親しき仲にも礼儀あり、とは良く言ったもので、
いかに近しく気心の知れた者同士でも、いや、気心の知れた者同士だからこそ守るべき節度というものが存在する。
親しい間柄だからこそ、その相手の気持ちを慮り、その上で行動する事がやはり望ましい筈だ。
そういう観点から見れば、今の私に対する先生の態度は多少不適切なものだと言えた。
「いくらなんでも、いきなりハグはどうかと思いますよ、先生?」
「…………」
私のその問いかけにも、先生はだんまりを決め込んだまま。
力強く、それでいて優しく、私の体を抱きしめる先生の腕の感触、ぬくもりは心地良いけれど、それだけで流されるほど私もお人よしじゃない。
ほんの五分ほど前、先生とばったり出くわした私はそのまま、こうして抱き締められてしまったのだ。
別に、先生にこういう事をされるのが嫌な訳じゃない。
私は先生の事が好きで、先生も私の事が好きで、それは何度も言葉と行動で確かめ合ってきた事だ。
先生の体の感触を全身に感じて、先生の細くしなやかな指で頭を撫でられているとき、私は心の底から安らぐ事が出来る。
だけど、先述の通り、親しき仲だからこそ必要な礼儀というものがある。
先生の気持ち、嬉しくないとは言わないけれど、時と場所は弁えるべきだ。
というわけで、私はもう一度先生に抗議する。
「だから先生、ちょっと落ち着いてください。これじゃあ、普通にお話しも出来ないじゃないですか」
「す、すみません。どうしても…抑え切れなくて……すみません…」
ようやく先生から返答が得られた。
一歩前進だ。
しかし、抑え切れなかった、とはどういう意味だろう?
先生が言ってる抑え切れなかったものとは、果たしてこの行動自体の事なのか。
それとも、この行動に至る感情までも含めたものの事なのか。
いずれにせよ、要は大の大人が『我慢できませんでした』と白状したという事だ。
いくら先生が子供染みた性格をしてるといっても、それぐらいは大人として『抑えて』もらいたかった所だ。
と、ここで先生からの弁解。
「最初は抑えきれずに抱き締めて……そしたら、風浦さんの体があんまり冷え切っていたものだから、離しちゃいけないような気がして…」
「先生……」
ここでつい私は言葉に詰まってしまった。
先生の言っている事は事実だったからだ。
ここ数日はどんよりと曇った空の下、時折雪がちらつき、冷たい風が容赦なく吹き付けてくる悪天候だった。
果たして、どれだけの時間を歩き続けていたか、自分でも覚えてはいないけれど、
学校指定のコート一枚で防ぎきるには、少し厳しすぎる寒さだった事は認めざるをえない。
それから、私の体が芯まで冷え切ってしまっている事も。
だからといって衆目も憚らず私を抱き締めて離さない事が擁護されるべきだとも思えない。
しかし、コート越しにもしっかり伝わってくる先生の体温は氷のようだった私の体を溶かし、
その心地良さにすっかり篭絡された体は私の意思を裏切って、先生の体から離れてくれようとはしない。
言葉に行動が伴っていない今の私の姿は、第三者から見れば酷く滑稽だろう。
なので、苦し紛れに私はこう反論する。
「私の体が冷え切っていたから……それは分かりました。でも、それならそれで対処法は他にいくらでもあるじゃないですか」
「…………」
先生はまたもだんまり、それでも構わず私は続ける。
「自販機で温かい飲み物を買うなり、コンビニ辺りでカイロを買うなり、どこか暖房の効いた店で休憩を取るなり……」
「…………そう、ですね…」
私の勢いが効いたのか、先生の口からようやく私に同意する言葉を引き出せた。
ゆっくりと先生の腕が私の体から離れていく。
だけど、その手の平はそのまま下の方に移動してゆき……
「あ……」
「その前に、もっとするべき事がありましたね…」
かじかんだ指先の辛さを少しでも誤魔化そうと、ぎゅっと握り締めていた私の拳を覆い、指の一本一本を温めほぐして、
それから、右の手の平だけが私の顔に触れ
「あなたの濡れた頬を拭う方が、もっと先でした……」
音も無く流れていた私の涙の筋を、その指先で優しく拭った。
「せ…んせ……せんせい……」
ああ、駄目だ。
それは大間違いですよ、先生。
そう言いたかったのに、私の口から出てきたのは掠れた涙声ばかり。
ちゃんと言わなくちゃいけないのに。
そんな風にされたら、今まで我慢してきた分の涙が一気にこぼれ出してしまう、と。
「せんせ……わたし………」
そんな私に対する先生の対処法はシンプルなものだった。
先生は再びその両腕で私の体を抱き締めて、私の顔を自分の胸元に埋めさせた。
なるほど、これは確かに有効な方法だった。
私の涙は先生の着物に拭われ、消えて、先生の胸の内のぬくもりが私の心を安らぎで満たしてくれた。
だけど、私は気付いていた。
この方法には一つ重大な欠陥がある。
「…すみません……あなたがそんなになるまで待たせてしまうなんて、私はとんでもない大馬鹿者です……」
耳元間近に聞こえる先生の涙声。
ほら、こんな密着した状態じゃ、私は先生の涙を拭ってあげる事が出来ない。
先生の涙を止めてあげられない私は、代わりにその背中に腕を回しぎゅっと抱き締めた。
(だめじゃないですか…やっぱり先生ってちょっと抜けてますよ……)
結局、親しき仲の礼儀もどこへやら。
今の私達二人には、この腕の中の温もりが何よりも大切なものだったようで……。
それから私と先生は互いの涙が涸れ果てるまで、そのまま寄り添い合い、抱きしめ合っていたのだった。