夕焼け空の下、川沿いの土手の上の道を可符香は一人歩いていた。
しばらく歩き続けて、橋の近くの土手に座る見慣れた後ろ姿を見つけた。
うなだれた背中と拗ねたような雰囲気はいつもの彼とあまり変わらないように見えたので、
可符香は、果たして今回自分の仕掛けた悪戯が、未だその効果を発揮しているのか少し分からなくなってしまう。
とりあえず、可符香は彼に、彼女の担任教師、糸色望の背中に声を掛けてみる事にした。
「そうだよね。子供にだって人権はあるよね」
「可符香ちゃん」
振り返った望はいつもとは違う少し甲高い声で彼女の名を呼んだ。
どうやら、今回の可符香の悪戯は今も望に対して大絶賛で影響を及ぼしているようだ。
「親だから子供に何でもしていいなんて、そんな大人ばっかりで大変だよね」
「可符香ちゃんは分かってくれるの?」
「もちろん」
にっこりと笑って、自分の隣に腰を降ろした可符香に、望も嬉しそうに微笑みかけた。
今、とある事情…というか可符香の悪戯によって、望は完全に中学生ほどの女の子とほぼ同じ心理状態になっていた。
本来、女の子に代わって厄を受けるひな人形。
しかし、現代社会の巨大なストレスと厄は雛人形一セットではカバーし切れない。
そこで糸色人形堂は、その雛人形の厄をさらに受ける為に、さらに一回り小さいミニひな人形を制作していた。
ひな人形は女の子の為のスケープゴート、ミニひな人形はひな人形のためのスケープゴートというわけである。
ところが、今度はさらにそのミニひな人形の厄を祓うミニミニひな人形、そのまた下のミニミニミニひな人形と
小型化を重ねていった事が災いして、これ以上小型化不可能な極小のひな人形にまで至ってしまった。
糸色人形堂はそうして厄を溜め込んだ極小ひな人形の回収、厄払いも行っていたのだが、そこに目をつけたのが可符香だった。
彼女は極小ひな人形の回収ボックスを『安全なところに運ぶ』なんて言いつつ、望に向かってその中身をぶちまけたのだ。
ミクロサイズのひな人形を飲み込み、頭からかぶって、望は人形に満載されていた厄を一身に背負ってしまった。
しかも、その厄はただの厄ではなくて、ひな人形を飾っていた女の子達の厄である。
その影響をもろに受けた望はなんだか中学校ぐらいの女の子のような性格になり、その年頃ならではの発言・行動をするようになってしまった。
『親友と同じ人を好きになってしまった』
『親が勝手に自分の部屋に入ってくる』
『あまつさえ日記まで見られてしまった』
溜め込んだ女子中学生的ストレスを爆発させる望。
だけどその姿は案外、いつものちょっとした事で『絶望した!』と叫ぶ彼とあまり変わらないようにも見えたのが悲しいところである。
そしてついに、望は『こんな家出てってやる』とばかりに、学校を飛び出し家出をしてしまった。
そうして先程、可符香はすっかり女の子になり切った望を見つけたのだ。
「携帯料金、一万円超えちゃった」
「大変だね」
めそめそ、ぐすぐす、目の端に涙を浮かべながら女の子みたいに喋る望は、だけどやっぱりあんまり違和感は無かった。
ただ、可符香はそんな望の姿が妙に可愛くて、彼の隣でずっとその横顔を見て、話を聞いていた。
一方そのころ、糸色人形堂では、可符香のぶちまけた極小ひな人形の片付けが行われていた。
その様子を眺めなていた倫がポツリと一言。
「妙じゃな…」
「どうなされました、倫様?」
怪訝な表情で床に散らばるひな人形を見つめる倫に、時田が尋ね返す。
「いや、いつもなら処理待ちの人形は霊感ゼロの人間でも分かるくらいの瘴気を立ち上らせているのに、こいつらからは全然そんな雰囲気を感じぬ」
「……となると、全ての厄は望ぼっちゃんの方に持っていかれてしまったのでしょうか?しかし、人形はここに残っておりますのに……」
「人形に溜め込まれていた厄はお兄様と何やら波長が合う様子だったからな。それに引っ張られて、ぜんぶ向こうに持っていかれたのかもしれん」
「望ぼっちゃんはご無事でしょうかな……?」
倫の言葉を聞き、心配気な表情を浮かべる時田。
倫はそんな時田ににこりと笑いかけて
「そう心配するな。さっきも言った通りあの厄は望お兄様と波長が合っていた様子だったからな。
お兄様に害を為す事もないだろうし、無理なくストレス発散されてその内消えて無くなるじゃろう」
「だと良いのですが……」
「だから心配するなというに。お兄様のタフさはお前も良く知っておろう」
安心させるように時田の肩の上に、倫の手の平が優しくのせられる。
それから、再び視線をまだ床の上に転がっている人形に移した倫は、あるものに目を留める。
「これは……ウチでこんなもの、作っておったか?」
それは手の平の上に乗るほどの小さなひな飾りだった。
親指ほどの大きさのお内裏様とお雛様が仲良く並んでいる。
糸色人形堂が現在発売している極小ひな人形は段飾りを含めたフルセットのひな人形をミニチュア化したものだが、
こちらは人形がニ体きりの簡単なつくりである。
表面には汚れが目立ち、色も随分と褪せていて、他のひな人形より少し古いもののように思われた。
「倫様、失礼いたします。私にも少し……」
「うむ、構わぬ」
怪訝な表情でそのひな人形を見つめる倫の横から、時田も顔をのぞかせてそれを見た。
「これは……確かに糸色人形堂の商品ですな」
「そうなのか?だが、ウチのカタログにはこんな人形はなかったと……」
「少数ですが作られていたのでございますよ。最後に作られたのはざっと十年ほど前になりますかな。
手軽さを売りにした商品だったのですが、思ったようには売れなかったので二、三年で生産を止めました」
時田の説明に倫は納得したように頷いた。
「なるほど…そんなものがあったのじゃな……しかし、これを持っていた子供はよほどの悪戯ものだったようだな」
「そのようですな……」
二人が見つめるその小さなひな人形は、どうやら持ち主にあまり大切に扱われていなかったと見える。
何故ならば……。
「寄りにもよってお内裏様の顔にメガネの落書きをするなど……全く、ひな人形をなんだと思っておる」
『部屋に鍵をつけたい』
『門限の事でいちいち親がうるさい』
『勉強って社会に出て何の役に立つの?』
立て板に水を流すかのように望はその身に溜め込んだひな人形の厄、というか年頃の女の子達の不平不満を話し続けていた。
その勢いは凄まじく、横にいるだけで可符香も感じていた厄の存在感がみるみると薄れていった。
やはり、ひな人形の厄と望の相性はバッチリのようだった。
やがて、赤い夕陽がゆっくりと沈んで、空が紫の色に変わる頃にはひな人形の厄はほとんど消え去ろうとしていた。
(次の話が終わったら、そろそろ先生も元に戻るかな?)
横で見守る可符香がそんな事を思い始めた頃だった……。
『もうほんとに最悪。お父さんもお母さんも、なんでわかってくれないの……』
その言葉を呟いたのを最後に、唐突に望は沈黙してしまった。
ついに厄を全て出しきったのかと、一瞬可符香はそう考えたが、どうにも様子がおかしい。
体育座りの膝をぎゅっと抱きしめて、一言も喋らないまま望はうつむいた。
その様子が少し心配になった可符香が声を掛けようとすると
「ねえ……おねえちゃん…」
ゆっくりと望が顔を上げた。
その表情を見て、可符香は驚く。
そこには先程までの十代の少女のような表情は無く、代わりにそれよりもっと小さな、幼い女の子のような表情が浮かんでいた。
(もしかして…あのひな人形の中に小さな女の子が使ってたものが混ざってたって事かな?)
そう考えれば一応の説明はつくのだけれど、可符香には何だか目の前の望の様子がそれだけの事だとは思えなかった。
感じるのだ。
今の望の表情を見ていると、如何とも形容し難い不思議な感覚が彼女の胸の中に湧き上がってくる。
それはまるで、磨きあげられた鏡をじっと覗き込んでいるような、そんな感覚だった。
しばらく、可符香と、幼い少女になりきった望はじっと見つめ合う。
それから、おずおずと望は少女の口調で可符香に聞いた。
「おねえちゃん…わたしのおはなし、きいてくれる?」
「もちろん、私でよければいくらでも聞いてあげるよ」
彼女にしては珍しく、少し緊張しながら、それでも精一杯の笑顔でそう答えると、少女の顔の望は安心したように笑ってくれた。
「それじゃあ、はなすね」
「うん」
そして、望は、望の体を借りた幼い少女は話し始めた。
必死に明るさを装いながら、それでも隠しきれない寂しさをその声に滲ませて。
それは……。
「おにいちゃんと……おわかれしなきゃいけないの……」
おにいちゃんはいつだって優しかった。
わたしが会いにいくと、かならずやさしくわらって、わたしの頭をなでてくれた。
わたしのいく先にはどこへでもついてきてくれて、わたしとたくさん遊んでくれた。
ほんとうは少しわがままを言いすぎたかなって、なんども思うことがあった。
わたしと遊ぶなかでおにいちゃんは、
川にとびこんで、とおい海までながされたり、
こわいヤクザのおじさんたちとオニごっこをしたり、
ほんとうにいろいろ、たいへんな目にあった。
だけど、おにいちゃんはわたしがなんど会いにいっても、ちゃんと遊んでくれた。
ずっとそばにいてくれた。
わたしがいった事をすごくしんけんに聞いてくれて、こまったときは一緒になやんでくれた。
わたしがわらうと、おにいちゃんもいっしょに、ほんとにうれしそうにわらってくれた。
だけど、もうおわかれしなくちゃいけない。
おにいちゃんのすむ町からずっととおい所へいかなきゃいけない。
それはおとうさんとおかあさんがたくさん悩んで決めたことで、こどものわたしにはどうにもできない。
「もう会えなくなるの…」
「おにいちゃんと…のぞむおにいちゃんと、おわかれしなきゃいけないの……」
望の口を借りて語られる少女の思い。
それを聞きながら、可符香はただ呆然とするばかりだった。
(間違いない…これって……)
幼い頃の可符香が過ごした、とてもとても短い、だけどとてもとても楽しかったあの日々の事。
それが望の声で、少女の言葉で語られる。
そして、望の中の『彼女』が最後に言ったその名前。
「おわかれしたくない!ずっといっしょにいたい!!のぞむおにいちゃんっ!!のぞむおにいちゃん……っ!!!」
この叫びを、この気持ちを、可符香が忘れられる筈がない。
可符香が手を伸ばせば、いつでも優しく握り返してくれたあの優しくて大きな手の平。
だけど、それはある日突然に可符香の手の届かない場所になってしまった。
あの頃の可符香、まだ屈託なく『赤木杏』と名乗る事のできた幼い頃の自分。
小さくて無力だった彼女には、自分を押し流してく運命に抗う力などなくて……。
(そして、私はお別れしたんだ。あの頃の先生と…望お兄ちゃんと………)
可符香は改めて、今にも泣き出しそうな望の顔を見た。
姿形こそいつもの望だけれど、そこにいるのは紛れもないあの日の自分、赤木杏だ。
「おにいちゃ……のぞむ…おにいちゃん……ぐすっ…」
ついに堪えきれず涙をこぼし始めた望の姿の杏を見て、可符香はふと思い出す。
(そうだ…あの頃の私は、こんなふうに思い切り泣こうなんてしなかったっけ……)
可符香はお別れのその日まで、望にその事を話さなかった。
そして、いつもの悪戯をしかけて、その騒ぎに紛れて望の前から姿を消したのだ。
最後に望と目が合ったとき、僅かに瞳の端からこぼれた雫。
それ以上の涙を、あの頃の可符香は、杏は決して流そうとしなかった。
街から逃げ出さなければならなくなった親の前で、そんな顔を見せる事はできなかった。
ずっといつもの変わらない笑顔のまま、可符香は両親に手を引かれて街を去っていった。
そして、大慌ての夜逃げの最中、可符香はあるものを失くしてしまった。
両親が買ってくれた、小さな小さなひな飾り。
可符香はそれが大好きで、『お嫁に行くのが遅れるからしまっておきなさい』と何度も言われたのにずっとそれを飾って眺めていた。
きれいな着物に袖を通したお雛様は自分、マジックでメガネを落書きしたお内裏様は望お兄ちゃん。
あのひな人形みたいに、ずっといっしょにいられると、そう思っていたのだけれど……。
(そっか……あの厄のたまったひな人形の中に、私のお雛様も混ざってたんだ……)
一体どういう経緯かは分からないが、糸色人形堂の回収ボックスに可符香のひな人形が紛れ込んでいた。
そして、そこに込められていた厄。
あの時、ずっと笑顔でいなければならなかった小さな女の子、杏の涙が望の中へと流れ込んでしまったのだ。
ボロボロ、ボロボロともう涙を止める事も出きず、泣きじゃくり始めた望。
可符香はその頬に、かつての自分が見せる事の出きなかった泣き顔にそっと手を伸ばした。
「…ひっく…お…ねえちゃん……?」
「大丈夫…だよ……」
そしてそのまま、背の高い望の体を、小さな子供にしてやるように優しく抱きしめてやった。
あのひな人形は幼い日の可符香が押さえつけていた感情を受け止め、今度はそれを望が引き受けた。
そして、長い道のりの果てにそれは再び可符香の元へと戻ってきたのだ。
忘れようとしたって絶対に忘れられない悲しい出来事。
だけど、それは可符香にとってかけがえのない、大切な思い出でもある。
可符香はそれを再び自分のものとして受け入れようとしていた。
(大丈夫…今の私なら、きっと……)
ぎゅうぎゅうとしがみついてくる望……その姿を借りた小さな自分の背中を可符香は優しくなでる。
「…何も心配ないよ。泣かなくてもいいんだよ……」
「でもっ!…でもっ!!…」
「大丈夫だよ。だって……その人は…望お兄ちゃんにはいつかまた、ずっと未来に会えるんだから…」
「えっ……!?」
大好きな人から遠く離れる不安と寂しさに押しつぶされそうな少女に、可符香は何度も言い聞かせてやる。
「望お兄ちゃんにはきっとまた会える。それで、昔みたいにお話して、遊んで、毎日一緒にいられるんだよ…」
「本当……?」
「いやだなぁ…、本当に決まってるじゃない。嘘なんてつかないよ。嘘なんて言える訳ないよ」
可符香の言葉に、望の中の少女はだんだんと落ち着きを取り戻していく。
可符香は自らの言葉で、あの時の自分が感じていた感情をゆっくりと解きほぐしていく。
だけど……それなのに……。
「だから、安心して…とても長い時間がかかるけど、あなたはまた望お兄ちゃんに会える……ぐすっ…きっと……必ず……」
「おねえちゃん……泣いてるの?」
何てことだろう。
昔の自分を宥めていた筈の、今の自分までが泣き出してしまうなんて。
でも、考えてみれば、当然の事かもしれない。
ひな人形を残してあの街を去った後も、可符香の頭の片隅にはいつもあの日の思い出があった。
辛くて悲しくて、何度も忘れたいと思ったけれど、どうしても捨てられなかった大切な記憶。
彼女はそれと一緒にこれまでの人生を生きてきた。
ひな人形に託された分だけではない。
あの日、桜の木の下でもう一度望にめぐり合うまでの長い間、彼女の中にずっとその気持ちはあり続けたのだから。
「…大丈夫…だから……ぜったい…きっと…また、会えるから……」
いつの間にか可符香は涙でぐしゃぐしゃの顔を、望の肩に埋めて泣いていた。
あの日から押さえつけていた全てを解き放つように、子供のような泣き声を上げて………。
それから、どれくらいの時間が経っただろう。
泣き続ける可符香の肩が先程までの震える少女の腕とは違う、優しい感触が抱きしめた。
「……大丈夫…大丈夫ですよ、風浦さん……」
「えっ……」
耳に馴染んだその声に思わず顔を上げると、そこには慈しむような笑顔で可符香を見下ろす望の顔があった。
「先生…ひな人形の厄は……?」
「どうやら、さっきので完全に出て行っちゃったみたいですね。
……まあ、おかしくなってた間の事は全部記憶に残ってるので、今度は私の精神的ダメージがハンパじゃないんですが」
「…そんな事ないですよぉ。いつもの先生と大して違わなかったですよ?」
「またあなたはそうやって私の心を抉る言葉を……」
いつもの会話、いつもの笑顔、自分を気遣い優しく抱きしめる腕の温かさ。
それらの全てが可符香の心を安心させていった。
(そうだ…もう大丈夫なんだ……だって、私はまた先生のところへ戻ってきたんだから……)
望の隣にいられる嬉しさと、まるで長い旅を終えて家に戻ってきたような切ない気持ちがまざりあって、
胸の中がいっぱいになった可符香は望の体にもう一度、ぎゅっとしがみついた。
と、そこで彼女はある事に気付いた。
「先生……先生もまだ、泣いてるんですか?」
先程まで小さな赤木杏になり切って流していたのとは違う、新しい涙の筋が望の頬を滑り落ちてくのを可符香は見た。
それを指摘されると、望は恥ずかしそうにぐしぐしと目元をぬぐって
「あ、当たり前じゃないですか!私だって、あの時のことは辛かったのに……こんな形であの時のあなたの気持ちを知るなんて……」
そう言ってそっぽを向いてしまった。
ただ、拗ねたような表情を浮かべながらも、望の腕は可符香の背中を強く、優しく抱きしめて離さない。
可符香は改めて、望の傍にいられる事、その実感を、幸せを噛み締めながら彼に語りかける。
「……先生、私たち、また会えたんですよね……」
「………そうです。そして今度はもうあなたを一人で遠くに行かせたりなんかしません。……ずっと一緒です…」
照れくさそうに、だけど、はっきりとそう言い切った望の言葉を、可符香は心の中で反芻する。
そうだ。
きっともう、絶対に大丈夫。
温もりと優しさに満ちたこの場所こそが、他に絶対替える事の出来ない可符香の居場所なのだ。
「……もう離しませんよ、風浦さん…」
「……私だって同じですよ、望お兄ちゃん……」
次第に西の方から、紫から夜の黒へと色を変えていく空の下、可符香と望は互いの温もりに体を埋めて、ずっと抱きしめ合っていたのだった。