見下ろせば目もくらむ程の落差を感じさせる谷間にゴウゴウと渦巻く風が吹き抜けていく。
ここは自殺の名所、ミランダ渓谷。
そこを一人とぼとぼと歩く背の高い和装の後ろ姿は、二年へ組担任、糸色望のものだった。
「…はぁ…なんとも虚しい話しですね……」
例によって例のごとく、ちょっとした出来事にショックを受けて教室を飛び出した望が、
自殺を決行すべくやって来たのがこの山間の渓谷だった。
ところが、そんな望を待ち構えていたのは自殺を思い止どまらせるべく立てられた看板の数々。
『死ぬにはまだ早い!』
『残される家族の事を考えろ!』
『自殺者は地獄に落ちる』
『自殺してしまう前にまずはこちらにご相談を』
内容も大きさも多種多様、さまざまな看板が目の前の断崖絶壁までの僅か数メートルを通せんぼしていた。
「あの手の看板にどれほど自殺防止の効果があるか、常々疑問だったのですが……いや、なかなか効くもんですね……」
過剰なストレスが死の恐怖を麻痺させる程に心を摩耗させてしまったとき、人は自殺を決意する。
しかし、あの看板達は自殺志願者の心など顧みず、ただ一つのメッセージを突き付けてくる。
自殺するな、生きろ。
お前が今考えているのは間違った事なのだ、と。
自殺志願者達はその呼びかけにこう答えるだろう。
そんな事、言われなくとも理解している。
本当は誰が自殺などしたいものか。
それでも苦しくて苦しくて堪らないから、死によって全てを断ち切ろうとしているのに……。
無論、看板の多くは善意によって立てられたものだろう。
だが、『何が何でも自殺するな』というメッセージの中に自殺志願者の意思の介在する隙間はない。
自殺を決意するまでにその人間が辿った痛みも苦しみも全て無視して、ただ『自殺するな』と告げるのだ。
かくして、飛び降り自殺の断崖絶壁は『自殺へと向かうエゴ』と『自殺を止めようとするエゴ』の決戦場となる。
望のような、箸が転んでも首を吊ろうとするライトな自殺志願者はその重圧に打ち勝てない。
「…まあ、要は私の絶望なんてその程度の軽いものって事ですよね。………はぁ、そんな自分に何より絶望しますよ……」
ため息をつき俯きながら、望は行く先も定めないままその足を進めていく。
本来なら、自殺を断念した時点でとっとと学校に帰るべきなのだろうが、勝手に飛び出してきた手前、そうすぐに戻るのもバツが悪い。
しばらく辺りを散策してから学校に戻ろうと、望は考えていた。
自殺の名所である事さえ気にしなければ、この辺りの切り立った断崖の見せる奇景・絶景の数々は見応え充分なものだった。
ところが、そんな望の峡谷見物を邪魔するものがあった。
件の看板である。
自殺志願者に呼びかける看板の群れは崖に沿ってどこまでも続いていた。
その数は、望が峡谷の奥へ奥へと進むほど、徐々に増えているようにさえ感じられる。
先ほどなど、どうやってあんな場所に持って行ったのか、崖の中程に張り出した岩に三つもの看板が立っていた。
どちらを向いても看板、看板、また看板。
これでは風景を楽しむどころの騒ぎではない。
「………それに、さっきからのこの霧……参りましたね……」
峡谷に沿って続く狭い道にいつの間にか霧が立ち込めていた。
それは時間を追うほどに濃くなるばかりで、望の視界には僅か数メートル先の様子さえおぼろにしか映らなくなっていた。
場所が場所だけにうっかり転んで転落死、なんて事もあり得るこの状況。
「これ以上は…意地を張ってる場合でもないですね……」
180度ターンして望は今まで歩いてきた道を辿って峡谷の入口を目指す。
しかし……
「おかしいですね……こんな所を通った覚えはないんですが……」
流れる霧の合間から見える景色が行きで見たものと何か違うように感じられる。
そもそも、望が歩いてきたのは一本道で間違っても迷うハズなどないのだが……
「おかしい。絶対におかしい。こんな大きな木、途中には無かった筈ですよ……」
さすがの望の声にも焦りの色が混ざり始める。
不安に背中を押されるように、望の足取りが早まっていく。
だが、その直後……
「う…うわぁ……!!?」
突然、目の前を覆っていた霧が晴れたかと思うと、その先にはどこまでも深い奈落が広がっていた。
いつの間にか、崖っぷちに向かって望は歩いていたらしい。
間一髪のところで、手近にあった看板を支えにして踏みとどまった望。
しかし、彼はそこでちらりと視線を向けた崖の下の方にとんでもない物を見つけてしまう。
「あれは…確か……!?」
崖の中程、張り出した岩の上に三つの看板が立てられている。
それは、望が渓谷の道を歩いていた途中、谷の反対側の岸壁に見たものと同じように見えた。
「そんな…そんなはずはありません……どうして私が谷の反対側に移動してるんですか!!?」
しかし、そう考えるなら、現在、望の周囲を取り囲む景色が行きと違うのも肯ける。
混乱する頭を抱えながら、それでも望は歩き出す。
「なら、来た道を一旦戻って、そこからもう一度谷から出る道を探せば……」
額に嫌な汗を浮かべながら、望はついさっきまで歩いていた道を戻る。
だが、その道の景色も先ほど望が通ったときとは大きく様変わりしていた。
「なんで…どうしてこんなに看板が……!!?」
道の左右に延々と並ぶ看板の数は明らかに異常だった。
闇雲なまでの量の看板が互いに重なり合い、押し合うように並び立つせいで明らかに道幅が狭まっている。
それぞれの看板が他の看板の文面を覆い隠して、どれ一つとしてマトモに読めるものがない。
『ぬにはまだ早』『族の事を考』『地獄』『ちらにご相談』……そんな切れ切れの言葉に紛れて、
『死んでしまえ』『消えろ』『生きてる価値がない』、そんな言葉が見え隠れするのは気のせいだろうか?
そんな異様な光景のど真ん中で、望は呆然と立ち尽くしていた。
「自殺者の幽霊にでも憑かれましたかね……」
呟く言葉は周囲の静寂の中に虚しく溶けて消えた。
『自殺の名所』
その言葉が望の中で重く頭をもたげてくる。
だが、望が今感じている異様な空気は、この谷で命を落とした亡者達に捕らわれたというような、ジメジメとした感覚を伴なうものではなかった。
もっと、無意味で理不尽で、そして何より空虚な雰囲気が一帯を支配している。
望はその意味にうっすらと気づき始めていた。
並び立つ無数の看板が投げかける『死ぬな』というその言葉。
それを見て、自殺を思いとどまる人間もいるだろう。
だがその一方で、その言葉を振り切るように谷底へと身を投げた人間が何人いた事か……。
看板に書かれたメッセージ達は幾度となく裏切られ、そこに込められた願いは打ち砕かれてきたのだ。
今ここに並ぶ看板達に書かれた言葉は、願いは、その繰り返しの果てに擦り切れ、摩耗し、本来の意味を失くしているように思えた。
自殺を止めようとする痛切な言葉も、自殺者達の心には最後まで届かなかった。
なぜならば、彼ら自殺者達の心はもはや周囲の言葉を受け入れる事が出来ないほどに疲れ果ててしまっていたからだ。
本当なら、救われたい、死にたくないと叫びたかった筈の声は疾っくの昔に枯れ果てていたのだ。
死へと向かう者、それを止めようとする者。
ここには、その両者の打ち砕かれた願いが、想いが、屍となって累々と転がっている。
「早く……こんな所からは早く抜け出してしまわないと……」
望の焦りが言葉になって、そのまま唇から零れ落ちる。
自分はこんな場所にいるべきではない。
ここには絶望も、希望もありはしない。
この場所はそんな感情を生み出す人の心そのものを殺してしまうのだ。
「だけど…どうすればいいんでしょう……」
進めども引き返せども現れるのはこの世のものとは思えない不気味な風景ばかり。
今の自分がどこにいるのかも分からない。
こういう時のセオリーとしては、同じ場所でじっと動かずに救助が来るのを待つのが一番なのだが、
今の状況はそれが通じるものとも思えなかった。
まさに八方ふさがりの状況の中、望はただ呆然と周囲の光景を眺めるばかり。
だが、その時である。
「………!?」
立ち込める霧の向こうから聞こえてくる足音。
吹き抜けた風が一瞬だけその霧のカーテンを払ったとき、望はその足音の主の姿を目にした。
望のいる場所より一段高くなった岩の上の道を駆けて行く少女の影。
見慣れた学校指定のセーラー服。
そして、前髪に留められた望の良く知る黄色いクロスの髪飾り……。
「…風浦…さん……!?」
望がその名を言い終わらない内に、少女の後ろ姿は再び霧に紛れて消えた。
彼女がここにいる。
という事は、これはいつもの2のへの面々が起こす馬鹿騒ぎの延長上にある出来事なのか?
だが、望の胸騒ぎが消える事はない。
やはり、違う。
これは異常な事態だ。
「…待ってください、風浦さん!!!」
気がついた時には、霧の向こうに消えた足音を追いかけて走り出していた。
後先の事を考える余裕は無かった。
今、自分の身に降りかかっている怪異の正体が何であるにせよ、この場所が危険である事に間違いはない。
どうして彼女がここにいるのか?
追いついて、合流できたとして、その先自分に何ができるのか?
様々な疑問や不安が頭をもたげたが、望はそれを押し殺してただひたすらに走り続けた。
やがて、望の走る道は立ち込める霧を抜けて、眼下に深く黒い闇を見下ろす巨大な縦穴のフチに辿り着いた。
「何ですか、これは……?」
いつの間にか、望の周囲にはあれほどあった看板が無くなっていた。
プールの飛び込み台の如く張り出した岩の上から恐る恐る下を覗くと、底の見えない奈落がぽっかりと口を開けていた。
望がこの渓谷に来たのは初めての事だったが、こんな巨大な穴が存在するなど聞いた事もなかった。
やはり、自分はいつの間にか人の世から離れた異界に迷い込んでしまったのだろうか?
そんな疑問に頭を抱えながらも、望はゆっくりと周囲を見回した。
「…風浦さんも確かにこっちに向かっていた筈なんですが……」
ついさっきまで、望は確かに霧の向こうから聞こえる足音を追いかけていた。
方向感覚も何もかも当てにならないこの谷ではあるが、それでも自分の耳を信じるなら可符香もここからそう離れていない場所にいる筈なのだが……。
もしかすると、さっき目にした彼女の姿はこの谷の得体の知れない力が生み出した幻なのかもしれない。
それならば、いい。
だが、本物の彼女がここにいて、出口を探して迷っているなら、放ってはおけない。
「風浦さん!どこにいるんです、風浦さん!!」
「あ、先生……」
不意に背後から、耳慣れた声が聞こえて、望は振り返った。
声のした方向、およそ3,4メートルほど先に望が立っているのと同じく巨大な穴に張り出した岩があった。
その上にいつも通りの微笑みを浮かべて、少女は腰掛けていた。
望は可符香の無事な姿に安堵しつつも、その笑顔に何か胸がザワつくような感覚を覚える。
「風浦さん、あなたも道に迷ったんですね!?」
「いやだなぁ、そんな訳ないじゃないですか」
「…!?それじゃあ、あなたは正しい帰り道を知ってるんですね!だったら……」
「帰り道?何を言ってるんです、先生?」
「いえ、だから早くこのミランダ渓谷から抜け出さないと……」
「う〜ん、さっきからちょっと変ですよ、先生」
この異様な風景の中にあってもいつものペースを崩さない可符香。
普段の望なら、彼女らしい対応だとそれを疑問にも思わないだろう。
だが、今、この時に限ってはそれが何か致命的な間違いのように思われた。
額に冷や汗を浮かべる望に、可符香はくすりと笑い
「迷ったとか、抜け出すとか、何を言ってるんです?」
「な………!?」
驚き目を見開く望にこう告げる。
「先生も、私も、最初からここにいたじゃないですか……」
その言葉の意味が理解できず、望はただ呆然と目の前の少女を見つめる。
「最初から……?」
「忘れたんですか?ほら、みんなもあそこに……」
可符香が指差した方向にゆっくりと視線を向ける。
「木津さん…藤吉さん…日塔さん…木野君…久藤君……」
「あっちにはマリアちゃんや加賀ちゃんも……ちょっと遠いけど向こうには智恵先生や甚六先生もいます」
地の底まで続くような縦穴のそこかしこに、望が立っているのと同じような、飛び込み台型の岩が数えきれないほどせり出している。
そして、その一つ一つに人が立っていた。
その中には2のへの生徒達や同僚の教師達など見知った顔がいくつも混ざっている。
「あそこにいるのは倫、それに命兄さん、景兄さんまで……」
さらに兄や妹達の姿を認めて、望の混乱は極限に達する。
「何ですか、これは!?何なんですか、ここは!!?」
「本当にどうしたんです、先生?ほら、先生も、私も、いつもこんな風に見渡していたじゃないですか?」
しごく真面目に、望を心配するような可符香の口調が無性に恐ろしかった。
逃げ出したい。
しかし、望の視線は眼前に広がる信じ難い光景に釘付けになり、両足は地面に張り付いたように動かなくなってしまう。
そんな望の目の前で、また一つ、悪夢のような光景が展開される。
ポトリ……。
「え……?」
ポトリ……ポトリ………。
「なんで…そんな……!?」
縦穴のちょうど真反対、あまりに距離がありすぎるため望にはほとんど芥子粒のようにしか見えない向こう側の人間たち。
その内何人かが、不意に自らの足場である岩の上から落下した。
「えっ?…えっ?……あ……ああああああああっっっ!!!?」
ポト…ポト……ポト……。
ある者は吹き抜けた風にふらついて、またある者は自らの意思で、深い深い奈落の底へ落ちて行く人々。
あまりに無造作に消えていく命達……。
「わかっていても、悲しいですね。これが私たちの世界だなんて……」
落ちゆく人々を見ながら、少しだけ憂いを滲ませた表情で可符香が呟く。
「世界……?」
「誰もがみんな、一人ぼっちでこんな崖っぷちに追いやられて、必死にこの場に立ち続けようとしても、
ふと油断した瞬間風に煽られたり、立っている体力が無くなったり、心が耐え切れなくなって自分から飛び降りたり……」
理不尽に、大した理由もなく、散っていく命、命、命……。
望はここに来てようやく理解する。
可符香の言うように、これは自分たちの世界の縮図だ。
進む先に道は無く、吹き荒れる風の中で体に限界が来るか、心に限界が来るか、いずれにせよ耐え続けた甲斐もなく無常に命は消える。
人はそれを、夢だの、幸せだの、金だの、地位だの、名誉だの、そんなもので自分の周囲を飾り立てこの現実を忘れようとする。
だけど、そんなもの、この圧倒的な現実の前では何の意味も為さない。
人には生まれてきた意味などなく、自分を含めたあらゆる一切が無意味で
だからこそ、そこには絶望や希望などといった甘くとろける上等な砂糖菓子も存在しない。
理不尽に生まれて、理不尽に死ぬ。
ただそれだけの存在。
あらゆる不幸をしょいこんだ短く苛烈な人生も、暖かな幸せに満ちた人生も、等しく同じだ。
どちらも等しく、『何もない』。
落ちる。
落ちる。
落ちて、消える。
深い穴の底で落下のエネルギーを受けた体は千々に砕け、欠片も原型を残さないただの肉片と血しぶきに変わる。
その生と同じく、欠片の意味もない死。
目を逸らす事も出来ず、落ちて行く人々を見つめる望の前でまた一人、風に煽られた誰かが足をふらつかせ自らの足場から転落した。
あれは……あの少女は……
「木津さんっっっ!!!!」
望が叫ぶより早く、その少女、木津千里の姿は闇に溶けて消えた。
目を見開き、声も出せず穴の底を見つめる望の横で、可符香も同じように眼下の闇を見つめながら、ため息を漏らす。
「………どうしてなんでしょうね?」
その顔には静かな憂いと、深い哀しみが滲み出ていた。
「……どうして…私たちは生きてるんでしょう……?」
彼女の方に視線を向けた望は、しかし、その問いかけに答える事も出来ず、ただ彼女の顔を見つめる。
「……千里ちゃんも、他のみんなも、知らない人も、誰も彼も頑張ってここに立ち続けていたのに、あんな風に呆気無く落ちてしまう。
どんなに必死に立ち続けていても、いつかここから落ちて消える、その結末は変えられない。
せめてこの崖が細くても、崩れ落ちそうでも、先に続いていれば一縷の望みに懸けて進む事も、自分には無理だって諦めて泣きじゃくる事も出来るのに
どうしてこんな辛いだけで、何もない世界に、私も、みんなも、生まれてしまったんでしょうか……?」
可符香が語る間にも、ポトリ、ポトリと崖際に立つ人々は落ちていく。
「…加賀さん……久藤君……音無さん………ああ…ああああああ………」
2のへの生徒達も、近所の顔見知りも、見ず知らずの他人も誰の区別もなく無造作に闇へと吸い込まれていく。
重力に引かれ地の底へと落ちて行く彼ら彼女らは斷末魔の叫びさえ残す事はない。
望は思い出す。
ここに至る途中で見た無数の看板達に感じた虚しさ、その根源はここにある。
いかに『死ぬな』と願おうと、いずれ人は死に呑み込まれる。
他のささやかな願いにしたところで皆同じだ。
全てを飲み干し、喰らい尽くしても尚満ち足りる事を知らないこの虚無が、人の、いや全ての生物の前に立ちふさがっているのだから。
「…木野君!…藤吉さん……っ!!!…命兄さんっ!!…ああ…倫っ!!…倫っっっ!!!!」
涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らし、落ちて行く人々へ届かぬ右手を伸ばす望。
だが、表面で渦巻く哀しみと苦しみの一方で、その心の奥底は恐ろしいほどに冷え切っていた。
まるで、目の前で起こるこの惨劇が変えようの無い規定の事項であるかのように、望の心はそれを受け入れてしまっていた。
「先生……」
静かに響いたその声に、再び視線を可符香の方に向ける。
この悪夢のただ中にあって、その表情は、声は、非常に落ち着いたものだった。
だけど、望は気づいていた。
何かを耐えるようにぎゅっと握り締められた拳、震える脚。
望には可符香の心が軋みを上げて崩れていく様子が見えるような気がした。
「…先生…辛いです…もう私……」
「…風浦さん、ダメですっ!!!!」
「…ここまで、本当に必死で頑張ったんですよ、私…だから、ここでやめても、褒めてくれますよね?先生……」
可符香の膝から力が抜け、上体がぐらりと揺れる。
バランスを崩した体が倒れこむ先に、彼女を受け止めるべき地面は存在しない。
(…駄目だ!…こんなのは絶対に駄目だ……っ!!!)
目の前で展開される光景に対して、望が取った行動はあまりに無謀なものだった。
望は落ちて行く可符香に手を伸ばして、跳んだ。
狭い岩の上には十分な助走が出来るだけの距離はなく、望の体はつま先さえ可符香のいる隣の岩に届く事なく落ちて行く。
それでもギリギリで、伸ばした右手が可符香のセーラーの襟を、左手が張り出した岩のフチを掴んだ。
しかし、可符香と自分の体の落下エネルギーをまともに受け止めた望の両腕の筋肉はズタズタに傷ついていた。
このままではあと十数秒とかからず再び穴の底へ落ちてしまう。
だが、望の心は強く叫んでいた。
こんなものは違う、と。
(……このままでいいものか!!私は…私は…死への恐怖に塗れた斷末魔を残して、最高に惨めに死ぬんです!!!)
(……風浦さんを助けようなんて、柄でも無い自分の行動を心底後悔しながら、全ての運命を呪って死ぬ……っ!!!)
(…何とか助け上げた風浦さんが岩の上から見下ろしてくるその顔を見ながら、
どうして彼女だけが助かって自分は助からないのかと……自分で飛び出した事も忘れて、恥知らずな恨み言を喚きながら落ちて行く……っ!!!)
(……この暗闇の底に叩きつけられて息絶える瞬間まで、彼女の傍で生きられない自分の運命に絶望しながら………っ!!!!)
キリキリと筋繊維が軋み、引きちぎれる音を聞きながら、望は最後の力で可符香の体を引き上げる。
「…風浦…さん……早く…早く…岩につかまって……」
「…先…生……」
可符香の両手がゴツゴツした岩の出っ張りを掴み、彼女の涙に濡れた横顔がチラリと視界を横切った瞬間……
(こんなもの…絶対に受け入れてたまるものですか………!!!!)
望の手の平から力が抜け、彼の体は虚空へと投げ出された。
落ちて行く自分を見下ろす可符香の表情を確かめる間もなく、望は重力に引かれて落下していく。
その心に去来するのは、死にゆく己への恐怖、可符香と死に別れる悲しみ、目の前で無造作に死んでいった生徒や家族達をどうしてやる事も出来なかった悔しさ。
その感情を確かめて、望は心の何処かで安心する。
(ああ、今、私は絶望しているんですね……)
先に進む道が存在しない虚無感ではなく、進むべき、進みたい道を断ち切られる絶望。
自分は最初から前に進む事が出来なかったのではない。
本来あるべき道から足を踏み外したのだ。
望みは確かにそこにあった。
ただ、それが叶わなかっただけの話。
(そうです。道が無いなんて嘘っぱち…そんなもの、どんな時でも、どんな場所でも見つけ出す事が出来る…だから……)
望は死にゆく己の運命にガチガチと歯の根を鳴らし、みっともない顔で泣きじゃくり
だけど、最後にほんの少しだけホッとしたような笑みを口元に浮かべた。
そして、望の意識は深い闇の中に呑まれて、そこで途絶えて消えた。
「…ぞむ……気がついたのか?!…望……っ!!!」
うっすらと瞼を開いた先に見えたのは、見慣れた兄の顔だった。
(……?…命兄さんは死んだんじゃ……夢?…でも、この体の重さと痛みは……?)
兎にも角にも、目の前の兄の存在を触れて確かめたくて、望は右腕を持ち上げようと力を込めた。
しかし、右腕どころか全身に力が入らず、結局望は動く事を諦め、代わりに僅かに視線を巡らせて周囲の様子を眺めた。
消毒液の臭いが鼻をつく、どこか大きな病院の一室。
事態を把握出来ずボンヤリと宙を見つめる望に、安堵の表情を浮かべた命が話しかける。
「良かった。よくあの事故で無事にいてくれた……」
「…事故……?」
それは、望が学校を飛び出し、ミランダ渓谷に向かったその日の深夜近くに起こった。
列車の大規模な脱線事故。
渓谷からの帰りにその列車に乗っていた望は事故に巻き込まれた。
一時はこのまま意識が戻らないのではないかと思われていたようだが、二週間あまり経ってようやく目を覚ましたという次第だった。
(……あれは夢…だったんですね……ですが……)
ようやく話を理解した望に、一つの気がかりが生まれた。
望が夢の中で唯一言葉を交わした相手。
今となっては茫漠と霞むあの悪夢の中、彼女だけは強い現実感を伴ってそこにいた。
全てが夢と分かっても尚、望にはそれが自分の頭の中で作り出された虚構だとは思えなかった。
「…命…兄さん……風浦さんはどうしていますか…?」
「…………!!」
その言葉を聞いた瞬間、命の顔が明らかに強ばるのが見えた。
「…な、何か…あったんですか?…彼女は今どこに……!!?」
「お…おい、落ち着け…落ち着くんだ…望!!」
強引に起き上がろうとした弟を、命が押し止める。
「そう怖い顔をするな。……まあ、確かに彼女に何も無かった訳じゃないが……」
「…それじゃあ!!」
「だから、落ち着けと……今は何事もなく無事でいるよ………たぶん、お前のお陰でな……」
「私の……?」
取り敢えず、可符香が無事らしい事を知って望はホッと安堵する。
一体何が起こったのか、その事情を聞きたかったが、ようやく意識を取り戻したばかりの体はそれだけの余裕を望に与えてはくれなかった。
少し困ったような命の笑顔を見ながら、望はその意識を闇の中に沈めていった。
そして翌日。
「先生…お見舞いに来ました!!」
いつもと変りない明るい声で病室にやって来た可符香は望に挨拶した。
その笑顔にも、夢の中で見たような空虚な雰囲気は無い。
だが、命の言葉が真実なら、取り敢えず無事でこそあったものの、望が意識を失っている間に彼女に何事かが起こっている筈なのだが……。
「…………風浦さん、それは…?」
そこで望は可符香の右手にぐるぐると巻かれた包帯に気付いた。
「ああ、これですか?…本当は、あんまり心配かけたくないので、外して来たかったんですけど…なかなか傷が治ってくれなくて……」
その瞬間、僅かに陰りの差した可符香の顔を望はじっと見つめる。
可符香はその眼差しに少し困ったような笑顔を浮かべて、その時、望が意識を失って一週間ほど立った頃の出来事を話し始めた。
脱線事故から何とか救出された望だったが、その身体的ダメージは大きく、日に日に彼の体は衰弱していった。
そして、事故から一週間が経過した頃には、望の命は風前の灯火となっていた。
この事は糸色の親族以外には知らされていなかったが、そして可符香の持つ独自の情報網を以てすれば、苦も無く知る事が出来た。
情報を得た可符香は一も二もなく、病院に駆けつけ、深夜の病棟内に忍び込んだ。
信じ難い、信じたくないその知らせ。
せめて、望の顔を見て確かめなければ、納得出来るものではない。
そして、今にも震えだしそうな全身を何とか押さえ込み、ようやく辿り着いた病室で、可符香は望と対面した。
『………先…生…?』
それを目にした可符香は状況を完全に理解した。
理解せざるを得なかった。
何故なら、それは可符香が幼い頃から何度も目にしてきたもの。
死にゆく人間の顔だった……。
『…あ…ああ…………あああああああああああっっっっ!!!!!』
喉を引き絞るような絶叫。
可符香の脳裏に今までの人生で出会い、そして見送った人々の最後の表情が幾度もフラッシュバックする。
ガラガラと自分をギリギリの所で支えていた何かが崩れていくのを感じた。
(もう…こんなのは嫌なのに……)
心が死んでいく。
ほんの先ほどまで不安や恐怖で満たされていた筈の可符香の心が、急速に凍りついていく。
小さな頃からずっとそうだった。
理不尽に、何の理由もなく目の前から消え去っていく親しい人達。
可符香は、そんな光景をあまりにも多く目にし過ぎていた。
その度に打ちのめされ、それでもどうにか立ち上がり、騙し騙しにでも何とか生きてきた可符香の精神。
それがついにキャパシティを越えてしまったのだ。
もうこれ以上の”喪失”を受け止める事は出来ない。
茫然自失の意識の中で、可符香は携えてきた自分の鞄の中から、筆入れを取り出す。
そこには雑多な文房具に混ざって、一本のカッターナイフが仕舞われていた。
それを握りしめた可符香は、チキチキとカッターの刃を伸ばしたが、手の平の震えの為に一度それを取り落としてしまう。
床にぶつかったカッターの刃が真ん中から折れる。
だけど、その程度の出来事で可符香が立ち止まる事はない。
彼女は床に手を伸ばし、折れたカッターの刃を拾い上げ、剥き身のその刃をぎゅっと握りしめた。
『…先生…辛いです…もう私……』
ポタポタと、薄明かりの中でもそれと分かるほどに鮮やかな赤が可符香の手の平から零れ落ちる。
今こそ、可符香は心の底から実感していた。
この人生に意味はなく、生まれてきて死ぬことに理由もない。
この世界にもとより希望も絶望もなく、人はただ消え去るその時を待つ事しか出来ない。
彼女には、そんなものに耐え切るだけの精神力は残されていなかった。
そして、空虚に満たされた心の片隅、最後の未練がその言葉を呟かせた。
『だから…ここでやめても、褒めてくれますよね?先生……』
赤く濡れた刃が可符香の左手首にそっとあてがわれる。
これで全てが終わる……。
その直前だった。
『風浦…さん……』
ハッと顔を上げた可符香の目の前、薄く開いた目で虚空を見つめる望が、
ボロボロでろくに動かす事も出来ないハズの右腕を、ゆっくりと宙に向かって伸ばしていた。
そこに、見えない少女の影を追い求めるように……。
可符香の手の平から、音を立ててカッターの刃が落ちる。
『…先…生……』
そして、望の手の平は重ねられた可符香の血まみれの手をぎゅっと握りしめたのだった……。
「………という訳で、死の淵にあって尚、生徒を思いやる先生の心に、私は救われた訳なんですよ!!」
「……滅茶苦茶重い話だったハズなのに、何ですか、その軽さは……!?」
上記の内容を、極めてライトな語り口で喋り終えた可符香は、悪びれもせずその笑顔を望に向ける。
「だって、私も無事で、先生も回復して、もう何も心配する事なんて無いんですから、無理に暗くする必要なんて無いじゃないですか」
「……いや、あなたがそれでいいなら、私は構わないんですけどね……」
呆れた表情の望に、可符香は少しだけ柔らかな口調でこう付け加えた。
「……ありがとうございました。あの時先生が読んでくれたお陰で、私……」
ぺこりと頭を下げた可符香。
だが、一方の望はその言葉に対して、何か言いたげな表情を浮かべていた。
「……?…どうしたんですか?」
「いえ、たぶん、逆だと思うんです……」
「逆……?」
「きっと…お礼を言わなきゃいけないのは、私の方なんです……」
可符香は、望の声が、差し出された手が、砕け散りそうだった自分の心を救ったのだと言った。
しかし……。
『…先生…辛いです…もう私……』
『だから…ここでやめても、褒めてくれますよね?先生……』
可符香が先ほどの話で口にした台詞、それは望があの夢の中で聞いたものと同じだった。
深い眠りの中、望は迫り来る自らの死の予感、その圧倒的な虚無に飲み込まれようとしていた。
全てのものが等しく死に絶え、何も残らない。
だが、絶望すら飲み込むその暗闇の中に届いた声があった。
壊れそうな心を抱えた可符香が、最後の最後で自分に呼びかけてくれた、その言葉。
朧気ながら記憶している。
望は夢の中、その言葉に必死で応えようとして行動した。
それが、ただ死に飲み込まれていくだけだった望の魂に、もう一度火を灯してくれたのだとしたら……。
そこまで考えたところで、望は昨日と同じくほとんど動いてくれない右腕に、気合一発力を込めてぐっと持ち上げようとする。
「………ぐ……ぐぅううううううっっ!!!」
「…先生…まだ無理をしちゃいけないんじゃないんですか……?」
驚いた様子の可符香がかがみ込んで、二人の距離が縮まって
そして、その可符香の頬に望の手の平がそっと触れる。
そこから伝わる温もりが、望に強い確信をもたらす。
自分を死の淵から救い出したのは、この温もりと、それを目指して進もうとする意思。
行き止まりの斷崖の淵で望を奮い立たせたもの。
「ああ…やっぱり、間違いない…風浦さん、あなたがいてくれたから……」
間違ようのない愛しい少女の体温を手の平に感じながら、望は思う。
生にも死にも意味はなく、この世界の全ての人々はやがて来る破滅を待ち続けるだけの存在。
それは一面において真実かもしれない。
だけど、それだけではないのだ。
何もない虚無そのものの世界のただ中で、人は自ら導を見つけ、道を切り開いていく事が出来る。
彼にとってはそれが目の前の少女だった。
「ありがとうございます、風浦さん……」
「先生……」
そのまま二人は、静まり返った病室の中、触れ合う肌の温もりに心を委ねて、穏やかな時間を過ごしたのだった。