誰も分かっちゃくれないだとか、そんな事を嘆く心の余裕なんてもの、そもそもの最初から私の手元には存在しなかった訳で。
すれ違う人出会う人、顔をあわせて言葉を交わす人々の誰か一人にだって、私を理解する事はない。
私はそれをごく当たり前の事実として受け入れて、これまでの短い半生を過ごしてきた。
そもそも、良く良く考えてみるとそれは私だけじゃなく、他のどんな人にだってきっと当てはまる事。
公園を駆けまわる無邪気な子供とそれを心配げに、だけど優しく微笑みながら見守る母親。
昨日見たテレビの内容なんかを話題にしながら、肩を並べて歩く私達くらいの女子学生二人。
慌てた様子で携帯電話に何事かを喚き立てているサラリーマンと、その電話の向こうにいる誰かさん。
みんな思い思いの言葉を相手に投げかけて、だけどそれが相手に伝わったかどうか、それを確かめる術はない。
互いが互いにおっかなびっくり距離を図りながら、大体こんな風に思ってるのかななんて、そんな憶測を元にして生きている。
大きくなったら誰だって気付く当たり前の事。
ただ、私の場合はそれが他の人より少しだけ早かっただけで………。
それでも私は考えてしまう。
それなら、この胸を埋め尽くす、自分でも言い表せないモヤモヤとした感覚は何なのだろう?
胸を締め付けるこの寂しさは一体どこからやって来たのだろう?
お盆を過ぎたというのに降り注ぐ日差しは厳しく、道路からは陽炎が立ち上っている。
響き渡るセミの声と汗まみれになりながら行き交う人達、むせ返るほどの生命とエネルギーに満ちたこの街の片隅で、今の私は一人ぼっちだ。
行く当てもなく街をさまよう私の道連れは、いまや意識する事もなく口元に浮かぶようになったお馴染みの微笑みだけ。
カバンの一つも持たないまま、ご機嫌な笑顔の仮面を顔に貼りつけた私は一人ぼっちで道を歩いていく。
楽しそうに、嬉しそうに。
だけれども、自分の進む道の先に、ゆらりと揺れる人影を見て、私は思わず立ち止まった。
頭の上には愛用の帽子。
細い体に浴衣着た涼し気な格好。
それでも額から零れ落ちる汗を拭いながら、かなりグッタリした様子でこっちに向かって歩いてくるあの人は……
「ひぃ…ふぅ……おや、風浦さんじゃないですか?」
「先生……」
道の真中でばったりと出くわした先生は、疲れた表情を少しだけ明るくして、私に話しかけてきた。
その気弱そうな、だけども優しげな表情を見た瞬間、私の塞ぎ込んでいた私の胸の奥にさーっと風が吹き抜けたような気がした。
「方向的には風浦さんの家の方に向かっていたから、もしかしたら、とは思っていましたが、いや奇遇ですね」
一人ぼっちで歩いてきた道を、今度は先生と二人並んで歩く。
「でも、風浦さん、私と一緒に来ていいんですか?どこか行く所があったんじゃ?」
「いえ、ちょっとお散歩してただけですから、せっかくだし先生と一緒に歩かせてください」
先生はちょうど絶命先生の所に顔を見せに行く途中だったらしい。
年中閑古鳥の無く絶命先生の病院に足を運ぶのは、なかば先生の習慣になっている。
先生の目的地を聞いて私はある事を思い出した。
(そういえば、この道って、先生がいつも糸色医院に行くときに通ってる……)
先生にさまざまな悪戯を仕掛けるため、私は先生の行動パターンのかなりの部分を把握している。
たとえば、今歩いている道の事なんかがそうだ。
(もしかして、私は先生に会いたくて、こんな所まで歩いて来たのかな……?)
まさか、と私は首を横に振る。
先生は別に毎日糸色医院に通っている訳じゃないのだ。
この道を歩いていて先生と出くわすのがどれだけ低い確率なのかは誰にだって分かる事。
それでも、と私は思う。
そんな低い確率でも構わないから、先生に会おうとして、会いたくて、私はこの道を歩いていたんだろうか?
「しっかし酷暑ってのは正にこの事ですね。歩いてるだけで竈で焼かれてるみたいな気分です」
「先生も熱中症とか気をつけてくださいよ。……先生っていかにも暑さにやられちゃいそうな雰囲気ですから…」
「む、そこまで言いますか……というか」
そこで先生が急に顔を近づけてきて、私の心臓がドキンと跳ね上がる。
「あなたこそ、この暑い最中に帽子の一つもかぶらないで……」
そう言って、自分の帽子をポスン、と私の頭の上にかぶせてくれた。
「あ、ありがとうございます……でも、これだと先生の帽子が……」
「私は事前に十分水分をとってきましたから。それに、行き先は命兄さんの病院ですからね。暑さにやられたときは点滴の一つもしてもらいますよ」
額に手を当ててみると、思いがけないほど高くなっていた自分の体温に気づいた。
ここは先生の言葉にしたがって置いた方が良いのかもしれない。
ただ、先生が直接かぶせてくれた帽子の感触は、くすぐったいような嬉しいような変な感じがして、
顔を見られるのが何だか恥ずかしくなった私は、帽子を目深に被りなおして今の自分の表情を隠してしまった。
先生に見られないように。
そして、まかり間違っても通りすがったショウウインドウなんかに映った自分の顔を、私自身が見てしまわない為に。
そうして俯いてしまった私はふと気がつく。
やはり先生の忠告通り暑さにやられていたのかもしれない。
いつもより随分遅くなっていた自分の歩調。
そして、そんな私に合わせて、同じくスピードを落とした先生の足取りに。
「先生、あの……」
「どうしました、風浦さん?」
「いえ、何でもないです」
「な、何か不気味ですね。また何か企んでます?」
急かすでもなく、この炎天下をのんびりとしたスピードで、私の隣を歩く先生。
思わずその事について聞いてみようかと声を掛けた私だったけど、返ってきた先生の声があまりにいつもと変わりが無くて、言い出しそびれてしまう。
多分、先生にとってはなんて事のない、ごく普通の気遣いなのだろう。
へたれで臆病、絶望したなんて叫びながら、その実みんなに構ってほしくて仕方がない厄介な大人。
だけど、先生は優しい。
それこそ、馬鹿みたいに。
無論、世の中優しければいいってものではなくて、先生の場合特に無闇やたらに振りまいたソレが、自身を囲む女性の包囲網を作り上げてしまってるわけで。
倫ちゃんが語ったところの『やんちゃ』だった頃の先生の様子が目に浮かぶというものだ。
それでも………。
(それでも、たぶん……先生の優しさに救われた人はいた……)
個性の強すぎるメンバーが集まった2のへ、そこで起こる騒動を先生は泣き言を言いながらも、ちゃんと受け止めてくれた。
先生はたぶん、私達のクラスのかすがいみたいな物なんだと思う。
いつでもちゃんと先生がそこにいてくれるから、みんな安心してあの教室にいる事ができる。
きっと、私も同じなんだと思う。
チラリ、帽子の陰から先生の横顔を垣間見る。
汗だくの額を拭って、グッタリとした表情を浮かべた先生。
その視線が、不意に先生を見上げる私の方に向けられた。
目を逸らす暇もなく交差する視線と視線。
「あ……」
「風浦さん……?」
何も言葉が浮かんでこなかった。
真っ白な頭で呆然と見上げるばかりの私に、先生は苦笑を浮かべて
「今日はつくづくあなたらしくないですね。調子が悪いなら言ってくださいよ」
またひとつ、優しく語りかける。
その表情が何だか眩しくて、目を伏せた私は、先生に会う前つらつらと考えていた事をもう一度思い出す。
人と人は理解し合えない。
早くからそれを悟った私は、一人きりの心を抱えたままずっと生きてきた。
少しばかり人よりハードな人生を送ってきた私には、きっとそれは必要な事だったし、最善の選択だった筈だ。
だけど、それなら何故、今、私の心はこんなにも揺れ動いているのだろう?
先生の傍らに、もう少しだけ近づきたいと、そんな事を思ってしまうのは何故だろう?
その時、戸惑う私の手の平を、先生の手がぎゅっと握りしめた。
「せ、先生……?」
「今日のあなたは何だか見てて心配ですから、失礼ですけど手、繋がせてもらいますよ。せっかくですから、命兄さんにもちょっと診てもらいましょう」
そう言って、私の手を引っ張って歩き出す。
さっきよりもずっと近い距離で、先生の指先の優しさを感じながら、私はついて行く。
「先生、ありがとうございます……」
「いえ、こっちこそ、風浦さんがいてくれて、随分助かってますから」
「えっ?」
おずおずと口を開いた私の言葉、それに対する先生の答えは思いも掛けないものだった。
「助かった……って?」
「言葉通りですよ。今の学校に、2のへに、あなたがいてくれて良かったって、そう思ってます。まあ、酷い目にも随分遭いましたけど」
先生はチラリ、私の方に視線を向けながら言葉を続ける。
「いつも誰かが傍らにいてくれる事、一緒に歩いてくれる人がいる事、そういうのってやっぱり大事な事なんです。
変なあだ名をつけられたり、怪しい儀式をしたり、赴任当初から大変でしたけど、あなたが居てくれてとても心強かった」
先生の言葉を聞く内に、私はだんだんと自分の胸の内のモヤモヤの、その理由が分かってきたような気がした。
人と人が分かり合うなんて、遠い夢物語。
それは確かにそうかもしれない。
だけど、それよりもっと大事な事があった。
理解出来ないかもしれない、分かり合えないかもしれない、それでも人は誰かの側にいたくてその手を伸ばす。
『理解する事』じゃなくて『理解しようとする事』。
誤解も間違いも含めて、その人に向けられた心のベクトル、それはきっと何よりも強いエネルギーに変わる。
『あなたの事を想っています』、私が欲しかったのはそんな先生の言葉だったのだろう。
そして、その想いは先生と私の間で期せずして交差していた。
私は先生の手の平をきゅっと握りしめてみた。
すると、少し間を置いて、それに応えるように先生の手の平も握り返してくる。
あなたの事を見ています、あなたの声が聞こえます、それはそんな心のサイン。
「それじゃあ、行きましょう、風浦さん」
「はい、先生」
優しく柔らかい、先生の手の平を何よりも心強く感じながら、私は入道雲のかかる空の下を歩いていった。