『あんたのどれいのままでいい』  
 
 
 〜金は新しい形式の奴隷制である。  
  それが旧い形式の奴隷制と異なるところは、奴隷に対してなんら人間的な関係を持っていない非人格的なところにある〜  
  トルストイ 「われわれは何をなすべきか」  
 
 女がATM―現金自動預け払い機の前で画面を見つめている。  
そのATMはいわゆる消費者金融の無人コーナーの中にあり、現代の日本では駅前や繁華街では珍しくないものだ。  
雑居ビルの地下のここでは、今現在彼女だけが利用者のようだった。  
彼女はやがて意を決したようにタッチパネルになっている画面に手を触れる。  
カードを入れ、暗証番号を入力する。  
「お客様ご利用可能額」という画面に示された彼女のその残高は、限度額に対してあまりにわずかだった。  
テンキーをタッチして金額を入れる。  
機械から吐き出された数枚の紙幣を掴み上げ、カードを回収する。  
彼女は紙幣を手にしたままATMコーナーを出ると、すぐとなりに仕切られた別の消費者金融業者のコーナーのドアをくぐった。  
そして手に持っていたもう一枚の別のカードをそこのATMに挿入し、画面を操作しはじめた。  
 今度は入金らしい。  
画面には「ご利息お支払い期限日を過ぎています」と説明が表示されている。  
遅延分の利息も含めての支払いを要求されているということだ。  
彼女は先ほど機械から取り出して手に持ったままだった紙幣のうちかなりの枚数を機械に突っ込んでいた。  
それでも、正規の利息と遅延分をわずかに上回るほどでしかない額だった。元本―ほんとうに返済すべき金額はほとんど減っていない。  
「ご利用ありがとうございました」の画面。  
彼女はカードを回収すると、残った紙幣を確認してカードとともに財布にしまった。  
その財布はカードや定期券などでそれなりの厚みがあったが、  
現金はもとから入っていた二、三枚の紙幣に今借りた紙幣、そして数枚の硬貨のみだった。  
次のアルバイトと内職の給与支払日まで、何とかこの現金でしのがなくてはならない。  
だがひと息つけるその日まであと半月もあった。  
さらにその前にまた別の業者への返済日もある―。  
 
 説明の必要も無いかと思われるが、いま彼女はある金融業者から借金をして別の金融業者への利息を返済したのだ。  
要するにこれは典型的な多重債務者の債務連鎖。発生する複数の利息をかろうじて払い続けているだけの状態―。  
多重債務に陥ってしまう者にはさまざまな理由があれど、その性根は真面目な者が多い。  
だから踏み倒しもせず逃げもせず、こうして月々の利息分だけでも何とか支払おうとする。  
ところがもともと苦しい懐事情ゆえに、月々のみいりでは足りぬから、また他の業者に借金をして返済にあてる。  
気がつくといつの間にか元本が減るどころか増えてしまっている。そして必然、月々返済すべき利息も増えてしまっている…。  
―まことに消費者金融業者にとってはありがたいお客様、もとい…債務奴隷の姿である。  
…ちなみに、彼女が借り入れている金融業者はいまの二社のみでは、ない。このような奴隷どもは、現代日本には掃いて捨てるほどいる。  
どこにでもいる、どこにでもある日常風景だ。  
 
 この奴隷の名は、大草麻菜実、という。  
その出で立ちは消費者金融の無人ATMコーナーなどにはおよそ似つかわしくないセーラー服。  
彼女は高校生なのである。そして、家計を預かる主婦でもあった。  
放課後帰宅するついでにこのATMに立ち寄ったのだ。  
ATMコーナーから階段に向かう彼女の顔は年齢を疑うほど暗く沈んでいた。  
みずからの窮迫した経済状況という切実な現実に向き合った直後は、誰でもそんな顔にならざるを得ないだろうが―。  
彼女は月に何度も、その現実に向き合わねばならない。  
カネがない、という状況はなぜ人をこれほどまでに憂鬱にさせるのか。  
――カネ、という価値観は、巨大なだけの共同幻想にすぎないのに。  
 麻菜実は昨日の時点で家の冷蔵庫がほとんど空だったことを覚えている。  
帰路にあるスーパーのタイムセールに駆け込むために、階段を駆け上った。  
夜のアルバイトに出かける前に、帰宅してくる旦那に夕食を用意しておいてあげねば―。  
 
 
 その日、糸色望は上機嫌だった。いや、ヘブン状態、とでも言うべきか。  
同居人の小森霧に小遣いを貰って打ちにきたパチンコで、空前の大当たりに見舞われたからだった。  
彼は普段はこの小石川区の高校で教鞭を執る、一応は聖職の身ではあったが、彼もまた凡にして俗なる労働者。  
職業と同居人の手前「買う」はともかくそこそこ「飲む」もすれば今日のように「打つ」もする。  
そうして日頃の鬱憤を一時の快に晴らしていたのだった。  
彼の実家は大変な富豪なのだが、今は実家の援助に頼らず独立した生活をいとなんでいる。  
そんな彼の経済感覚からすれば今日の大当たりは臨時ボーナスと言っていいほどだった。  
パチンコ屋を出て、薄暗い裏路地を挟んだすぐ近くの交換所に向かう。  
雑居ビルの一階にあるそこに景品を持ち込み、大枚を手にしてほくほく顔となった。  
愛国者をもって自らを任じる彼は、本日パチンコ屋に与えた損害で日本に飛んでくる某国のミサイルの費用に打撃を与えた、と喜んでいた。  
え?パチンコ屋と某国のミサイルに何の関係があるかって?そもそも某国ってどこ?  
それは各自調査、まぁもっとも賢明なる読者諸氏には委細承知、そのような必要はないであろうと信ずる。よって説明は省略する。  
 話をもとに戻す。  
望は急にはち切れんばかりになった財布を袷の袂にしまった。  
ふだん端正であるはずの頬がゆるんでいるのはどうしようもない。  
 (いやぁ、やっぱり神様は何処かで見ているんですねぇ…。そうだ、せっかくの臨時収入ですし…今晩は出前でも取って、  
  交や小森さんに振舞ってあげましょうかね…、おっと、常月さんも何処か物陰にいるでしょうから声をかけて、と…)  
 そして何気なく振り返り、歩き出そうとした。この交換所の脇は地下階への階段になっている。  
そこからばたばたと足音が聞こえた。  
望ははちあわせになるのを避けようと一瞬立ち止まり、登ってくるであろう人物に道を譲ろうとした。  
 
 「あっ!」  
望は現れたその人影の身にまとう、見覚えのあるセーラー服にはっとなった。そして半瞬後、その顔を見て二度驚く。  
その顔は彼のよく見知った顔、――教え子の大草麻菜実だったからだ。  
 「せ、先生―」  
 「大草、さん―」  
望はこのビルの地下がどういう場所かを知っていた。  
そもそもパチンコ店やその景品交換所の近辺にはどういうわけか消費者金融業者の無人ATMコーナーが多い。  
勝負する前、あるいは負けた後の再戦の軍資金―パチンコ愛好者あるいは中毒者のニーズに応えるといえば聞こえはいいが、  
要はカネを捲き上げる債務奴隷を生産するためのわかりやすい仕掛けだ。  
とはいえ望には借金もないし、収入も安定した公務員。  
チキンゆえに大枚を突っ込むこともしない彼は消費者金融なるものを利用したことはなかった。  
だがその無人ATMコーナーから人もあろうに教え子が出てきた場面に顔突きあわせてしまっては、  
第二の本能にまでなっている危機回避、保身、見て見ぬふり―というわけにはいかなかった。  
 「大草さん…これは…また…とんだところで」  
 麻菜実は気まずげに視線を泳がせている。  
学校でも内職の造花を持ち込んで授業の合間に作っていたり、時には制服にツギが当たっていることもある彼女―。  
特に生活の困窮を周囲にアピールしてはいなくても、疲れた空気は常にその身にまとわりついていた。  
おそらく借り入れか返済をしてきたであろうと思われる麻菜実を見て、望の方も視線がおぼつかない。  
担任として麻菜実の事情を知っているだけになおさらだった。  
 
 だが、困惑気味な担任教師を見た麻菜実は、言い訳というよりむしろ相手の気まずさに手をさしのべるように、口を開いた。  
 「あ、あの…今日、期限でしたから。ここ…学校から割と近いですし…。先生、パチンコやられるんでしたよね」   
 「そ、そうでしたか…わ、私は…ちょっとした憂さ晴らしに…はは…。  
  確かに、私の方も…近いですから、来やすいというか…。あぁ…すみません、気を使ってもらって」  
望は真菜実が他者に自然に振りまいてしまう優しさや気づかいに今度も助けられたかと気づく。  
小さなことだったが、ひとの人格の美しさというものはそうした些事ににじみ出るものだ。  
望は貧しくとも心根の綺麗なこの大草麻菜実という少女を好もしく思っていた。  
もちろんそれは、恋愛感情などと言うものではなかったが―。  
 麻菜美のポニーテールが揺れた。  
 「じゃあ先生、私これから買い物して帰りますから。ちょうどセールの時間なんです」  
望は、他の教え子と違って自分にいっさい危害を及ぼしたことのない麻菜実に、何か少し報いてやりたくなった。  
 「それなら私が、ええと、おごりますよ。今日はたまたまですが、ちょっと勝てましたから。  
  なに、おすそわけです、さ、一緒にスーパーまでいきましょう」  
 「え…」  
 「さぁさぁ、行きましょう」  
望は真菜実の手をつかむと袴のすそをひるがえし、そのまま大股に歩き出した。  
 
 台所で包丁を使いながら、麻菜実は少し浮かれている自分を省みていた。  
あのあと望とスーパーに行ったのだが―。  
望はカートにのせた籠に麻菜実が申し訳なくなるほど食材を満載したのだ。  
売り場をまわるあいだ、彼は麻菜実に何が食べたいか、好物は何か、あれもあった方がいいですね、それも買いましょう、などと  
話しかけてきた。彼には少々後ろめたさもあったことだろう。  
麻菜実は望はパチンコでちょっとどころかかなり大勝ちしたのではないかと後になって思ったが、売り場にいたときはそんな連想よりも  
先立つ高揚があったのだった。  
男性とふたりスーパーで夕食の献立を考えながら買い物などをしたのは、いつぶりだったか。  
そしてどっさり買い込んだ食材ではちきれそうな買い物袋を、望は両手に下げてこの麻菜実の住まう公団住宅まで運んでくれたのだった。  
その道すがら、ずっと麻菜実はどきどきしていた。  
スーパーからの一連の情景は客観的にはまるで恋人か夫婦ででもあるかのようであったろう。  
望はそんな意識などなかったろうが、麻菜実は違っていた。  
そのとき麻菜実にあったのは、いっとき不貞の愛を望んだことさえある糸色望という男をわずかな間だが独り占めしている、と言う認識―。  
 漂い始めたカレーの匂いにふと我に返る。炊飯器からも米が炊きあがるいいにおいがしていた。  
今の自分の生活、そのもっともリアルなにおいが、麻菜実の浮かれた心を引き戻した。  
―自分は何を考えていたのだろう。  
 この食事は、夫のためにこしらえている。  
 先生にはおごっていただいて、とても助かった。  
 たぶん十日ほどは食材に困ることはないし、それより保存のきくものもたくさん買っていただいた。  
 財布のお金を使わずに済んで、今月はすこし余裕ができた―。  
その現実を強いて反芻し、一瞬脳裏に揺らいだあやうい想いを追い出す。  
 麻菜実は出来上がったカレーをおたまでかきまわすと、蓋をする。ボウルにあけたサラダにラップをかけ、冷蔵庫にしまった。  
夫がよそって食べやすいようにトレイに味噌汁の碗やら大皿やらを伏せ、スプーンとお箸をならべるとふきんをかけてテーブルに置く。  
ひと仕事すませた麻菜実は、今度はバイトの支度にとりかかった。  
 
 衣服をあらため、化粧をすませた麻菜実からは高校生という印象は消え去っていた。  
初々しさをとどめた夜の蝶、そんなたたずまいの女に変わっていた。  
酒の席で男性客にちょっとした接待をするのが、今の彼女の夜の仕事だった。  
夫には話していない。向こうも深く追求しようとはしなかった。  
知らない男の馬鹿話に調子を合わせ、媚びた笑顔を売る商売―ただし給料はいい―強いて教えたいとは思わない。  
それに、借金を返済するために年齢を偽ってまでそんな仕事をするおさな妻に、夫は無関心だ。  
それは借金を作り、妻に苦労を強いているという後ろめたさの裏返しなのかもしれなかった。  
 夫の借金は自分の借金。そう思う妻は必死で返済を頑張っているのだったが、  
いつごろか享楽的で金銭感覚の大雑把な夫とすれちがいを感じてしまうようになっている。  
返済のやりくりにゆきづまり、手を出したちょっとした投機の失敗などもあって麻菜実個人も借金を抱えてしまったせいもある。  
 それでも、彼女は良き妻であろうとした。  
いまでも、そうしている。  
―好き合って、結婚したひとだから。  
携帯を取り出し、仕事中であろう夫にメールを打つ。  
 『今晩はカレーを作っておきました。冷蔵庫にサラダもあります。お味噌汁と一緒にどうぞ。  
  私はバイトに出ていますので、食べていて下さい。食器は、洗ってくださいね。  
  今日もお仕事お疲れ様です。』  
ときどき、指がふるえた。  
そういえば、夫と最後に一緒に食事をしたのはいつだったか。買い物に出かけたのはいつだったか。  
いけないこととは思いつつ、夫の携帯をこっそり見たときに入っていた、知らない女のメール。  
しょっちゅう帰りの遅い夫。知らないふりをする自分。  
時々揺らいでしまう心。先生。  
経済的な苦しさから、実家に預けたままでしばらく会っていない養子、希亜。  
時おり、自分が道化のように感じることもある。  
麻菜実はそんな様々な想念から目をそむけるようにテーブルの上の食器を眺めると、送信ボタンを押した。  
 
 
 ―深夜二時近く、麻菜実が帰宅すると夫は寝ていた。寝室がアルコール臭い。  
脱ぎ捨ててあるシャツからは、夫のものとは違う香水のにおいがした。  
用意した食事には、手がつけられていなかった。  
 ―しあわせって、なんだっけ。  
心が軋む。だがもう涙も出ない。  
 
 
 それからしばらく過ぎて―。  
冬のにおいがし始めたある日、教室はレガシーコストの話題でもちきりだった。  
糸色望がそのレトロ趣味を責め立てられ、さらに望の宿直室に住む小森霧が、常月まといに望との事実婚狙いの陰謀を追求されたりしている。  
そんな騒ぎをかたわらに、麻菜実は昨晩来たメールに頭を悩ませていた。  
それは彼女が結婚前、中学時代に交際のあった男からのメール。  
今月キツイからカネ借してくれよ、という内容だった。こんなことは今までに何度もあった。  
そのつど麻菜実はこれが最後だといって小金を渡してやってはいたが、さすがにもう度をすぎている。  
結婚して夫を持つ身となりながら、かつて心通わせた男の窮状に自らの立場や同じような困窮を顧みず援助を与えてきたのだったが、  
ここ最近の夫との不和もあって持ち前の慈愛の精神もささくれだっていた。  
だいいち、今まで借してあげたカネが返ってきたことなど一度もないのだ。  
苦しい、ほんとうに苦しい中から削り出すようにして借してあげたものなのに。  
 望の仮住まいする宿直室前で、麻菜実は言い争う同級生をぼんやり眺めつつ、うつろにつぶやいていた。  
 「たしかに、男女間にもレガシーコストありますよね」  
   
 その一言が戦場になりつつある宿直室から出てきた望に聞こえたかと見えたちょうどその時。  
廊下の引き戸がわずかにあき、麻菜実には見覚えのある大きな毛深い手が、そこから突き出されていた。  
麻菜実はそれを見た瞬間、心が深く暗いところに沈んでゆくのをとどめられなかった。  
 『あした、お前の学校に取りに行くからさ』  
浮かぶのは、携帯に来たメールの、そんな一文。断ったはずなのに、まさか、本当に来るなんて。  
ねだるように手のひらを上下させるそれに、麻菜実は自分の過去を自分で肯定できないような、情けない想いにかられた。  
自分は、こんな男を好きになったのか。  
そして結婚するまで借金があることを知らなかった、今の夫のことも。  
…どうして私は、こんなひとばっかり!  
わきたった感情のまま財布から紙幣を引き抜くと、その上下する手のひらに叩きつけ、麻菜実は叫んでいた。  
 「もうこれっきりにしてちょうだい!」  
一万円札を受け取った手は、怒声がやむ前に引っ込んでいた。  
 
 麻菜実の初めて聞く大声に、望はあっけにとられている。  
麻菜実はその担任の視線に目を合わせることができなかった。疲れた、ほんとうに疲れた声でやっと言う。  
 「無心にくる元カレとか…なまじっか昔、付き合いがあったばかりに。…レガシーコストです」  
 「なにか…その…生々しい話は止めてください」  
 望のその何気ないひとことは、麻菜実をひどく打ちのめした。  
居室の自分をめぐる闘争から逃げ出した望には、色恋の重い話を厭うそれなりの感慨があったのかも知れない。  
だが麻菜実には生活に直結する切実な問題だった。  
淡い好意を抱いている相手からの無神経とも受け取れることばに、麻菜実は逃げるように背を向け、ふらふらと歩き出していた。  
 「あっ、大草さん!?す、すいません、大草さん!?」  
望の声が遠くで聞こえた気がした。  
―そういえば。  
 今日は、前回とは別の金融業者への返済の期日だった。  
 さっきあいつに叩きつけた一万円札は、その返済のためにとっておいた現金の一部だった。  
 もう利息分も払えない。  
 どうしよう。  
 どうしよう。  
 どうしよう―。  
 
 
 放課後に見た麻菜実の悄然とした後ろ姿から心配にかられた望は、彼女をさがして日が暮れた小石川区をうろついていた。  
ちなみに常にその背後にひそんでいるはずの少女は、今夜に限っては電柱存続の危機とやらに瀕して同好の士の糾合に気をとられ、  
望のストーキングから離れていた。  
それに気づかぬ望は本当の意味でただひとり、住み馴れたはずの町をさまよっている。  
 教室には麻菜実のコートやカバンがそのまま置かれてあった。  
望は寒さが身に染みてくるこの季節に、防寒具を置き去りに校舎から消えた麻菜実の心中を想いやり、いたたまれなくなった。  
そのただ一人の少女に対するこだわりは、普段の望のチキンぶりからはど外れていた。  
なぜ教え子の、それも他の男の妻である少女などにこんなこだわりが浮かんでくるのか。  
望は己の心をはかりかね持て余し、しかし名状しがたい衝動にかられてひたすら足を動かしていた。  
 (あぁ…絶望した!無神経な自分に絶望した!…大草さん、いつもやりくりが苦しそうでしたが…今日のあの出来事のせいでさらに…。  
  それを私は…本当に浅はかに…)  
スーパー、公園、繁華街。夜の闇があたりをおおっても、麻菜実のゆくえは見当もつかない。  
焦るばかりで足も疲れてきた望は途方にくれたが、そのとき目に入ったのが行きつけのパチンコ店の電飾だった。  
望はふとしたひらめきの導くまま、先日麻菜実と偶然に邂逅した景品交換所のあるビルに足を向けた。  
 
 深淵。  
たった地下数メートルの深さに過ぎない場所なのに、麻菜実にはここが世界の底のように思えてならなかった。  
階段を降りた横、うすぐらい通路にうずくまった彼女は、視線の先にあるATMブースのドアを睨めつけながら、打ち沈んでいた。  
スカートの布地越しの床が冷たい。疲れた肩にしんしんと冷気が滲みてくる。  
ATMの利用時間、すなわち返済せねばならなかったある業者の今月の支払い期限はすぎていた。  
携帯電話で返済の遅延のことわりを入れることはできたはずだったのだが―。  
今まで何度もそれを頼んだ手前、根が真面目で律儀な真菜実には今回もそれを言い出すことはいかにも相手に悪いように思えたのだ。  
しかし、連絡なしで遅延するのもまた悪いのが当たり前―。  
こんなことは人間的にまっとうな感覚をもった麻菜実のような債務者が陥りやすい思考だったが、彼女は気づかない。  
つまるところ堂々巡りの果て時間切れとなり、結局自らの基準において最低の方法を選択したことになってしまい、  
自己嫌悪を上塗りすると言う悪循環だ。  
それこそ奴隷を奴隷であらしめる心理的陥穽なのだが―。  
そんな個人個人の感傷など、カネを借す側の知った事ではない。  
彼らは、盲目の羊どもの毛を定期的に、自動的に、システマチックに刈りあげる。伸びたらまた刈る。それだけだ。  
 麻菜実はそうして彼女の世界の深淵、そのへりに腰掛けていた。  
いる意味などないこんな場所で何をしているのだろうか、自問の答えは浮かんでこない。  
だが家には――帰ってどうする?  
また箸をつけてももらえない食事をこしらえるのか。ひとりの布団に自分の肩を抱いて寝るのか。  
…帰りたくなかった。  
――かつん。  
そんな時、その足音は麻菜実の頭上に響いた。  
それは、地獄の福音とでも言えばいいのか。心の何処かで期待していたのかも知れなかった。  
そんな手のひらに儚く溶け消える淡雪のような期待。  
こつこつと、階段を下る靴の奏でる規則ただしい音が―、少女の横で途切れる。  
 「せん、せい…」  
 「よかった…ここでしたか…大草さん」  
 
 「心配しました…。それに私の余計な一言で…すみません」  
望は麻菜美の傍らにしゃがみ頭をさげようとしたが、麻菜実はかぶりをふる。  
 「違うんです。先生のせいじゃないんです…」  
 「…とにかく、帰りましょう。旦那さんだって心配しているでしょう」  
びくり。  
麻菜実の肩が震えた。  
 「心配?…あの人が私を?どうしてわかるんですか、先生にそんな事が。  
  …あの人は私のことなんて…どうでもいいんです」  
消え入りそうな声だった。  
だがその言葉は、背後にある重苦しい何かを望に連想させる。  
思わず望が口をつぐんだとき、麻菜実の手が望の手指をつまんだ。  
年頃の娘とも思えない、その固く荒れた手のひらと指先。望の心に鈍い痛みがにじんでゆく。  
他の教え子たちのような柔らかいつややかな手とは違う、大草麻菜実の手。  
その手にこそ、彼女の生きる現実が染み付いていた。それは主婦の手、そして――労働するものの手だった。  
 
 そのとき望は、なぜ自分がこの大草麻菜実という少女が気にかかるのか理解した気がした。  
彼女はその身に古き良き時代の日本の妻を体現していたからだ。  
金遣いの荒い夫、借金、苦しい生活をやりくりしながら健気に尽くすその姿。  
そんな苦労はおくびにも出さず、明るく優しく礼儀正しく、周囲を思いやり元気付ける笑顔。  
けれど時々、陰での苦労を偲ばせるほころび―。  
そんな昭和も八十年を越えたこの日本ではとうに絶滅したはずの、文豪の作中にしか存在しなくなった理想の母性。  
望の母はもちろんそのような幻想的存在ではなかった。むしろその対極―。  
富豪の家に嫁ぎ、料理家としても才能にふさわしい名声と収入を得て華やかな社交の世界に生き、当然経済的困窮などとは一切無縁。  
それはそれで幻想的とも言えるが―。  
その完璧な実母の対照として、もはや文学作品上にしか存在しないはずの古き良き糟糠の母性像に、望は密かに憧れていたのだ。  
それは自らも文章を著す、文学趣味の青年としての憧れであったのだろうが。  
それが現実に実在していた――人もあろうに教え子、この大草麻菜実という少女として。  
だからこの少女には、望は平静ではいられない。自分を押えきれない。  
ゆえに過去において、立場を忘れ年の差を忘れ、幾度もその胸に未熟で弱い男として素直に甘え、すがったのだった。  
そしていま、その理想的母性は切実な現実に打ちひしがれて望の前にうずくまっている。  
―大草さん。  
 この娘のために、何かしてあげたい。私にできることなら、何でも…。  
 
 麻菜実のかぼそい声が続く。  
 「お金が…なくて…。なくなってしまって…でも今日はないといけない日で…」  
 「…」  
 「頑張って働いて…家事もして…頑張って…。でもどうして…。奴隷です、まるで…私…」   
 「おおくささ…」  
望が何か言いかけたとき、麻菜美がその胸にゆっくり寄りかかってきた。  
 「先生、…私を、買って下さい…。一万円、一万円でいいんです…何をしてもいいです、何でもします…。  
  …買ってください…先生…おねがい…」  
 「大草さん!?何を言っているんですか!?お、落ち着い…」  
麻菜実はそんな言葉も耳に入っていないようだった。  
望の外套を割り、その背に手をまわす。首もとに頬を預けながら豊かな胸を望に押し付ける。  
自分で何を言っているのか何をしているのか、もうよくわからない。  
ただ誰かに助けて欲しかった。もがいて伸ばした手を、掴んで欲しかった。  
―いや。誰かに、ではなくて…。  
おぼつかない願いが現実になったのなら、もっと貪欲にそれにすがっても、…むさぼってもよいのではないか。  
 「たすけて、…せんせい。…私を、買ってください」  
 望は宙に遊んでいる両手が、教え子の背に伸びそうになるのをとどめようとしていた。  
―自分は教師で、大草麻菜実は生徒で人妻、こんな時間にこんな場所で。  
 きっとこの娘は放課後の件でお金に困ってやけになって、こんなとんでもない台詞を―。  
そんな言葉を頭の中にならべて、ことさら沸き起こってくる何かから目を背けようとしてはみたが。  
保とうとした理性が焼け焦げてゆく。  
 「大草さん」  
熱に浮かされたような目で見つめる。麻菜実の目はしっとりと濡れていた―いや、全身が潤んでいるように見えた。  
目が合う。麻菜実がちいさく頷いたそのとき、望の中に残っていた理性は焼失していた。  
 「わかり、ました」  
 あとは簡単だった。両手を麻菜実の腰に伸ばし、引き寄せる。  
強く、強く抱きしめながら、麻菜実の唇を奪う―。  
 理性。りせい。リセイ。  
そこから本能の深淵へ墜ちてゆく、その落差が大きければ大きいほど。  
―からだもこころも、熱くなる。  
 
 このフロアの監視カメラはすべてそれぞれのATMブースのドアに向いていた。  
階段脇の廊下にうずくまる二人は死角に位置している。そんな事を知ってか知らずか―。  
だが、すでに遅い時刻ではあったが向かいのパチンコ店は営業しているし、  
ATMがまだ利用出来るものと勘違いした客が地下に降りてくる可能性はゼロではない。  
そんな危うさが、逆に二人の行為を性急にあおった。  
 薄暗い空間に、唾液のやりとりされる音が響いていた。  
麻菜実は絡み付いてくる望の舌に吸いつきながら、望のカッターシャツのボタンを器用にはずしてゆく。  
そこに腕を突っ込み、望のあばらや薄い胸筋を撫で回す。  
望は麻菜実のセーラー服のすそをたくし上げ、ブラジャーを襟元に押し上げると、あらわになったまるい乳房をすくい上げるように掴んだ。  
かたちよく、望の手のひらからこぼれる麻菜実の乳房は、ひょっとしたら望の教え子たちの中でも木村カエレに次ぐ豊かさかもしれなかった。  
 「あふぁっ…」  
唾液を口の端から垂らしながら喘ぐ少女を、望は口づけから開放する。  
そのまま喉元に食らいつくように舌を這わせながら、男性にしては華奢な指を柔らかな丸みに食い込ませた。  
 「ひあっ!せん、せい…」  
押し殺すような嬌声が、吐息とともに絶えず麻菜実の唇から漏れている。  
にゅうにゅうと望の両手で弄ばれ、かたちを変える少女の乳房のその先端が、ぷっくり立ち上がっている―。  
望は舌を尖らせると乳首の先端をつつく。舐め上げ、そしてすぼめた唇で吸い上げてやる。  
 「先生、むね、ばっかり…んぅっ…ああっ!」  
湿った音のあがるかたわら、望は片方の手で空いた乳房を揉みしだく。  
望は乳房から唇を離すと、今度はいま一方にむしゃぶりついた。  
まるで赤子のように、無心にそれを吸い上げ、舐め回し、ほおずりし、谷間に顔をうずめた。  
 「ええ…柔らかくて…、すごく安心するんです、大草さん。あったかくて…すみませんね…乳離れできそうにありません」  
男にとって口唇期における母の乳房の安らぎは原初の記憶と言っていい。  
麻菜実のたっぷりとした乳房の感触は、望のその原初の安らぎを喚起するのに十分なものだった。  
 「ああ、先生…」  
そんな望の姿が、麻菜実の母性を刺激する。  
麻菜実は望の黒髪を手漉きに漉き、そして優しくきゅっと抱きしめた。  
  ―このひとはこうして甘えて、私を必要としてくれる。…いいえ、飢えて乾いた私のために、私に甘えてみせてくれる。  
   無意識か、計算か―どっちでもいい。それが暖かい。ああ、あたたかい…。せんせい―。  
彼女の飢えていたもの、求めていたもの。  
ひとはだの、血の通う生身の温度―そして心の底にまでしみいる、人の情けの温かさ。  
金銭、困窮、無関心、そんな人間性の消失した彼女の生きる家庭での日常、そこにまさに喪われていたものだった。  
冷たい廊下の空気がまるで二人のまわりだけ温んできたかのようだった。  
 
「大草さん…私のも…、挟んで、くれませんか…?」  
 「え…?はさ…?」  
 「これを、そこに―」  
麻菜実の前に立ち上がった望は、袴の帯を解くとつっぱらかった自らの分身を引っ張り出した。  
 「…あ、…そ、それは…!」  
初めて見る、担任のそれ。痛々しく反り返って、鼻先に突きつけられた望の牡のにおいに、麻菜実は一瞬くらくらとした。  
 「だめですか…?」  
赤面しながらも唇を尖らせる望の様子がまるで拗ねた子どものようで、それが麻菜実にはもう可愛らしくてたまらない。  
 (―困ったひと。こんな事したことないけど…先生になら…)  
麻菜実は自分の乳房を両手ですくいあげると、膝立ちになって望の肉棒を胸の谷間に挟みこんだ。  
きゅう、と肉棒をおさえつけ、ゆっくり胸を上下させる。  
 「先生、こ、こうすればいいですか…?」  
 「は、はい…凄いです、大草さん…きもち、よすぎて」  
量感たっぷりの柔肉が動くたびに顔を出す肉棒の先端に、透明な液の滲んでいるのが見えた。  
 (先生…感じてくれてる)  
麻菜実は要領がわかってきたのか、乳房を支える手の動きを激しくする。  
腰をうねらせて胸を張るように動きながら、挟み込んだ望の分身をしごきあげた。  
見上げると、快感に耐える望のたまらない顔が映った。うっすら汗ばんだ麻菜実の胸の中で、望の肉棒がぴくぴく震えている。  
望は乳圧をもっと味わいたくなったのか、自分でも腰をゆるゆると動かしだした。  
 「あぁ…気持ちいいです、大草さん…大草さん…っ」  
教え子の柔らかいふくらみを犯している背徳感、それゆえにもたらされる官能が牡の脳を痺れさせる。  
やがて望は両手を麻菜実の乳首に伸ばし、弄りだした。  
軽く、甘く転がすようにつねるように。たちまち麻菜実が悲鳴をあげた。  
 「きゃ、ああっ!先生、だめ…!」  
麻菜実はお返しに、お互いが動くたび乳房の合わせ目から現れるもう粘液に濡れ光っている望の亀頭に口づけた。  
そして舌をいっぱいに差し伸ばし、たっぷりの唾液をのせて裏筋を舐めあげる。  
乳房が揺れるたび肉棒が出入りするたび、麻菜実の舌先が望の先端をすりあげ、唾液と粘液が湿った淫らな音を響かせた。  
 「うぁあっ…大草さん、そ、それは…やばいです…!」  
望は折れかける膝を必死で支えていた。のけぞる腰が震えている。  
望が反応するたび、麻菜実の背をぞくぞくとした快感がかけのぼる―。  
下腹の底が熱くなってきた。  
 「ん…ふふっ…せんせい…だらしない顔…」  
 「だ、だめです、もう…っ」  
うっすら微笑んだ麻菜実は、膨れ上がった肉棒に、とどめのしごきを与えた。  
麻菜実のふたつの胸のなかで望がひときわ激しく痙攣し、ねばつく精液が乳房のあいだに踊る。  
 「あ…先生…、…熱い…」  
谷間から跳ね飛んだ白濁がひとすじ、麻菜実の口の端に垂れた。  
 
 麻菜実は、胸元をぬぐってくれている望にほほよせると、そのまま唇を重ねた。  
望の下唇を甘噛みしながら、舌先でなぞる。  
 ―いつからだろう。  
  このひとが、この担任の先生が、こんなに私の心を波立たせるようになったのは。  
  他の同級生のように直截的に心惹かれたわけではなくて。  
  いつも、臆病で小心でやっかいごとから逃げて、すぐに絶望して弱音を吐く情けないひとなのに。  
  それなのに人の辛さに敏感で、苦しみをわかってくれて…そのくせ、ダメな自分を隠さずに私に無心に甘えてくれて。  
  大人のひとなのに、無邪気な子どものようで…でも、やっぱり優しくて…。  
  たぶん、私はそんな所に―  
…自分を心配してくれて、探しに来てくれて、そして探し当ててくれて。そして、いま。  
胸の中に踊る火が、もう押さえられない。手を伸ばし、望の肉棒に触れると、それはまだ萎えずに反り返っている。  
そろそろとそれを指で撫でていると、望の手がスカートの中に伸びてきて、麻菜実の秘裂をまさぐりだした。  
 「大草さん…ぐしゃぐしゃですよ」  
 「はい、あっ!んぅううあぁっ!」  
 「声が―大きいです」  
望のキスで、あえぎを殺される。  
麻菜実は自分の柔らかい肉の中を這い回る指に、もうたまらなくなった。きゅう、と、望の肉棒を握り締める。  
唇を触れさせたまま、欲望を望の内に注ぎこむように―ささやいた。  
 「先生…私の中にも、ください」  
 
 望は問い返したり、ためらったりしなかった。  
この男にしては珍しいほど乱暴に、麻菜実の下着をずりおろし、剥ぎ取る。  
麻菜実を立たせると抱きよせた。  
片足をあげさせ、その膝裏を持ち上げる。もう一方の手でおのれの肉棒をつかむと、麻菜実の入り口を先端でくりくりとこねまわす。  
 「ひゃぁぁっ!」  
たまらず望の袂をつかみ、腰をふるわせる麻菜実。  
望はそのまま唇の片方を吊上げた酷薄にさえ見える笑顔で麻菜美を見つめながら、肉棒のえらで麻菜実の肉の芽を擦り上げ続けた。  
心の何処かに瞬く、理想とする母性を持った女を責めあげる―神性を冒涜するうすぐらい快感。  
この娘に何かしてあげたいという情けの裏に明滅するそれを、望は認識していたかどうか――。  
羞恥と快楽に身をよじる麻菜実の痴態が、望のたかぶりを煽る。  
 そんな挿入をじらせ続ける望の執拗な愛撫に、麻菜実は根をあげた。  
 「先生、もうだめっ…ください、はやく…おちんちん…私の、ここに…っ」  
ぽろりと涙さえ光らせながら、哀願する。望のはだけた胸に爪を立て、かきむしった。  
そんな教え子にこの上ないほど優しげな笑みを向けた望は、その笑顔のまま肉棒をいきなり奥まで突き込んでいた。  
 
 「んぃっ!あっあ…っ!」  
そのとたん麻菜実はおとがいを反らし膣奥をふるわせながら、侵入してきた肉棒を食いしめる。  
ひくひくと蠕動する肉襞が望にぴったり吸いついてきた。  
 「お、大草さん…」  
 「せんっせ…ふか…い…」  
望の動きはまるで遠慮が無かった。  
先端が抜けてしまうほど腰を引いたかと思えば、麻菜実の肉の芽を擦り付けながら侵入し、奥の奥まで突き上げることを繰り返す。  
尻肉を胸の柔肉をいそがしくもみ、撫で回しながら、耳たぶに舌を這わせ首筋を吸う。  
まるで麻菜実の全てを食らいつくそうとでもするかのように。  
 「せんっ、ああっ!んぅういいあぁああああっ!」  
まともな言葉など発する暇もなく、麻菜実は望の愛撫に翻弄された。  
 麻菜実は何人かの男性遍歴はあったが、今の夫にもこんな激しく責められたことはない。  
とある企業の社長に、心が揺らめいていた時も―。  
 何でもして下さい―そういった麻菜実の台詞の向こうにあるどこか投げやりな衝動。  
そんな捨て鉢な心を汲んだかのような、望の激しさだった。  
 ―めちゃくちゃでいい。そうだ、私は、こんなふうにされたかった―  
そんな喉裏まで届くような突き上げてくる律動に、麻菜実は意識が遠のきそうになる。  
それでも反応してしまうからだは蜜を吹きこぼし、痙攣し、麻菜実は落ちかける膝を支えるのに精一杯だ。  
苦しげに上げるあえぎは望の口づけにふさがれる。  
麻菜実の甘い吐息も反応も、そこから望が飲み込んでしまう。  
 麻菜実の片足が、さらに高く持ち上げられた。  
背を壁に押し付けられ、ぴったりふれあった望の胸の下で麻菜実の乳房がはずむ。  
突き出されるかたちになった麻菜実の腰を、今度は望はその左右からえぐりまわす。  
さっきまでとは違う場所が、違う快感を麻菜実の脳髄に送り込んでくる。  
溶けそうで、熱くて、気持ちよくて、あたたかくて。  
しびれて、ひきつって、やめて欲しいけど、もっと続けて欲しくて―。  
不意の客を気にして麻菜実の口をふさぐくせに、望は肉と肉がぶつかる音には無頓着だった。  
ぴしゃぴしゃと上がる音が逆に麻菜実の脳裏に大きく響いて、むしろ官能を煽るのだった。  
 
 「―せんせ、せんせ、せんせい…私…わたし…」  
 「大草さん、気持ち、いいですよ…。あなたの中、吸い付いてきて…別の生き物みたいな」  
曲がりくねった麻菜実の肉襞のうねりは、くわえ込んだ望の肉棒をまるでそこにも手と舌があるかのようにもてあそぶ。  
 ―このままずっと、麻菜実とつながっていたい。こうして可愛い声を聞いていたい。抱きしめていてあげたい―  
望のうねる快感の中に、どこか切ない想いがふと浮かんだ。  
どんなにこうして愛しても―  
この娘は他人の妻で―  
それはわたしのおんなではない。  
そんな下敷きがあるからこそ、普段他の女のからだに触れる時より、激しくこの娘を扱えるのかもしれなかったが―。  
 ついに膝を折った麻菜実の身体を抱え上げ、両足を抱えて壁にもろともによりかかった。  
麻菜実の背が冷たい壁に押し付けられ、両足は望の腕からぶら下がっている。  
体重が二人のつながった部分にかかり、深く深く、麻菜実の肉のいちばん奥へ、望が届いていた。  
熱をおびた望の肉が、途中の狭い門を出入りして麻菜実の中をかきまわす。  
熱い。  
感じるのは、他の全てがもうどうでもいいような、ただ激しい温度と刺すような快感だけがある世界。  
望は限界が近づいていた。  
溶けそうなほど熱を帯びた麻菜実につながる部分が、今までないほど絞り上げられるのを感じる。  
 麻菜実はもう、自分が何を言っているのか、だんだんわからなくなってきていた。  
 「あぁぁ…せんせ、せん、せ…!」  
意識が飛びそうになる。  
 ―いまはだめだ。もっと、ここにいたい。  
  もっと先生に、めちゃくちゃにされていたい。  
 麻菜実は気を紛らわせるように、両腕で望の頭を抱え引き寄せ、ぷっくりした耳たぶを甘噛みする。  
耳の裏を舐めるたび、自分の膣奥でひきつる望の反応に、無心に可笑しくなる。  
 「大草さん…そこは…」   
 「先生、いまだけは…なまえで、呼んでください…」  
 …?―いま自分は、意味のあることばを言ったのか。  
どくん。  
そのとき、壁と望の体のあいだでひしゃげた麻菜実の乳房に、ひときわ大きな望の鼓動が伝わってきた。  
今まででいちばん強く激しく突き上げながら、望の唇が麻菜実の耳におしあてられ―。  
 「―麻菜実…さん…。…麻菜実」   
 「…!せん…望さん。…のぞむさんっ!」  
それは胸の真ん中か、お腹の底か。そこからあたたかい何かが広がり麻菜実の内に充ち満ちていく。  
満ちてあふれたものが、ほほにつたうのを感じたとき―。  
麻菜実の奥底で望が張り詰め、はじけた。  
 「麻菜実、…いきます、このまま、あなたのなかでっ!」  
 「はい、くださ…あああああああああぁっ!」  
―あたまの中に何かか駆け登って来て、真っ白な光が瞬いた。  
お腹の中に、熱いものを注ぎ込まれるのを感じたとき、麻菜実はここよりもさらに深いどこかへ墜ちていった。  
 
   
 とんとんとん。  
包丁がまな板を叩く音が、台所に響く。麻菜実は野菜を刻んでいた。  
もう食卓に料理はほとんど出揃っている。  
あとは旦那様がお風呂から上がるのを待つばかり。それがもうそろそろだということは、妻ならではの感覚でわかる。  
そして自分が浮かれているのもわかっていた。  
棚の上の写真立てをふと眺める。  
舞い散る花びらと盛装ではしゃぐ同級生を背景に、純白の装束でよりそう、私たち二人。  
 ―そう、いろいろあって結婚して、引越しをして。  
  結婚式のでのあの人の慌てっぷりといったら、もう。わたしは、二度目、だったけれど―。  
  今日はビールも一本くらい開けてあげて、あとで熱燗も。  
  もう借金もないし、ちょっとくらいの贅沢なら、あの人だって許してくれる―  
ここは築30年の古いアパートだったが間取りは広く、学校にもスーパーにも近くて便利だった。  
朝、学校に出勤する夫と一緒に通学するのにはまだ恥ずかしさがあったし、クラスで冷やかされもするが―。  
大草、いや――糸色麻菜実はしあわせだった。  
 がらり、バスルームの引き戸が開いて、その旦那様の足音が―。  
 
 「あっ」  
 「まな…お、大草さん、大丈夫ですか?」  
麻菜実は我にかえった。いま見たのは、ほんの一瞬の、何処か別の宇宙の物語だっただろうか。それとも―。  
そんな思考を、からだの底にたゆたっている快感の余韻が、押し流してゆく。  
床に膝をついた望に横抱きにされていた。望の外套がその身体をおおっている。  
 望は手に持った物を麻菜実に手渡す。  
床に落ちていた、麻菜実の携帯電話と財布だった。  
上気した麻菜実のほほを見ながら、望はその実、揺れる自分の心を見つめていた。  
 ―気にかかる娘だった。甘えたこともあった。何かしてあげたいと思っていた。  
  では、私は。いま何を望むのか。  
  こうして抱きしめているあいだ、今この時なら、普段言えない言葉が言えるのではないか。  
  口を開いたその時こそ、自分でも知らなかった心が、かたちになるのではないか―。  
胸にもたれている麻菜実の黒髪を見下ろして、望は口を開きかけた。  
 「おおく…」  
その時。  
軽やかな和音が、はりつめた空気を破った。  
それは麻菜実の携帯電話の着信音。メールのようだった。  
 
 「実家からです」  
麻菜実はつい、と顔を上げる。望の瞳をまっすぐ覗き込んだ。  
 「先生、いま、何か言おうと?」  
鏡のようなその瞳―。なにか啓示でも受けたような、そんな望には不可思議な色が、麻菜実の眼にはたたえられていた。  
 「あ…いえ…」  
今だ。今しかない。  
望は口を開こうとしたが、何故か言葉がでない。  
 「…な、なんでも…ないです…よ」  
やっとそれだけ言った。  
 「…そうですか」  
麻菜実は携帯を開くと、メールに目を通す。  
 「なんだろう…文面はなくて、…?動画ファイル…?」  
横を見ると、望は衣服を直している。  
麻菜実はファイルを開いてみることにした。  
   
 小さな小さな子どもが、膝立ちになっていた。左右を中年の夫婦が支えていた。  
子どもは手を振っている。  
やがて小さな口をひらくと―。  
 「まぁま、まぁま」  
たどたどしい発音でそう言い、にっこり笑った。  
 
 「あ…希亜…ちゃん…」  
麻菜実は口を押さえ、顔を伏せた。膝にかけられた外套に、ぽつぽつと涙がしみを作った。  
 望は声を掛けられなかった。  
赤ちゃんポストに入れられていて、麻菜実夫婦が引き取った、あのときの赤子。  
そういえば久しく話題に上らなかったが、どうやら実家に預けていたようだと得心する。  
そしてそれは。  
仮に糸色望が、大草麻菜実を選んだとき。  
借金や麻菜実の夫と同じく、しっかりと向き合い、解決しなければならない事のひとつだった。  
 麻菜実は肩を震わせている。  
たぶん、希亜は生まれてはじめてしゃべったのだろう。  
生活が苦しくて、働くためにあまり手をかけてやることのできない子。  
その子が、いま自分に向かってかけてくれたことば―。  
 「…この子が、いました。私…私、まだ、居場所がありました…」  
 大草麻菜実は人妻だった。  
そして、母親でもあったのだった。  
大粒の涙をこぼしながら、麻菜実は携帯のボタンを何度も何度も押していた。  
 ―まぁま、まぁま。  
可愛らしい声がいくども冷たい空気を揺らしている。  
それは母親への、ちいさな希望の福音だった。  
 ――望にはそれが、夢の時間の終りを告げているように聞こえた。  
麻菜実の借金。その夫の借金。夫。離婚。親権。子供。望を慕う他の教え子たち。ひょっとしたら生命の危険。  
教師という職。学校という職場。妹をはじめとする糸色という一族。  
麻菜実を抱きしめている時には思いもしなかった様々な要素が、途端に望の心に押し寄せてくる。  
それはユメではないゲンジツというリアルな重さを、ともなっていた。  
 『大草さん、あなたは、私が――』  
 『私は、あなたを―』  
―だから喉から出かかっていたその言葉を、望は結局言えなかった。  
そして言えない自分に、絶望していた。  
望は身をつくろった麻菜実を引き起こすと、階段へと促した。無言だった。  
人は本当に絶望した時、――『絶望した』などとは、言わない。  
 そんな望に手を引かれながら、麻菜実はその落ちた肩をそっと見ていた。  
   
 空気の澄んだ寒空は真っ黒だった。地上の灯が、人間社会の営みの光が、星の瞬きを霞ませている。  
パチンコ店のきらびやかに過ぎる電飾と店内からの明かりの中で、地階を脱した教師と生徒は向かい合っていた。  
 「今日は…実家のほうに、帰ります」  
 「…」  
望はゆっくり頷くと、手に持っていた外套を広げると、麻菜実の肩にかけてやる。  
秋の終りの夜の空気は、もうだいぶ冷たくなっていた。  
じっと、麻菜実が見つめてくる。  
それはいつもとは違った、けれど心に響くような透き通った視線。  
望はなにか、一瞬心の内まで見られたような気がしたが、麻菜実は視線を切ると深々と頭を下げていた。  
 「先生、今日は…ありがとうございました。…嬉しかったです…すみません」  
頭を上げた麻菜実の前に、望は衝動的に寄っていた。  
袂から自分の財布を引っ張り出すと、定期券やカードを抜き取る。  
先日のパチンコで手にした現金は、麻菜実や同居人におごったあとほとんど手をつけていない。  
それを財布ごと、麻菜実の手に握らせた。  
 「せん…」  
 「―いいんですよ。お子さんに…何か」  
そのとき麻菜実には――さっきまで自分を抱きしめていたこの男が、今にも泣き出しそうな男の子に見えた。  
望のまなざしにたたえられているものが、解った気がした。  
それは、…きっと。  
 ―ああ。だからたぶん私は、こんな所に―  
麻菜実は、望をそっと抱きしめる。  
 『先生、私、…待っています』  
声を発せずに唇だけをそう動かすと、財布を受け取って歩き出した。  
 夜風にひるがえる外套が闇に溶け消えるまで、望はそこに立ちつくしていた。  
   
 
 幾日か過ぎたある日、放課後。  
大半の生徒が帰宅し、閑散とした教室。  
教卓で出席簿をまとめ、教室を出ようとした望を、麻菜実がよびとめた。  
麻菜実の顔はいつものように少し疲れてはいたが、瞳に今までなかった輝きが見える。  
そして望に向ける眼は、前にもまして柔らかだった。  
 「先生、これ―ありがとうございました」  
麻菜実は紙袋を望に差し出すと頭を下げる。  
 「お子さんは…元気でしたか」  
 「はい。あれから、ちゃんと時間を作ってあの子に会いに行っています。…あの、今日返済日ですので」  
ポニーテールがひるがえる。望はその後ろ姿を見送った。  
そして教卓に引き返し、紙袋の口をあけてみる。  
中にはあの夜、望が麻菜実に着せた外套と、握らせた財布が入っていた。  
 「…」  
望は財布を手にとり、中身をあらためてみる。  
――きっかり一万円だけ、減っていた。  
深い、深い溜息が望の口から漏れる。憂いながら、しかし何処か納得し、ほんのかすかに笑う。  
 ―ああ。だからたぶん私は、こんな所に―  
 窓から外を見やる。  
寒空に葉の落ちた枝が揺れていた。秋は終わる。季節はこれから、寒さを増してゆく。  
ぽつりと、つぶやきが漏れた。  
 「冬…ですね…。けれど…春は…来るんでしょうか…?」  
 
 
 
 それからも―。  
大草麻菜実はあいかわらず、債務の苦界を這いずり回っている。  
――時おりもたらされる、小さなしあわせにすがりながら。  
こんな物語はきっと――どこにでもある、ありふれた事、なのだろう。  
 
                                   『あんたのどれいのままでいい』了  
 
 

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