それは何ら変わりのない、いつもの夕方のことだった。
ボクは図書委員の務めを終えてから、教室に向かっていた。
今日もまた木津さんが暴れて、後片付けが大変だったけど。いつものことだから仕方ないかな。思ったより時間がかかって、大草さんには先に帰ってもらったけど。
今日明日で読み切ろうと借りた軽い本数冊を小脇に抱えて、ボクは廊下を歩いていた。
トロイメライが流れている。夕暮れが近づいているからだ。どこまでも続く窓からオレンジ色の光の筋が幾本も漏れていて、廊下の上に光陰をつくり出している。
ボクはその中を突っ切っていく。こつ、こつという靴の音だけが響く。
この静かな世界が好きだ。ときどき、無性に恋しくなる。
そんなことを漠然と考えながら廊下を歩いていった。
もう誰もいないだろうな、と考えながら教室の引き戸に手をかけると、中から人の声が聞こえてきた。
ボクは手を止めた。この位置からだと光の反射でよく見えない。
だけど…………なんとなくわかった。歌詞で。
「〜♪〜♪〜(歌詞自重)」
ああ、彼女らしいな、と思いながらボクは戸を開けた。影がこちらを振り向く。
彼女が口を開く前に、ボクは声をかけた。
「やぁ、風浦さん」
「あ……久藤くん……」
いつもの制服姿にショートカット、そして髪留め。風浦さんは窓に座っていた。足をこちら側に投げ出し、窓枠にもたれかかっている。
短いスカートから太ももがこぼれているが、風浦さんはボクがいてもお構いなしのようだった。
「風浦さん……何をしているの?」
彼女は笑みをこぼした。
「私ですか?ポロロッカ星のことを考えていました」
「ポロロッカ星?」
「第5ポロロッカ星は今、グズグズ鉄がたくさんあるから好景気なんですよー♪」
彼女は楽しそうに話す。
「……そうなんだ」
本当は何を考えていたのか、ボクにはわかる気がする。
きっと明日からのことを考えていたんだと思う。どうやって先生をからかうか、その方法を。
「久藤くんは何をしていたんですか?」
彼女は座ったままボクに聞いてきた。ボクは彼女のいるところまで歩き、腕を組んで窓の桟に乗せた。
「図書委員の仕事。ついでに本を借りてきたんだ」
組んだ腕の隙間から本を見せる。彼女はまた笑った。
「私もその本、ずっと前に読みましたよぉー。面白い本でした」
「うん。もう半分くらい読んじゃった」
ボクと風浦さんは一緒に笑って、中身について語り合った。世間では難解と呼ぶ本なんだけどね。
他愛ない世間話やジョークを話しては、風浦さんはクスクスと笑った。
しゃべることがなくなると、2人はしばらく外を眺めていた。教室や廊下だけでなく、街も光陰が織り成す芸術に変わっている。
ふと、ボクは思いついた。
「……窓辺の少女」
風浦さんがボクの方を見たのが気配でわかった。
「ある国に1人の少女がいました。彼女はとても貧乏で……」
ボクの悪い癖かもしれない。ところかまわず即興のお話をつくって、しかもそれを語ってしまう。
結果的にはみんな感動してくれちゃうわけだけど。
「……彼女は言いました。『そんなことをしてくれなくたって、私は幸せだったのに……』彼女は自由を得たのと同時に、親しい友を大勢失ってしまったのでした。……おしまい」
風がヒュルルと吹いている。髪の毛がぱらぱらと揺れた。
風浦さんは……無表情だった。
多くのクラスメートのように涙を浮かべることはせず……またしゃくりあげることもせず……彼女は無表情だった。
凍った目だった。肌が白かった。くせのある髪が風に弄ばれている。
「ごめんね……久藤くん」
目を和らげながら彼女は自分の髪に手をかける。
「うん……いいよ」
ボクも……慣れたものだ。少しの間だけ目を閉じると、また彼女を見る。
そう。これが初めてじゃない。もうかれこれ5年も昔の話だろうか……。
ボクは新しいクラスメートを片っ端から泣かせたことがあった。もちろん暴力的な意味合いや、性的な意味合いではない。
今でもそうだが……自分で言うのも難だけど……、ボクのつくったお話にみんな感動して泣いてくれたのだ。あの木村さんや木津さんまで号泣していた。
あの後……ボクは風浦さんにお話を聞かせた……。
彼女は既にボクの才能を知っていたようだけど……狭い学校の中だから当然と言えば当然だ。
ボクの計算では彼女を泣かせることが十分にできる物語のはずだった。
しかし、風浦さんは泣かなかった。
むしろきょとんとした表情だった。ボクは少なからず衝撃を受けた。
……どうして、泣かないの?
……ごめん、久藤くん……。
ごめん。目の下を探りながら風浦さんはそう言った。彼女自身もまたショックを受けているようだった。ボクの推測が正しければ……泣けなかったことに驚いていたのだと思う。
だから、目の下を探ったんだ。涙があるはずだ、と。私は泣いているはずだ、と。もう彼女は確かめたりはしない。だけど、毎回見せる凍った目だけで十分伝わってくる。
「ごめんね……本当に」
「……大丈夫だよ」
風浦さんはもう、いつものポジティブ少女に戻っていた。
「久藤くんは……努力家ですね」
「ボク?」
思わず自分を指差す。
「そうですよぉー。何度も何度も、何百回も挑戦するするなんて、素晴らしい努力の持ち主ですよ!」
「……ありがとう、風浦さん」
そう。ボクはいつか彼女を泣かせてみせる。ボクのつくった、生涯最高のお話で。何年かかってでも。
ボクは決めたんだ。一生かかってでも、風浦さんを泣かせてみせるって。
「……人はそれを、恋と呼びます」
「え……?」
風浦さんの呟きにボクは固まった。
「今、なんて言ったの?」
「ふふ……なんでもないですよぉー」
彼女は悪戯な笑みを見せる。まったく、ボクはいつも後手に回る。結局、彼女がなんと言ったのか、今でもわからず、だ。
「結構暗くなってしまいましたよぉ。ほら、お月様が見えますよー!」
風浦さんは無邪気に空を指す。つられてボクも月を見る。
「うん……ボクにも見えるよ」
そういえば、星ってなんで丸いんだろう。いや、理屈ではわかっている。
でもときどきボクは答えのない、いや最初から答えがわかっていることを追い続けることがある。
小学生のときは「なんでリンゴはリンゴっていうの」という質問をして先生を困らせた。最終的には「どうして『あ』は『あ』っていうの」という語学的な疑問まで投げかけた。
……風浦さんへの決心はどっちなんだろう。
「久藤くん?」
考え込んでしまった。これもいけない癖だ。
「ああ、ごめんごめん。考え事を……」
そう言いながら振り返ると、視界が肌色のもので一杯になった。
「!」
ちゅ……。
確か、そんな音だった気がする。でもすぐに離れたのか、それとも一晩中そうしていたのかはわからない……。
風浦さんはゆっくりと顔を戻した。
「え……?風浦さ……?」
「えへへ……たまには久藤くんをびっくりさせるのもいいかなぁ、って」
風浦さんは無邪気に笑う。その唇がふれた部分がとても熱かった。
「でも……先生は……?」
糸色先生のことを聞くと、風浦さんは静かにこう言った。
「なぁんだ……やっぱり久藤くんにはわかってたんだ……。うん、先生のことは好きですよぉ。でも……」
黒板の方を向きながら彼女はため息をついた。
「先生は、永遠のアイドルなんですよ。触れられない、絶対にこっちを向いてくれない」
ネガティブな発言だった。彼女にそぐわない言葉だった。
「……………………私、先に帰りますね、久藤くん」
不意をつかれて、ボクはなんだか慌てた。
「ああ、うん、じゃあね。……お休み、かな」
また彼女はうふふ、と笑う。
「お休み、ですか……。……じゃあ……お休みなさい、久藤くん」
彼女は鞄をつかんですたすたと出口に向かった。ボクも、鞄に本を入れなくちゃ。自分の席に向かう。
「あ、それから……」
彼女が呼んだ。ボクは振り返る。風浦さんはまだ引き戸のところにいて、首を少しだけ傾げている。
「可符香って……呼んで」
……?よくわからないけど……。
「可符香ちゃん……?」
「……ありがとう、准くん」
可符香ちゃんはどこか寂しそうな笑顔を見せた。
そして、きびすを返して廊下を歩いて行った。
……。
何だったんだろう。今のは。
ボクは固まったまま考えた。考えた?いや、本能ではわかっているはずだ。
「か……ふ……か……可符香、か」
一生をかけてでも……来世までかかっても、ボクは彼女を泣かせてみせる。感動させてみせよう。彼女のもっと、いろんな表情を見たい。
ボクは誓いを新たにした。