真っ赤な夕陽の照らす中、薄闇に包まれた教室で、彼女、風浦可符香は私の傍に歩み寄って話しかけてきた。
「ねえ、先生、夕陽がきれいですね」
「そうですね……ここ最近は天候も悪かったですし、これだけ見事な夕焼けは久しぶりです」
そんな他愛もない言葉を交わす、一瞬一瞬の間、風浦さんはいつもより私の近くにいるように感じられた。
実際、物理的な距離はこれ以上ないくらい近い。
彼女の息遣いが間近に感じられるほどに近く。
夕陽に負けないくらい赤い彼女の瞳に映る私の情けない顔がはっきりと見えるような超至近距離。
ただ、私の感じている『近い』はそういった事ではないように思えていた。
彼女の、風浦さんの存在そのものを近くに感じる。
言葉にしてみると分かったような分からないような妙な感じだが、私にはこれ以上の表現を思いつけない。
何を以て『彼女の存在が近い』などと私は宣っているのか。
「こないだはえらい土砂降りでしたからねー。ああも降られると参ってしまいます」
「でも、今の時期ちゃんと雨が降らないと、夏場に水不足になっちゃいますから」
風浦さんと言葉を重ねながらも、頭の隅っこの辺りで私はそれを考える。
改めて私はすぐ傍の風浦さんの姿をじっと見つめる。
夕陽が強く輝けば輝くほど、教室の中の影はより深く、濃くなっていく。
風浦さんはその限りなく黒に近い影の中に立って、私とどうという事もない会話を交わしながら穏やかに微笑んでいた。
薄暗い教室の中で、それを判別するのはほとんど不可能な筈なのに、私には彼女が笑っている事がわかった。
いつも他人を煙に巻くような捉え所のない態度で私やクラスメイト達を惑わせる風浦さん。
いつもは深い霧の向こうにいる彼女が、今は薄布一枚を隔てて間近にいるような、そんな感覚。
ただ、今の私にはその最後の薄っぺらい一枚の布の存在が何故だかとてももどかしく感じられてしまう。
こんなに近くにまで来てくれたのに、その気になれば簡単に取り去ってしまえる筈のその一枚の為に彼女に触れる事ができない。
今ここで確かに微笑んでいる彼女を、もっと近くで感じ取りたい。
「…先生、どうしたんですか?さっきからボーッとして……」
「えっ…?あ、いや…な、な、何でも無いですよ」
どうやら考え事に没頭するあまり、風浦さんに対する受け答えがおろそかになっていたようだ。
「という事は何かあると」
「だから、本当に何でもないんですって!!」
「心配無用です!私と先生の仲じゃないですか!先生のお悩み解決の為なら全力を尽くしますよ!!」
まさか風浦さん本人に関して悩んでいたなどとは口が裂けても言えない。
(ですが…このままでは……)
こちらの言う事なんて完全に無視して勝手に話を進め、自分のペースに持って行くのが彼女の毎度のやり方だ。
そのせいで私はいつもいつも彼女の手玉に取られて………
(……いつもいつも…?)
そこまで考えたところで、私の思考が何かに引っかかった。
いつもいつも、繰り返し……。
(………繰り返し……そうだ。これまでにも何度か今日みたいな事があった。……それは決まって日の傾いた夕方の事で……)
記憶が蘇る。
あの時も、あの時も、それよりずっとずっと前の時も、細かい状況は違うけれど、私と風浦さんは同じように言葉を交わしていた。
人の心情にはとことん鈍い私は今の今まで気付かなかったけれど、今と同じ夕闇の中で風浦さんはいつもより私の近くにいて、
そして、確かに、穏やかな、本当に穏やかな微笑みを浮かべていた……。
「ほら!恥ずかしがらないでおっしゃってください!!私に任せれば万事オーケーですよ!」
「…………そうなのでしょうね。きっと、あなたに頼めば……」
理由は分からない。
想像もつかない。
でも、風浦さんがこれまで同じような状況の時、いつもよりほんの少し、私の傍に近づいていたのは確かだと、そう思う。
だから、今度は私の番だ。
私は、薄暗い教室の中でも分かるくらいの、満面の笑顔を浮かべた風浦さんに向けて一歩前に踏み出す。
「あ…………」
「すみません……私はこの通り目もあまり良くないので、ちょっと風浦さんに失礼かな、とは思いましたが……」
彼女の両の手の平を軽く握って、私は言った。
「見せてください。今、あなたがどんな風に笑っているのか……」
真っ赤な夕陽の照らす中、薄闇に包まれた教室、そんな場所でしか話せない言葉がある。見せられない表情がある。
私は正直なところ、生きる事があまり上手な人間ではないのだろう。
数多の人脈に、情報網、人の心を誘導し、当人も気付かないままそれとなく行動を後押しする各種の手練手管。
それから、私が普段から使っているペンネーム……風浦可符香という名前。
そんなものたちで心を鎧っていないとこの世を渡っていく事が出来ない。
自分でもつくづく呆れるほど、私は厄介な人間なのだろう。
だから、こんな馬鹿げた事を考える。
夕陽が西の空に沈む頃、私は先生に話しかける。
いつもより近い距離で、いつもよりほんの少し仮面の下に隠していた本当の自分をさらけ出して。
どうして夕方じゃなきゃいけないのか、その理由を聞いたらきっとみんな笑ってしまうと思う。
夜が迫って、辺りが薄暗くなって、だけどまだ明かりを点けるには少しだけ早いそんな時間。
その薄暗がりに紛れて、私は先生に微笑むのだ。
先生の一番近くで、だけども先生に気付かれないように、暗い影に身を沈めて決して届かないとびきりの笑顔を先生に向ける。
(…我ながら…ちょっと臆病すぎるよね……)
でも、それが、それだけが私に出来る精一杯だったから。
届かなくても構わない、それでも先生に心からの笑顔を送りたかった。
(…だけども…私って馬鹿だなぁ……)
先生はすこぶる鈍い人だ。
とてもとても騙されやすい人だ。
だけど、私はよく知っていた筈なのに。
おっかなびっくり、誰よりも臆病なくせに、この人は私の事をずっと見ていてくれたじゃないか。
それはまあ、時には生来の鈍感さと合わせ技になって、私に少なからぬダメージを与えもしたけれど。
残酷なまでに優しく、まっすぐに私を見つめる瞳が、いつか私の仮面の向こうを見透かしてしまうのではないか。
そんな事ぐらい、真っ先に気付いてもいいだろうに………。
結局、私は大事なところで抜けているんだ。
(………それとも、もしかしたら、私は最初からこの瞬間を待っていたのかもしれない………)
今、私は両手は先生に握られて、動こうにも動けない状態だ。
………本当は、壊れ物でも扱うように私に触れる先生の手を振り払うぐらい、すぐに出来る事の筈なんだけれど。
背の高い先生は体を屈めて、超至近距離から私の瞳を覗き込んでいる。
「見せてください。今、あなたがどんな風に笑っているのか……」
「先生………」
窓の外の夕空はいよいよ暗くなって、これだけ近くで見つめ合っているのに私の目の前の先生の表情は薄い膜一枚通したみたいに少しぼやけてしまう。
それでも、その眼差しがまっすぐに私を見据えていて、その口元に浮かんだ笑みがとてもとても優しいものだという事は良くわかった。
きっと、先生から見た私もおんなじ状態だろう。
「すみません。…それと、ありがとうございます。……そうやって、ずっと私の事を見ていてくれたんですね…」
言われてから初めて、私は先生の視線から目を逸らそうとしなかった、そんな考えすら浮かばなかった自分に気付く。
顔中が熱くなって、真っ赤に染まっていくのが自分でもよく分かった。
夕陽が沈み切ってほとんど真っ暗になったこの教室でなければ、先生の前でみっともない姿を晒していただろう。
「風浦さん、私は……」
「え……あ………」
だけど、そんな状況に感謝する間もなく、不意に先生に名前を呼ばれた事に驚いた私は思わず身じろぎして……
「あ…………!」
「風浦…さん……!?」
こつん。
間近にあった先生と私のおでことおでこがくっついてしまう。
驚き目を丸くする先生の前で、私は一気にパニックに陥った。
駄目だ。
いけない。
これじゃあ、バレてしまう。
見つめられて、天井なしに上がり続けた体温が先生に伝わってしまう。
だけど、それなのに。
私の体は先生から離れようとするどころか、先生に握られた手をきゅっと握り返してしまう。
このまま離れてしまうのは嫌だと、強く強く手の平に力を込めてしまう。
薄闇の向こうに隠して、ずっと見せなかった、見せられなかった自分を先生の前に晒した私の心が、体が、
ずっとこのままでいたいと、激しく叫び声を上げているのだ。
きっと不安だったのだろう。
事此処に至って、自分の内側をこんな形で先生に見せてしまって、それでもし、この手を離されてしまったら自分はどうすれば良いのかと。
だから、先生の手の平が私の手の中からするりと抜けていこうとしたとき、私はこれ以上ないくらい動揺してしまった。
よく考えれば分かった事なのだ。
先生は鈍い。とても鈍い。
じたばたしてるこっちの気持ちには全然気付かないくせに、瞳は私だけを見つめて、まっすぐな視線を投げかける。
自分の気持ちにどこまでも正直に行動する。
………この時私はすっかり失念していた。
最初にこの手を握ってくれたのは、先生の方からだったというその事実を。
「すごく嬉しいです。ありがとう……風浦さん……」
「あ…………」
一度離れた先生の手の平は、私の背中に回されて、私の小さな体を強く強く抱きしめた。
私はその一瞬、自分を包み込むその温もりに呆然として、それからようやくその意味を理解した。
そして………
「先生………」
そして、私は答えを返す。
もっともストレートで分かりやすいやり方を選んで。
これまでずっと隠してきた分を取り戻すように、思い切り自分の気持ちを乗せて………。
私が震える腕で抱きしめた先生の背中。
男性としてはかなり細身な筈なのに、小さな私の腕はそれでも背中に回り切らなくて、
だからより一層の力を込めて、私は先生に強く強くしがみついた。
(これだけやっても、きっと伝わらない気持ちもあるんだろうな………だけど…)
何しろ、鈍感な先生の事だから、きっと全部が全部、上手くは伝え切れない。
でも、先生の瞳はいつだってちゃんと私の事を見てくれているのだから
「好きです。先生……」
ようやく言えたその言葉に全てを託して、私は先生の胸に思い切り顔を埋めたのだった。