自宅だろうが学校だろうが、とにかくどこにいようと私へと視線を送ってくる人がいた。  
初めは彼女の愛の重さに耐え切れず、毎日びくびくと過ごしていた私だけれど、  
今ではそのような酔狂にもすっかり慣れてしまい、むしろある種の優越感に浸ることもしばしば。  
小娘の愛なんて風見鶏のように他へと向きを変えてしまうのですけどね。彼女はその傾向が強いようですし。  
そんな風だったので、まさか彼女があんなことをしてくるだなんて夢にも思わなかった。  
 
「起立、…礼」  
試験範囲となる箇所を終えて、特に授業するわけでもないだろうと高をくくっていた私は、いつものように遅刻した。  
そんな名ばかりの教師を見つけた薄…何とかというクラス委員長が号令をかける。  
ああ、相変わらず影も髪も薄いですね。そう思いながら出席簿を広げた。出席を取るときになってやっと思い出す彼の名は…そうそう、臼井君ですね。  
「は」  
彼が「い」と続ける前に私は素早く次の人の名前を呼んだ。ひどい、とか聞こえた気がするが気にしないことにしよう。私は忙しいのだ。  
その後も順調に生徒の名前を呼んでいく。男子→女子の順で出席をとっているが、男女差別だと騒がれないだろうかと心配だ。  
そういう団体が押しかけてきたときのために逃げ出す準備は整っているが、やはり職を失うのはつらい。  
無職になって、あろうことか倫に養われている自分を想像して軽く鬱になった。ああ倫、宴会だからといって裸踊りなんかできませんよ。やめてください。  
ひとしきり妄想を終えて、そのまま女子の出席を取り始める。あの要注意人物が珍しくいなかったので、欠課の印をつけておいた。後で取り消し線を入れることで遅刻の印となるのである。  
また、いつものように小森さんも欠課だった。彼女は進級できるのだろうか、などと考えていると、いつの間にか例の愛が重い娘の番になった。  
「えー、常月さん」  
「はい」  
教卓の下から声がした。いつものことだから驚きはしないが、いい加減自分の席についてくださいよと思う。  
まあ彼女はやはりと言うか、移動しなかった。特に気にすることでもないので、私は続けて出席を取った。  
教卓は何十年も使い続けられているのか、脚の部分は錆付き、先日掃除をするために動かしたときには、ぎこぎこと神経を引っ掻き回すような音をたてて顰蹙を買った。  
そろそろ買い換えてくれないかな。そう考えて、いつものように出席簿をぱたんと閉じて教室を見渡した。  
いつものように、いつものように……そう、ここまではごくごく普通の一日だった。  
何やら教卓の下で、常月さんがもぞもぞとしていたのは覚えている。しかし、一学期最後の授業ということもあって、私は油断していた。  
夏の暑さも要因のひとつかもしれない。とにかく、無理やりにでも彼女を教卓の下から引っ張り出すべきだったのだ。どうしてもこのことが悔やまれる。  
 
「えっと、今日は試験の前ということで質問の時間にします。質問があれば挙手を」  
「はい」  
「どうぞ、木津さん」  
「もうかなりの月日が経っていますが、先生はいつになったら、あの件の責任をとってくれるんですか?」  
「記憶にございません。他には」  
「自習にしないんですか」  
「そうしたいのは山々ですが、何しろ世間体というものがありましてね」  
「先生は夏コミ出ますか?」  
「もうこりごりです。っていうか、さっきから試験と関係ないじゃないですか」  
「先生、この辺の説明がよく分からないんですけど」  
「普通ですね…あ、怒らないでください。ここはですね、作者が主人公に自己投影をしているということがポイントです」  
 
疲れる…  
試験に関する質問と銘打ったはずなのに、試験に関する話を振ってきたのは一人だけ。  
同じ場所に突っ立っているというのは苦痛だ。いつもなら板書のために歩き回っているので、それほど疲れないのだけれど。  
既に生徒たちは各々談笑していた。私がここにいる意味って何なのだろうか、と切なく思いつつ目を伏せる。  
と、足に違和感を感じる。何やらぐいぐいと、私の袴が引っ張られているようだ。教卓の下を覗くと、そこにいた常月さんもこちらを見上げ返した……顔がほんのり赤かった。  
「何やってるんですか」  
私はこそこそと(と言っても、気づかれる心配などない)、教卓の下へ声をかけた。彼女は恥ずかしそうに微笑むと、  
「先生への愛を、形にしようと」  
彼女はそう言うと、するりと――早業だった――私の袴をずりおろした。  
「!?」  
そこで慌てて口を抑える。私は局部を露出させているのだ。この状況が他人にばれてしまえば、いかに被害者と言えども苦しい状況に立たされること必至。  
PTAや校長が乗り込んできて半裸のまま説教された挙句、そのまま逮捕され、刑務所では露出狂と勘違いされて意地悪な看守に全裸で生活されることを命じられた上に、  
ある日同性愛を語る囚人が襲ってきてそのままお尻で性交、そっちへの世界が開かれてから釈放を受け、ゲイバーで働くことを余儀なくされてしまう。  
 
絶望した!そんな未来に絶望した!  
 
私が頭を抱えていると、常月さんが手をのばしてきた。その手が私の弱々しい息子に触れて…ってちょっと常月さん!  
「先生…私の愛を受け取ってください」  
心なしか、彼女の目が潤んでいるように見える。一人の女人が私を愛してくれているとは言え、この状況は私にとって不利だ。  
とりあえず息子を触る手を退かそうと手をかけようとした途端、  
「あぐっ!!」  
私は悲鳴をあげた。そのまま教卓に突っ伏す。さっきまで五月蝿かった教室は、私の叫びによって水を打ったようにしんとなった。  
「先生、どうしたんですか?」  
「な、何でもありません!足の小指を箪笥に…いえ、教卓にぶつけただけです!」  
淡々とした口調で聞いてきた小節さんに、私は突っ伏した状態のままでずりずりと顔をあげて、足が痛いんですよーとアピールをする。  
大したことでもないと思ったのだろうか、小節さんはつまらなそうな顔をして、また生徒の輪の中に…いや、席について黙々と本を読み始めた。  
表紙にはにこにこ笑うトラとライオンの絵があった。そんなにこにこした猛獣がいるわけないじゃないですか…ああやって女性を騙すんですね。  
自分でも上手いこと考えちゃったかなあと考えている内に、教室はまたがやがやと騒がしくなっていた。誤魔化しきった安堵感で、私はふうっと息をついた。  
さて、常月さんが何をしたのか。簡単に言えば、タマを握ったのである。それはもう、乳搾りの体験学習で何故か一人だけ盛り上がって周りをヒかせる小学生のごとく、ぎゅうっと。  
「大丈夫ですか?」  
下から声がする。大丈夫なわけないじゃないですか。生死の境を彷徨いましたよ。  
「ごめんなさい」  
おずおずと、だがはっきりした口調で彼女は言った。すまなそうな顔をしているが、瞳の奥は燃えているように思える。  
数秒の静止の後、彼女はいきなり私の息子を掴んだ両手で引き寄せ、そして――  
「はひょうっ!?」  
口へ含んだ。あまりの出来事に声が裏返る。再び、教室から音が消えて……今度は彼女が私の息子に吸い付く音が残っていた。  
「…何の音ですか?」  
再び小節さんが尋ねる。心なしか、面白がっているようにも見えた。  
「きょ、教卓の音です。ほらっ」  
私は教卓をがたがたと揺らす。もちろん、全然違う音しか出なかった。最悪だ。  
それでも小節さんは納得したようで(座るときに見せた口が緩んでいたのは気のせいだと思いたい)、席についた。他の生徒もそれに続く。  
「ちゅ…じゅる、れろ、ふぅ…」  
教室がまた五月蝿くなり、こちらを注目する人がいなくなったのを確認してから、私は教卓の下を覗いた。  
「あのっ…くふっ、常月さん…そろそろやめっ…ぁあ…」  
「じゅる…れろっ、はぅん…じゅぅぅ…」  
音に合わせて机をがたがたさせるのを忘れない。むしろ怪しまれるような行為ではあるが、快感で頭がぼうっとしていた私にはそこまで気が回らなかった。  
そして、とにかく今の状況はまずい。何だか知らないが上手すぎる。今までの男にも同じようにやってきていたのだろうか…  
嫉妬というわけではないが、その中のたかがひとりであると考えると、あまり嬉しいものではない。  
「先生が、はあっ、初めて、ですよ…」  
私の考えを読み取ったのか、常月さんは顔を上げて答えた。顔が赤い。途端に限界が近くなる。  
今は生徒たちが教卓の前にいるからいいが、チャイムが鳴ったり、外からいつものように変態が入ってきたらどうしよう。  
 
【教師が女子生徒にセクハラ! 担当教諭を逮捕】  
 
こんな見出しが夕刊の一面を飾るところを想像して、鳥肌が立った。父親がいくら面白いことが大好きといっても、犯罪者なんて勘当されてしまうだろう。  
そうなったら、「縁」に名を改めなければなるまい。しかしその名前の人はもういるので、教師院…ええと…これは戒名だ。  
「先生…もう出ちゃいますか?」  
「はくぅ、ううっ、こんな、場所でぇ、だ、出すわけにはぁっん」  
彼女の声によって、現実に引き戻される。どうしてこんなに上手いのか、と聞こうとして口を塞いだ。  
周りを見渡すと、生徒全員の視線が私に注がれてるのを感じる。私の地位も息子も、非常に危険な状態だ。  
「通信…はむっふぅ…教育で…」  
私の思いを知ってか知らずか、小声で話す常月さん。津軽――ではないが、最近はこんなことも通信教育しているのか。学生の淫靡さに絶望した。  
「先生、大丈夫ですか?」  
木津さんが声をかけてくる。ああ、ばれたら社会的にも肉体的にもお終いだ。むしろ死にたい。  
「さっきから、ずいぶん苦しそうですよ。」  
「っ!こ、来ないでくださはぁっ、い!ま、だぁ、じゅっ授業中です、ぅよ!」  
息も絶え絶えに木津さんを制止する。授業中であるという注意が功を制したか、不服そうな顔をしながらも木津さんは席に戻った。  
「で、ではぁ、何かしつっ…もんはぁあっ」  
「あの…保健室に行った方が…」  
ああ、保健室へ行けたらどんなにいいか。そこでこの行為の続きを…じゃなかった、この心身ともに疲れた体を癒したい。  
しかし、足元で一心不乱に舐め、吸い続けている女人がそれを許さない。何しろ、袴を履きなおそうとすると、悲しそうな顔をして息子をぎゅっと掴んでくるのだ。  
生徒たちは未だに私が悶えるのを見ている。何人かはひそひそと囁き合っている。笑いが堪えきれないといった表情で私を見ている小節さんを発見して、私は恐怖を覚えた。  
ただ、いつまでもこの状態なら、いっそ楽になってしまった方が良さそうだ。足元の常月さんが、ぺちゃぺちゃと音を立てながら私の瞳を覗き込む。  
もう駄目だ、出すしかありませんっ。そして急いで袴を履いて逃げ出しましょう!授業を放って飛び出してるのはいつものことだから怪しまれないはずです!  
下を覗きこみ、できれば飲み干してくださいと目配せをする。彼女が頷いた。よし、このまま口の中で…  
 
「すみません、遅刻しましたぁ……あっ」  
「!!?」  
どくっどくどくどくっ  
何てことだろう。前の扉が突然開き、あの要注意人物が入ってきたのだ。最悪なことに、そこからは常月さんが私の息子を貪っているのが丸見えだった。  
あまりに突然だったため、私の息子から流れる白濁色の液体を止めることはできなかった。常月さんがここぞとばかりに吸い付く。  
「…………」  
「…………」  
扉を開けたその人は、視点をしばらく泳がしていたと思うと、影を落としながら意地悪い微笑みを浮かべた。何を考えているのか、大体想像がつく。  
長い沈黙。状況を理解できていない生徒たちが、不思議そうに前方の私たちを見比べた。しばらく微笑んでいた娘は、にこっと笑うと  
「…なるほど。さすが『教育者』ですね」  
 
それはどういう意味ですか。  
そうそう常月さん、もしまたするんでしたら、次からは教卓から顔を外に出さないでくださいね。それからあなた、何でもするんで黙っててくださいお願いします。  
って、あなた、何ですかそれは。ケータイなんか取り出してどうするんですか?そういえば、最近のケータイにはカメラが標準らしいですね。便利なものです。  
おや、それを私に向けてどうするんですか。まさかそんなわけないですよね。そんな薄情な生徒だとは思ってませんよ。私の生徒はみな良い人たちばかりです。  
あの、ちょっと待ってください待てってば待て待て待ておいほんとにやったら殺すぞてめ――  
 
 
―――シャッター音と共に暗転  
 

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