障子に影が映った途端、正座していた私の身体は、石の様に固くなった。  
(不束者ですが、どうぞ、よろしくお願いします)  
もう何度したか分からない、三つ指姿勢のイメージトレーニング。  
未だに慣れない、閨で夫を迎える、妻の仕草。  
そんな私の緊張の鼓動を、三度鳴らす前に、音も立てず障子は開かれ、彼は姿を現した。  
「ふっっ、ふつつか者ですが――」  
頭の中の消しゴムが、私の許可も得ずに作動する。  
(どうぞ、だっけ? どうか、だったかしら?)  
脳の中が、「どうぞ」と「どうか」の六文字で溢れかえり、今度は、頭が真っ白になる。  
でも、多分伏せた顔は、真っ赤だろう。  
「ふふふ」  
後頭部に零れた笑いが滴って、余計に顔が上げられない。布団の皺と自分の指を、馬鹿の様に見つめながら、私は悔しくて泣きそうになる。  
「そんなにきっちりしなくてもいいですよ、千里さん」  
後頭部に落される囁きが優しくて、私は顔を上げてしまう。  
彼の姿と背後の庭を、馬鹿の様に見つめながら、私は嬉しくて泣きそうになる。  
真ん中で分けていたはずの髪が早くも一房、乱れ落ちた。  
 
先生と籍を入れて三カ月。先生の実家での暮らし。  
私はまだ、先生のことを名前で呼べないでいる。  
「んむ」  
髪を梳きながら、先生は私の唇を啄ばむ。身体は既に横たえていて、もう片方の手は私の腰を抱き寄せる。  
「んは、はぁんむ、あ、む、む、む」  
一方の私は、彼の細い首と脇から手を差し込んで、うれしさに振り落とされないようしがみ付く。  
それは、私と先生が初めて添い寝した、あの保健室での一幕とよく似た姿勢だった。  
私は、そこでは「過ちはなかった」ということを、後になって、愛しい痛みと共に、思い知らされることになる。  
それはそれでショックだったけれど、先生への想いが消えるということもなかったので、奇妙なことだけれど、安堵した。  
こんな私でも、心の拠り所を持つことが、許された様な気がして。  
「ふあぁ、あ、ふ、ふ、ふう」  
舌を絡め取られながら、差し込んできた手に、胸を弄られる。びちゃ、びちゃ、という湿った音と、皮膚と布地が擦れる乾いた音が、暗い室内で充満する。  
私は動物の様に息を荒くするだけで、なんの反撃もできないまま。  
されるがまま。  
しかもその、蛇に捕食される鼠の様な状況に、心を震わせている自分が居ることに、気付いてしまう。  
昼の強気な私と、夜の受け身な私は、別人なのだろうか。息苦しさと愛おしさに噎せ返りながら、どこかが白けた頭でそう考える。  
 
先生は最中、殆ど口をきかない。  
私はそれが時々、不安になる。  
「あ、んん、いや、せ、せんっ、せい」  
キスが止まる。仕方がないことの筈なのに、それが寂しいと感じる私は、わがままだ。  
「どうかしましたか?」  
眼鏡はしていなくても、いつもと同じ。薄明かりに浮ぶ表情は、なんのことはない。  
見た目だけなら、怜悧冷徹。  
この瞬間は、それが怖い。  
「いえ、その」  
でもそんなことを言う訳にもいかず。  
「もっと、いっぱい――」  
あいして。  
その百倍恥しい本音を、ポロリと零してしまいそうになる。気付いた時には、もう遅い。  
続きを言えずに顔を俯かせ、上目づかいで彼を窺う。  
しかしそれは図らずも、最初の意図に成功したようで、彼の、呆気にとられたような顔を引き出した。  
「普段からそれくらい可愛いと、嬉しいんですけどね」  
今度は、してやったり、という顔で告げて来る彼に、私はちょっと憤慨して、その両のほっぺたを、パン生地の様に引き延ばした。  
「それは、いつもは可愛くないと、いうことですか?!」  
「あだだっ!」  
僅かな立場の逆転劇。これから好き放題犯される私の、ほんのささやかな意趣返し。  
「もうっ! 知りません!」  
彼に背を向け、身を小さくする。けれど、ここで放置されたなら。  
私はきっと、絶望するだろう。  
寂しくて。(それにしても、普段本当に)  
淋しくて。(かわいくないことは、自分が一番知って――)  
私はぎゅっと、包まれた。  
「全く。言葉の綾、というのを御存知ですか?」  
教える様な口調は、高校教師というよりも、幼稚園の先生じみた、彼には珍しい、嫌味の無いもので。  
だからこそ、嫌味たっぷりに聞こえる。  
「普段からこんなに可愛いと抑えが利きませんから、どうぞ手加減していて下さいよ」  
嫌味たっぷりの、砂糖菓子。  
振り向いて、舐めて、舐められる。  
 
「いつも思うのですが――そこは戦うところですか?」  
「いつも、言ってるでしょう。ここは、戦うところです!」  
十秒足らずで肌着を脱がされた私は、彼と争う。  
「もっと恥しいところがあるでしょうに」  
「それとこれとは、話が別です!」  
先生は、交差した私の腕の奥を見て、溜息を吐く。  
「い、いま、笑いましたねっ?! 嘲笑いましたねっ?!」  
「笑ってませんよ! 被害妄想は止めて下さい!」  
自分の十八番を他人に禁じる、チキン男がそこにいた。  
ていうか彼だった。  
しかし夜の彼は、実のところ、チキンとは程遠い。  
「私は気にしないと言っているでしょうが」  
「そうですけど、んんむっ」  
また、キス。  
ずるい。  
大人はずるい。  
先生はずるい大人。  
思考停止を、使いこなす。  
「む、はっ、はっ、あぁむ、んっ」  
むちゅ、むちゅっ、と、唇で唇を挟まれ、舌を付き込まれ、舌を引き出され、口で口を食べられる。  
意識を半ば失った私は、気が付けば、磔の様に組み敷かれていて。  
両腕を片手で纏められ、頭の上側で抑えつけられる。  
それでも、口付けはやまない。  
唾液を流し込まれ、為す術も無く嚥下する。実際、「為す術も無く」なんてのは、言い訳に過ぎなくて、自分から舌を伸ばす、体たらく。  
蓋をされた口の中で、彼と私が境界を失くす。こんな食べ物があったら気色の悪い感触この上ないくせに、私は貪る。  
それ以上に彼は、投下する。鴨に餌を押し込む、ブロイラーの様に。  
欲を満たして、抵抗の意思を、只管甘く、根絶やしにされる。  
 
「ふむ、んあっ、はっ、はっ、あぁ」  
口の拘束が解かれ、私は酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出し、一抹の切なさを覚える。  
そんな余裕も直ぐに無くなる。  
「あぁ、や、あ」  
胸に降り立った、愛しき生命体。  
乾いた土地を差し出す羞恥と、それを上回る快感。  
屈服する快感。  
「だめです、せんせい、あ、あっ」  
手に力を込める。  
振り解く気など、微塵もないくせに。  
彼から逃れられないことを、意識したいその一心。  
湿った肉が私の突起を啄ばみ、摘み、引っ掻き、撫で、擦る。  
けれど、それだけでもない。  
愛しき生命体は、どんどん土地を、南下する。  
その一歩ごとに、足音代わりに、私は歌う。音程の無い音楽会。  
白いお腹と、一点の穴のようなへそを辿り、一度だけ、丸い腰骨を哺乳瓶の様に咥えて、彼はとうとう辿り着いた。  
私もとうとう、追い詰められた。  
彼は、フッ、と本当に笑い、しかし私には、それを咎めることができない。  
三日月になった彼の口が、丸く開かれ。  
噤んでいた私の口も、丸く開かれ。  
「ああっ」  
別の音を、奏で出す。  
彼は、キスをする。じゅくじゅく、びちゃびちゃ。  
私は、鳴く。  
「んん、ふうぅぅ、う、ん、ん」  
彼はキスをする。じゅく、じゅく、びちゃ、びちゃ。  
私は鳴く。  
「ん、ん、ん、ん、ん、んんん」  
彼はキスする。じゅんじゅくびびびちゃ。  
「んあっ、あは、ちょっ、やめ」  
彼は。  
わた。  
 
「や、ん、くぅぅぅぅぅ――」  
 
とまる。  
止まる。  
白熱した。  
白熱した意識が、少しだけ、冷える。  
反り上がる私と、沈む彼。  
「あ――あ、はっ、はっ、はあ」  
地上へかえってきた私に、彼は告げる。  
「一回」  
寒気がした。  
訊き返すのも、恐ろしいくらいの。  
すぐに、試験管の様に冷たい指。  
じゅ、じゅ、じゅ、じゅ。  
「あ、だ、あ、だめ、せんっ、まだ、ああし、ヒッたば、っか、あ」  
にちゃにちゃ、ちゃくちゃく、ちゃくちゃく。  
とぷ。  
「二回」  
撃鉄の様に硬い舌。  
じゅ! じゅ! じゅ! じゅ!  
「だ! だめ! んっ、んああぁ!」  
とろ、とろ。  
「さんかい」  
「と、とめれぇ! またぁ! あっ! いぃ!」  
 
 
「」  
「じゅうななかい」  
「――――」  
――――  
「」  
「――あー」  
――あ。  
「―あ」  
―あ。  
「あっ」  
わけが、わからない。  
「あっああ、はあ、は、ははは」  
狂ってしまった様な気がする。  
 
「さて、そろそろですね」  
 
そのひとこと。  
その一言で、私は覚醒する。  
わざわざ、殺される感覚を、味わう為に。  
「あ、せ、せんせ、まって、まだぁ」  
「まだ?」  
白黒のようになった景色の中で、彼が微笑むのがはっきりとわかる。  
「――そうですね、まだ」  
 
安堵。  
「私はなにもしていません」  
ツイラク。  
すかさず、ぴとり、と、入口に出口が直結する。  
頭に銃口が突き付けられる。  
それだけで、私は「じゅうはちかい」。ああ、数をまだ覚えている。  
よかったよかった。  
「ヨガった顔だけ見せられて、私も限界なんですよ」  
「いやあ、まだ、まぁだ、まって、せんせぇ」  
たぶん、本能が喋っている。生存本能が、殺されることを、怖がっている。  
そのくせ、私の「入口」は、彼の「出口」を啄ばむ様にきゅんきゅん震えている。  
ひくひく、ひくひく、彼を手招きする。  
おぼろげに、先生が、むくれるのが見えた。いや、まともに目も働いていない以上、たぶん、ふいんきで察したのだろう。  
まちがえた、雰囲気。きっちりしないと。  
「まだ、せんせい、ですか? 千里さん」  
ちりさん。  
「妻ならば、夫の名を呼ぶのが順当でしょうに――なら、こうしましょうか」  
つま。  
「私をちゃんと呼んでくれたら、もう少し待ってあげましょう」  
彼の復讐劇。普段私に好き放題されている、とてもささやかな意趣返し。  
ちゃんと呼ぶ、というのが、どういうことか分かるくらいには、復活してくる。  
殺されたくない本能が、それくらいの羞恥、さっさと捨てろと、命令してくる。  
「あ――」  
望さん。  
そう言えば、きっちりとした意識で、彼に愛される感覚を、ちゃんと享受できる。  
なら。  
「あ、なた」  
かいしんのいちげき。  
視界が、完全に機能を取り戻し、彼の勝ち誇った顔を見届けて、  
彼は私の、きっと、お仕置きを待っている顔を見届けて、  
「はずれ」  
ずぶりゅぅううううううううううううううううう。  
「あ」  
頭の電球が、ぱりんとわれる。  
涙が、洪水みたいにでてくる。  
「あ、あ」  
 
多分、「絶頂」とかそういうものには達しているのだと思う。  
只、間欠泉の様に一足飛びで押し上げられたそこには、身体だけが反応に気付いていて、精神が未だ追い付いていないのだ。  
だから、私は暫くの間(といってもほんの数秒以下に過ぎないことは明白であるのだけれど)、金魚の様に顔を真っ赤にして、涎塗れの唇を戦慄かせているだけだった。  
その不安定の一言に尽きる均衡は、  
「はみっ」  
なんていう擬態語がつきそうな、耳へのひと噛み(彼が、犬にするのが好きだとか)で、呆気なく破られた。  
(私はペット。彼の――所有物)  
そんな墜落快楽にその時、気付ける程まともな精神だったかどうかなんてのは、今になってみれば怪しい。  
たった一つ、言えること。  
薄氷の安定が割れ、ぶるぶる震えていた腰が更に痙攣したようにその自由を失い、体中の汗腺という汗腺から熱湯が噴き出すような錯覚に見舞われ、  
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」  
ゲシュタルト崩壊に見舞われるような叫び声を上げ。  
私は殺された。  
月まで天国まで、飛ばされた。  
「覚悟して下さいね」  
マグマの私に注がれる氷の様な一言。  
私の身体からじゅーじゅーと、鉄板の上のステーキみたいな音がしそうだ。  
「ああ、あああなた、あなた! すき! ひゅき! ひゅいぃぃぁぁあああああああああああ!」  
死んだ私には、最早何も恥ではなかったようで、思いついた言葉と行動が、そのまま結果に反映されていた。  
両手を、彼の首筋で交差する。  
両脚を、彼の背中で交差する。  
私は彼を逃がさないし、私は彼から逃げられない。  
「んくうぅぅぅぅ! あふい! あついよおおおおおぉ!」  
びゅーびゅー、お腹のなかで、アルコールみたいな感覚。  
「ああ! いい! んんんんんんんんんぁ!」  
それでも彼は、運動を止めない。  
彼が腰を持ち上げれば、私もナマケモノみたいにしがみついて、一緒に持ち上がる。  
瞬時に私は期待する。  
精神が落ちる快感。  
物理的に落される快感。  
そして、布団の上に、叩き付けられる。  
「あはぁぁぁぁ――」  
前の穴から後ろの穴に貫通しそうな衝撃。  
腰がじいんと熱を持った電撃で痺れて、がくんがくがくん、と体が跳ねる。  
あんまりにも一撃が重たすぎて、私の脳は許容し切れない。結果、尻切れトンボな力無い嬌声が、失禁みたいにゆるゆると絞り出される。  
視界に星が散っているのは、白眼を剥くほど、私が目を見開いているからか。  
 
間髪をいれずに再び、浮き上がる。  
半狂乱の意識のまま、振り落とされそうになっていることだけを理解し、必死で喰らいつく。こうなれば刹那以下の別離も、耐え難い。  
再び、落下。  
ごりゅううううう、という音が聞こえた気がする。  
けれど違ったのは、私の学習能力が、彼の与えて来る快感を全て受け入れられるように作用していたこと。  
表面張力の絶頂。  
取り零しなく、快楽を流し込まれる。  
つまり、天国の上の地獄に、噴火で吹き飛ばされる。  
「いやああ! いかないで! いくっ! あっ! あああああぁ!」  
おとがいが上がって、戯言みたいな絶叫を垂れ流す。  
彼が腰を、三度、浮かす。  
私はもう付いていけなくて、寂しくて、それでもせめて不格好なガニ股で、ミツバチの彼を花の様に待ち構える。  
花の中心がロックオンされたのを感じて、幸せに絶望する。  
蜂がめしべを、一直線に刺す。  
水鉄砲みたいに声を上げる。  
離れる。寂しい。落ちる。幸せ。  
離れ落ち。  
荒波に乗った感情。  
そこで気付く。  
彼が「一撃」でなく、「速さ」で勝負を仕掛けてきたことに。  
全ての分野で私に圧勝して、「夫」と「妻」のどちらが上か、文字通り体に理解させる作戦に出たことに。  
「こ――こぉんなの、勝へるわけぇないよぉぉぉぉ!」  
私から浸み出す液と、彼が吐き出す液が、私のなかでぐちゅぐちゅぐちゃあっって撹拌される。  
私のなかが、スコップでほじくり返されて、彼専用の形に近付いてゆく。  
泡立って泡立って、化学変化を起こし新しい劇薬になって。  
そして単純にイく。  
「はあああああああああ、ああああああぁ!」  
ごりん、ぐちゅん、びゅく、べちゃ。  
ごりんぐちゅんびゅくべちゃ!  
ぐちゅぐちゅぐちゅびちゃびちゃびちゃびちゃ!  
びゅー!  
びゅー!  
二度三度四度五度、そういう風にして、彼が一回のあいだに、私は四回、宙をまう。  
なかが削り取られるような錯覚と、熱暴走。  
じわわぁ、っていう熱量が下半身一帯に広がって、おもらししちゃったのかなぁなんて能天気に考える。  
乱れた前髪だと私だってそんなものだ。  
「あああ! ああっ! あああっ! あああああああああああああっ!」  
 
一突きごとに、押し出されたところてんみたいな悲鳴。  
ぱっちゅんぱっちゅん、子供の泥遊びみたいな音。  
体のあちこちで爆発がおこる。  
一発毎に、私はとんでく。  
一太刀毎に、私はバラける。  
びゅーびゅー、あかちゃんの種が目一杯植え付けられる。  
子宮の中に送り込まれる粘土みたいなせーえきの図が、頭の中で描きだされる。  
「ぴゅーぴゅーいって! ぴゅーぴゅーいってる! せんせぇ、もっともっとぉ! ああなたあぁぁぁ!」  
そうなると一滴も零したくなくて、一匹も逃がしたくなくて、私は自分が痛いくらいに、筋肉を絞め付ける。  
それを馴染ませるように、今度は、彼は、固定した私の腰へ、自分の腰をなすりつけるように、のしかかってくる。  
男である彼の胸と女である私の胸がピッタリ合わさるのは、この際彼との距離が近くなる利点だと思えるようになる。  
とんだ楽観快楽主義。  
宗教裁判モノの、心情違反。  
「はあああぁぁん! きす! きふひへぇぇぇぇ!」  
被告は支離滅裂な証言を繰り返しており、情状酌量の余地は全く見られない。  
判決。  
死刑。  
「あ――はああああああああああああんんんん!」  
息を吸い過ぎて、息を吐き過ぎて、喉が硬直したまま迎える絶頂は、本当に首を絞められるみたい。  
彼の痩せた、しかし針の様な鋭さを持った体が、私の敏感な三つの突起を圧壊にかかる。  
浮き出た肋骨と陰毛が、ごりんごりんと捻り潰してくる。特殊工作員の受ける拷問はこんな感じかもしれない。  
「かあああぁぁぁぁぁ! あんんんんっくぅ! んむ! むー!」  
けれど彼は、もちろん、キスも忘れない。  
それが工作員を、私を、簡単に屈服させることを、彼は熟知しているから。  
ハニ―トラップ。  
或いは、彼なりの絞首刑。  
キスで私を、窒息させる。  
私は噎せ返りながら、それを甘んじて貪る。  
じゅくじゅくじゅくじゅく。  
むちゅむちゅむちゃむちゃ。  
媚薬なんて使う人の、気がしれない。  
彼の唾液ひと舐めで、私はたぶん、大丈夫。死ねる。  
 
「も! ああぁ! ひゅる、ゆるひて! もお! いヒたふ、ヒキたくないれふぅ! ううああああ!」  
口先ばかりの反抗。文字にするとなんて恥しい。  
幸せに滅多打ちされることを、嫌がるわけがない。  
幸せ過ぎて不安になる?  
それは、不幸なことだけど。  
「んんんんんんく! あふぅ! う! ふき! すきっ! だいふき! いぃゃぁああああああああああ!」  
一ミリたりとも離れたくなくて、私は、腕と脚の力を、きっちり、最大限に。  
夢中でキスをする。  
ただ、死んでも死んでも、ゾンビのように蘇る私を完全に、完膚なきまでに殺す為の、最後の一手を、彼は打っていない。  
偶然か、わざとか?  
わざとに決まっている。  
だって、彼は最中、殆ど口をきかないから。  
そして。  
今にも何か言いたげだから。  
だから私は、朦朧とした意識の中で、最後の力を振り絞って、崖に片手でしがみ付く。  
飛ばされ落され、忙しく跳ねまわった私は、最後にやっぱり、落ちるみたい。  
糸色望に、絶望に。  
蹴落とされるのを、じっと待つ。  
 
「愛してます、千里」  
「――うなぁ、ぁ、ん」  
 
なんて情けない返事。でもこの時の私を責めるのは、ちょっと酷というものだろう。  
一方通行だった恋が開通したこと。それを確認してなにも思わなくなるほどには、私は恋に慣れていない。  
耳にべっとりと唇を押し付け、それでもやたらはっきりと囁かれた、臆病者の一撃。  
また、びゅくんびゅくんと、おなかのなかで、彼があばれる。  
体内が贅沢に爛れてゆく。全部が全部、彼の支配下に下る。  
「――ぁああ、とろとおひてまひゅ、あつ、あひゅい」  
彼が私の体中に浸透してゆく、ヘンな、しあわせな、妄想。  
ああ。  
たぶんわたしはここまで。  
もっと、いちばん、おっきいのが、くる。  
あ。  
 
「「「「「うううううううるさああいいいいい!!!!!!!!」」」」」  
 
ガララララという音と共に驚き、私は顔を上げた。  
慌てて枕元の眼鏡に手をかける。  
「千里ったら声大き過ぎ! あーあーアーアー、赤ん坊か、はたまたアニキか?!」  
晴美さんが、漫画のペンを持ったまま言い放つ。  
「いくら今日が千里ちゃんの日だからって、流石に我慢できませんよ」  
あびるさんが、目に巻いた包帯を解く。  
「あなた――私の時よりも、激しいんじゃないですか?」  
まといさんが怒気を孕んだ声で詰め寄ってくる。  
「明日のアタシの時、もっと頑張らないと訴えるよ?!」「いやだわ、はしたない――」  
カエレさんが睨みをきかした直後、楓さんがその言葉に頬を染める(ジサクジエン?)。  
その背後にも佇む、糸色家の嫁たち。  
冗談の様に全員を囲うことになり(「おもしろがった」父の策略だ)、実家で部屋を割り振って以来、夜毎常になった殺気。  
私は一気に冷えた汗をたらたらと流すが、下半身ではだらしなくびゅんびゅくと、千里さんの中で蕩け出す。  
そして当の彼女はといえば、  
「もっと、もおっと、あなたぁ。んんっ」  
完全に幼児退行或いは先祖がえり。可愛いすぎて怖いくらい。明日からどう我慢しよう。  
「やだなあ、旦那さまが手を抜くなんてあるわけないじゃないですかあ。先生と生徒から外れた途端、ちゃあんと本性を曝け出すオオカミさんですよっ!」  
「それにしても、マリアより、こどもみたいになっちゃったナ! ふだん色々、たまってるんだろうナ! ツンデレ、だネ?」  
「うっわー、千里ちゃんキャラ崩壊激しいなぁ――わたしもこれくらいすれば、普通って言われなくなるかも」  
「『お前もともとキャラなんかねーだろ』」  
「わ、わたしのようなものが羨ましいと思ってしまってすいません!」  
「内職が手に付かなくなっちゃったじゃないですか――責任とって下さい、あ・な・た」  
そろそろツッコミを入れておかないと、収集が付かなくなりそうだ。  
「もう内職なんてする必要ないでしょう!」  
が、すぐに、悟る。  
「真夜さん火をとめて! いや台所じゃないです可愛いなあもう!」  
「可奈子さん下着は?!」  
「わすれてしまいましたぁ」  
全員集合この期に及んで、収集なんかつくはずがない。  
「あらあらごしゅじん、今夜は大変そうですね?」  
「そんな時には、このオクスリなんていかがですか? お安くしておきますよ? お代は明日の優先権――」  
「お兄様ったら、こんな小娘達、相手にすることはございません。この倫、一人で充分」  
「あたしはこむすめじゃないんだから……ねえ、望様。姉妹丼つゆだくなんて、どうかなぁ?」  
「あなただって、私に比べればまだまだコドモ――」  
「熟女はずるいよう!」  
「誰が熟女ですか!」  
「熟女じゃん」  
内紛もそこそこに、にじり寄ってくる彼女達で、部屋が影に覆い尽される。  
 
「ぎいいいいいやああああああああああああああああああ!」  
 
「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ出たらダメだ出たらダメだ――」  
引き籠りの矜持と戦う、もう一人の嫁が居たことは、また別の話。  
 
 
 
翌早朝。  
死屍累々と化した千里の部屋で、むくりと起き上がる影一つ。  
沼の様に淀んだ空気に、溜息を一つ落とす。  
「また、死ねなかった」  
そうして彼の一日は、いつもの様に、後始末で始まる。  
 

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