足で廊下を歩んでいた。  
長い糸色家の廊下は子供の足にはことさら長く感じられるはずだが、倫の胸は浮き立っていた。  
その手には宝物のように捧げ持つ、紙屑や何ともつかないゴミの塊。  
 やがて倫はお目当ての部屋の前で足をとめた。そこは兄の望の部屋だった。  
そっと覗くと、望は開け放たれた障子に背をむけて文机に向かい何やら書き物をしている。  
 ―またなにかお話を書いているのかしら?  
望は文を書くのが好きらしく、倫もたまに望が創作した物語を聞かせて欲しいとせがむこともある。  
大体は子どもが聞いても憂鬱な内容で、倫は自分の容赦のない批評に兄がげんなりするさまを面白がっていた。  
 さて、薄手のパーカーを羽織った望はペンを動かすのに夢中で、背後の倫に気づく気配も無い。  
倫は音も無くその背に寄ると、パーカーのフードにそっと手にしたゴミを落とし込む。  
部屋の外に逃げてくると縁台に腰掛け、笑いを堪えながら反応を待った。  
 「ああっ!な、なんだこれ!?あぁもう、倫!また倫だな、こんな悪戯は!」  
廊下に飛び出してきた望は肩を震わせている倫の姿に気付く。  
 「あははは!おにいさま気付くのがおそいですわ!」  
 「まったく‥」  
だがころころと笑う倫を見ると望もそれ以上追求する気が失せてしまったようだ。  
ただ、小さいことも根に持つ彼は、妹の姿が消えたのを確認すると部屋に引き返す。机に向かい、ノートに今の出来事を書きつけた。  
その自らの恨み節を綴ったノートには『長恨歌』と題字がつけられている。  
無駄にマメな望は、ここ最近の憂し事恨みごとをまとめていたのだった。  
その望の肩口から、ひょこっと倫が顔を出す。  
 「まぁ!お話を書いてたのかと思ったら、ぶちぶちぐちばっかり!おにいさまカッコ悪い!」  
 「おわぁ!い、いたんですか!まったく油断も隙もない‥」  
倫はひとしきり笑うと、兄の袖をひっぱり、遊んでくれるようねだった。  
 
 −楽しい春休みは、あと数日しか残っていない。  
 
望は倫にとって最高の遊び相手であり、安心して駄々をこねられる存在であった。  
学校での孤独の反動か、邸内での倫は望にわがまま放題やりたい放題であった。  
どれほど滅茶苦茶な要求でも、望は優しく倫に付き合ってくれた。というより、望しか付き合ってくれる者がいなかったのだ。  
 長兄の縁は年がずっと離れていることもあり、倫がどう構っても落ち着いてあしらわれてしまう。  
それにこのごろは仕事が忙しくなってきたとかで蔵井沢にいないことが多くなってきた。  
次兄の景は楽しいことこの上ない男だがやはり年が離れているうえ感性が独特で、言動が倫に理解できない事もある。  
最近は作品を仕上げると言ってアトリエに篭もっているか修行と称して山奥に姿を消してしまう。  
現在は世界最強拳法(自称)の奥義を開発中とのことだ。  
三兄の命は望とともに倫に一番近しい間柄だったが、医師を目指す今は中央の大学に通うため実家を離れて一人暮らし中である。  
 必然的にこの時期の倫は実家から地元の私学に通っていた望にべったりとなっていたのであった。  
 
 
 『同・昭和七十一年・霜月』  
 
 最近、望の様子がおかしい。   
 
 糸色倫は自室前の廊下に正座していた。  
ひんやりとした空気が気持ちの良い朝のことであった。  
彼女は水を張った盆の傍らに集めた花々と向き合っていた。  
その中へ無造作に手を伸ばし、自分が良いと思うものを掴み取る。  
茎根を捉えたそれらを盆の中の剣山に迷いなく挿しつけ、やがて盆にはひとつの花景色が描き出された。  
それを使用人を呼びつけ捧げ持たせると、倫は廊下を真っ直ぐ歩んで行く。  
 末兄の望の部屋の前に来ると、声をかけた。  
 「お兄様、お目覚めですか?」  
返事はない。しかし気配はあった。  
倫はことわりを入れてから障子をあけ、兄の部屋に入った。  
 「あぁ‥倫。おはよう」  
けだるげな兄の声であった。  
望は敷き延べた布団にくるまり、倫を一瞥するや背を向けてしまった。  
 「今日も、学校へは行かれませんの?」  
 「‥」  
眉根をひそめた倫は、使用人に顎をしゃくり、生けた花を望の枕元に置かせた。  
 「また生けましたの、お兄様。先生もお母様も、褒めてくださいますのよ。上手だって」  
望は顔を倫のほうへは向けずにだが、その鮮やかな花々にちらりと視線を送った。  
 「倫はこれから行ってまいります。‥朝ごはん、さめてしまいますよ」  
兄の枕もとの眼鏡をちらと見て、倫は部屋を出た。  
 
 どうしてお兄様は、学校に行かなくなったのだろう。  
そうなってから、どれくらい経ったっけ?  
小学校への道すがら、車の中で倫は考えていた。  
その傍らには父の大から仰せつかったのだろう、執事の時田が座してつき従い、倫を守っていた。  
地方の世間は狭い。時田による情報収集によると―。  
 望がクラスで何気なく口にした一言がある級友を傷つけてしまい、望は衆目のなか土下座して謝る羽目になったという。  
恥と自己嫌悪で、望は登校拒否に陥ってしまったのだろうか、云々。  
 倫にはさっぱり理解できない話だった。  
級友には謝ればいいし謝ったならそれでおしまいのはずなのに、変なお兄様−。  
そう考えてはみたものの、やはり倫は心配なのだった。  
だから、近頃母に勧められて始めた生け花で習い覚えた手並みを、毎朝兄に見せているのだ。  
ちょっとでも、兄が元気をだしてくれたら。  
そして、上手だねって、倫を褒めてくれたら。‥前みたいに、また一緒に遊んでくれたら。  
 「‥ねぇ、時田。望お兄様‥だいじょうぶよね」  
突然振られた言葉にも慌てず時田は恭しく答えた。  
 「望ぼっちゃまはお優しくありますが、気性に細やかなところがございます。  
  少々気にしすぎてしまう所が出てしまわれたのでしょう。‥今は、時間が薬でございます」  
 「むぅ‥」  
 「しかしながら、倫さまの励ましは不可欠。時おり今日のように見舞って差し上げれば、元気もでましょう」  
学校が近づいてくる。  
‥チャンバラごっこは、楽しかったのに−。  
いままで続いてきたその楽しさが、なんだかよくわからない事で終わりになってしまったのが嫌だった。  
その楽しさは、ずっと続いてゆくものと思っていたのに。  
校門の前に車が停まる、その軽い反動を受けた倫は、今日帰ったら兄の部屋に遊びに行ってみよう、そう思っていた。  
 
 暮れなずむ黄昏時の糸色邸は、広壮な旧家だけに影なお暗い独特の陰翳に包まれていた。  
帰宅した倫は着替えを済ませると真っ直ぐ望の部屋に向かっていった。  
母屋の隅のほうにある望の部屋は沈み行く日の陰に入り、夜のような暗がりとなっている。  
その部屋に、明かりはついていないようだった。  
 (お兄様、寝てらっしゃるのかしら?)  
自然足音を弱めた倫は、望の部屋の前まで息を殺して寄って行った。  
兄の部屋の障子の前に来たとき、かすかな会話が聞こえてきた。  
 
 「‥なさい、のぞ‥。たし‥‥なことになるな‥」  
倫には初めて聞く声、それは女の声だった。  
 「‥くの方こそ‥‥どうかし‥。あんなひどい‥‥。ごめ‥」  
その声を聞いたとき、何かが倫の中で首をもたげた。  
−何だろう、これ?この会話。  
どうしてこの部屋に、知らない人がいるの?  
かすかな恐怖と足元が揺らぐような混乱。  
しかしけして声を出してはいけないという脅迫めいた観念だけが、なぜか倫を呪縛している。  
 「いつからこんな‥‥。‥この眼鏡‥‥ずっと‥。‥‥て、止まらなくて‥、本当は‥」  
 「むくん、‥ほんとうは、わ‥し‥」  
それからしばしの沈黙。  
何か質量を持った物体が動く気配。  
かすかな衣擦れの音。  
膝が震えだした倫は、ゆっくりそこにうずくまってしまった。  
ミニスカートから剥き出しの震える膝を、爪を立てて掴んで―。  
とまれ。とまれ。とまれ。とまれ。とまれ。とまれ。  
何かとても恐ろしいことに自分は直面しようとしていると、肌に感じ取った。  
 ぽふっ。  
 なにか重いものが柔らかなところ、例えば布団の上のようなところに倒れこむ気配。  
空気が攪拌される音、衣擦れの音、鋭く低く洩れる吐息、喘鳴のような音。  
 「‥よ、‥むくん‥。 ‥恥ず‥」  
 「‥‥なんだね、‥‥さん。‥は‥‥で‥ぼくは‥でも暗いから‥」  
 
 倫は爪を膝に食い込ませ磨き上げられた床をにらんでいる。  
何がどうなって、何が起こっているのか?何、何、何、とだけ心に浮かんでは来るが、それだ、という答えは閃いては来ない。  
いや、考えるのを拒否しているのか?  
障子の向こうではもうそこ以外の世界は存在しないかのような様子になってきている。  
たまに低く聞こえる、何か湿ったものが糸を引くようなねばつく音―。  
 「‥て、‥‥ないで‥。‥‥けど、‥ちいいの‥」  
望の、兄の声はいつしか聞こえなくなっていた。  
女のなにか切なげな声ばかりが、倫の耳を打つ。  
 倫は爪を立てた膝の痛みより、その両の足の付け根――普段は排泄にしか用いていない場所が、  
まるで溶けそうなほど熱を持っている事に気がついた。  
 (あつい‥あついよ、おにいさま‥何してるの、そこで‥)  
倫の級友たちが時おり声をひそめてささやく様に口にしている、あれ。  
教室で女子のあいだだけで廻し読みされている、綺麗な絵柄ばかりの漫画雑誌に描いてあった、あれ。  
あれ、なの?お兄様。  
どうして、倫の知らない人と、そんなことしているの?  
 
 
 「‥くよ、‥‥ん」  
 「‥よ、望く‥、‥いぅっ!」  
何かが波打つような気配、音。  
 「‥‥よ、‥い、けど、‥‥あつ‥」  
少しの静寂の後、ゆっくりと何かが動く気配。  
それだけははっきりとわかった、兄のかすかにうめく声。  
もう、うかがい知れぬ兄の部屋で何が行われているか、倫は悟っていた。  
自分の手が止められない。  
下着が重く感じる。  
そろり、両足の湿った付け根に華奢な指を伸ばした。  
ぞくりと、背骨を駆け上がる初めての感覚。  
声を上げそうになるのを必死に押さえ込んだ。  
涙がうっすら浮かぶ。  
下着の上から割れ目をなぞるだけで気が遠くなりそうになる。  
 どうしてそんなことしているの?  
そんな言葉を反芻しながら、聞こえてくるうめき声にあわせ、倫は夢中で指を動かした。  
おとがいをそらし身をよじり、しかし音だけは立てまい声は出すまいと必死にこらえながら―。  
やわらかい。わたしのここは、やわらかいんだ―。  
そんなことを思いながら、鮮明に聞こえる兄と女のあえぎをひたすら拾う。  
 「‥さん、ぼくは‥‥!」  
 「‥くん、来て!‥よ、‥‥て!」  
なにか、切羽詰った言葉を、兄が吐いたようだった。  
本能的に浮かんだ予感にしたがって、倫は指をおのれの割れ目へと深く食い込ませた。  
   
 半瞬後の女の高く長い声を聞きながら、倫は人生で始めての絶頂間に包まれていった。  
 
 倫は望の部屋の前の廊下の自らの体液の染みを袖で拭くと、這いずるように廊下の影にうずくまっていた。  
熱に浮かされたようにはっきりしない意識の中で膝を抱き、兄の部屋の障子を見つめる。  
時おり会話らしきものが聞こえたが、離れた倫にはその内容は聞き取れない。  
どれ程の時が過ぎたのか、障子がすいと引かれ、兄と見たこともない女―兄の学校の制服を着ていた―が、  
あたりをはばかるように出てきた。  
日はすでにとっぷりと暮れ、影は闇の一部へと成り果てている。  
その闇の中のさらなる影に身を潜めるようにし、手指を絡めあいながら長い廊下を彼方へ消えてゆく二人。  
望が、女を送っていったのだろう。  
 「あした、学校で待ってます、から‥」  
女の声が今度ははっきりと聞こえた。  
倫はそのとき、ぎりぎり、と聞いたことがない音を聞いて我に返った。  
それは、自分の歯軋りの音だった。  
   
 倫の中に無意識に芽吹いた何かは、このときその成長が決定的に捻じ曲がったのだ。  
芽吹いたものも、それが捻じ曲がったことも、倫は気付きはしなかった、が―。  
そのとき宿った暗い火の色は、おさな心に自覚したに違いない。  
―その名を、嫉妬、という。  
それは、己は女であるという自覚と同義であった。  
 
 倫は、檜の香りかぐわしい湯殿の脱衣所にぼうと立っていた。  
その身には一糸もまとってはいない。その身は年相応、成熟には程遠いあどけなさをたたえていた。  
引き戸の向こうには、兄の望が、湯船に身を沈めているはずだった。  
水音を聞くことしばし−。白い裸身の少女は一歩を踏み出すと、引き戸に手を掛けた。  
 
 茫洋と湯船に仰のけになっていた望はそのとき、その日初めて知った異性のからだの感触を思い出していた。  
若さのせいもあり、その股間は硬く屹立している。  
そこに手を伸ばそうか、どうかと逡巡していたとき―。  
がらり。  
独り占めしていた湯殿の静寂が、突然破られた。  
 「り、倫?!」  
 「‥」  
望は湯船の中に大の字になっていた四肢を引っ込め、両膝を抱え込む。ざばりと水面が波立った。  
 「‥いっしょ、入って、よろしいかしら‥?」  
倫の声はいつもの闊達さとは様子が違っていたが、望は自分の先ほどまでのざまを隠すのに必死で、それには気付かない。  
いくつかある糸色家の湯殿のうち、温泉を引き、かけ流しにしたここは広い。ここは家族の団欒の場でもあった。  
倫とはつい先ごろまで、命などとともども入浴していし、時には両親も一緒だった。  
そのため望は抵抗なく倫の言葉を受け入れたのだったが。  
いつもなら母とともに男衆の対面に座るはずの倫は、望の隣に身を沈めてきたのだった。  
 
 望は驚いて身を退こうとした。  
 「り、倫、何を」  
狼狽する兄を逃さず二の腕にぴたり、寄り添う倫。  
倫は自分とは違う、男性の肉の弾力に驚いていた。  
男性としては細身、やや華奢な兄の体だったが、子供の倫にはじゅうぶん逞しいと感じられた。  
いや、兄に『雄』を感じたというべきだろうか。  
頬を兄の肩口によせ、頭の重さを預ける。自分の体が、兄の体が、湯よりも熱い。  
 望はいつもなら倫を適当にあしらい、湯殿を後にしたであろう。  
しかし今日の彼は違った。  
狼狽によって消し飛んでいた、先刻まで抱きしめていた級友の肉の柔らかさ、温度、そして肉の内側の感触。  
それらが、腕によりかかる妹の肉によって蘇ってきてしまっていた。  
 「ええと、倫、心配かけて、ごめん。また明日から学校行くから‥」  
理性が肉の衝動を押しとどめたか、言葉を取り繕う望。  
 「お兄様‥元気になったの?」  
 「え?あ、ああ、もう‥大丈夫‥だから‥。倫のお花のお陰かな‥、綺麗だったよ」  
 
 う そ だ。  
お兄様は嘘をついている。  
それは倫にははっきりわかっていた。  
わたしのおかげ?  
嘘つき!嘘つき!嘘つき!  
倫のお花が綺麗?口ばっかり!お兄様の嘘つき!  
瞬間、心中に渦巻いた想念が、ぎりぎりと自らのまだ幼い心を締め上げた。  
その兄への怒りもまた初めて抱いた情念−。倫は、それを制御するすべも、まだ持ってはいなかった。  
 「なにしてたの、お兄様‥?」  
望の表情が凍りつく。総身から血が引き、せっかくの温泉も氷風呂に等しい冷たさに変わる。  
 「お部屋で、何してましたの‥?わたしの、しらない、ひとと」  
そして望はゼンマイ仕掛けの人形のようにぎくしゃくと、腕にもたれかかる妹に顔を向ける。  
望のその時見たものは−。  
肉の感触、血の温度、遺伝子の近しさ、を持っていながら。  
満月のように円かな、凄絶そのものの美しい瞳だった。  
 「‥!」  
息を呑む望の視界に、その瞳がいっぱいに広がってきた。  
望の引きつった唇に、倫の唇が押し当てられていた。  
やわらかく、あたたかなそれ。  
溶けかける脳髄、よみがえる級友の肉の―いや、これはいもうとの、それ。  
妹の!  
望が理性の断片にしがみつこうとしたとき、今や望の膝に跨った倫は、その手に兄の股間の屹立をつかんでいた。  
 
 わたし。  
わたしなの。  
わたしじゃないと、だめなの。いいこと?お兄様。  
倫の中で、望への感情がはっきりと形を取って自覚されたのはこの時であったろうか。  
わたしを見て―。  
 
 「元気なら、わたしがさしあげますわ‥。お兄様、ねぇおにいさま‥。倫にも、同じことしてくれますよね‥?」  
ぽそりとかすかに、倫は兄に恐ろしい言葉をささやきかけていた。  
兄のからだの、多分何処よりも熱く硬い部分を握った手を、ゆっくりと前後に動かす。  
異性の何処をどうするか、最低限の知識はあった。  
 「りっ、倫、やめっ‥!」  
兄の端正な顔が、倫が見たこともない形にゆがんでゆく。  
 
 こまっている。あのお兄様が、困り果てている。  
そして、困っているくせに気持ち良くなっている。  
だらしない、お兄様―。  
倫が手を動かすたび、望のふるえが唇を通して伝わってくる。  
倫はすっかり兄の肉棒をしごくのに夢中になっていた。ぱちゃぱちゃと水面が波立つ音がここちよい。  
糸を引いて唇を離すと、いつの間にか望の膝に腰掛けた倫は自分の柔かい部分を兄の太ももの肉に押し付けゆっくりと腰をうねらせ始めた。  
 「おにいさま、お兄様、倫は、倫は‥」  
   
 ぼうと桜色に染まる妹の裸身を目の当たりにしながら、望は快感とともに恐怖と混乱の中にあった。  
どうして?どうしてこうなったのか?さっぱりわからない。  
今あるのは温度と快感、そして眼前の幼い裸身だけ。  
妹の手指の中の己に、その中を上り詰めてくるものを感じたとき、望の恐怖は頂点に達した。  
 「や、やめなさい!」  
どん。  
膝の上の妹を突き飛ばす。大きなしぶきが上がった。  
立ち上がる望。  
水面に浮かび上がる妹を顧ようとはせず一気に洗い場に駆け上がると、引き戸をくぐる。  
   
熱い湯の中に仰向けに浮かんだ倫は、湯煙にぼやける天井の明かりを見上げていた。  
ぎゅうと手を握り締める。  
さっきまで手の中にあった兄。  
今はもう、いない。  
倫は今日何度目か、ぎりりと歯を軋らせる。そして声を上げて泣き始めた。  
ぼろぼろと、止まらない涙が湯のように熱い。  
いつしか倫は自分が涙の中に浮かんでいるかのように思えてきた。  
 望は、大好きだった兄は、どこかへ行ってしまったのだ。  
そして自分も。  
何処へ?  
 ―それは昨日までとは違う世界に、他ならなかった。  
 
 それからしばらく、倫は家族の誰とも話さなかった。  
両親や上の兄達は、思春期に入り始めた年頃に特有の事だろうと、倫を見守っていた。  
望が再び学校に行くようになって喜んでいたせいもある。  
 ―望ぼっちゃまは、彼女が出来なさったようで。  
ああ、なんでも望が土下座させられたのはその娘らしい。まわりの級友が望を責めたから、そうなった、とか。  
その娘は、望が好きだったんだとか。はぁ、さようで。  
使用人と、兄がそんなことを言っている。  
一月もたたないうちに、次のように変わった。  
 ―望の奴、別な娘と付き合っているらしいぜ。  
前の娘とは別れたらしい。いや、いまでも続いている。皆様おモテになりましたが、やはり望ぼっちゃまも―。  
 倫は、それらの出来事の全てが、あの夜のせいだと知っていた。  
だから、何も言わなかった。  
 
 
 糸色倫はそれから花と剣に打ち込むことになる。  
いや、逃げ込むことになった、というべきだろうか。  
ともあれ、その方面での才能はこの時期から文字通り花開いてゆくのである。  
心中に蔵した兄への想いを、養分としながら。  
 
 
 

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