その日の放課後、糸色望は学校のカウンセリングルームにいた。  
夕陽の差し込む部屋の中、望は椅子に座ってこの部屋の主である智恵先生と向き合っていた。  
「……というわけで、あの後は木津さんには例によってスコップで殴られるし、他の生徒達にも良いように玩具にされてしまうし……」  
「はあ、それは大変でしたね」  
たっぷりと情感を込めて語る望と、その様子を極めて冷静な態度で見つめている智恵。  
望がカウンセリングルームを訪れたのは、ここ最近、2年へ組の担任を勤める中で遭遇した様々な厄介事に関する絶望語りをするためだった。  
要するに、愚痴りにきたのである。  
望が何かにつけて『絶望した!』と言い出すのは毎度の事なので、智恵は適当に相槌を入れながら彼の話を聞き流している。  
あくの強い、望に言わせれば『絶望的な』生徒ばかりが集まった2年へ組の担任はそれなりにハードな仕事であるのも事実だ。  
だが、智恵は、望という人間が、弱腰なその態度は別として、見た目以上に打たれ強くタフな人間である事をよく知っている。  
こうしていつも通りの絶望トークを繰り広げている内は特に問題はない。  
カウンセラーの仕事にしたところで、生徒達が持ち込んでくるデリケートな問題の数々に頭を悩ませる大変な仕事なのだ。  
苦労しているのは望も智恵も同じ事。  
それでも一応は望を追い返さず、喋りたいだけ喋らせてやっているのは、智恵のカウンセラーとしての職業意識の表れか。  
それとも、彼女は彼女なりに望の事を認めてやっているからなのか。  
(我ながら、ちょっと甘いわね)  
なんて事を考えている間に、望の愚痴はクライマックスを迎える気配。  
「とにかく、これからもウチのクラスの生徒のおかげで苦労し続けるのかと思うと、本当に絶望しますよ!」  
と、その時、望のその言葉を聞いて、智恵はふと気付いた。  
「糸色先生」  
「は、はい!?」  
突然、智恵の鋭い視線に見据えられて望はたじろいだ。  
「最近、『自分は生きていてもしょうがない』とか、『生きてる価値がない』とかあんまり言わなくなりましたよね?」  
「そ、そうですか?」  
「世の中がどうとか、周囲の状況に絶望して『死んじゃおっかな』なんて言ってるのは見かけますけど、  
今の糸色先生がストレートに自分自身を否定する事はほとんどなくなったと思いますよ」  
急にそんな事を言われてどぎまぎと戸惑う望に、智恵は少しだけ微笑んで  
「それからさっきの台詞……」  
「……わ、私何か変な事言いましたか?」  
「『ウチのクラスの生徒のおかげで苦労し続けるのかと思うと』って、  
つまりそれは糸色先生がまだまだ教師を続けようって思ってる、そういう事でしょう?」  
「はあ……」  
「変わりましたね、糸色先生……」  
しみじみと呟いた智恵が、望に向けた眼差しは心なしかいつもよりも優しげに見えた。  
そんな智恵の言葉がなんだかこそばゆくて落ち着かない望は、膝の上で組んだ両の手の平に視線を落とす。  
(確かに変わりました。私の中の色んなものが……)  
智恵に指摘されるまで気付く事すらなかった自身の変化。  
改めて感じ取った『今の自分』の感触に、望は何とも言えない不思議な気持ちになる。  
その時、不意に智恵がこんな質問を投げ掛けてきた。  
それは、望が『今の自分』に至る、その出発点についての問いかけ。  
「そういえば……どうして糸色先生は教師になろうと考えたんですか?」  
 
翌日の学校、2年へ組の教室。  
ちょうど授業が終わって放課後に突入したばかりの時間帯。  
「どうして先生は先生になろうと思ったんですか?」  
望は智恵にされたのと同じ質問を可符香から受けていた。  
「えっと、だからそれはですね……」  
何の気なしに可符香が聞いてきたその問いに、望は答える事が出来なかった。  
そもそも、どうしてこんな話題が出てきたのか。  
理由は至極単純、参考書を片手に校舎の外を歩いていく、大学受験を控えた三年生達の姿。  
それを目にした2のへの面々が誰からともなく将来の進路について話を始めたのだ。  
徹底した自己分析から、志望大学とその学部まできっちり計画を立てているという千里。  
あびるはバイト先の動物園から『いずれはここの正式な職員にならないか』と声を掛けられているらしい。  
どういった進路に進むにしても、入試や面接に携帯メールは使えないと気付いた芽留は顔面蒼白。  
『まだ先の事はよくわからないや』と言った奈美は他の生徒達に『普通』と言われて苦笑いしていた。  
可符香もその会話の輪の中に加わって、あれやこれやと将来の事について話していたのだけれど、  
放課後になり誰もいなくなった教室に望を呼び止めて、先ほどの質問をしたのだ。  
「どうしても、わからないんですか?」  
「いえ、わからないんじゃないんです。ただ、何だか言葉にしようとしても上手くいかないんですよ……」  
教師という職業は何の理由も無くなろうと思える類の仕事ではない。  
望が大学生になった頃には既に、学級崩壊だの何だのと教育の現場での様々な問題が噴出していた。  
どんな仕事にもそれなりの苦労や困難は伴うものである。  
だが、わざわざ世間でその職に就く事の大変さが喧伝されていた教職に、望が積極的に就こうとする理由もない。  
だいたい、自己嫌悪とネガティブ思考が頭の中でぐるぐる渦を巻いていた当時の望が、生徒達を教え導く教師という仕事を選ぼうとするだろうか?  
そこには何か理由や、きっかけとなるものがある筈なのだが……  
「喉元まで出掛かってる感じなんですが、後一歩がどうしても……」  
望は今も、自分が教職を選んだ理由、その手触りを心の中に感じる事が出来る。  
しかし、今の彼は上述の通り、それを正確に言葉に置き換える事が出来ないのだ。  
「別に上手く言おうなんて考えなくていいですよ。先生が何か言ってくれれば、きっと参考になると思いますから」  
「そ、そうですか?」  
「そうですよ!」  
普段は周囲の人の輪から一歩引いた立ち位置の可符香が、今日のこの話題に限ってはえらく積極的だった。  
そんな彼女の様子に少し疑問を抱きながらも、望はまず自分の経験を順を追って言語化していく事にした。  
「そもそも、最初は教師になんてなるつもりは無かったんですよね」  
「ああ、やっぱり」  
「やっぱり、とは何ですか!これでもあの当時は色々悩んでいたんですから……」  
可符香の言葉に子供のように顔を膨らませ、望は抗議する。  
そう、大学生だった当時の望は悩んで悩んで悩みぬいていたのだ。  
あの頃の望はネガティブまっさかり、目に映る全てがどんよりと暗く、濁って見えていた。  
大学に進学した為に地元の友人やネガティ部の面々とも別れ別れになり、放り込まれた新しい環境の中で望は一人ぼっちになってしまった。  
望がその状況を打破する為に選択したのは、それまでとは全く違う自分を演じる事。  
しかし、それは高校に入学したての頃に、明るく前向きな自分になろうと努力した時の事とは全く違っていた。  
周囲の人間が自分に求めるキャラクターに徹する、不毛なお芝居を望はひたすらに続けた。  
人は皆仮面を被って生きているというけれど、あの当時の望はそれ以上に悲惨だった。  
なぜならば、仮面を取り払ったその向こう側に望自身は存在しないのだから。  
周囲の空気や反応を敏感に嗅ぎ取り、その場に適した振る舞いをする。  
仮面を被った役者と言うよりは、機械的に反応を返すロボットに近い、それが当時の望だった。  
 
「自分に自信がなかったんですよね。まあ、自業自得ですけど………」  
そんな日々の連続の中で望の心はだんだんと磨耗していった。  
孤独を癒す為に始めた行為が、結局は望の心をより深い暗闇の中に押し込める結果になってしまったのだ。  
「やめようと思えば、すぐにやめる事は出来た筈なんです。でも、うわべだけの人間関係を手放す勇気も私にはありませんでした」  
妹の倫が以前言っていた望の『やんちゃな時期』はこの頃に当たる。  
どんどんと増える『友人』達に囲まれて、傍から見ればこの頃の望は社交的で明るい人間に見えただろう。  
その実、望の周りには自らの腹の内を曝け出せる人間など誰一人もいなかったのだが。  
それでも、望は『友人』達を失う事を恐れた。  
彼らの存在は自らを縛る鎖となり、底なし沼のような苦しみの中で望はもがき続けた。  
そんなある日の事だった。  
望が教員を志すきっかけになった、その出来事があったのは……  
「いよいよ、本題ですね。それで、その出来事っていうのは何なんですか?」  
「テレビです」  
「テレビ?」  
その言葉に怪訝な表情を浮かべた可符香に、望は続ける。  
「テレビでニュースを見たんですよ。教育問題の特集でした」  
荒廃した教育現場、低年齢化する犯罪、いじめ、不登校、教師と生徒を断絶する見えない壁。  
番組を制作した人間による見方の偏りや誇張もあっただろうが、  
それでも、そのニュースからは教職というものがどれほどハードな仕事であるかが十二分に伝わってきた。  
「なるほど!それで先生はより良い教育を実現するために、その現場に立つ事を決意したと!!」  
ポンッ、と手を叩いて可符香が言った。  
望は心底嫌そうな表情で  
「私がそんな人間に見えます?」  
「いやだなぁ、先生はこれ以上ないくらい立派な教師ですよ!」  
満面の笑みを浮かべて可符香が答える。  
茶化されてるのだとわかっていても、これはなかなか堪える。  
「……そんな大した理由じゃないんですよ。取るに足らない、ごく個人的な理由です……ただ…」  
「ただ、それをどう言い表していいか、先生には分からないんですね」  
「はい。情けない話ですが………」  
肩を落として、望は言った。  
可符香はしばし目を閉じて、望の話を頭の中で吟味しているようだったが、やがて目を開けて  
「ありがとうございました」  
ぺこりと頭を下げて、望に礼を言った。  
「こんな終わり方で良いんですか?結局、結論は話す事が出来ませんでしたし……」  
望が少し申し訳なさそうに、可符香に言った。  
「あなたがいやに熱心に尋ねてくるものだから、きちんと最後まで話してあげたかったんですが……」  
「いえ、もう十分、お話は伺えましたから」  
それから、どうにも納得がいかないといった表情の望を残して、可符香は教室を出て行った。  
鞄を片手に提げた彼女は教室の扉のところで一度立ち止まって、望の方を振り返り  
「でも、先生が先生になった理由、ちゃんと話せるようになったら、その時はまた教えてくださいね」  
「は、はい」  
それだけ告げて、廊下を歩いて行ってしまった。  
取り残された望は先ほどの自らの話を思い返し、ウムム、ともう一度頭を悩ませるのだった。  
 
校門を抜けて、傾いた太陽の光に引き伸ばされた自分の影を追いかけながら、可符香は歩いていた。  
可符香が今日、望にあんな事を尋ねたのにはそれなりの理由があった。  
2のへの級友達と交わした将来の進路についての話。  
何でもないようなそぶりでクラスメイト達と会話をしていた可符香だったが、実はあの時、彼女はある事に気付いてしまった。  
周りの誰もが将来の自分について、さまざまな事を話している中、実は可符香は何一つ具体的な話をしていなかった。  
奈美のように、まだ先の事がよく分からない、というのとは根本的に違う。  
将来の事を考える、その行為自体が上手く出来ないのだ。  
茫漠とした未来という白紙の地図に何を描いて良いのかが分からないのではなく、  
自分にそんな物がある事にこれまで気付きもしなかった、そんな感覚。  
(……ずっと、今その時の事だけで精一杯だったからな……)  
心中、可符香は深くため息を吐く。  
可符香のこれまでの人生は恐ろしいまでに苛烈なものだった。  
そんな中で彼女は笑顔で自らを鎧い、目の前の全てをポジティブに捉える事で何とか生きてきた。  
押し寄せる苦難から身を守るだけで精一杯だった彼女に、将来なんてものを想像する余裕は無かったのだ。  
『未来は希望に溢れている』、周囲の人間にそう語りながら、その実、彼女は自分の未来の事など考えた事が無かったのだ。  
だから、彼女は望に尋ねた。  
『どうして先生は先生になろうと思ったんですか?』  
彼女のクラスの担任教師は、箸が転んでも頭を抱えてウンウンと唸り出してしまう、悩み苦しむ事のスペシャリストだ。  
彼の言葉から、何か『考える事』自体のヒントが得られればと思っていたのだけれど……。  
(やっぱり、人の体験を聞くだけじゃ、なかなか自分の身にはつかないよね……)  
今が幸せか?  
そう問われれば、可符香はきっと少し逡巡しながらも、最後には『幸せだ』と答えるだろう。  
複雑な思考の迷路をはりめぐらせて、暗い考えの入り込む隙のない、自己防衛の為の堅固な城壁を心の中に築き上げた彼女。  
その歪さを、彼女自身も自覚していた。  
だけど、彼女の人生は、2のへの友人達と、そして担任教師・糸色望との出会いから変わり始めた。  
無論、今まで営々と築き上げてきた自分のあり方がそう簡単に変わる筈はない。  
それでも、幾重にも重ねられた仮面の奥で、可符香は今、笑う事が出来ていた。  
(だけど………)  
そんな彼女にとって、今日の出来事はまるで奈落の底に突き落とされたかのような衝撃を感じる事となった。  
(私の心の中には、未来がないんだ……)  
それに気付いたとき、可符香は愕然とした。  
未来を、将来を、進むべき明日を想う事の無い者。  
果たして、そんな人間を『生きている』と言う事が出来るだろうか?  
今の可符香は水面に浮かぶ一枚の木の葉と同じだ。  
押し寄せる波に流されるだけ、決して自分からは動き出す事のない存在。  
過ぎていく毎日をただ受容する彼女の中には、思い描く未来の姿もありはしない。  
(このままじゃいけない……でも、どうすれば……?)  
冷たい風の吹き抜ける道の途中で彼女はただただ途方に暮れるのだった。  
 
「う――――ん………」  
「ど、どうしたんだよ、ノゾム?」  
「うむむむむむむ……」  
「おい、コラ、何とか言えってば!!」  
その夜、学校の宿直室、間近から喋りかけてくる交の声に気付く様子もなく、望は唸り続けていた。  
件の可符香からの質問の答えについて、ずっと考えているのである。  
彼がここまで悩んでしまうのは、あの時の可符香の様子がいつもと少し違うように感じられたからだ。  
この質問に関してだけは、決してないがしろにせずに答えてやらねばならない気がするのだ。  
「先生、まだ悩み事、解決しないの?」  
ちゃぶ台の上にお茶を置きながら、霧が尋ねてきた。  
「いえ、ホントもう少しの筈なんですよ。だけど、どうしてもそれが言葉にならないんです」  
悩み続ける望の思考は堂々巡りを繰り返していた。  
既に頭の中にはおぼろげなイメージが浮かんでいるのに、それを捉える言葉が見つからない。  
学生時代のクラスの集合写真の中、どうしても一人だけ名前を思い出す事が出来ないようなじれったさ。  
「先生、だいじょうぶかな?」  
「べつにいつもの事だろ、ノゾムがくだらない事で悩むのは」  
少し心配げな表情で望の事を見つめる霧。  
憎まれ口を叩きながらも、交も望の様子が気がかりなようである。  
と、その時だった。  
「……交、今何て言いましたか?」  
「えっ!?」  
「私が悩んでる理由について、何か言いましたよね?」  
突然、望は交の肩をガシッと掴んで、甥っ子の顔をまじまじと覗き込みながらそう問い掛けてきた。  
そのあまりに真剣な様子に、交は思わずたじろぐ。  
「ご、ごめん……ノゾムがくだらない事で悩んでるとか、少し言い過ぎ……」  
「それですっ!!くだらない事、くだらない理由!!それで良かったんです!!」  
「へっ!?」  
「くだらない……そうです!!結局は私の個人的な悩みが発端だったんですから、取り繕ったような言葉なんて全く必要なかったんですよ!!」  
完全に置いてけぼりにされてしまった交。  
その前で望は何度もウンウンと肯きながら、ようやく辿り着いた答えに満足げな表情を浮かべたのだった。  
 
翌朝、学校。  
昨日からの悩みを引きずったまま、沈んだ気持ちをなるべく表に出さないように気を遣いながら、可符香は教室へ向かう廊下を歩いていた。  
と、その時、彼女は廊下の向こうから、こちらに向かって走ってくる人影を見つけた。  
「先生!?」  
「おはようございます、風浦さん。いやあ、授業が始まる前に会えて良かった……」  
可符香の前で立ち止まり、ぜえぜえと肩で息をする望の姿を見て、可符香も少し驚いた。  
「教師が廊下を全力疾走したりしちゃ、いけないですよ。先生」  
「いや、面目ありません……ですが」  
呆れたように言った可符香に、望は申し訳なさそうに頭をかきながら  
「ただ、昨日の質問の答えを、なるべく早くあなたに伝えたくて……」  
そう言った。  
「昨日の質問って……先生が先生になった理由の話の…?」  
「はい。昨日はあの後もずっとその事ばかり考えて、頭から全然離れなくて……でも、ようやくわかったんですよ」  
可符香は、望の側からすればさして重要でもない筈の問いについて、彼がそこまで真剣に考えてくれていた事に少し驚く。  
そんな可符香の心中を知ってか知らずか、望は呼吸を整えてから、彼女の顔をまっすぐ見つめて、  
質問の答えを、彼が教職を選んだ理由を告げた。  
それは………  
「………ボッコボコにされたかったんですよ、あの時の私は…」  
「えっ!?」  
言葉の意味がわからず、戸惑う可符香に望はさらに続ける。  
「ボコボコにされて、ズタボロに叩きのめされたかったんです。ただ、それだけの事だったんですよ」  
「せ、先生…それってどういう……?」  
たまらず問い返した可符香の言葉を聞いて、望は少しバツが悪そうに笑ってから、  
もう一度、昨夜自分が気付いた答を、今度は噛み砕いた言葉で彼女に告げる。  
「くだらない、本当にくだらない理由だったんです。いくら精神的に追い詰められてたからって、そりゃあないでしょうって言いたくなるような  
稚拙で浅はかな思いつき。それが、私が教師になろうと考えた最初のきっかけだったんです……」  
大学時代の望が目にした、教育の現場についてのニュース特集。  
それを見た望は考えた。  
「面と向かって生徒達と相対するしかない、逃げ場のないあの場所に立てば、上っ面だけを取り繕っていられるような余裕はきっとなくなる。  
精神の袋小路に追い詰められていた自分を、粉々に打ち砕いてしまうような、そんな環境に私は身を置きたかったんです」  
孤独を癒す為に作り上げた筈が逆に自らを縛りつける枷になってしまった、伽藍堂の自分。  
それを捨てる勇気が持てないなら、いっそその状態を維持出来ない環境に飛び込んでしまおう。  
「本当にくだらない、その上酷い話です。生徒なんかおかまいなしで、自分の事ばかり考えていたんですから……。  
でも、教師になる為の色々な準備や勉強をしている内に、色んな事を知って、たくさんの事を考えて……また少しずつ私の考えは変わっていきました…」  
「どんな風に…ですか?」  
「早く教壇に立って、そこにいる生徒達と言葉を交わしてみたい。触れてみたい。そう考えるようになりました。  
きっとコテンパンにされてしまうって分かってましたし、やっぱり実際にそうなってしまいましたけど……その気持ちは日に日に大きくなって……」  
そうして、教員免許を取得して、望は初めての学校に赴任した。  
そこで望は予想通り、生徒達に馬鹿にされたりからかわれたり、散々な目に遭う事になる。  
だけど、愚痴と泣き言で頭の中がいっぱいになっても、それでも教壇に立ち続ける内にだんだんと生徒達と普通に言葉が交わせるようになっていった。  
同僚の教師や生徒達からは基本的に、どうにも冴えない、少し困った教師だと思われてはいたが、  
不登校やいじめなどの厄介ごとに巻き込まれた生徒とのコミュニケーションと、状況への対処能力はそれなりに評価されるようになった。  
そして、それは現在の学校で、絶望教室とも言われる2のへの担任を任せられる事へと繋がっていった。  
「前の学校も、思い返せば憎たらしい顔ばかり……でも、今になってみると不思議と嫌な思い出は無いんですよね」  
最後に懐かしげな表情でそう付け加えてから、望は自分の話を終えた。  
それから、彼は可符香にニッコリと微笑んで  
「だから、あなたもあんまり先の事をあんまり難しく考えなくてもいいんですよ」  
そう言った。  
 
「あの……先生…?」  
「未来だとか、将来だとか、そういうのは案外、些細な事がスタートラインになったりするものです。それで何にも問題ないんです  
あれが好きだとか嫌いだとか、悲しいだとか嬉しいだとか……そういう日常で感じた小さな事から始めていけばいいんです」  
可符香は自分の未来を思い描く事、それ自体が出来ないと悩んでいた。  
今、目の前の事しか見えず、状況に流されるだけの存在になる事を恐れていた。  
だけど、例えば足元に転がっている小石のような、ほんの小さな物から全てを始める事が出来るなら……。  
今の自分が感じている、ささやかな感情が遠い未来への出発点になるのなら………。  
(……できるかもしれない。私にも……)  
可符香は自分の心が少しだけ軽くなったように感じられた。  
それから、彼女は照れくさそうに望に微笑んで  
「見透かされちゃってたんですね、私……」  
「そりゃあ、いつも飄々としたあなたが妙に熱心に私に話を聞いてきましたから……何かあるんじゃないかって事ぐらいは分かりますよ」  
「先生って結構、理想の教師だったりするのかもしれませんね」  
「そうやって、あなたはすぐに人を茶化して……」  
「いやだなぁ、そんな事ないですよ、今回ばかりは……」  
「あっ!言いましたね、今!それ、いつもは私の事を茶化してるって、そういう事でしょう!!!」  
「いやいや、先生は本当に素晴らしい先生です!!」  
「だから、そういうのはやめてくださいって、何度言ったらわかるんですか!」  
苦笑を浮かべつつも、どこかホッとした様子で可符香と言葉を交わす望。  
その表情を見つめながら、可符香は考える。  
今の彼女の心が感じるもの、そこから未来が切り開かれていくというのなら、自分は一体何をそのスタートラインに選ぶのだろうか?  
その問いの答えは、何気なく見上げた担任教師の顔と重なる。  
(……そういえば、昨日の私の質問に答える為だけに、ずっと悩んで……私を見つけたら、すぐに走り寄って来てくれて……)  
「……?風浦さん、どうかしたんですか?まだ、何か聞きたい事が?」  
いつの間にか自分の事をじっと見つめていた可符香の視線に気付いて、望が問いかけてくる。  
「いいえ、別に何でもないですよ」  
その言葉をひらりとかわして、可符香は望に見えないように小さく笑った。  
(今はまだ、どんな風に変わっていくのかもわからないこの気持ちだけど。でも、いつかはきっと……)  
可符香の心の中に少しずつ、思い描く未来の形が浮かび上がり始めた、それが最初の瞬間だった。  
 

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