景のアトリエ兼自宅、『アトリエ景』は年代物の建築物であるためか、冬になると部屋の中にいても結構冷え込む。  
かじかんだ手の平に暖かい息を吹きかけながら、千里は一生懸命に床の雑巾がけを行っていた。  
「そんなに頑張んなくても良いんだぞ、千里。どうせ、俺の家なんだし」  
「いいえ。そういう訳にはいきません。年末の大掃除もしてなかったみたいだし、きっちり隅々までキレイにさせてもらいます!」  
少し呆れたような、困ったような表情を浮かべた景に、千里は力強くそう答えた。  
千里の掃除の手際の良さはかなりのもので、ものの一、二時間ほどで家中がピカピカになってしまった。  
それでも、千里はまだまだ細かい点に不満を感じるらしく、あらゆる手段を使って部屋中の汚れを一掃しようとする。  
「ふう、ここの壁の染み、ぜんぜん落ちないなぁ……」  
「おーい、千里、お茶を淹れたからこっちで少し休め……って、由香ぁあああああっ!!!?」  
「はいっ!?」  
しつこい壁の汚れを何とか落とそうと頑張っていた千里は、突然景が素っ頓狂な声を上げたので、驚いて振り返った。  
「ど、どうしたんですか、景先生?」  
「千里!そこはいいっ!!そこは由香の場所だからっ!!!」  
いつにない景の慌てぶりを見て、千里も流石に自分が何をしていたのか気付く。  
「ご、ごめんなさい。私、全然気が付かなくて……」  
”由香”  
景が自分の妻だと主張している壁の染みである。  
一時、シュレディンガーの嫁を新しく迎えた事もあったが、そもそも壁の染みが家を出て行ったりできる筈もなく、  
また巨大な翼を広げたシュレディンガーの嫁がどこか遠くに飛び去ったせいで、未だに景の妻をやっている。  
景の”由香”に対する思い入れの強さを知っている千里は、顔面蒼白になってぺこぺこと頭を下げた。  
「いや、由香も大事無いみたいだから良いんだが……流石にさっきのは肝が冷えたぞ」  
額に滲んだ冷や汗を拭いながら、景は千里の頭を撫でてやる。  
「今日はもう十分キレイにしてもらったから、お茶でも飲んで休もう。さっき茶菓子も引っ張り出したんだ」  
「そうですね。さっきは本当にすみませんでした……」  
「由香も『あまり気に病まないでください』とさ。暗い顔は似合わんぞ、千里」  
というわけで、掃除道具を片付けた千里は、景と一緒にお茶と羊羹をいただく事になった。  
冷え切った指先には、湯のみに注がれたお茶の熱が心地良かった。  
羊羹の糖分は体にじんわりと染み込んで、千里の疲れを癒してくれた。  
「毎回毎回すまないな千里、俺の家の事は俺がやらなきゃならんのに、わざわざ手を煩わせてしまって」  
「気にしないでください。私も好きでやってるんですから、景先生…」  
千里がこうして景の元に訪れるようになってどれくらい経つだろうか?  
その頻度が多いか少ないか、千里自身にはよく分からない。  
ただ、特に何の用事も予定もない、自由な時間が出来ると、気が付けば千里はこのアトリエに足を運んでいた。  
そして、今日のように掃除や洗濯、料理などの家事などをしながら、景と同じ時間を過ごした。  
景の傍にいるだけで、千里は心安らかな時を過ごす事が出来た。  
(不思議ね。景先生と私じゃ、ぜんぜんタイプが違うのに……)  
美味そうに茶をすする景の顔を横目に見ながら、千里は心の中で呟く。  
どんな物でも『キッチリ』していなければ許せない千里と、自己完結的な独自の世界観の中に生きる景。  
確かに傍から見れば、正反対と言ってもいいほどの違いが二人にはある。  
だが、千里は気付いているのだろうか?  
そうした表面的な差異を取っ払ってしまえば、どこまでも真っ直ぐに自分の道を進む二人の性格は驚くほど良く似ている事に。  
「さて、そろそろ俺も新作の準備に取り掛からんとな……」  
お茶と羊羹を胃袋の中に収めてから、大きくのびをして景は立ち上がった。  
それなりに美術業界では名の知られた画家である景だが、作品の評価ひとつに生活の全てが掛かった作家の生活は楽ではない。  
まあ、いつでもどこでもマイペースな景には貧乏など大して気にもならないが、  
汲めども尽きぬ創作意欲を満足させる為には絵画に打ち込める環境を確保するだけの金は必要だ。  
 
「まあ、本当にどうにもならなくなったら、公園でも砂浜でも適当な場所の地面に描いてしまうのもアリだが、  
野ざらしのままだと雨や風に流されちまうからな。完成前に消えてなくなられちゃ、流石に堪える……」  
それから、千里の方を横目でチラリと見て  
「それに………」  
と小さく呟いた。  
その言葉は彼女の耳には届かなかった。  
ただ、優しげに微笑む景の横顔が気になった千里は、彼に続いて立ち上がり  
「何が可笑しいんですか、景先生?」  
「いいや、何でもないさ」  
景の後ろについて歩いていく。  
カンバスの前にどっかりと腰を降ろした景は自分の後姿を、じっと見つめる千里の視線に気付いて  
「見たいんだろ、俺の描いてるところ。別に今回が初めてじゃないんだから、そんな遠慮しなくてもいいだろうに」  
「でも、景先生の邪魔になるんじゃないかって、やっぱり気になって……」  
「それならもっと早くに言ってるだろ……ほら、ここなら手元の動きもほとんど見えるから」  
そう言って、自分の左斜め後ろ、肩が触れ合いそうな至近距離に千里を座らせる。  
「千里、お前が来てくれるようになって、本当に助かってるんだ」  
”何が”とは、景は言わなかった。  
ただ、その気持ちは千里にも何となく伝わったようで  
「だから、あんまり詰まらない事は気にするな」  
「景先生……」  
肯いた千里の表情は花がほころんだような明るい笑顔だった。  
 
夜も更けて千里が帰宅した後も、景はカンバスの前に陣取ってひたすらに木炭を走らせ、頭の中のイメージを真っ白な平面の上に刻み込んでいく。  
「この分なら、下書きが終わるまでそう長くは掛からないな……」  
作業が一段落したところで、景は木炭を握る手を止め、改めてカンバス全体を見渡した。  
ここ最近の景は快調そのものだった。  
滾々と湧き出る作品のアイデアと、それを淀みなくカンバスに写し取る指先、冴え渡るインスピレーション。  
全ては千里との出会いがきっかけだった。  
世の中の多くの人間とはかけ離れた独自の世界観の中で生きてきた景。  
そんな彼がそれでも、それなりにこの社会と折り合いをつけてその中で暮らして来られたのは、  
ひとえに彼の兄弟家族達が糸色景という異質な存在を受け入れ、愛してくれたからだ。  
ただ、その一方で景の中にはいつも小さな不安があった。  
彼は自らの異質さを強く自覚していた。  
自分を受け入れてくれている家族達も、景と同じ景色を見ている訳ではない。  
そこに感じるどうしようもない断絶に、景は心のどこかで常に怯えていた。  
そんな迷いを抱えながら生きていた景はひょんな事から、弟・望が担任を勤めるクラスの生徒、木津千里と深く関わる事になった。  
自分が正しいと信じたものに対しては一切妥協しないその姿勢。  
そのお陰で周囲から浮き上がってしまう事も度々あっただろうに、彼女は自分の生き方を貫き通して生きてきた。  
その姿が、景の長年の迷いを断ち切った。  
以来、千里の方でも景に懐いてくれたのか、彼女はこのアトリエに幾度となく訪れる事になった。  
千里の声を聞き、笑顔を見て、言葉を交わし、他愛もない話題に花を咲かせる。  
そんな時間が、景の心をどれだけ癒してくれた事だろう。  
「ていうか……ちょっと甘えてしまってるのかもしれんな……」  
千里が足繁く景の元にやって来るようになった理由、そこに秘められた感情に景も気付いていないわけではなかった。  
ただ、どこかでまだ燻っている弱気の虫が、『悪いことは言わないから、現状維持に専念しろ』と景の耳元で囁くのだ。  
景が何も行動を起こさなくても、気が付いたときには千里はアトリエを訪れて、あの笑顔を見せてくれるのだ。  
下手に彼女との関係をややこしくする事はない。  
このまま無難に、何事も無い心安らぐ時間をたっぷりと享受すればいい。  
千里が何を考え、景に対してどんな感情を抱いているかなんて事は、結局は彼女自身の問題だ。  
向こうが何も言ってこない内は、こちらも何もしない方が得策………。  
 
「な〜んて、ベタなへたれの言い訳が頭の中に湧いてくるようになったんだから、俺もいい加減ヤキが回ったもんだなぁ……」  
景は苦笑してそう呟いた。  
ここのところ、暇な時間が出来るとついそんな事を考えてしまっている。  
瞼を閉じればすぐにでも思い浮かぶ、あの屈託の無い笑顔の為に自分は何をすべきか、せざるべきか。  
景のこの悩みはまだまだ当分決着がつきそうになかった。  
「ええ〜い!うだうだしてても始まらんか!とりあえずは絵だ!!絵!!!」  
景は再び木炭を強く握り下書きの作業に戻る。  
「とりゃあっ!うおりゃあっ!!そりゃああっ!!!」  
何だか中断前よりかなりエキサイトした様子で下書きに没頭する景。  
カンバスの上に木炭を滑らせる度に響くその声は、まるで自分の中の迷いをかなぐり捨てようとする叫びにも聞こえた。  
 
一方、景のアトリエから自宅に戻った千里は、夕食と入浴を終えた後、自室の机に向かい明日の授業の為の予習をしていた。  
「ふう、これで明日の分は全部おしまいね……」  
予習範囲の全てを終えてから、シャーペンを机の上に置いて、千里は大きく伸びをした。  
予習用ノートや教科書には書き込みがビッシリ。  
いつもながらのキッチリとした出来栄えである。  
そして、時計を見れば就寝予定時刻の一時間前ジャスト。  
勉強に集中して昂ぶった神経が落ち着くまでの時間も計算に入れた完璧な時間の割り振りである。  
「さてと…予定はきっちりこなしたし、ちょっとくつろごうかしら」  
そう言って、千里は先日学校の図書室で借りてきた共産主義思想の発展について書かれた本に手を伸ばす。  
しかし、それからしばらくして、その本のページを捲る千里の指が止まった。  
本にしおりをして、パタンと閉じ、書棚に戻す。  
そして、代わりに机の引き出しを開けてそこに仕舞われていた別の本を取り出す。  
大判だけど、厚さ自体は薄めのハードカバー。  
シンプルな装丁の表紙には絵画の写真と共に、『糸色景・画集』の文字が印刷されていた。  
「…………」  
千里はしばらくの間、その表紙を無言で見つめてから、画集を開いた。  
そこに印刷された様々な作品に、千里は言葉も無くただ見入った。  
多種多様な色をぶちまけたようなもの、どう見てもミミズが這っている様子ぐらいにしか見えない黒いラインだけが描かれたもの  
一見すると普通の静物画のように見えながらその実至るところで歪にパースがねじれている奇怪なもの……  
それらは糸色景の内的宇宙がカンバスの上に表出したものだ。  
千里はこの画集を手に入れる為にかなりの苦労をした。  
決してメジャーとは言えない(もちろん、画壇では一定以上の評価を受けてはいるが)、糸色景という画家には  
その一方で、ごく少数ながらコアで熱烈なファンが存在する。  
そんな景のファン達にとって、この画集は垂涎の的だった。  
元々、発行部数自体が少ない為、入手は困難を極め、一部ではけっこうなプレミアもついていた。  
もちろん、高校生の千里にそんなお金が払えるわけはなかったのが、  
それでも諦め切れない彼女は駄目もとで美術関連の書籍を扱う専門書店・古書店を巡り、ついにとある店の片隅でこれを見つけた。  
以来、彼女は度々この画集を開いては、そこにある作品の数々を時間を忘れて眺め続けた。  
景の作品は激しく自己完結しまくった独特の世界観の上に成り立っており、千里にはなかなか理解しがたいものばかりだった。  
それでも、こうして景の作品の数々を見ていると、彼が作品に込めた言葉にならない思いがこちらにまで染み渡ってくるような気がするのだ。  
手に入れてからそれほど長い月日が流れたわけでもないのに、千里が毎日画集を見ているせいでページの端はもうボロボロになっていた。  
 
「すごいな……」  
千里の口から我知らずそんな言葉が漏れる。  
難解を通り越して、常人には理解不能な領域にある景の作品達。  
だけど、こうして、何度と無くそれらに触れる事で、少しずつ、ほんの少しずつ、その意味が分かってくるような気がした。  
そこに、また一つ、糸色景という人間の新しい側面を見つけられたような気がして、千里の胸の奥はどうしようもなく高鳴ってしまう。  
千里は、自分が景に対して抱き始めている感情の意味を知っていた。  
(私は、景先生が好き……でも、だけど……)  
だからこそ、彼女は悩んでしまう。  
景の家と生活をきっちりとしたものにする為に、掃除や料理、洗濯など家事一般の世話を焼きに行く。  
そんな口実で、彼女は景の家を度々訪ねていた。  
だけど、本当はわかっているのだ。  
そんな理由は、ただの建前でしかないのだと。  
自分はただ、景の顔が見たくて、声が聞きたくて、あのアトリエの戸を何度も叩いているのだと。  
(ずるいな。ぜんぜん、きっちりなんてしてないわね、私……)  
天井に吊るされた蛍光灯をぼんやり眺めながら、千里は考える。  
そもそも、千里がアトリエを訪れるようになったその前から、景は自分の事は自分でやっていたのだ。  
確かに、多少ズボラだったり、作品に取り掛かると他の事が目に入らなくなったりもするが、  
部屋の中はいつもそれなりに片付いていたし、そこまで偏った食生活をしていたわけでもない。  
本当は、千里の手が必要な事など何もないのだ。  
それを理解していながら、景の為だと口実をでっち上げて、彼のアトリエに上がりこんでしまう。  
千里はそんな自分にやましさを感じていた。  
だけど、それでも……  
(景…先生………)  
会いたい。  
会いたい。  
会いたい。  
日ごとに募っていく想いが、千里の心を締め付ける。  
どうにもならない想いを抱えたまま、千里は景の画集をぎゅっと胸元で抱きしめたのだった。  
 
それから数日後の学校、藤吉晴美は最近どこか様子のおかしい親友の横顔を眺めながら、考え事をしていた。  
「木津さん、次の部分、48ページの残り最後まで訳して」  
「はい。”このように、犬と人間の関係の歴史は長く、彼らは私達人間にとっていまや欠かせないパートナーと言えるでしょう。ですが、昨今…”」  
晴美が千里の変化に気付いたのは数ヶ月前の事だった。  
ただ、ここ最近はそれがさらに顕著になっているように感じられる。  
他の人間が見ても、その変化に気付く事はなかなか無いだろう。  
千里は授業中に当てられても今まで通りキッチリと答え、クラスメイト達との会話にも変なところはない。  
ただ、幼い頃からずっと千里の姿を見てきた晴美には分かる。  
授業中、ふとした瞬間に宙を漂っている視線、会話のさなか一瞬だけ開く奇妙な間。  
ほんの少しだけ感情の振れ幅が大きくなった事。  
それから、前回の週末辺りからちょっとだけ元気がなくなったように見える事。  
その原因について、思い当たる事はいくつもあったが、具体的に何が千里を変えてしまったのかまでは、流石の晴美にも分からない。  
そこで晴美は学校の帰り道、千里にそれとなく話を聞いてみる事にした。  
(こういうのを余計なおせっかいって言うんだろうけど……でも、今の千里を見てたらどうにもね……)  
「そっか、晴美にはお見通しだったのね……」  
千里は苦笑した。  
「そうでもないわよ。結局どういう事なのか見当もつかないから、こうして千里に聞いてるわけだし……」  
「わかった。それじゃあ、少しだけ私の話、聞いてくれる?」  
それから千里は、夕陽の帰り道を歩きながら、ゆっくりと抱え込んできた想いを語り始めた。  
 
晴美が千里の悩みについて尋ねたその少し前、景はアトリエを尋ねてきた命と会話を交わしていた。  
話題は千里について。  
ただし、彼女の名前は伏せて、景の友人からの相談という事にしてある。  
「つまり、その女性の気持ちにどう応えるべきか、景兄さんの友達はそこのところで悩んでるわけですか……」  
らしくないやり方だとは自覚しているが、まさか千里の名前を出すわけにはいかない。  
自分の悩みだと言わなかったのも、ここ最近、千里がアトリエを訪れている事を知れば、容易に二つを結び付けられてしまうのが明らかだからだ。  
「うーん。そういう問題に一般的な答えなんて無いですからね……」  
「やっぱ、そうだよなぁ……」  
話を聞き終えた命の口から出てきたのは半ば予想していた答え。  
二人は顔を合わせてため息をつく。  
真面目一徹で医者になる為の勉強にこれまでの人生を費やしてきた命と、  
奇人変人で男女問わず、あまり深く人と付き合う事のなかった景。  
二人とも恋愛経験が豊富な方だとはとても言えない。  
兄弟の中で唯一の例外は2のへの少女達に想いを寄せられている望だったが、  
基本的に受身な、というか彼女達の熱烈なアピールから始終逃げ回っている彼にも良い智恵は期待できないだろう。  
「三人揃えても、文殊の智恵は出てきそうにはないな……」  
「ていうか、アレですよ。それ、本当は景兄さんの悩み事じゃないですか?」  
命の何気ない一言に核心を突かれ、景はバッと顔を上げた。  
「なんでわかる……?」  
「誤魔化し方がベタすぎです。いまどき漫画じゃあるまいし……」  
「そうか……この事は…」  
「ええ、他言無用にしますよ。景兄さんがそんな嘘を吐くなんて、よっぽどの事情があるんでしょう?」  
「すまんな…」  
穏やかに微笑んでそう言った命に、景はぺこりと頭を下げる。  
それから、命は作業部屋の片隅のイーゼルに立てかけられたままの絵に目を留める。  
「あの絵、まだあったんですね」  
「ああ、あんまり気に入ったから、手放すのが惜しくなってな」  
そこに描かれているのは、水没したビルの群れと、その合間を縫って泳ぐ銀色の魚の姿だった。  
数ヶ月前、スランプに陥っていた景が千里の手助けで調子を取り戻した後、完成させた絵である。  
ビルの影に歪に切り取られた水中を、迷うことなくまっすぐに進む銀の魚には、千里のイメージが重ねられていた。  
その一件がきっかけになって、景と千里の現在の関係が始まった。  
色々な意味で人生の節目となった一枚である。  
「そういえば、この絵を描いてから、景兄さんの作風も変わったんですよね」  
命はしばらくその絵を見てから、次に作業場全体をぐるりと見渡した。  
それから、急に景の顔を覗き込んで  
「なるほど……」  
と呟いた。  
「気持ち悪いぞ、命。何が『なるほど』なんだ?」  
「いいえ。大した事じゃないですよ」  
意味ありげな笑みを浮かべる命は、その場から立ち上がると、畳んでいたコートを広げて羽織り帰り支度を始めた。  
それから、玄関まで見送りに来た景に振り返り  
「最後に一つだけヒントです。景兄さんにはさっきの話より先に、もっと質問しなきゃいけない事があると思いますよ」  
「なんだそりゃ?」  
「いや、まあ、具体的にどうしたらいいか分からないのは、全く同じなんで偉そうな事は言えないんですけどね……」  
そこまで言ってから、命はバツが悪そうにポリポリと頭を掻いた。  
「そうですね。強いて言うなら、落ち着いて自分の周りを見渡してみてください。俺が言えるのはここまでです」  
それだけ言い残して、命は『アトリエ景』を去っていった。  
残された景は作業場に戻り、腕組みをしながら命の言葉の意味について考え込む。  
「自分の周りねえ……」  
しかし、考えても考えても、その答えは見つからず、景はただ深々とため息をつくばかりだった。  
 
再び場面は戻って、学校の帰り道の千里と晴美。  
千里は晴美に全てを話した。  
景に向けた想いの事も、何かと口実を作って彼を訪ねる自分のやり方にやましさを感じていた事も。  
聞き終えた晴美はしばし腕を組んで考え込み  
「よしっ!」  
その一声と共に、千里の両肩をガシッと掴んだ。  
「んじゃあ、今から行って来なさい!!絶景先生のところへ!!!」  
「へっ!?」  
あまりに唐突な提案に千里はただ驚く事しかできなかった。  
瞳を爛々と輝かせ、自分の顔を覗き込んでくる晴美に千里はただ戸惑うばかり。  
「景先生に会うために誤魔化したり、無理に口実作ったり、千里はそういうのが嫌なんでしょ?  
それなら、そういう理由なしでストレートに『会いたいから会いに来ました』って、そう言って景先生のところに行けば問題ないでしょ?」  
「そりゃあ、そうだけど……最初からそれが出来るならこんな話しないわよ……」  
自信なさげな千里の言葉を、晴美は首を横に降り否定する。  
「千里なら大丈夫だよ」  
「でも、そんないきなり……」  
「いきなりなんかじゃないよ。千里は気付いてる?」  
それでもまだ不安げな千里の手の平を、晴美の手がぎゅっと握り締める。  
「誤魔化そうが何をしようが、千里は今まで景先生の近くにいようとしたんでしょ?その積み重ねは消えたりしない。  
千里が景先生の心に近付くために、ゆっくりゆっくりと歩いてきた道のり……これはその最後の一歩になんだよ!!!」  
「晴美………」  
「だから、さっさと行きなさいってば……千里ならきっと大丈夫だよ!!」  
親友の温かな言葉が、千里の中にわだかまっていた暗いものを一気に吹き飛ばした。  
そうだ。  
無理矢理に口実をつくって、誤魔化して……でも、それが何だと言うのだろう。  
アトリエ景に行く度、景と交わした言葉、高まっていった想いには何の嘘もないのだ。  
「それじゃあ…晴美、私、行って来るね……」  
「うん!幸運を祈ってるよ、千里!」  
千里はアトリエ景に向かってまっしぐらに走り出した。  
そして、晴美はその後姿が見えなくなるまで、ずっと見送り続けたのだった。  
 
玄関の扉をノックする音が聞こえた時から、景には何となく分かっていた。  
「景先生、いますか?」  
いつか来る筈だった時が、ついにやって来たのだ。  
(さて…俺はどうやって千里の想いに応えてやるんだろうな……)  
命が帰った後も延々と千里の事を考え続けていた景だったが、やはり結論は出せなかった。  
しかし、ここで千里を無理に家に帰すわけにもいかない。  
真っ向から向かい合って、彼女の言葉を、気持ちを受け止めよう。  
それからどうするかは、その時になって決めればいい。  
腹を括って、千里を出迎えるべく、景は玄関へと向かった。  
「千里、いきなりだな。今日はどうした?」  
「あ…う……はい…今日は、その、景先生に話したい事があって……」  
「そうか。まあ、立ち話もなんだ。とりあえず、中に入ってくれ」  
景は千里を促して、いつもの作業場に招き入れる。  
千里は景から見ても丸分かりなほどに緊張した面持ちで、作業場の板床にぺたりと座り込んだ。  
景はその真向かいに胡坐を組んで腰を降ろす。  
千里をこれ以上緊張させないため、なるべくいつもと同じようにしているつもりだが、上手く出来ている自信はない。  
やがて、千里は景の顔を見据えながら、ゆっくりと語り始めた。  
「最初は変なきっかけでしたよね……」  
「そういえばそうだったなぁ。最初は運動会のど真ん中で揚げ足を取ったり、考えてみると変な馴れ初めだよな」  
その運動会での出来事というのが、土砂加持祈祷に関する意見の相違だったり、  
揚げ足取りというのは文字通り景がチアリーディングをやっていた千里の高く上げた足を掴んだ事だったのを忘れてる辺り、  
二人はやっぱり世間とはズレた人間であるようだ。  
「それから、私、景先生のところに来て、色々お手伝いさせてもらうようになって…」  
「ああ、随分色々と面倒をかけたな。本当に、助かった」  
そうだ。  
千里のお陰で景はどれだけ助けられたか分からない。  
時折アトリエを訪れるこの少女の笑顔が、どれだけ景の孤独を癒し勇気付けてくれた事だろう。  
だからこそ、景は千里の傷つくところを見たくなかった。  
せめて、彼女の気持ちを余す事なく受け止めて、心の奥底に刻み付けたかった。  
「そんな、面倒だなんて……景先生と一緒にいられて、私、楽しかったですよ」  
「………そうだな、俺も楽しかった。楽しかったよ……」  
景の脳裏にここ数ヶ月の、千里と過ごした時間が映し出される。  
笑って、怒って、ときにはシュンとした顔を見せて、くるくると変わる彼女の表情を見ているだけで、  
自分と由香だけのこのアトリエが急に華やかな色に包まれたように感じられた。  
何事にも徹底したこだわりを持って臨む千里との会話は、景に色々な刺激を与えてくれた。  
時間が経つのも忘れて語り尽くした事など、何度あったか分からない。  
「でも、その間ずっと言えないできた事があったんです。私が先生といるとき、いつもどんな気持ちでいたのか……」  
千里の表情が引き締まり、真剣な眼差しが景を真っ向から見つめてくる。  
しばしの間を置いて、千里は静かに、しかしハッキリとその言葉を口にした。  
「景先生……好きです…」  
「…………」  
その瞬間、景の心に凄まじい衝撃が走り抜けた。  
先ほどまでの明るい言葉も途絶え、景は何も言えず押し黙ってしまう。  
(どうしたんだ?千里の気持ちも、この言葉も、ぜんぶ分かってた筈の事だろう……っ!!?)  
自分自身の思いがけない動揺に、景はただ驚き戸惑う。  
「景…先生……?」  
不安げな千里の瞳が、景をじっと見つめてくる。  
早く何か言わなければ。  
何か言って、彼女を安心させてやらなければ。  
それなのに、景の喉はカラカラに渇いたように、僅かな声を発する事も出来ない。  
(くそ……情けないぞ、俺……!!)  
だが、途方に暮れる景の瞳が正面の千里の顔から、その後ろのアトリエの壁に向けられたとき、  
彼は”それ”を見た。  
そこにある物の意味、自分の心の奥底に根を張った強い感情、その存在に気付いた。  
 
「景先生……どうしたんですか?」  
単に自分からの告白を持て余しているだけとも思えない景の様子を心配して、千里が身を乗り出してくる。  
景はそんな彼女に両腕を伸ばし……  
「千里……っっっ!!!!」  
その華奢な体を思い切り抱きしめた。  
「えっ!?…景…先生……!?」  
「千里!俺もだ!!俺もおんなじだ……っ!!」  
「おんなじ……って?」  
「俺も…お前が好きだ、千里!!!」  
突然の抱擁と告白に呆然とする千里を、景はただ抱きしめ続ける。  
(こんな事も気付かないでいたとは……とんだ間抜けだな、俺は…)  
景がさきほどアトリエの壁に見たもの、それは彼の描いた絵だった。  
壁にかけられたり、立てかけられたり、この作業場に置かれている景の絵の数々。  
それらはほとんどが、新しい技法を試すための習作だったり、新作のためのアイデアスケッチであった。  
それらの絵には、ほぼ全てに描かれている共通のモチーフがあった。  
それは『魚』である。  
(そうだ。最初からそうだったろう……何で今まで忘れていたんだ!)  
景がスランプを脱するきっかけとなった作品。  
そこに描かれた銀の魚には、千里のイメージが重ねられていた。  
この部屋に置かれている数々の絵に描かれた魚も、元を辿れば同じ、千里という少女のまっすぐな心を描こうとしたものだ。  
この作業場だけでも、三十から四十、個展などで商品として売ったものも含めれば、どれほどの数になるだろうか?  
(俺の心の中には、いつも、千里がいてくれたんだな………)  
景は、昼間、命が自分に言った言葉を思い出す。  
『強いて言うなら、落ち着いて自分の周りを見渡してみてください』  
弟の言葉通り、答えはまさに景の周囲にあったのだ。  
この作業場の中は、千里に向けられた景の想いが溢れかえっていた。  
千里の想いを受け止める……何を偉そうな事を考えていたのやら。  
その前にまず見定めるべきは、自分の心がどこにあるか、その一点ではなかったのか?  
「すまなかったな、千里……」  
「ど、どうしたんですか、景先生?そりゃあ、さっきは急に抱きしめられて驚きましたけど……景先生の気持ち、凄く嬉しいですよ」  
千里のその笑顔だけで、景の心は満たされていく。  
(こんなになるまで、自分がどれだけ幸せ者だったのかに気付きもしなかったなんて……全く、俺もとんだ間抜けだなぁ)  
やがて、至近距離で見詰め合う二人の唇はゆっくりと近付いてゆき……  
「千里……」  
「景先生……」  
優しく、いたわり合うようにそっと重ねられた。  
長い道のりを経て、ようやくその想いを通じ合わせた二人にとって  
そのキスは、忘れる事の出来ない思い出として互いの心に深く刻み付けられたのだった。  
 

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