窓の外の景色を霞ませて、幾筋もの水の糸が落ちては弾ける。  
一人きりの職員室で小テストの採点をしていた望は、しばしその手を止めて振り続ける雨に言葉もなく見入る。  
「…雨、やみませんね……」  
その背後から急に呼びかける声が一つ。  
ゆっくりと振り返った望の視線の先にいたのは、黄色いクロスの髪留めをつけた彼にとってはお馴染みの少女の笑顔。  
「…風浦さん、あなたですか…」  
「あれ、意外に驚かないんですね。せっかく抜き足差し足、気配を消して近づいたのに……」  
驚いた様子もなく彼女の名前を読んだ望に、可符香は少しむくれたような表情でそう言った。  
「ん……ちょっとぼんやりしてましたからね……」  
「この雨、ですか……?」  
「ええ…」  
答えてから、望は視線を窓の外に戻す。  
可符香もそれに従って、窓の外に降り続く雨を見つめる。  
「先生、雨、好きなんですか?」  
「『はい』、と答えたいところなんですが……どうなんでしょうね?今は自分でもよく分からない所があるんですよ」  
「よく分からない………?」  
可符香の問いに困ったような表情を浮かべる望。  
まっすぐにこちらを見つめてくる少女の赤い瞳を見つめながら、彼はしばし考えてから、言葉を繋いでいく。  
「昔から、雨の日はずっとこんな風でした。屋根に響く雨音を聞いて、雨に濡れる窓の外の景色をぼんやりと眺めて……  
まあ、ぼんやりしてると外で遊べないもんで教室ではしゃぎ回ってるクラスメイトにドロップキックをお見舞いされたりしてましたけど」  
雨音。  
水たまり。  
街をすっぽりと覆い尽くした水のヴェールが世界の色を変える。  
いつも自分が過ごしている現実から、少しだけズレた位相の別世界に迷い込んだような、そんな感覚。  
「薄明かりの下で雨音だけを聞いている、無音よりも静かな世界………。  
そこでなら、ずっと、いつまでも、一人きりでいる事ができる………ですが…」  
望はそこで静かに笑って  
「年齢のせいでしょうかね?最近はそれがどうにも寂しい事のように思えてならないんです」  
そう言った。  
「雨は自分のいる場所と、その外の世界を閉ざしてしまいます。……比喩じゃあありません。  
降り続く雨は人と人とを分かつ壁になる。もちろん、傘をさせば凌げる程度のほんの些細なものだけど、それでも行く手を遮る障害には違いない。  
そんな雨に閉じ込められて、望んだ筈の一人きりが、いつの間にか”一人ぼっち”に変わっていた。  
時々、そういう気分になるんです。……変ですよね。ここには風浦さんもいて、宿直室には小森さんも交もいる。なのに………」  
語り続ける望の目の前で途切れる事なく雨は降り続く。  
その少し寂しげな横顔をじっと眺めてから、可符香がふとこんな事を言った。  
「それじゃあ、先生、こういうの、どうですか?」  
「ちょ、風浦さん?」  
望が答えるよりも早く、可符香は職員室の隅の通用口を通りぬけ、雨の降りしきる外へと飛び出す。  
手を伸ばし、椅子から立ち上がった望の前で、雨のヴェールに可符香の姿が霞む。  
その姿はまるでやまない雨の中に溶けて消えてしまいそうで、望は思わず彼女の後を追って駆け出し、自分も雨空の下へと飛び出す。  
 
「な、何をやってるんですか!?風浦さん!!!」  
「えへへ」  
あまりに唐突な彼女の行動に驚き慌てながらも、可符香の肩をつかまえた望。  
可符香はそんな望に振り返り、少しだけ得意げな笑顔でこう言った。  
「ほら、何も怖い事なんてないじゃないですか」  
「えっ?」  
「先生の言う通りこの雨は私たちを閉じ込めてるのかもしれない。壁に分かたれて一人ぼっちになっているのかもしれない。  
でも、先生は私を追いかけてここまで来てくれた。それなら………」  
可符香は一歩前に進み出て、望の胸に寄りかかった。  
「それなら、雨も壁も関係ない。それを乗り越えて触れてくれる手の平があるなら、一人ぼっちなんかにはならない  
………そうですよね、先生?」  
誰かの傍にいたいという意思。  
その人の手に触れたいという気持ち。  
それがある限り、きっと人は孤独の闇を越えていく事が出来る。  
それは、そぼ降る雨でも、巨大で堅牢な城壁でも同じ事。  
こちらに向かって手を差し伸べる誰かに、自分も思い切り手を伸ばす。  
近くにいたい、いてあげたい、その気持ちはきっとどんな障害物だって乗り越えて進んでいく。  
「本当言うと、私も少し、先生みたいな気持ちになる事があるんですよ。  
夜、電気を消した部屋の中、暗い天井をじっと見ながら、自分は世界で一人ぼっちになったんじゃないかって……。  
だけど、そんな心配、ほんとはいらなかったんですよね。  
私が一人なら、先生が来てくれる。先生が一人なら、私がきっと駆けつける」  
それは望だけでなく、可符香の心の隅にいつもあった不安だった。  
だけど、今の彼女は知っている。  
それはもはや彼女にとって恐怖たりえないのだと。  
一人ぼっちの自分にそっと歩み寄るその人の存在を間近に感じているのだから。  
「風浦さん……」  
望の手の平が可符香の手に重なり、指と指がきゅっと絡まり合う。  
だんだんと弱まってきた雨の中、二人はしばし、手の平から伝え合う互いのぬくもりに感じ入っていた。  
 

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